追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?-2-



乙訓の老人からの宿題を続けます。

⇩⑩乙訓の長老様は通称「だるま」に強い興味をお持ちだったようで、「だるま」の写真が多く出てきます。これはなかなか難しい問題ですがデジ青探偵しか解答できないのではと、あえて出題しますので挑戦して下さい。
《元琴急デ1型 モ185ですから、岐阜工場にあった車体》

 

⇩⑪これは同じ車両ですが二枚の写真の間には数年の時が横たわっているように思われます。
《蒲原鉄道 村松車庫 モハ1(デ2)》

⇩⑫荷物電車のようですが、屋根が取り付けられ家の様になっています。
《飯坂電車4輪車 1959(昭和34)年9月》

⇩⑬この三枚は同じ車両か同系の車両だと思われます。
《弘前電鉄 モハ100 後ろはクハニ200かと思われる》

 

⇩⑭方向幕には「大学前」、高石歯科の住所は千歳町となっています。
《富山地鉄7000型》

 

⇩⑮海岸か湖畔を走る鉄道のようです。
《伊予鉄道モハ104他》

 

⇩⑯模型にお薦めします。《野上電鉄デワ3》

 

⇩⑰これは私にも想像できます。《草軽電鉄ホハ30車内》

 

⇩⑱《協三工業の昭和30年製の初期の5t機DL 栗原電鉄》

 

⇩⑲《福島交通飯坂線 デハ5013+デハ5012 花水坂-医王寺前 この初代デハ5000は連接車です。》

現在整理ができているのはここまでです。
解読宜しくお願い致します。

追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?-2-」への28件のフィードバック

  1. 少しにしておきます
    ⑭ 富山地鉄7000形
    ⑮ 伊予鉄道モハ104 高浜あたり
    ⑯ 野上電鉄デワ3
    ⑰ 草軽電鉄ホハ30車内

  2. 10は名鉄に移った幻の鉄道、元琴急デ1型でしょうね。
    室内は初めて見ました。撮影していないので新鮮です。しかし今なら不法侵入の証拠写真として炎上しそう(笑) 今思うと、同じ地元の日本車両製の電車なので、小型過ぎることを除けば、違和感が無いですね。名鉄カラーが似合います。今まで考えたことも無かったのですが、日車関係者が、琴急からお国の通達で廃線することになったが、車両が勿体なく、どうしようとメーカーに相談。取り敢えず大手企業の地元名鉄のどこかに送り込んで、使い続けて、戦後復旧するさいに再譲渡してもらえたら?と閃いたのかもしれません。このあいだ、四国に行って来たばかりですが、空想ばかりしています、あれ以来。

        • こんばんは。私はこの名鉄180型の現役当時を知らず、岐阜の車庫に留置されている電車を撮影中に廃車体に気付き写しました。その後、あれは四国を走っていたこんぴら行きの電鉄の一つと教えてもらい、大変興味を持ちました。琴急に着いて研究が進んだのはずっと後年で、昭和40年代のピクトリアルに和久田康夫さんの「日本の私鉄」の連載中に、戦時中の不用不急で廃止になった各鉄道の消長が記されており、それを数年後に中学生になりバックナンバーを読み興味を覚えました。
          今の時代と昔は異なり、後引きでネット確認も無い頃は、昔の雑誌記事をバイブルのように読んでいて、その後大学や社会人になり、人と知識に出会い、現在に到っていると思います。
          私がDRFCに入会しなければ、また違った人生、道の進み方になっただろうと想像いたします。

    • 不鮮明な写真ですがご容赦下さい。
      記録が曖昧なのですが、1973年の撮影です。

      • こちらは改造連接車のモ400を引き連れたモ180型ですね。珍車、奇車のミュージアム状態。こんな時代の揖斐・谷汲線を見たかったです。(笑)

        • そうです!
          モ400を見るために岐阜市内線から黒野を経て谷汲へ参りました。高校2年生の夏休みでした。もう50年になります。

  3. ⑪ 蒲原鉄道 村松車庫 モハ1(デ2)
    このボロボロ車体から復元されて新潟県加茂市の冬鳥越スキーガーデンに保存されています。

    • 蒲原鉄道ですか。
      そういえば長老様は蒲原鉄道に何回か行っておられたようで、写真があります。

      • 蒲原鉄道は1981年の夏期旅行が東北で、この時に訪問して廃車体に気付きました。
        こんなふうに私はDRFCに入らなかったら、積極的な日本各地のローカル私鉄の訪問はしなかったと思います。またこの時期は東北上越新幹線の開業直前で、在来線の夜行列車を縦横に乗り、楽しい思い出になりました。
        当該電車の放置時代は最初屋根無しですが、後から保存を意識してカバーする屋根が付けられています。重箱の隅を突つくような1枚ですが、屋根も当初とカラー写真では、角度等が変わっています。ご参考までに。

    • 弘南電鉄大鰐線の開業は戦後で、資材が無かった時代に運よく手に入れたのが、秩父鉄道の開業当初の木造車体のデハ10型でした。これを間に入ったのは三菱電機で、秩鉄の昇圧に関与した三菱が、新造の100型の発注の際に、簡単に新車が作れない時代であり、更新名義で仕事を請け、日車東京支店から車体が到着すると、新規の電装を施し、名義の消した電車から弘前電鉄に送り込むと言う離れ業をやって退けています。
      クハの方は元省電サハ19型で、木造の国電は事故に弱いためGHQが特に都会からの淘汰を押し進めました。
      クハニに改造したのはモハの整備と同じくカテツ交通工業という会社で、大三菱がオンボロ電車のたらい回しの表面に出ることはありません。
      秩父から来た木造車は、地方私鉄から木造車が一掃された頃に車体を更新して、ご覧のような平凡なスタイルで1981年に見ることが出来ました。

  4. ⑲ 福島交通飯坂線 デハ5013+デハ5012
    花水坂-医王寺前
      この初代デハ5000は連接車です。

  5. ⑫は福島交通の長岡車庫で撮影されたものです。
    長老様の過去の投稿から見つかりました。2016年6月30日「福島を取り巻いた電車」にこの写真がありました。記事には「車庫入口に木造貨車の達磨さんが安置されていた。飯坂電車4輪車の成れの果てであろう。車庫の話では祭りの花電車用に自社で改造したもので、用済み後は社用運搬車として使っていた、とのこと。」と書いておられます。
    長老様は1959(昭和34)年9月に東北の電車巡りをされていますので、その時に撮影されたようです。

    • 12の”傘おばけ”電車の正体をありがとうございます。
      18の貨車移動機は、福島の協三工業の昭和30年製の初期の5t機DLのようで、ネットを捜しまわり、同型の写真を、岩堀さんのホームページに見つけることが出来ました。(参照)
      後は電化私鉄で1067で、この社章はどこなのだろうと、数日間探していますが、当該するものが見つかっておりません。<Ⅰ> こんな感じの社章です。中央はレールマーク。

  6. 最後まで残っていた⑱の小型ディーゼル機関車も、K.H.生様・乙訓の長老の甥様のおかげでめでたく解明されました。お二方にはかないません。
    後出しになりますが、鉄道ピクトリアルの「私鉄車輌めぐり第1分冊」に、DB形として紹介されています。『石越駅構内及び細倉鉱山駅の入換用として人力に変わって使用されている。福島協三工業、昭30.9.製造』記事はたった2行で、機関車の番号も輌数も書かれていません。写真もありません。長老様の写真は「DB52」ですが、「DB51」がいたのかどうかが気になります。
    昭和30年9月は762mmから1067mmに改軌された時期で、国鉄の貨車が栗原電鉄に乗り入れるようになりました。貨車の受渡し、ならびに入換用として導入されたものと考えられます。
    ちなみに後継機ともいえるDB101・102の導入は昭和40年で、東北本線交流電化の年と重なります。
    長老様は昭和34年9月に東北地方を巡られましたが、石越駅でDB52を見かけて記録されたのでしょう。栗原電鉄の電気機関車や電車は雑誌などでよく見かけますが、小型とは言えDLがいたことは知りませんでした。

  7. 長老の甥さんとK.H生さんでコメントが出尽くした感がありますが、各車両の現役時代の写真で長老を偲びたいと思います。
    昭和45年10月4日、黒野検車区、モ185です。

  8. 昭和41年9月8日、西弘前車庫、デハ101です。
    この時代は、塗装がスカーレット1色になり、車体は簡易鋼体化され、正面は貫通化改造されました。
    長老が撮影されたのは、昭和36年頃と思われます。

  9. 上の写真の「デハ101」は「モハ101」が正解ですので訂正します。
    モハ101と同じ日、同じ場所のクハ202です。前身は木製国電のサハ19020で、丸屋根に改造されています。

  10. 昭和50年9月3日、こちらも長老が撮影された道路の反対側から撮影したデハ5013-デハ5012です。

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