なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈15〉

秋の嵐山駅

この時期、秋も深まって来た頃の様子です。投稿画面に向かう時間が確保できませんが、“なりゆきまかせ”の趣旨に沿って、テーマもバラバラ、一枚でもいいので、継続して進めることを第一に考えます。

灯籠を模した照明が、京都の風情を増す晩秋の阪急嵐山駅。嵐山線が最後の居場所になった、2300系の運行標識板車が入線しました。時刻はまだ16時台ですが、晩秋の日暮れは早く、ライトを点灯させての入線です(実際は平成の撮影ですが、“昭和”のイメージとしています)。手前2352の2301F編成は、9300の増備による6300系の嵐山線転入により、平成17年に廃車になっている。その後も嵐山線へは、毎年のように秋の臨時列車を写しに行っているが、年々、運転期日や本数が減って来た。昨年のコロナ禍の時は、人流抑制から、ついに臨時列車はすべて中止された。ようやく明るさが見え始めた今年の秋、嵐山線に臨時列車は運転されるのだろうか。

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈15〉」への7件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    2300シリーズは小生に取って「憎っくき?ヤツ」で~す。
    何故って我がP-6を駆逐したヤツだからです。・・・って穏やかでないですネ。
    これはこれで「軽快で洗練されたデザイン」だった事は事実で、その後の阪急スタイルとして確立されたのも事実ですが。
    貴殿のショット、彼氏?と一緒とは言えやっぱりホンワカ女性が・・・。
    アッ!そんな話では無かったですね。晩秋の嵐山でしたネ。

    • 河 昭一郎様
      私もP-6を愛する新京阪ファンですが、2300系はP-6を全く駆逐してません。3300系の増備で一時神戸線に移籍させられた2300系が戻ってきたり、5100系が増備された事で、P-6が引退したはずです。
      それでも116を大切に保存してくれる阪急は素晴らしい会社。2301Fも保存対象で正雀に保管中。どこかの大私鉄は社員が保存活動をした事で、飛ばされたと某私鉄特集号で読みましたが、えらい違いです。

  2. 我々の世代は、阪急嵐山線と言えば、この電車でした。「嵐山のタヌキさん」と子供にも人気がありました。昭和44年5月1日、松尾付近です。
    ところで我が家の近くを走っている「くぬぎ山のタヌキさん」は、11月3日のさよなら運転で引退することになりました。

    • この時は、藤本さんの引率で、京都線の桂川鉄橋付近のあと、嵐山線で撮影しました。どこの山の中かと思うような背景ですが、今は線路際まで住宅が建ち並び、著しい変貌を遂げています。愛宕山は変わりませんね。

  3. 嵐山線にはもう一つ210形という神宝線610形と同じタイプの3連が活躍していました。この車両は阪急としては珍しく他社に譲渡したものですがたまには譲渡先の姿を出してみました。1977年11月8日広島電鉄荒手車庫の1082+1081です。
    P-6に誰から追い出されたのか訊いてみたいですね。歴史的背景とか、車両数とか会社の考え方とかいろいろあると思いますが、個人的には河さんに近い印象を持っています。2300系、P-6ともに急行、各停運用に就いていましたし、車両の数も似たようなもので極端に言うならば交互に走っていたような記憶があります。両者ともにその時代の忘れられない優秀な車両と思います。マルーンさん駆逐問題はいかがでしょうか。

    •  総本家さんの「嵐山駅と2352」は黄昏の雰囲気がよく出ていますね。河さん仰るように若い二人?が味わいをより濃くしていますね!
       準特急さん、広電での210型は恥ずかしながら初めて見ました。こんなんになってたんや!塗色が変わると随分イメージが変わるものですね。
       さて、駆逐問題ですが私が運転した昭和46年頃は
      P-6は4連が本線普通車、7連が本線急行や千里線で運用されていました。
       本線急行で旧型車はP-6の他710や1600が運用されていたと記憶しています。
       2300や3300に比べるとお客様から見ると古めかしさは拭いきれず、経年劣化に伴う保守費の増大化、取り扱いの面倒さが要因になったのではと思います。それと冷房化のニーズに対応が難しいことも大きな要因だったのでは?と思います。廃車が進むと同時に5100が投入され出したことがそれを物語っていると思います。

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