国電研究家・河 昭一郎様より、みちのくを走り去った“ウグイス色の旧型国電”に関しての考察をご寄稿頂きました。なお、添付頂いていた写真は退色とひび割れがひどく、色調についてだけ補正をしましたが、乳剤面のひび割れ・キズに関しては触っておりませんのでご承知おき下さい。
北限の国電で知られた仙石線は、実は純粋な国電ではなく、いわゆる買収国電で、そのルーツは宮城電気鉄道株式会社が松島海岸(松島公園)までの開通計画に先だって1925(大正14)年6月に部分開業した仙台―西塩釜にさかのぼる事ができる。
当初は松島方面への観光路線として営業を開始したが、戦時中には沿線に軍需工場が出来た他、海軍や陸軍の基地があった事から時代背景もあって観光路線としての色合いは薄くなり、現在で言う通勤線としての使命を担わせられる事となった。
そんな中、同線は第二次世界大戦中の1944(昭和19)年5月には国策に沿って国有化され、省線電車としての最北線となった歴史を持っているが、線路規格が当初から省線電車と同様の直流1500ボルト・軌間1067ミリだった関係で国有化後の省線車両の導入には好都合であった。買収時に20数両のオリジナル車両を引き継いだ後、戦後クモハ11等の10系17メートル国電との車両入れ換えが行われ、ツートンカラーの仙石線色に化粧直しをした電車が走った。
終戦とともに輸送動向に変化があり、混乱期を経て落着きを取戻した頃から経済成長に伴って沿線が住宅化した事により、今度は本格的な通勤路線として生まれ変わる事となった。
その後1966(昭和41)年には本格的な20メートル車化が始まり、車両は首都圏で余剰となったクモハ73一族のローカル線への『バラマキ計画』に従って、もっぱらクモハ73やクハ79等が充当された。元々これらの車両は三段窓で隙間風が入
り、寒冷地には不向きであったが、飯田線を始めとする他のローカル線との車両需給関係から三扉車に不足が生じていたため、止む無く取られた措置と考えられる。次いで同年12月になって快速電車用として大アカからクモハ54とクハ68の大阪形三扉セミクロス車が2両づつ4両転入し、翌年夏には快速色として採用される事となったウグイス色に塗色変更された。
ウグイス色には当時の山手線103系を彷彿とさせられたが、クモハ54、クハ68にはなんとなく不似合いの感は否めなかった。増してその後のクモハ73やクハ79への波及は900番台車が103系そっくりだったのを除いて、良い印象を受けなかった。
仙石線にウグイス色の電車を訪ねたのは1970(昭和45)年11月23日のことだったが、この時の仙石線は快速色だった筈のウグイス色が全車に波及しており、当時の山手線を思わせるものがあった。転入後、車両は順次寒冷地対策として埋込式ベンチレーターへの交換が実施されたため、外見上の印象が少々変わった。(クモハ73一族の2段窓化はこれより遅れて実施された。)
1970(昭和45)年11月時点の仙石線は2連と4連で運用されており、使用車両はゲタ電と言われたクモハ73、クハ79を中心にモハ72、サハ78も加わり、他にクモハ54、クハ68が所属していたが、配置されていたクモハ73一族は、殆どが悪名高きモハ63からの改造車だった上、首都圏で酷使された車で占められており、大変失礼ながらウグイス色に厚化粧した中古車両の寄せ集め的状況を呈していた。
ただ、東モセから来たクハ79926だけは異彩を放っており、大鉄から転入の半流セミクロス車と共に、せめてもの救いとなっている感があった。また、半流のクモハ54やクハ68のウグイス色は、チョコレート色で京阪神間の幹線をフル走行する姿を見慣れた筆者にとっては、どうしても違和感が拭えなかったが、一方では軽快で明るい雰囲気を振りまいており、それなりの効果も感じた。
クモハ54、クハ68は10月からの快速増発と特別快速の新設に先立って更に2両づつの増備が行われていたため、3扉セミクロス車はそれまでの倍の8両の配置となっていたが、運用の都合でクモハ73、クハ79を使用した快速電車も運用に入っており、変則編成にはパンタを降ろしたクモハ54がクモハ73編成にT車として混結される例もあった。(当日はクモハ73+クモハ54+モハ72+クハ79が走っていた。)
なお、平妻のクハ68060はかつての関西時代に他のクハ68、モハ70と共に代用急電に指定され、マルーンとクリームの急電色で5連の中間車として京阪神を疾走した経歴の持ち主であった。仙石線のウグイス色は、残念ながらその後1979(昭和54)年より導入された103系には引き継がれる事無く終った。
2021-8-23補記
以上が河 昭一郎さんからのご寄稿ですが、なにぶんにも古いこと(1970年11月23日撮影)で、当時は河さん、社会人になってすぐのころの一日だけの撮影行で、撮影データの紛失や記録漏れがあったとのですが、送って下さった写真を全て掲載します。
河 昭一郎様、米手作市様
クモハ54、クハ68等は神足-京都間(時には併行する阪急京都線長岡天神-烏丸間)の通学で利用しました。仙石線ではこれら関西型にはお目にかかれず、というよりも優先順位が低かったのでしょう、1979(昭和54)年12月23日に初訪問した時のクモハ73327のつまらん記録がありましたのでご笑覧ください。場所は不明ですが、多分陸前原ノ町でしょう。この時は陸前大塚-東名で撮影していますが、その後例の大地震で線路付け替え移動したのか海辺の写真は撮れなくなったようです。
準特急様
早速のコメント、ありがとう御座います。
アップ後、コメントが入らないのでヤキモキしていたところです。(笑)
貴殿の仙リハにおける写真は、小生のレポート取材より丸9年後で、押込ベンチレーター化や2段窓化がなされていますネ。
さらには、国電の世界でも「栄枯盛衰が常」の御多分に漏れず、既に左後方に居る次期ヒロイン?の103系に追い立てられそうに成っていますネ。
しかし、形式写真も撮り方によっては、こんなに存在感が出るものなんですネ。感心しました。
元ロクサン形とて、決して侮れません!
河 昭一郎
河 昭一郎様、米手作市様
旧型車両には造詣が深いお二方には大変恐縮ですが、仙石線の車両です。205系ですからもう古手です。オール205系で多少うんざりします。撮影は2018年12月3日、鹿妻-陸前小野間で近くには航空自衛隊松島基地があり、飛行中の爆音がよく聞こえます。電車は仙台あおば通行きクハ204-3103です。
準特急様
連投頂き感謝致します。
小生、国電鉄チャンとは言え、齢80を目前にしたロートルで、頭には「古~い」が付きますので、自分の中ではJRは別物になってしまっており、205系は既にテリトリーの外です。(悲)
しかし、これらの初期の3桁番号までは何とか「ぶら下って行こう」と頑張ったつもりで、未だチンプンカンプンとまでは至っておらず、同系列が山手線にデビューし、横浜線に都落ちする様や、首都圏の103系が津々浦々に職場を求め散って行った様子は脳裏に残っております。
とは言え、交直兼用車やハイブリッド車、加えて新幹線車両の複雑化は、まるでガラケーとスマホの如き複雑な変貌で、「付いて行けない」感に日に日に苛まれております。(大笑い)
河 昭一郎様
同じですよ。最近はテレビで懐メロを見ても現在の流行歌手が歌っていますし、JR化後の車両を覚えられないのは新しい歌を唄えないのと似てます。と言っても国鉄からJRになったのは1987(昭和62)年4月1日ですからもうかれこれ30年以上前のことです。自分の思い出のある車両やその時の塗り分けが好きなのは懐かしさからきていると思いますが、ほとんど見たことがない旧国の新潟色やスカ色は個人的には好きです。正面3枚窓の貫通幌付きの電車が好きなのもよく見たり乗ったりしたからでしょう。河さんの専門ジャンルに入り込むのは気が引けますが、米手作市さんの「コメントは関連する写真や思い出があれば何でもええんや」という言葉を信じてまたお邪魔させていただきます。
河 昭一郎様、米手作市様
海辺で写真が撮り難いのでいつもこの場所(陸前小野-鹿妻)に来ます。ここは仙台からは仙石東北ライン快速を利用します。交流の東北本線塩釜-松島間で分岐し、非電化区間を通り、直流の仙石線松島海岸-高城町間に接続して石巻に向かいます。その車両がハイブリッドHB210系で211がトイレ付、212がトイレなしですが、最近の車両はよくわかりません。写真は2021年4月19日撮影で快速石巻行きHB-E212-2です。
河 昭一郎 様
クモハ54クハ68、大阪で良く乗った懐かしい省線電車楽しませていただきました。鶯色になったロクサン型も拝見しましたが色や形式が72系に変わっても戦時のうらぶれ感はぬぐえませんね。形式称号改正でモハ73がクモハ73に変わった年(1959昭34)の古い写真がありました。城東線の国電が寺田町駅から高架を下ってきて天王寺駅構内へ入ってきたところです。もうオレンジ色になった車両もつないでいます。関西本線にはまだ8620C11C57C58D51が働いていたので給水塔もありました。
大阪通信員 様
テレビ番組「演歌の花道」の出だしのアナウンスではありませんが、「懐かしいネェ~」で始まってしまう小生が居ります。
天王寺駅へ進入する73系は、我が青春時代を思い出させてくれます。
城東線は、「黙々と」働く全く地味な存在でしたが、大阪環状線となってからは関空その他の各線から乗り入れ車が入り乱れての盛況ぶりで、「付いて行けない」感もあります。(笑)
それにしてもオレンジ車を混結した写真は「歴史の記録」と言えますネ。
河様 ウグイス色の電車では奈良の大和路線を走っている普通電車でなじみがあります。103系はなくなりましたが今は201系が走っています。新大阪へ行く大阪東線もウグイス色の電車です。奈良線も少なくなりましたが、まだ103系が走っています。写真は大和路線三郷ー河内堅上間のちょうど亀の瀬あたりです。電車は103系です。
河様
仙石線には行ったことがないのですが、川越線で2005年迄走っていた103系3000番台は、仙石線で活躍していたクハ79600番台とモハ72970番台でありまして、写真のクモハ1023002は1985年製造で元は1975年製造のクハ79606、その種車は1954年製造のクハ79374ということだそうです。いい写真がなくてすみません。
車内です。ちょっと判りにくいですが近郊電車のように扉の上にドアエンジンがあるのがオリジナルの103系と違うとのことです。普通はシートの下にあります。
上の写真ですとただの103系ATC車に見えるだけですので説明的ですが、横から一枚失礼します。
どですかでん様
大和路線は昔の奈良線?でしたよネ。
小生、乗った事がなく、貴殿の写真で沿線の「山深さ」を感じております。
奈良線の昔と京都駅の大和路線を貼っておきます。
河様 いやいや、大和路線は関西本線です。大和路線の名称は愛称名で正式には関西本線です。奈良線には愛称名はありません。そのままです。関西本線となっていますが、開業したのは関西鉄道(かんせいてつどうと読む)ではなく大阪鉄道(初代、これがまたややこしい。近鉄南大阪線の前身も大阪鉄道と言います。)です。関西鉄道は片町線で大阪へ乗り入れました。これは愛称名学研都市線と呼ばれています。大阪ー奈良の行き来は奈良時代からたいへんだったようです。鉄道も生駒の山を迂回して片町線や関西線、近鉄大阪線と南大阪線と迂回して生駒の山を避けたのですが、大阪電気軌道(大阪電気鉄道ではありません)が生駒山に穴を開けました。これが今の近鉄奈良線です。子供の頃最終電車で生駒トンネルを通ると幽霊が出るという噂を聞いたことがあります。とにかくややこしいので関西在住でもわかりにくいのです。
どですかでん様
もう1枚
ブギウギ様
モハ63がルーツの73系は、その後継車の72系を経て900番台車へと進化を続け、それは更に3桁ナンバー車の103系3000番台車へと飛躍したわけですネ。
さすがJRに民営化した後の節約術と言えるのかも知れません。
多分国鉄のままだったら大量の73・72系の廃車の山だったんじゃないかと勝手に考えたりしています。
それにしても3000番台のニセ103系は名案でした。
どですかでん様
ウワーッ、お恥ずかしい。そうでしたネ。勘違いでは済まされない基本的ミスでした。
そう言えば片町線は学研都市線とかって言うんでしたヨネ。
さらには阪急も顔負けの神戸線、京都線、宝塚線ってのも有ったんですよね。もっとも頭にJRと付けるようですが。
またまたタイミングを逸したコメントで失礼します。
河様の仙石線の写真の中で、見覚えのある野蒜駅の風景、懐かしく拝見しました。この駅から徒歩15分位の「松島ユースホステル」に泊まり、翌日石巻線のC11を撮影しに行ったことがあったからです。この野蒜と仙台寄りの隣駅東名(とうな)の間には海岸沿いを走る区間もありましたので、石巻線の撮影が一段落した後、海岸沿いの区間でも撮ってみましたが、曇天のせいもあって大した写真は撮れませんでした。添付の写真は1973(昭和48)年7月21日朝、霧が立ちこめている中、目的の石巻行と交換で先に入ってきた仙台行722Mです。先頭はジュラ電改造のクハ79900ですが、後3両はセミクロス車で、日中以降は快速運用についていました。
ご承知のとおり、この区間は東日本大震災で津波に流され、駅も含めかなり内陸側に移設されています。また松島ユースもその後ずっと休業状態のようです。
まほろばの鉄趣味住人様
これは、これは稀少車のジュラ電改造の全金車?ですネ。
そして、これ等の900番台車が大量920番台車の礎でしたネェ。
小生が訪ねた時は926が異彩を放っていました。
コメントのセミクロス車との混結運用は、小生が訪ねた時にも有り、(添付写真)折角の54+68のエリート編成?に水を差す仙リハに「何だかなぁ!」と気落ちした記憶が蘇りました。
しかも、54はパンタを畳んでトラック扱いの哀れさ!
お泊りは、野蒜ユースホステルでしたか。
小生は、取材時にはすでに社会人でしたので、チョットは小遣いに余裕が有って、「何たら国民宿舎or 国民休暇村?」に1泊したような。
貴重なショットを、ありがとう御座いました。
河 昭一郎様
少しお伺いします。
あるサイトで「身延線の旧国電動車は偶数向きに統一されて居たので考証的には楽でしたね、もっとも
奇数向き車もご丁寧に方向転換してジャンパー栓受けを撤去、床下器具を反転したり、後年は簡単改造で床下器具も入れ替えず母線と作用菅をクロスさせたりとバラエティに富んでいました」との記事が出ておりました。
私はご承知の通りの電車オンチ、というより電車無知ですからこの書き込みの意味が分かりません。
「偶数向き」「奇数向き」とはどういう意味でしょうか?
また、「方向転換してジャンパー栓受けを撤去し、床下器具を反転したり・・」とありますが、模型ではあるまいしこの作業の意味は何でしょうか?
仙石線とは関係ありませんが国電で疑問に思ったら河さんへ、の標語にしたがってお尋ね致します。お答え頂けたら幸いです。
米手作市 様
小生の事を思い出して頂き、恐縮至極で~す。それなのに、お返事が大変遅くなり申し訳ありません!
身延線のクモハ14 800番台車に、カプラーの左右位置変更や床下機器の空気系統と電気系統の配置交換等の工事が施された件ですが、迂闊にも小生はその事実を見過ごしていた気がしております。
御存知の通り、元来キャブ付き車両は奇数番号・偶数番号で向きが正反対ですが、言われてみれば身延線のクモハ14 800番台車はどう言う訳か本来上り向きの奇数番号車が全車下り向きに方向転換されていたようです。
従って、下り向きに向転換された本来上り向きの奇数番号車はカプラーの左右位置と床下機器の「海側」「山側」を入れ替えたものと思います。
何故奇数番号車を方向転換したのかは謎で、小生に取っては今後の「研究課題」です。
あるいは身延線の富士口に於ける東海道線への乗り入れが、当初は反対方向の東京側から入っていた説がありますので、それも関係しているかも知れません。・・・ってデマ?(笑)
因みに国電が電気機器の山側(内陸側)への取付に拘った理由は、関西国電が須磨海岸を走行しており、至近の海からの電気機器への塩害を極度に警戒したためと言われており、これが関東や静岡地区にも影響されたとの説があります。
河昭一郎様
ありがとうございます。
聞きかじりですけど、身延線では富士側にM車を付けて押し上げ運行をしてた、とか。この方が引っ張り上げるより効率がいいらしいのです。ホントかな⁉️
米手作市 様
小生も牽引の場合と推進の場合を想定し、「クモハ14が甲府に向かって牽引する場合と推進の場合の出力比較」の他、「私鉄規格のまま狭小だったトンネルへの突入時のパンタへの風圧影響比較」「静フシ入庫時に於ける留置スペース事情」「東海道線及び中央線への乗り入れ区間での利点と欠点」「連結位置の前後比較で、車長と重量がどのような影響を与えるか」などを考えましたが、結局判らず仕舞いでした。
しかし、その後ネットを見ていたら単なる「静鉄局の方針」との記述が見付かり、チョット拍子抜けしている自分が居ります。(笑) 河 昭一郎