前回は、旅館に併設されたユースを紹介しましたが、今回は寺院のユースです。広い寺院の部屋を利用したユースホステルは、全国にたくさんあり、私も各地で泊まった経験があります。ただ設備・食事ともイマイチのところが多く、いい目をした思い出は全く残っていません。
ここで採り上げたのは、長野・善光寺の中にあった塔頭の教授院というユースホステル。ここに泊まったのは高校2年のとき、最初で最後となるスキーに友人と飯山線戸狩へ行き、その後に一人で泊まったところ。だだっ広い部屋に、満足な暖房もなく、寒さに震えて眠ったことしか印象に残っていません。朝、出発しようとすると、濡れたままにした長靴が凍ってしまい、滑りそうになりながら、駅への坂道を急ぎました。
▲朝の長野駅で写した181系電車、長野発上野行「あさま」。昭和41年10月にデビューしてから1年余りしか経っていないから、モノクロ写真で見ても車体が輝いているのが分かる。ボンネットに太い帯を入れた181系を見たのは、これが初めてだった。151系に比べて、何か足りないと思ったら、低トンネル対応で運転台上部の前灯がなかったのだった。
▲長野駅舎は、まだ善光寺をイメージした寺院建築風だった。その後、1996年に長野新幹線に合わせて駅舎が新しくなった。このような地域色豊かな駅舎も今や少なくなってしまった。長野電鉄の駅もまだ地上だった。駅裏にも長野機関区、長野工場が広がっていたが、ここもすっかり撤去され昔日の面影はない。
▲長野駅で写したあとは、篠ノ井線姨捨へ向かった。その頃の「鉄道ファン」撮影地ガイドに紹介されたところで、陰影を利かせた記事のような写真を撮りたくてやって来た。篠ノ井線は寸前に旅客列車は無煙化されており、貨物のみが長野区の特徴あるスタイルのD51が牽いていた。姨捨のスイッチバックの駅構内、眼下に広がる善光寺平の光景、さすがは日本三大車窓のことはある雄大な風景だ。桑ノ原信号場へ向かっていると途中でトンネルがあり、高校生では一人で通り抜ける度胸もなく、急斜面を登って、トンネル上の道路を目指した。フーフー言いながら、下へ降りた途端に、D51の牽く貨物が迫ってきた。
▲スキーで訪れた飯山線、しかし、ここは蒸機に執心する高校生、まずは飯山機関区を訪れC56を撮影する。この日も、すごい雪、というか飯山線ではごく普通の降り方だろうが、駅はうず高い雪で埋まっていた。駅で写したのが、スキー臨時急行「信越銀嶺2号」C11211+旧型客車3両。この頃のスキー臨時列車には、地域名を冠した「○○銀嶺」の愛称が多かった。「信越銀嶺」は、上野を夜に出て早朝に豊野まで急行として運転、以降は普通となり、スキー場のある戸狩で終着となる。写真は、飯山駅に停車中の上り列車で、昼行列車で上野を目指す。飯山線は冬季にスキー列車で忙しく、機関車も他区から借り入れしてしのいでいる。この機も美濃太田区から借り入れられた。
総本家さん
毎回楽しく拝見させてもらってます。小生はユースホテルは北海道で5~6箇所、あとは浅虫と天の橋立くらいで、あまり遠くへ行く旅行していなかったようです。今回「信越銀嶺」が出ておりましたが、これに乗ったことがあります。日誌が残っていますが、それによると1966年2月10日、大阪をEF58111[米原]牽引525レで末沢君の見送りを受け、田中君が京都まで同行してくれ、北陸まわりで東京に向かったようです。翌日、筒石で強風小雪の中の撮影を行い、二本木で投宿。夕方までここで撮影した。この時の「はくたか」と「D51」は応募して入賞と佳作。競争の少ない時代であった。さて、翌日に豊野で撮影後、長野から昼過ぎ、多分12時52分発で夏場は「高原」であったスジの「信越銀嶺」に乗車。信濃追分付近で見る浅間山が見事でこのあたりはELでもいいから一度じっくり撮りたいと記録している。高崎からはEF62に替わり、EF58132[岡二]+EF60127[高崎二]+スヌ32と記録にある。もう一つ、181系の「あさま」は確か翌年の越後鹿渡での狂化合宿に参加の際、上野から乗車、長野駅で出迎えてくれた久我君と記念撮影している。もう随分昔のことだ。総本家さんも高校生だった頃である。
準特急様
コメント、ありがとうございます。
そうですか、「信越銀嶺」に乗られたのですか-。
信濃追分付近で見る浅間山はさぞ見事だったのでしょう。その昔、地元の田部井さんが付近で撮られたD50も忘れられません。
そうそう、二本木で撮られた「はくたか」、覚えていますよ。ビクで錦絵が表紙になっている1月号でした。吹雪の非電化単線の中で82DCを撮られたもので、寒さが伝わってくる写真でした。準特急さんは、その前年には呉線のカラーを同誌に発表されており、この人は一体どこに住んでいるのだろうと思ったものでした。
至誠館での野次飛ばしの出会いの前、まだ私が高校2年生のときでした。
長野駅の旧駅舎は、2階部分に日本食堂がかつて入っていたと記憶します。
1982年春に、北陸から信州ワイドで旅した際に、利用しました。
もちろんホームの見える窓際に席を取り、ゆっくりと時間を楽しみました。
当時長野電鉄はすでに駅前区間が地下化され、近代化とともに
東急系の車両が入り始めた頃でしょうか。
駅前には東急百貨店が存在し、軒を貸せば母屋まではいきませんが
資本というのはこういう風に進出するものなのだなと思いました。
東急グループと西武グループの地方進出著しい時代、
五島と堤の代理戦争だなどと思っていましたが、関西の私鉄で他所にまで
進出する会社は、阪急と近鉄くらいで、他社は大人しい社風でした。
元々関西は豊かだったせいか、あからさまな企業進出を目の辺りにすると
えっと思うことが多かったです。
国鉄の資産なんて社会主義の壁の向こうのように保全され、もったいない
気もしましたが、あれはあれで良かった様な気もいたします。