やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (28)

旭川区 C55  ③  さよなら北海道の蒸機

しばらく続けていました区名板ごとに見る北海道の蒸機、少し積み残しもありますが、今回で最終としました。旭川区のC55、番号ごとに残ったC55を見ていきます。

初めて渡った北海道で最初に撮ったC55、夜行急行「利尻2号」に鉄鈍爺さんと一緒に乗って、6時41分に稚内に着いた。さすがに最北の駅は寒いぐらい。例によって線路に下りて見るとC55 50〔旭〕の牽引だった。初めての稚内は、予想よりウンと小さな駅で、島ホーム一本に側線が数本あるだけ、ごく平凡な駅だった。ただ、この日は稚内駅にとって特別な日で、開道百周年記念式に臨席の天皇・皇后が、この日の午後に初めて稚内駅まで来る歴史的な日だった。駅前はチリひとつなく、キレイに掃き清められていた。かつては、連絡船の発着場まで線路が伸びていたが、いまはあっけないほど線路がポツンと途絶えていた。(昭和43年9月)

C55 48

その稚内に一時間ほど滞在して、二人で322レに乗車、再び、来た道を各停に乗って、ゆっくり乗り鉄の旅を楽しんだ。好天に恵まれて、車窓から見たサロベツ原野は格別だった。午後に通るお召列車撮影のため、音威子府で下車、まずは停車中の牽引機、C55 48を撮影。

形式写真風に一枚、回転式火の粉止めは残念だが、美しく整備され、ロッドも下がっている。何よりも、補助灯がまだ未装備で、原形のまま。右手にチラリと見える原木を積んだチキもアクセントになった。

11時35分に音威子府を発車、前稿のコメントで記したのだが、322レは所定4両のところ、音威子府で2両増結されて、ユ・ニ込みの6両になっている。このあと、ぶんしゅうさんも加わった3人で、ヒッチハイクして、DE10重連のお召列車を撮りに行っている。

C55 49

雪原をすべるように快走する322レ 幌延~下沼 (昭和46年3月)

昭和44年の“抜海現地闘争”で、保線小屋で泊まった翌日にメンバーと撮った322レ、前年の322レは客車4両だったが、この年にはもう一両スハ32が付いた5両編成になっていた。C55 49 抜海~南稚内 (昭和44年9月)

C5550

さらに2年半後の昭和46年3月、T君と一緒に抜海~南稚内で撮った322レ、今の今まで意識しなかったが、ひょっとしたら、上掲の夏の抜海~南稚内と全く同じ場所での撮影ではないかと思った次第。この区間は、よく似た風景がずっと続いているが、背後の様子もほぼ同じだ。

322レの後部も撮影、客車列車は後ろ姿のほうが絵になる、と勝手に思っている一枚。

地上駅時代の旭川で、倶知安発旭川行き133レを牽いて到着、この時代は、まだ旭川まで電化は到達しておらず、函館本線はC55、C57、D51が牽いていた。(昭和43年8月)

こちらも旭川駅の「利尻2号」、旭川まではC5738の牽引、ここでC55 50に代わった。(昭和43年9月)

名寄で何気に撮った321レを牽くC55 50、昨日に“デジ青”投稿していたら、それで終わるところだった。322レの編成について、本欄にコメントをいただいたHさんが、本日、私の写真展にお見えになった。Hさんが昭和50年に渡道された際の写真を見せていただいたところ、名寄で撮られた、同じ構図の写真があってびっくりした。その時はC55は無いのでDC列車だが、車両位置といい、手前の乗客といい、びったり同じだった。

C55 30

学生時代最後の渡道の昭和47年3月も一人で抜海~南稚内へ行った。丘陵のうえに難なく上り322レを撮った。初めて見る流線型改造のC55 30の牽引だった。こちらも列車の後部を。この時は逆に4両編成に戻っている。

321レを牽くC55 30 音威子府~筬島 (昭和46年3月)

その321レは音威子府で48分の停車、上掲の駅間で撮っても、駅でゆっくりC55 30を撮れる。流改の特徴である、大きなテンダー、Rのあるキャブ屋根、キャブ下の三角のヒレも入れて撮る。最後まで残った流改機だが、保存予定のところ、手違いで解体されたとネット情報に書かれていた。(昭和46年3月)

C55 59

C55 59の牽く小樽発名寄行き331レが地上時代の旭川に到着する。右手が地上時代の駅舎、たしか北海道初の民衆駅として誕生した。食堂利用や駅寝によく利用させてもらった。(昭和43年9月)

新旭川に到着の322レを牽くC55 59 新旭川は石北本線との分岐駅で、構内も広々していた。C5559は昭和43年10月改正で廃車になっていて、この姿が最晩年の活躍の姿となる。(昭和43年9月)

これで28回に渡って掲載しました区名版の北海道の蒸機は終了しました。先に小樽築港区のC62も別テーマで紹介していますので、計40回分ぐらいの連載となりました。ここに載せた写真は、DRFC時代に渡道した4回分(昭和43~47年、夏2回、冬2回)の記録です。こうして見ると、自分でもよく撮ったものと改めて驚いています。情熱があり、体力、気力も十分だったのででしょう。これらは、ほとんどDRFCの仲間と一緒に写したものです。その仲間の交流がいまも続き、“デジ青”と言う発信媒体に発表できたこと何よりだと思っています。

 

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (28)」への8件のフィードバック

  1. 数少ない北海道のC55の写真。やっと一枚見つけました。
    C5559
    特派員さんの投稿記事がなければ日の目を見なかった一枚です。この企画をして頂き、感謝に堪えません。ありがとうございました。

    • 米手さま
      C55の写真、ありがとうございます。回転式火の粉止めは“皿”ですね。私も最初の渡道の昭和43年には、数両だけ見ましたが、翌年には皆無になっていました。“皿”も時代を物語るアイテムですね。こちらこそ、米手さんはじめ、いろいろな方の励ましで続けることができました。

  2. 総本家青信号特派員様

    C55とスハ32系客車の編成は絶品ですね~
    ため息が出ます。
    特に、スハ32が増結された編成の後追いは、引っかけ式テールライトが、もう涙ものです。またまた、模型で再現したい編成が出来てしまいました。

    さて
    名寄駅の構内は、佳い雰囲気でしたね~
    本当は上興部にいくつもりだったのに、乗り過ごして名寄まで来てしまった時の写真です。今では、もし上興部に行けても貧弱な機材で中途半端な写真しか撮れなかったに違いないと、居直っています(笑)

    件の写真です。
    名寄駅 1975/3/24
    大勢のお客さんが、列車を待っているようです。
    乗ったであろう列車から推定して7:53~8:23の間の撮影です。

    乗り過ごしの顛末の説明は弊ブログで・・・
    http://hirose13mm.cocolog-nifty.com/bbs001/2021/06/post-0200c7.html

    • 廣瀬さま
      コメントを頂戴し、ありがとうございました。今日も写真展に行っていて、先ほど帰ってきました。
      本欄も続けて見ていただき、ありがとうございます。客車の後ろ姿、いいですね。スハフ42のように、車掌室が端部にあって、三枚窓風に見える後部もいいですが、ストンと妻面が見えて、テールライトだけあるのも味わい深いです。
      名寄の写真、掲載までしていただきました。私の書き間違いがあり、DCではなく、96でしたが、見れば見るほどよく似ています。列車を待つ人たちは、若くて服装が違うのも時代差を感じます。ホームページも拝見しました。折りに触れて、コメント頂戴いただければ幸いです。

  3. 総本家さん、長い間北海道の蒸機シリーズ掲載ありがとうございました。
    蒸機列車の素晴らしさはもちろんですが、当時の風景や人々の生活も懐かしく感じる事が出来ました。
    私自身学生時代から青函連絡船が廃止される頃まで、毎年のように渡道して各地を旅していましたので、いろんな事を思い出します。

    • わらくろや様
      いえいえ、こちらこそ、見ていただき、コメントも頂戴し、ありがとうございました。「いろいろな事を思い出す」は同感です。実はいま写真展をやっていて、今日も来場された方と話していましたが、古い写真を見ると、その時の空気感まで思い出すと言った話をしていました。昔のことを思い出すのは、年寄りの常ですが、かえって認知性予防の効果があるそうです。これからも、「いろいろな事を思い出す」写真を載せていきます。

  4. 昭和55(1980)年夏に渡道した時の宗谷本線列車は、まだ特派員氏が撮られた頃のスハ32系狭窓客車でした。
    本州や内地で姿を消した初期鋼製客車が残れたのは、狭窓による保温性も良かったのではと想像します。郵便荷物車を連結した基本の姿は機関車がDD51に変わっただけでした。

    • KH生さま
      いつもコメント、ありがとうございます。昭和55年でもまだスハ32系が宗谷本線の列車に使われていたとは知りませんでした。たしかに、狭窓車は寒冷地で重用されたことは聞きましたが、牽引機こそ代わったものの、茶系のスハ32は、まさに昭和ですね。

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