ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ③ 投稿日時: 2022年11月20日 投稿者: 米手作市 反応が少ない中、紫の1863さんや乙訓の老人の甥さんにがんばっていただいております。感謝申し上げます。 続けて参ります。 ㉛ ㉜ ㉝ ㉞ ㉟ △⑨㉙と同じ場所だと思いますが・・ ㊱ △③と同じ場所でしょうか? ㊲ ㊳書いてあります。四条西洞院! ㊴ ㊵ ㊶ ㊷ ㊸ ㊹ ㊺ ㊻ ㊼ ㊽ ㊾ 51 まだ続きます。 関連記事: ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ② ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ① ここはどこ?わたしはだれ?国鉄(鉄道省)編② ここはどこ?わたしはだれ?国鉄(鉄道省)編① ここはどこ?わたしはだれ?京阪電車編 追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?-2- 追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ? ここはどこ?わたしはだれ?【増3】
㉜ 木屋町二条を北野へ向かう京電です。広軌1形に見えますが、台車と腰の絞りに違いがあります。明治45年から大正7年までの間、木屋町通り西南角から東を向いて撮影されています。島津記念館の北にあたり、「すきやき」「御菓子」の看板がある家並みは、今も歩道がカーブを描いていて痕跡を残しています。 ㉝ 大阪市電です。ボギー車の500形589号で、明治44年から大正2年にかけて100輌が製造されました。マキシマムトラクション台車を履いていましたが、分かりにくいですねえ。大正初期の撮影と思いますが、場所は分かりません。 とりあえず第一報はここまでにして、皆さまのコメント投稿を待ちます。 返信 ↓
本務が忙しくて、デジ青を拝見するのが遅くなりました。 出遅れましたが… ㉛ 広軌散水車、1号、壬生車庫 ㉝ 何処でしょう?広軌1型30号、「七条」行き ㉞ 京電、蹴上(第二発電所あたり)、163号 ㉟ 堀川丸太町。花電車、「壬生車庫前」行き ㊱ ③と同じ京電、鴨川二条 ㊳「書いてあります。四条西洞院!」ですが、 広軌1型12号「市場小橋」行き。 元資料には「明治45年(大正元)」とクレジットされています。 ㊴ 烏丸通り 乾御門前。広軌1型55号、「烏丸七条」行き ㊵ 烏丸今出川下ル。広軌1型123号、「烏丸七条」行き ㊶ 京電、堀川下長者町。 ㊷ 烏丸今出川。広軌1型32号、。広軌1型100号、「大宮七条」行き ㊸ 烏丸今出川下ル。広軌1型32号、「烏丸七条」行き ㊹ 烏丸今出川。広軌1型90号、「千本丸太町」行き ㊺ 烏丸今出川西入。広軌1型113号、「大宮七条」行き ㊻ 烏丸今出川。広軌1型26号、「烏丸七条」行き 元資料には「大正2~6年」とクレジットされています。 後方左側の商店「和洋菓子、食パン、あめ一式、風月堂」 ㊼ 烏丸通り 乾御門前。広軌1型2号 元資料には「大正2~6年」とクレジットされています。 ㊽ 烏丸通り 乾御門前。広軌1型155号、「烏丸七条」行き 後ろのほうに烏丸今出川の交差点が見えています。 ㊾ これも書いてありますね。烏丸中立売。4号車、広軌1型4号 51? 烏丸武者小路。広軌1型61号 返信 ↓
乙訓の長老の甥様 お待ちしてました。私一人では荷が重いので、助かりました。 ㉝は烏丸丸太町で、奥の方に御所の石垣が写っています。丸太町通りの南から、北を向いて撮影されてます。電車に日の丸を掲げてますので、明治45年6月11日の市電開業日でしょうか。 返信 ↓
紫の1863さま 木屋町二条まで行かれて、明治と令和を定点対比されたとは恐れ入りました。私はこの写真の解説を見るまで、場所が全く分かりませんでした。米手さんの補足とともに、よく分かりました。私はこの近くの中学校の出身ですので、昔の様子は知っています。たしかに左の白壁、右の薄茶壁の家は、今でこそ、古物を扱う洒落た店になっていますが、中学生の頃は、ボロボロの家でした。おそらく躯体は京電時代のままで、外装だけ新しくしたものと思います。右手の洋館の存在も気になりますが、角倉邸に洋館もあったのでしょうか。この地は、乗り換え場として、こんなに賑わっていたのですね。 返信 ↓
秋恒例の「わらくろやツアー」に参加しておりまして失礼しました。 今年は、旧三江線跡を巡り、芸備線を全線乗車してきました。三江線跡は地元の有志の方々がしっかりと保存して、地域振興に有効利用されています。皆様も是非一度足を運んでみては如何でしょうか。 さて本題ですが、㉜の現在の写真は、木屋町二条を西から東を写した物ですね。市電は河原町方向から木屋町へ南下しているところですが、後に見える大きな洋館は何でしょうかね。現・大岩邸かな。私は二条通を西に進み、木屋町を左折、南下するルートしかないと思っていました。 返信 ↓
米手作市様 電車は市電ではなく、京都電気鉄道です。木屋町通りを北上してきて左折し、二条通りを西へと向かうところです。後ろに反対方向のポールも見えますが、木屋町通りを南下する電車とすれ違ったのでしょう。 背後の洋館風の建物は、京都電気鉄道の「電車乗客待合所」です。 大岩邸は現在「がんこ」になっておりますが、この場所は角倉了以の屋敷跡だったと思います。 木屋町二条の交差点は三差路で、線路は木屋町通りから二条通りの東西双方向に分岐するだけでなく、直進することも出来たようです。大正11年の地図に複線の線路が記入されています。 返信 ↓
話題が古いのと、京都の地理に疎いもんで、とてもついていくのが、やっとです。旧い路線図を対象しながら、漸く理解致しました。この路線は京電と云うことですと、京都市に買収後は廃線となったと云うことですね? 返信 ↓
㊱ 撮影時期は救助網の取り付けが始まった明治30年1月以降、告知人(先走りの少年)が廃止された明治37年11月以前です。 ㉜の木屋町二条は㊱の木橋を左手前に渡った場所です。たしかに路線図が無いと、位置関係をつかみにくいですね。 京電の路線は市電に買収後、一部の路線を除いて廃止されました。高瀬川に沿って走る京電の木屋町線は、河原町通りに市電が開業するのを待って廃止されました。 返信 ↓
せっかくのコメントを頂いておきながらほったらかしの状態が続きました。11月は個人的にも公的にも超多忙が続いて、その上、マルーン前会長様のお供で、芸備線全線視察に行っておりました。 このシリーズも分水嶺を越えて、終盤に入りました。先を急ぎます。 乙訓の老人の甥さん、紫の1863さん、お付き合いを宜しくお願い致します。 返信 ↓
総本家青信号特派員様 近くに用事があったので、ついでに撮って来ただけです。木屋町二条は以前の職場に近く、昭和51年から知っております。その頃、白壁の家の東隣にOさんという老夫婦がお住まいで、仕事で伺った記憶がよみがえりました。奥さんは多分80歳前後だったと思います。ご主人も同年代と思われ、大正の初めころは十代半ば、京電が行き交う場面を見たおられたかもしれません。 洋館風の建物は京電の「電車乗客待合所」で、薄茶色の建物と元角倉了以別邸の間にありました。現在は土塀に囲まれ、白壁の土蔵のあるお屋敷になってますが、上からのぞくと奥行きのある敷地のようです。三方向の線路が交わるジャンクションで、乗降客も多かったのでしょう。乗客サービスの一環として、木屋町通りに面した部分を京電が間借りし、待合所を建てたのでしょう。堀川下立売にも京電の待合所がありました。ここも三方向の線路が交わるジャンクションで、市電に対抗するためサービスに努めた京電の姿勢がうかがえます。 本件とは関係ありませんが、寺町丸太町の東南角と南隣の建物も、大正初期の絵葉書に写る家屋と同じように見えます。文化財に指定された建物だけでなく、百年を経た町屋は珍しくないのかもしれません。 返信 ↓
㉜ 木屋町二条を北野へ向かう京電です。広軌1形に見えますが、台車と腰の絞りに違いがあります。明治45年から大正7年までの間、木屋町通り西南角から東を向いて撮影されています。島津記念館の北にあたり、「すきやき」「御菓子」の看板がある家並みは、今も歩道がカーブを描いていて痕跡を残しています。
㉝ 大阪市電です。ボギー車の500形589号で、明治44年から大正2年にかけて100輌が製造されました。マキシマムトラクション台車を履いていましたが、分かりにくいですねえ。大正初期の撮影と思いますが、場所は分かりません。
とりあえず第一報はここまでにして、皆さまのコメント投稿を待ちます。
㉝は㊲の間違いでした。すみません、訂正します。
もう専門家に任せて参戦する気がしないのですが、34ってここ?
面白いですね。
本務が忙しくて、デジ青を拝見するのが遅くなりました。
出遅れましたが…
㉛ 広軌散水車、1号、壬生車庫
㉝ 何処でしょう?広軌1型30号、「七条」行き
㉞ 京電、蹴上(第二発電所あたり)、163号
㉟ 堀川丸太町。花電車、「壬生車庫前」行き
㊱ ③と同じ京電、鴨川二条
㊳「書いてあります。四条西洞院!」ですが、
広軌1型12号「市場小橋」行き。
元資料には「明治45年(大正元)」とクレジットされています。
㊴ 烏丸通り 乾御門前。広軌1型55号、「烏丸七条」行き
㊵ 烏丸今出川下ル。広軌1型123号、「烏丸七条」行き
㊶ 京電、堀川下長者町。
㊷ 烏丸今出川。広軌1型32号、。広軌1型100号、「大宮七条」行き
㊸ 烏丸今出川下ル。広軌1型32号、「烏丸七条」行き
㊹ 烏丸今出川。広軌1型90号、「千本丸太町」行き
㊺ 烏丸今出川西入。広軌1型113号、「大宮七条」行き
㊻ 烏丸今出川。広軌1型26号、「烏丸七条」行き
元資料には「大正2~6年」とクレジットされています。
後方左側の商店「和洋菓子、食パン、あめ一式、風月堂」
㊼ 烏丸通り 乾御門前。広軌1型2号
元資料には「大正2~6年」とクレジットされています。
㊽ 烏丸通り 乾御門前。広軌1型155号、「烏丸七条」行き
後ろのほうに烏丸今出川の交差点が見えています。
㊾ これも書いてありますね。烏丸中立売。4号車、広軌1型4号
51? 烏丸武者小路。広軌1型61号
乙訓の長老の甥様
お待ちしてました。私一人では荷が重いので、助かりました。
㉝は烏丸丸太町で、奥の方に御所の石垣が写っています。丸太町通りの南から、北を向いて撮影されてます。電車に日の丸を掲げてますので、明治45年6月11日の市電開業日でしょうか。
今日撮ってきた木屋町二条交差点です。正面の茶色と左隣の白い建物に注目してください。㉜とは窓や屋根に変化がありますが、何となく似ているように見えませんか?
紫の1863さま
木屋町二条まで行かれて、明治と令和を定点対比されたとは恐れ入りました。私はこの写真の解説を見るまで、場所が全く分かりませんでした。米手さんの補足とともに、よく分かりました。私はこの近くの中学校の出身ですので、昔の様子は知っています。たしかに左の白壁、右の薄茶壁の家は、今でこそ、古物を扱う洒落た店になっていますが、中学生の頃は、ボロボロの家でした。おそらく躯体は京電時代のままで、外装だけ新しくしたものと思います。右手の洋館の存在も気になりますが、角倉邸に洋館もあったのでしょうか。この地は、乗り換え場として、こんなに賑わっていたのですね。
秋恒例の「わらくろやツアー」に参加しておりまして失礼しました。
今年は、旧三江線跡を巡り、芸備線を全線乗車してきました。三江線跡は地元の有志の方々がしっかりと保存して、地域振興に有効利用されています。皆様も是非一度足を運んでみては如何でしょうか。
さて本題ですが、㉜の現在の写真は、木屋町二条を西から東を写した物ですね。市電は河原町方向から木屋町へ南下しているところですが、後に見える大きな洋館は何でしょうかね。現・大岩邸かな。私は二条通を西に進み、木屋町を左折、南下するルートしかないと思っていました。
米手作市様
電車は市電ではなく、京都電気鉄道です。木屋町通りを北上してきて左折し、二条通りを西へと向かうところです。後ろに反対方向のポールも見えますが、木屋町通りを南下する電車とすれ違ったのでしょう。
背後の洋館風の建物は、京都電気鉄道の「電車乗客待合所」です。
大岩邸は現在「がんこ」になっておりますが、この場所は角倉了以の屋敷跡だったと思います。
木屋町二条の交差点は三差路で、線路は木屋町通りから二条通りの東西双方向に分岐するだけでなく、直進することも出来たようです。大正11年の地図に複線の線路が記入されています。
よく解りました。
話題が古いのと、京都の地理に疎いもんで、とてもついていくのが、やっとです。旧い路線図を対象しながら、漸く理解致しました。この路線は京電と云うことですと、京都市に買収後は廃線となったと云うことですね?
㊱ 撮影時期は救助網の取り付けが始まった明治30年1月以降、告知人(先走りの少年)が廃止された明治37年11月以前です。
㉜の木屋町二条は㊱の木橋を左手前に渡った場所です。たしかに路線図が無いと、位置関係をつかみにくいですね。
京電の路線は市電に買収後、一部の路線を除いて廃止されました。高瀬川に沿って走る京電の木屋町線は、河原町通りに市電が開業するのを待って廃止されました。
せっかくのコメントを頂いておきながらほったらかしの状態が続きました。11月は個人的にも公的にも超多忙が続いて、その上、マルーン前会長様のお供で、芸備線全線視察に行っておりました。
このシリーズも分水嶺を越えて、終盤に入りました。先を急ぎます。
乙訓の老人の甥さん、紫の1863さん、お付き合いを宜しくお願い致します。
総本家青信号特派員様
近くに用事があったので、ついでに撮って来ただけです。木屋町二条は以前の職場に近く、昭和51年から知っております。その頃、白壁の家の東隣にOさんという老夫婦がお住まいで、仕事で伺った記憶がよみがえりました。奥さんは多分80歳前後だったと思います。ご主人も同年代と思われ、大正の初めころは十代半ば、京電が行き交う場面を見たおられたかもしれません。
洋館風の建物は京電の「電車乗客待合所」で、薄茶色の建物と元角倉了以別邸の間にありました。現在は土塀に囲まれ、白壁の土蔵のあるお屋敷になってますが、上からのぞくと奥行きのある敷地のようです。三方向の線路が交わるジャンクションで、乗降客も多かったのでしょう。乗客サービスの一環として、木屋町通りに面した部分を京電が間借りし、待合所を建てたのでしょう。堀川下立売にも京電の待合所がありました。ここも三方向の線路が交わるジャンクションで、市電に対抗するためサービスに努めた京電の姿勢がうかがえます。
本件とは関係ありませんが、寺町丸太町の東南角と南隣の建物も、大正初期の絵葉書に写る家屋と同じように見えます。文化財に指定された建物だけでなく、百年を経た町屋は珍しくないのかもしれません。