比較的優等列車の多い路線には500番台マン型が配属された。当時の大分運転所にその500番台が集中配属されていた。ここでもC55やC57が旅客列車や貨物列車を担当し、DF50は急行の「高千穂」、「日向」、「ぶんご」、「夕月」等に、また、ブルートレイン特急の「富士」、「みずほ」、「彗星」に使われた。
1962.10.20 修学旅行は関西汽船で別府に行き、1泊後高崎山に行った。お猿に土産物を盗られないようにしながらDF50の列車を撮った。西大分-東別府間を行く520列車南延岡発門司港行きで左手に駐車中の観光バスが見られるがこの付近を大分交通別大線(1972.4廃止)が走っていた。▼
1963.3.30 宮崎17時頃に到着する東京発35列車西鹿児島行き急行「高千穂」牽引のDF50556[大分]。左は事務用カバンにお土産を持つ当時のサラリーマンの姿である。メモにはこの方は1等車に、私は隼人までナハ1056に乗車とある。▼
1967.9.1 竜ヶ水は桜島が目の前に見える風光明媚な場所である。しかし、このような場所は時として危険な場所でもあり、以前列車転覆があったような記憶がある。日本最長の急行列車「高千穂」が最後の西鹿児島を目指す。33列車DF50562[大分]。▼
67.8.31 霧島神宮 DF50555[大分]牽引夜行521列車門司港発西鹿児島行きでマユニ78+オハネ12+35系が行く。上とこの写真は麻生釣と大畑の合宿の後に個人行動で撮影。▼
1973.4.10 雨の中、定番撮影地宮崎-南宮崎間大淀川を渡る急行「高千穂」のDF50。客車の20mに対し16mでは機関車が小さく見える。▼
1973.4.10 定番撮影地田野付近の特急下り「富士」牽引DF50562[大分] ▼
1973.4.8 同じく定番撮影地田野付近の特急「彗星」牽引のDF50534[大分]。日豊本線はDF50が最も華やかに活躍した路線である。 ▼
準特急様、
今回は大分のDF50、堪能させていただきました。
私は、日豊線全線電化1年前の高2の夏休みに1回だけ行きました。台風接近のため天候が今ひとつで、大した写真も残せないまま終わりました。
貼付した写真は、鉄道写真を撮影するのに初めて交通費以外の費用(磯庭園の入場料たしか300円也)を投じて撮影した・・・、にも関わらず残念に終わった写真です。(写真が残念すぎるので、磯庭園のパンフも下につけておきました)
近々、この付近に駅が新設されるようですので、奈良の駅名研究家さんあたりは、どんな駅名になるのか興味津々でいらっしゃるのではないでしょうか。
四方誠様
有難うございます。薩摩藩主島津氏の別邸ということですがこの辺りの日豊本線の景色も抜群ですね。これから他線の写真も順次紹介させていただきますがDF50最後の活躍地四国は土讃線で石灰石専用列車が重連運転されていたなど全く知りませんでした。ど素人ですが、茶系の旧塗装時代も多少ありますのでこれからも宜しくお願いします。
準特急様、
期待して、お待ち申し上げております。
準特急様
四方誠様
日豊本線の懐かしい列車名のうち夕月には忘れがたい思い出があります。『夕』のつく列車名には、「ゆうづる」、「ゆうなぎ」などがありました。
磯庭園(正式名:仙巌園(せんがんえん))は、桜島を借景とし、築山に見立てた庭園ですが、日豊本線電化時には、架線柱が景観を阻害すると問題になりました。この庭園から桜島の写真を撮ると必ず架線柱が入ってしまいます。新駅の設置については『JR「磯新駅」設置プロジェクト』が磯新駅(仮称)の駅名を募集しています。応募期間は2023年10月16日~11月30日のようですので、今からでも間に合います。
東京から「鹿児島」に到着した「高千穂」が終着駅「西鹿児島(現・鹿児島中央)」に向かって発車するところです。1968.3.28
快速つくばね様
いつもありがとうございます。鹿児島は最近行ったことがありませんが、この鹿児島駅出発の写真も貴重ですね。日本最長距離を走る急行「高千穂」の文字通り最終走行区間の発車シーンですね。西鹿児島はそのネーミングから特急、急行の始発・終着駅でこれしか記憶になかったですが、最近見かけないと思っていましたら鹿児島中央に名前を変えたのですね。お客によれば鹿児島駅が鹿児島の中央駅と思っている私のような人間もいるかもしれませんね。
私とDF50の縁は万博の年に父の仕事に伴う転勤で大分市に住んだ1970年4月から73年3月までの小学校5年から中1の学年末で、当時の大分駅周辺は新旧の鉄道車両が直流型を除いてありとあらゆるジャンルが路面電車まで見られて楽しい時代でした。
その中で一際気になる存在が箱形のおっとりしたディーゼル機関車DF50で、子供向きの図鑑で存在は知っていましたが茶色塗色の時代を過ぎてオレンジに金属の白帯を締めて上下2トーンの出立ちは、村夫子か田舎紳士でも光る血統の良さを感じて、特に夕方4時に西鹿児島から遠路大分まで駆け込んでくる8レ「富士」の雄姿と、その前に走っていたおそらく佐伯発の重連運用には見惚れておりました。
拙い時代の写真ですが冬の夕刻にED76にバトンタッチして機関区に下がるシーンの一部始終を線路脇で見ています。1973年1月頃
K.H.生様
思い出の写真有難うございます。阿蘇の親戚の家を出て準急「火の山」で大分に向った時に大分区に寄り道しましたが、いるわ、いるわ、C57109やD50129の門デフ、D60にC58、ハチロク等々楽しかったです。DF50は機関区のどこにいたのかわかりませんでしたが、別の場所に集結させていたのでしょうか。ただ、茶系のDF50が「高千穂」を牽いて来た時は格好よかったです。当時は非力ということを知りませんでしたが貴公子に見えました。
コメント返信ありがとうございます。
皮肉なことに日豊本線が最も輝いたのは1970年代で、大分幸崎電化に続いて74年に宮崎、79年に鹿児島全線電化で時計が止まりました。
今や寂れる一方の東九州は、鳥栖から日田湯布院経由の大分東九州新幹線構想や、宮崎は新知事が鹿児島新幹線延伸をぶちあげたり、戦国時代的発言だらけ。
実際九州の山陰本線状態です。
DF50が優美に「富士」「彗星」「高千穂」「日南」を牽いて毎日中央まで旅客を運んだ時代は、幻想になりました。
K.H.生様
今日12月5日、久しぶりに常磐線特急「ひたち3号」で仙台まで乗り通しました。657系は昔の準急並みに多くの駅に停車しましたが、いわき(昔の名前は平で出ています!)以北で原ノ町までは山陰線過疎区間と同じような状態ではないでしょうか。東北新幹線ができて在来線の東北本線と常磐線北部は震災があったこともあるでしょうが寂れた感じがしました。常磐線の北部は別線になったり駅舎が建て替えられたりして昔のイメージがありません。C62が特急「はつかり」、「ゆうづる」や急行の「北斗」、「十和田」、「みちのく」、「おいらせ」等長距離優等列車群を次々に牽っぱっていた路線の面影はありません。この様な状態は各地に見られますが、昔を知る長生きし過ぎている老人には寂しい限りです。
準特急さま
同感です。まあこれが時代の流れという事なのでしょうね。変化は仕方ないことと考えて、昔を懐かしみましょう。とはいっても「懐かしい」だけでは些か情けなく、後ろ向きの気持ちになりかねませんから、お互い写真や動画という「記録」を見ながら往時の楽しかったことを想い出して癒されましょう。そういう意味でも貴重なお写真とご解説をドシドシ発表して下さることを期待しております。
準特急様
昨日12月5日に常磐線特急「ひたち3号」に乗車されたとのことお疲れ様でした。常磐線は2011年3月11日に東日本大震災により全線が不通になり、一部区間では壊滅的な被害を受けました。その後、順次北に向かって復旧していきましたが、2次災害的な「福島第一原子力発電所事故」により大半が帰還困難区域および居住制限区域とされた「富岡-浪江」間については除染が進まず、私も列車代行バスで何度も通過しましたが、個人的な感想では生きている内の常磐線の全線復旧は不可能と思っていました。
ところが2016年3月10日、国土交通省より2020年3月までに運転を再開する見通しが発表され、2016年3月18日より順次除染・復旧工事に着手されました。これにより除染が不可能な旧木造駅舎は取り壊され、駅舎も災害発生時の避難場所にするため橋上駅舎となりました。
2020年3月14日に最後まで不通であった「富岡-浪江」間が復旧し、全線で運転が再開されました。この時、避難経路を確保するため、複線区間であった「大野-双葉」間は単線化されました。この日に仙台まで直通の特急列車の運転も再開されましたが、被災現地の復興の利便を図るためこの区間は各駅停車に近い形で運転されています。写真は再開当日の下り特急の一番列車となった土浦駅に停車中の「ひたち3号」です。
震災前と震災後の10年間に変わったことが3点あります。ひとつは列車名が「スーパーひたち」から「ひたち」になりました。2点目は走行区間が「上野-仙台」間であったのが、2015年の上野東京ラインの開業により「品川-仙台」間に延伸されました。3点目は使用する車両も651系からE657系に置き換えられ、同区間を走る普通列車も415系からE531系に変更されています。
心配なのは福島第一原発全原子炉の廃炉処理が進まないことです。現在の(中長期ロードマップ)では、30~40年かけて完了することになっているようですが、この間に大きな災害が発生しないことを願うばかりです。
快速つくばね様
これだけ詳細にご報告いただき有難うございます。快速つくばねさんの庭先をちょこっと荒らしたわけではないですが、品川から乗れば「ひたち号」の完乗はわかっていましたが、全車座席指定ですので指定券確保のため要領の分かっている東京にしました。主旨は九州のH.K.さんがこれまた詳細に日豊本線の変遷に触れられDF50牽引の名立たる優等列車がなくなった日豊本線が山陰本線化(西方の過疎区間と思われます)していると言われ、常磐線の北部もそうではないかと思い乗車してみました。実態は同じですね。日立あたりから車内はがら空きになりました。3.11大震災の3か月前には木戸-竜田間でED75を撮りに行ってますし、大阪市電の運転をされていた英語がペラペラの故Y先輩が通った富岡-夜ノ森間の大カーブ、若き日にC60~C62を追いかけた四ツ倉、大野、浜吉田などは密閉されたE657系では外の様子を感じ取ることはできませんでした。久ノ浜辺りで見た海だけは当たり前ですが昔のままでした。
急行「高千穂」、二流急行になったとはいえ「桜島」とともに九州急行最後のトリデを守っていました。
新幹線博多開業を前に、1975(昭和50)年2月21日急行「高千穂」の客となりました。この日は東京含めて全国的に降雪があった日です。
東京駅ホームにEF58166が雪をのせて暖房用の蒸気を吹き上げながら回送入線。隣のホームには横須賀線の113系が。
、、、降雪でダイヤが大きく乱れ、夜が明けてもまだ
広島県に入ったばかり。おかげで見られなかったであろう瀬野のEF59、上りの「はやぶさ」「みずほ」「しおじ(583系)」などとのすれ違いを雪晴れのなか、、デッキから周りを気にすることなく撮ることができたのも旧型客車ならでは。
日豊本線に入って、南日向で上り「富士(ED7668)」と、宮崎で上り「高千穂(DF50553)」と出会う。竜ヶ水から見る桜島も冠雪しており、列車は遅れに遅れて夕暮れの西鹿児島に到着。車中駅弁3食。
西鹿児島駅では、上り「あかつき」の発車風景などを見て駅前で文庫本を買い、20時すぎに出る大阪行急行「屋久島2号」のハザの客となり岡山へ。そして新幹線で東京へ、という弾丸旅行でした。
高田幸男様
これはこれはびっくりしました。あの日本最長距離走行の急行「高千穂」に完乗されたとはすごいと思いますが、さらに折り返し急行「屋久島2号」と新幹線乗り継ぎで東京に戻ってくるとは体力、気力があっても私には想像もつきません。体を元に戻すまで1週間くらいは会社を休んだことと思います。寒い時期に降雪があったということで思わぬ風景も見られたとのことで対向列車の記録など臨場感もあって有難うございます。高田さんとは何度も訪欧したことを思い出しますが、水上で雪化粧したEF58の夜行荷物列車も忘れられませんし、尾小屋、北陸鉄道、京福、松本電鉄、大糸線も雪の中でしたね。コメントをいただき有難うございました。