12月5日【16406】米手作市様の「びわこ号がもう一度見られる?」の記事から、大津の86様が翌日の【16426】「びわこ号の思い出」を投稿されたが、その中で「びわこ号」が石坂線で定期運用に就いていたことを初めて知り、地元の方の情報の重要性を再認識した次第である。
多分、「びわこ号」の石坂線運用の話題は鉄道雑誌に取り上げられたことは無かったと思うがどうであろうか。
61が昭和42年12月、62が昭和43年12月に廃車された後、63が常時錦織に停められていたことは石坂線の車窓から確認していたが、石坂線で定期運用に入っているとは夢にも思っていなかった。
昭和44年10月10日、鉄道友の会京都支部で「びわこ号」の乗車・撮影会が実施されることを、当時支部長をされていた大西顧問からお聞きした。詳しい時刻等もお教えいただいたので特派員さんはじめ何名かの方と撮影に出かけた。
最初に三条京阪で撮影後、多分走って東山三条に移動して撮影。「びわこ号」は一旦四宮車庫に入庫して撮影会が行われるため、電車で浜大津に先回りして到着を待った。四宮車庫での撮影会はパンタが上がったそうである。電車で錦織車庫に移動し、友の会が引き揚げた後まったり撮影した。当時は頼めば快く車庫内に入れてくれたよき時代であった。
その後、江若鉄道の線路際まで歩き、走行中の列車やDC251牽引の貨物列車を撮影後、滋賀駅から江若に乗り三井寺下で降りて車庫で撮影後帰宅した。昼飯を食べた記憶がないので、多分「飯より鉄道」であったのであろう。
大津の86様も書いておられるが、来年は京津線100周年の節目の年、可能であれば動かなくても構わないので、京阪特急色の「びわこ号」を四宮か錦織に里帰りさせて展示していただければと大いに盛り上がるのではないだろうか。我々の世代は「びわこ号」は京津線が似合うと思っている。
三条駅進入
東山三条通過
浜大津交差点手前
浜大津駅進入
京津線から石坂線への渡り線
錦織車庫
中間台車
浜大津を発車した三条行普通 (40-1-2)
浜大津交差点 (40-1-2)
東山三条 (41-2-12)
東山三条 (41-2-12)/隣に三条行の63が見える。
東山三条 (41-2-12)
関 三平さんのイラストは「運転席正面の窓がおかしいでっせ」等とツッコミは入れないこと。
この時代、正面の運転席窓が本線の1000形と同じ構造になっている。44年の写真では、通風口が設置されたものに取り替えられていることが判る。(全車取り換えられたのか、63だけかは不明)
藤本様
びわこ号特集ありがとうございます。びわこ号もさることながら、浜大津ターミナルの風景が大変参考になります。現在浜大津ターミナルの再現のため写真を集めているのですが、特に昭和40年1月2日の61号のうしろには江若バス乗り場などがしっかり写っていて大変助かります。もし浜大津のジオラマを作れば びわこ号も必須の車両なので作らざるをえないかと思っています。
クローバー会の皆様、昭和40年代、江若が廃止された頃の浜大津ターミナルの風景写真、京阪、江若の駅構内、駅舎内の写真があればご紹介ください。HOモデラーの皆様、びわこ号を含め大津線、石坂線の車両作りに是非挑戦してみてください。
藤本様
私の高校在学は昭和42年4月~45年3月で、3年間通して石坂線で通学していました。その間、何度かびわこ号に乗ったと思っていたのですが、びわこ号の石坂線での運用は記録がなかったとのこと、私の記憶違いかもしれません。ご迷惑おかけするといけないので一度調べてみることにします。
西村 雅幸様
浜大津交差点の写真はもう少しありますので、後日UPしたいと思います。比較的難しいと思われるのが当時のバスの写真と思います。江若に関しては、代行輸送用として大量に作られた車両以降はあるのですが、それ以前のものは現役で使用中のものがなく廃車体しかありません。(形式、登録番号は判ります)京阪バスは昭和38年製のツーマン車が、狭隘路線用に昭和50年頃まで残り、石山駅~上千町・岩間寺間で使用されておりました。
大津の86様
「びわこ号」の石坂線での定期運用の件ですが、多分存在していたと思います。人間の記憶は年月が経過するとあやふやになりがちですが、こと鉄道に関することは意外に正確に覚えているものです。「びわこ号」と間違う可能性があるとするならば色が同じ200形と思いますが、昭和43年中に姿を消しております。昭和43年8月撮影時は、後の30形より営業線に近い場所に停められており、趣味誌で取り上げられたことがないのは、走っていた時間帯が朝のラッシュ時にのみで、地元の人以外知らなかったということではないかと思います。
また、撮影された時点では運転席の窓枠は昭和41年時点のままであり、44年までの間に取り換えたことが判ります。
44年10月の写真は、万国博のステッカーがしっかり貼られており、車内広告もあるため、頻度はともかく営業運転をしていたことが判ります。
鉄道友の会では45年7月30日にお別れ乗車会をしていますが、私は行っていません。この年の10月に正式に廃車になり、63の中間台車以外は、本線700系に流用されたことはご承知の通りです。
藤本様
コメントありがとうございます。バスについては1/80サイズの模型を それも曲線の多い車体をはじめ下回りをとても作れませんので 仮に浜大津ジオラマを作ったとしても写真展示で当時を偲んでもらうことになるでしょう。それを言えば 駅前に停まっているコロナやダットサンのタクシーも同様です。駅周辺の写真 是非アップしてください。楽しみにしています。
びわこ号ですが 記憶があやふやなのですが一度浜大津から三条まで「特急」と称したノンストップのびわこに乗ったように思います。臨時だったのか イベントだったのかよく覚えていませんが、確かに「特急」だったように思います。何かご存じでしょうか?それとも私の思い違い?
藤本様
「びわこ号」の石坂線での定期運用の件、いろいろ調べましたがよくわからず、思い余って京阪電車お客様センターに問い合わせたところ下記の回答が帰ってきました。--以下引用--
さて、弊社ホームページにお寄せいただきましたお問合せにつきまして回答申し上げます。
残念ながら弊社では、正式な記録等が残っておらず、びわこ号が定期的に石坂線を運用されていたかどうかは判りかねます。但し、大津鉄道部が退職者に問い合わせ、得た情報といたしまして、昭和42年から昭和43年に掛けて約1年弱の間、石山坂本線において定期列車の営業運転に運用されていたとのことです。ちなみにそれ以前は、年に数回、貸切団体列車として石山寺駅から枚方公園駅まで直通運転していた情報を得ておりますので、何かの参考になれば幸いです。
昭和42年から1年弱とあるので、高校入学当初のことだったようです。私の記憶違いでなかったことに一安心しましたが、それ以上に、忙しい中このような質問に対していろんなところを調べていただいた、京阪電鉄の親切な対応に感激しています。
大津の86様
会社に問い合わせまでしていただき有難うございます。おかげ様で石坂線での定期運用の確認が取れました。恐らく朝のラッシュ時の近江神宮前→石山寺→坂本→石山寺→近江神宮前の限定運用(あくまで予想です)辺りに入っていたものと思われます。しかし、知らないと言うことは恐ろしいものですね。当時から江若鉄道には結構頻繁に通っておりましたので、もし知っておれば、多分朝早めに出て近江神宮前~南滋賀~滋賀里辺りで撮影していたと思います。
40年以上前の話題をOBの方に確認までしていただいてご回答いただきました京阪電鉄様に厚く御礼申し上げます。
西村 雅幸様
「びわこ号」の京津線特急の件ですが、夏の水泳シーズンの休日に運転されていました。私が実見したのは三条行のみで浜大津行もあったかどうかは定かではありません。
夕方、江若鉄道の5両編成位の列車が満員で到着すると、乗客の多くが京津線に乗り換えます。当然京津線の急行は超満員で積み残しが発生する事態となるため、三条までノンストップの臨時特急を増発しておりました。昭和30年台後半ともなりますと、260形より小さい「びわこ号」は第2線級の存在となったため、臨時特急の運用に起用されたと思われます。
私は石坂線の電車に気を取られて「臨時特急」を撮り損ねていますが、西村さんは80形2連の写真を撮られていませんか。ネガが見つかれば投稿をお願いします。
藤本様
特急の件 私の記憶どおりだったのですね。確かに満員だった記憶があります。当時は
数台の扇風機と窓から入る風だけで 暑かったことも思い出します。
ところで80形の2連の写真はさがして見ますが、多分無いような気がします。2連とは
貫通化されたあとのことですか?非貫通2連?
水泳特急ですが、記憶によれば同中3年(1953年)夏休みから走ったのではないかと思います。石坂線専用であった元北大阪-新京阪-愛宕-京阪石坂線と渡り歩かされた1型3両が四宮配属になり、京津線で朝の臨時急行に駆り出される事になった。それが夏休みには白地に赤で輪郭線と急の斜文字行先板で走ったのを見たことを思い出した。朝の臨時急行は201~206が2回に分れ四宮に配属されたことで中止になったが、水泳特急は1956年まで1型であったように思う。1957年に260形投入により水泳特急は30型の出番となり1型は錦織に帰り、3号が救援車となった以外は休車となった。おぼろげな記憶によるものに付き、スカタンはごめん!
両運80型の重連「水泳特急」の写真は澤村さんがアルバムに残していた。総本家特派員が秘蔵している筈。一度ピクで公開した筈である。
乙訓の長老様
京津線特急の水泳特急の件、有難うございます。昭和28年から運転されていたとのことで、歴史は相当古いのに写真や情報は少ないですね。
昭和40年代に260形と80形の2連で実見しておきながら撮影していないのは、多分江若鉄道を優先していたのと、「260か80やし、まあええか」等と勝手に解釈したからでしょう。本当に惜しいことをしたと思います。
80の特急の撮影者は澤村さんでしたか。BOXのハレハレアルバムで見ております。特派員さんが保管されておられるとのことで安心しました。確かにピクの京阪特集に掲載されていましたので再度確認したいと思います。