2006年11月 初めて鹿島鉄道へ(2) ▲霞ケ浦の対岸に陽が落ちて行く。浜~玉造町 29レ KR505
鹿島鉄道の撮影記、続けます。当日午後からは、霞ケ浦に沿う八木蒔~浜~玉造町の鹿島鉄道ハイライト区間を、行ったり来たりの撮影となりました。11月ともなると、陽の落ちるのが、いっそう早くなり、その変化を採り入れながらの撮影となりました。
▲玉造町で交換する22レ キハ432と、21レ キハ602、列車は日中ほぼ2時間ヘッドの運転だが、交換可能駅は玉里、常陸小川、桃浦、玉造町、榎本、巴川と27.2キロの間に6駅もあり、旅客・貨物輸送はなやかな時代を偲ばせる。▲玉造町から浜へと歩くと、国道のオーバークロスがある。石岡行き24レを、まず陸橋から山手側に向いて撮り、急いで西側に取って返し、カーブを切って霞ヶ浦湖畔へ向かう列車の後部を狙える、ひと粒で二度おいしい場所だった。 キハ432▲浜駅は文字どおり霞ヶ浦の湖畔にある駅で、この季節、周囲には小菊が咲く。キハ602の履歴は、国鉄キハ42036→キハ07 32→関東鉄道キハ42504→関東鉄道キハ602→鹿島鉄道キハ602となる。大改造を繰り返し、キハ07の面影は台車ぐらいで、冷房も積む。▲15時を過ぎると、もう陽が傾き始めた。浜近くの築堤上を行く、25レ、KR505▲浜から八木蒔まで来ると、急に周囲は樹木が生い茂り、山間部の様相を呈する。駅は完全に山の中の雰囲気だ。27レ KR502
▲列車が深い森を抜けると、西に傾き出した陽を受けて、ギラリと輝いた。28レ KR505
▲ここまで来たら、定番の霞ヶ浦に沈む夕陽バックのシルエット狙い。しかし邪魔が多い。線路と湖の間に、築堤になった道路があり、しかも線路際は雑草だらけ。下回りスコンの写真は撮れない。両者を排除できる場所を探し回ったが、ついに見付けられず、諦め気味に列車を待った。▲撮影を完了し、石岡へ戻る途中に、常陸小川で下車した。ちょうど、下りの常陸小川終着の列車が到着した。車内から、孫を連れた三世代の家族が下りて来た。改札には、背筋を正した駅員が。昭和そのものの光景が、西暦2006年の時代にまだ見られた。
総本家青信号特派員様
初めての鹿島鉄道へ(1)(2)を通して日中の撮影のみならず、美しい夕陽と湖、列車交換、夜の駅などこれは1日のストーリーが立派にできています。これだけで写真展や小さな本ができると思います。それに比べて凡人の私は鉾田線に何度も出かけていますが、総本家さんのように各駅付近の詳細な風景はとても覚えておりません。最近、デジ青にあまり顔を出さなくなった3人の方と桃浦に行った時に大きな青大将が出てきたことだけは覚えています。写真は2006年5月5日その桃浦付近で撮った鯉のぼり号DD902+キハ432です。
準特急様
鹿島鉄道での特異な思い出、ありがとうございます。地方私鉄にはそれぞれに個性があり、自分との相性もあると思います。私は車両でも、恰好から入るほうで、手入れの行き届いた、広告の無い古い車輌がいると、途端にハマリます。逆にラッピング車両は、いっぺんに興ざめです。
準特急様がおっしゃるとおり、正統派の写真では太刀打ちできません。そこで、私は変化球で行きます。
八木蒔駅の列車発車時刻表です。日中はおおむね一時間に一本で、朝夕には増発されていました。それにしても最終列車が早いですねえ。
紫の1863様
私が行った廃止前は、おおよそ2時間に1本でした。この時刻表は2003年の時ですか。朝の時間帯、石岡方面が多いのは分かりますが、鉾田方面も同じ本数があります。昔から霞ヶ浦北部の中心として栄えていた鉾田へ向けて、旅客流動も多かったのでしょう。鹿島参宮時代からのアーチ状と漢数字と、味わいのある時刻表ですね。
紫の1863様
時刻表素晴らしいですね。こんなんあったん知りませんでした。横綱に勝つのは至難の業。昔、出羽錦という力士がいまして「ねこだまし」という手を使ったことがあります。私もあまりにも完璧な総本家さんの作品にとても同じ写真ではだめでコメントにはお祭り列車を貼り付けました。個人的にはお祭り列車、イベント列車は好きではありませんが。
玉造駅に停まっていたB形DLです。ホッパ車と一緒ですので、工事用の列車でしょうか。撮影は2003年1月です。
【訂正】 玉造駅は間違いで、玉造町駅が正しいので訂正いたします。
玉造町駅の待合室にあった、関東鉄道バスの路線図です。常陸小川からは多くの路線が出ていたことがわかります。
DLと言い、バス路線図と言い、よく気づいて撮っておられますね。その路線バスが多発している常陸小川駅前のバスです。方向幕を見ると行き先が、水戸駅になっています。なるほど石岡経由で常磐線で行くより、ずっと短絡しています。
ハイ、デジカメを使い始めた頃でしたので、フイルム代を気にせず撮りまくっておりました。こんなものも撮ってます。玉造町駅前にあったマンホールのふたです。描かれているのは霞ケ浦大橋と茨城空港の管制塔でしょうか。
こちらはキハ601の車内です。窓の配置にキハ07時代の面影が残っているようで、中央上部には空調機器が見えます。
この写真は2004年1月の撮影です。
鹿島鉄道はちょっと思い入れというか他とは異なる思い出があります。
訪問したのは2007年3月31日、廃止の日でした。卒業後、鉄道趣味からは距離を置き、わざわざ撮影のために出かけることはありませんでした。
2006年に仕事の内容が代わり、出張の回数が減ったため、少し出かけようかと思ったのがこの鹿島鉄道廃止のニュースでした。総本家青信号特派員様のように沿線でいろんなアングルで撮ったわけではなく、駅撮りと駅近くで2時間ほど撮っただけでしたが、久しぶりの鉄で火が付いたのか、これ以降撮影にも出かけるようになりました。その意味できっかけとなった思い出深いのが鹿島鉄道でした。
大津の86様
メモを見ますと借宿前-巴川、桃浦-小川高校下で撮っていました。どこかでニアミスしてましたね。
総本家青信号特派員様
「初めて鹿島鉄道へ (1)」では、鹿島参宮鉄道の創成期の出来事を投稿しましたので、今回は廃線までの経緯を地元マスコミの情報を基にコメントします。
(1)に記述されていましたが、廃線の直接の引き鉄は2001年の航空自衛隊百里基地への航空ジェット燃料による貨物輸送の終了でした。それまでの鹿島鉄道は、この貨物輸送の収入により何とか経営が成り立っていました。
この存続の危機に対処するため、茨城県と沿線自治体が中心になって鹿島鉄道対策協議会を発足させ、2002年9月に鹿島鉄道の経営改善5カ年計画を了承し、5年間の公的支援を正式決定しました。この時丁度、沿線自治体は茨城県の指導により平成の大合併の準備を進めており、玉里村と小川町は2006年3月に小美玉市に、玉造町は2005年9月に行方市に、鉾田町は2005年10月に鉾田市に昇格したため、必ずしも各市町村の足並みが揃っていたとは言えませんでした。
この計画に引導を渡すことになったのが、2005年のつくばエクスプレスの開業でした。それまで親会社の関東鉄道は常総線の沿線から東京方面への通勤通学客をJRと接続する「取手」まで一手に運んでいましたが、つくばエクスプレスと「守谷」で接続することになり、一人平均乗車キロが短くなり鉄道部門の運賃収入は大きく減少しました。それ以上に競合するJRバス関東と共同運行をしていた常磐高速バスつくば号(東京-つくばセンター・筑波大学)のドル箱路線が影響を受け、利用者が減少したことを理由に2007年度以降の親会社からの経営支援がなくなり、これが止めを刺すことになり2007年4月1日の廃線となりました。
その後、2010年3月11日に百里基地が官民共用することになり茨城空港として開港しました。仮定の話ですが「常陸小川-茨城空港」間は、直線距離で5キロ程度ですので、支線として延伸し新規の旅客輸送と燃料輸送の再開ができていればと思うことがあります。現在の「石岡駅-茨城空港」間の空港バスは、一部、鹿島鉄道の路線敷き跡の道路を走っています。
「桃浦-浜」間をキハ600形に乗車した時、スピードを出すとTR29台車による縦揺れが激しく、ロングシートに改造されていたため江若鉄道のC19形キハ19(後のC28SM形キハ5121)で「北小松-高島」間の走行を思い出したことがありました。
快速つくばね様
横から入り失礼します。大変勉強させていただきました。百里基地と茨城空港の関係も初めて知りました。常陸小川駅と茨城空港の近さも驚きです。以前実家が常総線の新守谷にあり都心からは取手経由でしたのでえらい時間がかかりました。東京駅ーつくばのバスも利用しましたが今は時間は早いが高い料金のつくばEXPESSです。博学の快速つくばねさんのことですからこの辺りは今や近江今津よりお詳しいのではないでしょうか。お礼忘れていましたが金子や車返しなどくだらん質問でした。
1970年4月9日に撮った八木蒔駅の時刻表をご紹介します。紫の1863様ご紹介の2003年時点と大きくは違わないようですが、下りは玉造町止めがあったようです。
八木蒔駅は切通しの中にあったように思いますが、たまたまDD902牽く貨物列車がやってきてあわてました。カーブしていて開けた場所がなく、何とか撮れたのがお尻のトフ3でした。国鉄のトフは見たこともなく、私鉄でも珍しいトフで、それも現役のトフを撮ったのはこれが最初で、最後でした。トフ3は昭和47(1972)年5月8日に廃車になっています。
総本家青信号特派員様
2007年の廃線から16年後の石岡駅の跡地がどうなっているか本日確認してきました。この写真の後方は、旧鉄道線にほぼ沿った形で運行されている路線バス「関鉄グリーンバス」(愛称:かしてつバス)の発着所となっています。
快速つくばね様
石岡駅の跡地まで行っていただいたのですか。ありがとうございました。代わりに、現役時代を貼りました。跨線橋から、車両がよく見えていました。こうしてみると、個性的な車両が、きれいに整備されていたものと思います。
なおも一人コメント続けます。廃止が噂されていた鹿島鉄道は、この訪問の翌年の2007年3月限りで廃止されてしまいます。この時に見た霞ケ浦の夕陽が忘れられず、もう一度見たいという思いに駆られて、廃止前の2007年1月に再訪問しました。アクセントの枯れ木とともに、霞ケ浦畔を行く鉾田行きをとらえました。
戻りの石岡行きが通過する頃には、ちょうど陽が没するところでした。湖の向こう、関東平野に沈む夕陽は、この土地ならではです。
総本家青信号特派員様
一人コメントにコメントいたします。
2004年10月30日の写真と同じクリーム地に緑の帯のKR-503です。雨の巴川駅に入線する下り鉾田行です。この車両は1992年に製造され、2007年の廃線後は他の3両と共にどこかの会社に譲渡されると思っていたのですが、貰い手がなかったのか僅か15年の使用でしたが旧石岡機関区で解体されてしまいました。
快速つくばね様
鹿島のKR-500形は、スマートないい感じの気動車でした。けったいなラッピングは一切なく、クリームに一両ごとに違う帯と、品のある塗装でした。ほかの車両も含めて、鹿島のDCは譲渡がなく、保存または解体されたのですね。ちょうど、非電化の私鉄の廃止が続いて、名乗りを上げる会社も無かったのでしょう。私の写真は、上掲の夕陽の頃、車両はありませんが、霞ケ浦に沈む夕陽です。
ご無沙汰しております。つくばね様の詳しい解説や、総本家様の素晴らしい夕景に恐れをなして、コメントを控えておりました。
桃浦~小川高校下のコノ場所は私も狙ったのですが、きれいな夕日には恵まれませんでした。どんよりと曇った夕暮れ近く、鉾田へ走るKR-505の赤いテールランプが印象的でした。