東海道・山陽本線のデッキつきEF電機① EF18
前々回に阪和線のEF52を紹介しましたが、われわれ世代にとってデッキ付きEF電機には、特別の思いがあったと思います。なにせ、あの山科人間国宝さんが鉄道写真を始められたきっかけもデッキ付きEF電機だったと伺いました。昭和23年、自営されていた模型店の仕入れで東京へ行かれた際、人から借りたカメラで東京区、沼津区で電機を撮影されています。当時、東海道線は東京~沼津が電化区間で、両端の区にはEF53などの電機がいました。東海道線は、翌年の昭和24年にやっと静岡まで電化します。
終戦直後まで国鉄の電化は、ごく限られた線区でした。東海道線以外では、中央線が飯田町~甲府、トンネル区間の多い上越線、仙山線、関門トンネル、あとは横須賀線、伊東線ぐらいと東京周辺が多く、関西には大型電機は皆無でした。その状態は、東海道線の全線電化が完成する昭和30年代まで続きます。それだけに、とくに関西在住者にとってデッキ付きEF電機は憧れだったと思います。
私も気がつけば、京都周辺でEF15は見られなくなっていました。ただ東海道・山陽本線では、本線の貨物牽引がなくなったあとも、意外な用途でデッキ付きEF電機を見ることができました。それが、浜松周辺の入換をしていたEF18、大阪駅へ行くといつも見られたEF14、そしてセノハチの後押しとして命を長らえたEF59でした。
▲見込み生産で製造中のEF58 32~34の3両の歯車比を変更して、貨物用に転用したのがEF18だった。EF58と下一桁で関連を持たせるため、EF17となるべきところを欠番にしてEF18となった。写していた当時は、浜松周辺の各駅の入換えに使われていた。これは、大井川鐵道へ行った折に金谷で写したもの。大井川鐵道からの貨車の受け渡しも担当していたのだろう。EF18 33(昭和49年6月)。
当時旅客用として量産されていたEF58のうち、旧型のデッキ付き車体のラスト車両に当たる、東芝製のEF58 32~34の3両が、当時の占領軍の政策に合わせて貨物用に転用することになり、歯車比を変更して、昭和26年にEF18 32~34として登場した。逆にEF58は、32~34が欠番になったままだった。
▲EF18は最初、東海道本線の貨物牽引として使用されたが、昭和40年代に入ると、浜松区にあって、短区間の貨物列車、浜松周辺の入換え用として使われた。浜松区に配置と言うものの、区へ行っても出会わず、入換えのため運用もつかめなかったが、経験的に磐田、金谷、藤枝あたりにいる確率が高かったので、窓から見えたら即座に下車して、写すしか手は無かった。EF18 32 磐田(昭和50年9月)
▲EF58の35号以降は、暖房装置を搭載する流線形車体に変更され、初期車も箱形に載せ替えたため、デッキ付EF58の面影を残すのはEF18だけとなったが、昭和54年には全機廃車された。EF18 33 磐田(昭和49年6月)
団塊世代が九州への修学旅行で、東京から広島まで牽引してた電気機関車で懐かしい。深夜広島で蒸気機関車に交代し、そこからから長崎までは蒸気機関車だった。それが蒸気機関車に乗った初体験でもあった。
朝、長崎に着いた時、真っ青な空と白い雲と赤錆びた構築物ばかりだったのが、未だ、地方の戦争の傷跡を見たような印象でショックだった。