昭和の電車 改訂版(111)ー国鉄モハ43型ー 投稿日時: 2020年9月27日 投稿者: 米手作市 モハ43型の晩年の活躍を、例によって藤本哲男さんの寄稿でご覧下さい。 急電用モハ43形 関連記事: 昭和の電車 改訂版(113)ー近鉄モ6301型ー 昭和の電車 改訂版(104)ー富士山麓電鉄モハ603号ー 昭和の電車 改訂版(71)ー大阪市電751型ー 昭和の電車 改訂版(44)ー阪神電鉄1130号ー 昭和の電車 改訂版(42)ー阪急2100系ー 昭和の電車 改訂版(37)ー国鉄モロハ50型ー 昭和の電車 改訂版(12)ー淡路交通モニハ1005ー 昭和の電車 改訂版(2)大阪地下鉄100型
米手作市様 今回は、呼ばれもしないのに乱入で~す。(笑) 改めて阪和線関連で、昨年10月8日付けの「阪和電鉄モタ303」を見ますと、小生は貴殿からのお声掛けがあったにも関わらず「シカト」した様で申し訳ありませんでした。(自分の知らない事で回答に困っている内、結果「シカト」になってしまったようですネ。=笑= 否、笑い事ではありません!) さて、今回改めて戦後期の「色」にこだわって見直してみますと、後の「70系快速の阪和色」以前の阪和線特急色は、結局京阪神間の急行色を踏襲していた様ですネ。 モタ303の様に阪和形車両での運用時はアイスキャンデー色で、続く国鉄形車両のみ(モハ43やモハ52など)での運用時にはオレンジ+マル―ンの80系急電色が加わり並存していた訳です。 充当車両は戦災消失のモハ52006を除く、モハ52X5両の他、当時の鉄道仲間で「合いの子」と言われた3両の折中車(外観が広窓モハ52とオリジナルのモハ43とのミックス車)に4両のサハを加えた3連X4本だったようです。 関先生のイラストは、その過渡期にあった省形+阪和形の混成部隊でしょう。 因みに、何故アイスキャンデー色と言うのか?については、当時は自転車の荷台に箱を積み、沢山のアイスキャンデーを入れて販売した事から、その箱の色と酷似した車体色をアイスキャンデー色と言ったのだと2011年4月1日付け乙訓の老人の「アイキャン電車とは」で「な~るほど」と教わりました。 返信 ↓
河 昭一郎様 ご乱入を歓迎致します。 私はこのあたりの事情が分からず、コメントのしようもありませんから大だすかりです。 以前にも書いたことがありますが、幼い頃の記憶では京阪神間の急電でこの色(ベージュと茶色)を見た記憶があります。117系で復活した時に「ああ、こんな色やったんか」と納得しました。でも43系自体には記憶がありません。東海道線は、いつごろまで走っていたのでしょうか? 返信 ↓
モハ53に改造され、グロベン付、茶色塗装となって大分格が下がったような気もしますが、関先生の絵に近い編成をGordon Davis氏が記録しているので、貼っておきます。先頭はモハ53007、中間は側窓の特徴から阪和のクハ、反対側のモハは2扉なので、モハ43かな、貼上屋根ではないですね。写真をよく見ると、阪和型は国電と較べ、腰高なのですね。側面裾も、側引戸の靴摺りの位置も、前後の車両より高く見えます。場所は天王寺と思いますが。撮影時は昭和31年。 返信 ↓
宮崎繁幹様 阪和型は本当に腰高ですね。木造客車と同じように見えます。 私が唯一鳳電車区で撮った阪和の電車を改めて見つめてみました。妻板だけは裾の高さを合わせていますが、腰板は少し高くなっているように見えます。さらに窓も高く、その分幕板は短いようですね。 それにしても43型はカッコイイですね。京都駅から乗ってみたかった。 返信 ↓
=省形に伍していた阪和形= 以下の数字で( )内は省形車です。 手持の資料によりますと、レール面からの全高は3804cm(3755cm)で、床面までは1299cm(1200cm)でした。 従って約10cm阪和形の床面が高かった訳です。 序でに連結器も含めた全長ですが、阪和が19100cmに対して省形車は20000cmでした。 阪和形は国電の分類上、17m車とされていましたが、事実上20m車に近かった訳です。 返信 ↓
昔からこの電車は「合いの◉」型と教わった記憶があるのですが、件のタカ派新聞でも、その言い方は現在使えないみたいで、「ハーフ型国電」って、実物なき今、どのくらい通用(共有知識)するのか、疑問に思いました。 115系3000番台が1983年に登場した時に、あっ「新なんとかのコ電車だ!」と言いそうになり、後輩にたしなめられて、そのニックネームはお蔵入りに。しかし「ニューハーフ電車」では、別の意味になりますね。失礼いたしました。 返信 ↓
米手作市様 全4両あった広窓の43系自体は、1両(038)が戦災消失し、3両が残りましたが、京阪神間にクリームとマル―ンの関西版湘南形が登場したのに合わせて身を引き、1950(昭和25)年9月に相次いで天オトに転属した5両の流電を追うように同年9月末には相次いで天オトに転属しました。 従って、仰せの東海道線で走っていたのは、この時期までで、以後は同年8月に登場した80系の天下が続きましたネ。 K.H.生様 そうですネ。 仰る通り差別(この単語自体も不適切とすべきかも)用語?は今やタブーで、同じく「チョ●コウ」や「チャ●コロ」の発音も気遣いが必要で、生き辛い時代?になりました。 かつては便利用語として横須賀―久里浜の「チョ●行」などと平気で言っていましたが、これも誤解の元なので迂闊には使えません! 改めて我が発言の無礼をお詫びし、耳に不愉快な思いをさせた事を反省しております。 で、結局クダンの「合いの◉」は、折中車、ミックス車、混血車(もNG?) などと回りくどい言い方になるんでしょうネ。 ただし、今回の場合は「広窓車」と言って区別するのが正解だったでしようたネ。 返信 ↓
今回も棚の肥し作戦を実行したところ、阪和線のモハ43が、他にもあったので御紹介します。2枚とも、撮影データが付いていなく困りますが、藤本様や河様の投稿、参考書などの助けを借り、ある程度コメント致します。1枚目は、茶塗のモハ43039を先頭に、阪和のクハを挟み、反対側先頭が塗分けのモハ43と云う編成です。やはり原形のガラベンの方がカッコ良いですね。前面の雨樋が真ん中で切れ、下にV字形の手摺(?)が付いているのが、変っています。藤本様の解説に拠れば、この車が阪和線(鳳)に転属して来たのが、昭和26年9月、普通屋根に改装されたのが、昭和29年とのことなので、撮影はその間にされたものかと。 返信 ↓
2枚目は、前出の写真の列車が発車したのを、後追いで撮影したものと思われます。駅名標から、鳳駅と判ります。塗分けのモハ43で、車号が読めません。しかし正面の左右標識灯の高さが不揃いなのは、43041号の特徴のようです。この車は昭和29年1月に茶塗に戻された由。中間が阪和型で編成美とは言えないが、全車2扉で急行の貫録は備えていると感ぜられます。 返信 ↓
米手作市様 いやいや、舌ったらずの説明でした。 申し訳ありません! この幌吊りは、関西方式の片持式幌用で、幌の収納時に吊り下げる(引っ掛ける)金具です。 写真のモハ43は幌の台座から「幌その物」を取り外して有るため、幌吊りに引っ掛ける「相手」が無い訳です。 添付の写真で判るでしょうか? 返信 ↓
米手作市様 この幌吊りは関西方式でしたので、大鉄、天鉄では全車が採用していたと思います。 もう少しウンチクを述べれば、幌は下り側に有って(上り側妻面には受け枠のみが車体に付いていました。)収納時用に上部に幌吊りが有り、左右の天地中央には、引っ掛けた幌の下部が前方に飛び出さない様に、車体に向けての引っ掛け(引張り?)金具が付いていました。 しかし、この車体側への引張り金具が走行中に往々にして外れ、幌の下部が前方に飛び出すだけで無く、風圧で幌が膨らんで運転士の右側視界を遮る事が有りましたヨ。(写真参照:何しろ関西の国電は高速走行でしたから。) ところで、上り側には幌の受け枠が装備されていましたが、その出っ張り長さには長短2種類があり、半流前面車は約10センチ位?で平妻車はその倍以上有りました。 このため、平妻車が先頭で走る時は何かしら威圧感を感じたものです。 返信 ↓
河 昭一郎様 よーくわかりました。 ご説明だけでは理解できず、写真を探しましたが撮ったものはなく、さらに写真集を見ましたがなかなかその部分が大きく写って無くて困りました。そこでまたタスケテくださったのが「山科の人間国宝」こと佐竹先輩です。『私鉄買収国電』の阪和線の項をみて理解できました。今回は実に初めて知った事ばかりで、いい勉強になりました。ありがとうございました。 返信 ↓
モハ43型の最期は飯田線でしたが辛うじて現役時代に飯田線に通いました。さよならゲタ電はデカンショまつり号さんがチケットを入手してくれたおかげで乗車する事もできました。乗車した日は涙雨でしたが…。確かにあの頃はみんな「合〇子」と普通に呼んでましたし咎める人もいませんでした。息苦しい世の中になったもんです。 返信 ↓
米手作市様
今回は、呼ばれもしないのに乱入で~す。(笑)
改めて阪和線関連で、昨年10月8日付けの「阪和電鉄モタ303」を見ますと、小生は貴殿からのお声掛けがあったにも関わらず「シカト」した様で申し訳ありませんでした。(自分の知らない事で回答に困っている内、結果「シカト」になってしまったようですネ。=笑= 否、笑い事ではありません!)
さて、今回改めて戦後期の「色」にこだわって見直してみますと、後の「70系快速の阪和色」以前の阪和線特急色は、結局京阪神間の急行色を踏襲していた様ですネ。
モタ303の様に阪和形車両での運用時はアイスキャンデー色で、続く国鉄形車両のみ(モハ43やモハ52など)での運用時にはオレンジ+マル―ンの80系急電色が加わり並存していた訳です。
充当車両は戦災消失のモハ52006を除く、モハ52X5両の他、当時の鉄道仲間で「合いの子」と言われた3両の折中車(外観が広窓モハ52とオリジナルのモハ43とのミックス車)に4両のサハを加えた3連X4本だったようです。
関先生のイラストは、その過渡期にあった省形+阪和形の混成部隊でしょう。
因みに、何故アイスキャンデー色と言うのか?については、当時は自転車の荷台に箱を積み、沢山のアイスキャンデーを入れて販売した事から、その箱の色と酷似した車体色をアイスキャンデー色と言ったのだと2011年4月1日付け乙訓の老人の「アイキャン電車とは」で「な~るほど」と教わりました。
河 昭一郎様
ご乱入を歓迎致します。
私はこのあたりの事情が分からず、コメントのしようもありませんから大だすかりです。
以前にも書いたことがありますが、幼い頃の記憶では京阪神間の急電でこの色(ベージュと茶色)を見た記憶があります。117系で復活した時に「ああ、こんな色やったんか」と納得しました。でも43系自体には記憶がありません。東海道線は、いつごろまで走っていたのでしょうか?
モハ53に改造され、グロベン付、茶色塗装となって大分格が下がったような気もしますが、関先生の絵に近い編成をGordon Davis氏が記録しているので、貼っておきます。先頭はモハ53007、中間は側窓の特徴から阪和のクハ、反対側のモハは2扉なので、モハ43かな、貼上屋根ではないですね。写真をよく見ると、阪和型は国電と較べ、腰高なのですね。側面裾も、側引戸の靴摺りの位置も、前後の車両より高く見えます。場所は天王寺と思いますが。撮影時は昭和31年。
宮崎繁幹様
阪和型は本当に腰高ですね。木造客車と同じように見えます。
私が唯一鳳電車区で撮った阪和の電車を改めて見つめてみました。妻板だけは裾の高さを合わせていますが、腰板は少し高くなっているように見えます。さらに窓も高く、その分幕板は短いようですね。
それにしても43型はカッコイイですね。京都駅から乗ってみたかった。
=省形に伍していた阪和形=
以下の数字で( )内は省形車です。
手持の資料によりますと、レール面からの全高は3804cm(3755cm)で、床面までは1299cm(1200cm)でした。
従って約10cm阪和形の床面が高かった訳です。
序でに連結器も含めた全長ですが、阪和が19100cmに対して省形車は20000cmでした。
阪和形は国電の分類上、17m車とされていましたが、事実上20m車に近かった訳です。
昔からこの電車は「合いの◉」型と教わった記憶があるのですが、件のタカ派新聞でも、その言い方は現在使えないみたいで、「ハーフ型国電」って、実物なき今、どのくらい通用(共有知識)するのか、疑問に思いました。
115系3000番台が1983年に登場した時に、あっ「新なんとかのコ電車だ!」と言いそうになり、後輩にたしなめられて、そのニックネームはお蔵入りに。しかし「ニューハーフ電車」では、別の意味になりますね。失礼いたしました。
米手作市様
全4両あった広窓の43系自体は、1両(038)が戦災消失し、3両が残りましたが、京阪神間にクリームとマル―ンの関西版湘南形が登場したのに合わせて身を引き、1950(昭和25)年9月に相次いで天オトに転属した5両の流電を追うように同年9月末には相次いで天オトに転属しました。
従って、仰せの東海道線で走っていたのは、この時期までで、以後は同年8月に登場した80系の天下が続きましたネ。
K.H.生様
そうですネ。 仰る通り差別(この単語自体も不適切とすべきかも)用語?は今やタブーで、同じく「チョ●コウ」や「チャ●コロ」の発音も気遣いが必要で、生き辛い時代?になりました。
かつては便利用語として横須賀―久里浜の「チョ●行」などと平気で言っていましたが、これも誤解の元なので迂闊には使えません!
改めて我が発言の無礼をお詫びし、耳に不愉快な思いをさせた事を反省しております。
で、結局クダンの「合いの◉」は、折中車、ミックス車、混血車(もNG?)
などと回りくどい言い方になるんでしょうネ。
ただし、今回の場合は「広窓車」と言って区別するのが正解だったでしようたネ。
今回も棚の肥し作戦を実行したところ、阪和線のモハ43が、他にもあったので御紹介します。2枚とも、撮影データが付いていなく困りますが、藤本様や河様の投稿、参考書などの助けを借り、ある程度コメント致します。1枚目は、茶塗のモハ43039を先頭に、阪和のクハを挟み、反対側先頭が塗分けのモハ43と云う編成です。やはり原形のガラベンの方がカッコ良いですね。前面の雨樋が真ん中で切れ、下にV字形の手摺(?)が付いているのが、変っています。藤本様の解説に拠れば、この車が阪和線(鳳)に転属して来たのが、昭和26年9月、普通屋根に改装されたのが、昭和29年とのことなので、撮影はその間にされたものかと。
2枚目は、前出の写真の列車が発車したのを、後追いで撮影したものと思われます。駅名標から、鳳駅と判ります。塗分けのモハ43で、車号が読めません。しかし正面の左右標識灯の高さが不揃いなのは、43041号の特徴のようです。この車は昭和29年1月に茶塗に戻された由。中間が阪和型で編成美とは言えないが、全車2扉で急行の貫録は備えていると感ぜられます。
宮崎繁幹様
あれは「手すり」ですか!
切れたところから流れ出る雨の為の雨樋か、旗を立てる竿受けか?と勝手に想像していました。
米手作市様
あのー、それ幌吊りじゃありませんでしょうか?
「急行」運用で編成が固定、従ってこの車両の前への増結が無いので先頭になった時のカッコ良さのため、幌を外している状態と思います。
河 昭一郎様
電車には「幌吊り」なるものがあるのですか?
客車にはなかったですねぇ。
そうなると「吊っている」ところが見たくなりました。
米手作市様
いやいや、舌ったらずの説明でした。 申し訳ありません!
この幌吊りは、関西方式の片持式幌用で、幌の収納時に吊り下げる(引っ掛ける)金具です。
写真のモハ43は幌の台座から「幌その物」を取り外して有るため、幌吊りに引っ掛ける「相手」が無い訳です。
添付の写真で判るでしょうか?
わかりました!
こんな使い方があったのですか。
他の型式にも付いていましたか?
米手作市様
この幌吊りは関西方式でしたので、大鉄、天鉄では全車が採用していたと思います。
もう少しウンチクを述べれば、幌は下り側に有って(上り側妻面には受け枠のみが車体に付いていました。)収納時用に上部に幌吊りが有り、左右の天地中央には、引っ掛けた幌の下部が前方に飛び出さない様に、車体に向けての引っ掛け(引張り?)金具が付いていました。
しかし、この車体側への引張り金具が走行中に往々にして外れ、幌の下部が前方に飛び出すだけで無く、風圧で幌が膨らんで運転士の右側視界を遮る事が有りましたヨ。(写真参照:何しろ関西の国電は高速走行でしたから。)
ところで、上り側には幌の受け枠が装備されていましたが、その出っ張り長さには長短2種類があり、半流前面車は約10センチ位?で平妻車はその倍以上有りました。
このため、平妻車が先頭で走る時は何かしら威圧感を感じたものです。
河 昭一郎様
よーくわかりました。
ご説明だけでは理解できず、写真を探しましたが撮ったものはなく、さらに写真集を見ましたがなかなかその部分が大きく写って無くて困りました。そこでまたタスケテくださったのが「山科の人間国宝」こと佐竹先輩です。『私鉄買収国電』の阪和線の項をみて理解できました。今回は実に初めて知った事ばかりで、いい勉強になりました。ありがとうございました。
モハ43型の最期は飯田線でしたが辛うじて現役時代に飯田線に通いました。さよならゲタ電はデカンショまつり号さんがチケットを入手してくれたおかげで乗車する事もできました。乗車した日は涙雨でしたが…。確かにあの頃はみんな「合〇子」と普通に呼んでましたし咎める人もいませんでした。息苦しい世の中になったもんです。
すばらしい写真をカラーでお持ちですね!
大切にして下さい。