「きたぐに」 -2-
▲12系化された「きたぐに」。ただし後部のハネ・ロネは10系のままだった(山科/昭和55年9月)
▲米原区のEF58が牽く、14系化された「きたぐに」、よく整備された大窓機だった(神足~山崎/昭和58年11月)
大阪~青森間の客車急行となった「きたぐに」には、一度だけ全区間乗ったことがある。昭和47年2月のことだが、当時は途中下車して撮りたいところがヤマほどあって、全区間を乗り通すようなことはしなかった。その時は、途中下車は帰途にすることにして、一気に北海道まで行ってしまう算段をして、大阪22時13分発の「きたぐに」に乗り込んだ。5号車ナハ102012だった。大阪・京都でほぼ10割となったが、糸魚川、直江津、新潟で大量の下車があって、以降はガラガラだった。後年の新潟以北の廃止も納得できたものだった。同じボックスに座った一人旅の男も北海道行きで、話が弾んだことを覚えている。青森着は17時38分だった。
昭和47年10月、日本海縦貫線の全線の電化が完成し、牽引機はすべてELになった。その直後の11月6日、深夜の「きたぐに」に悲劇が起こる。北陸トンネルでのオシ17の火災だ。焼死者30人が出る惨事となった。会社の同僚で、敦賀出身のものがおり、たまたま当日は帰省していて、事故直後の様子を敦賀駅で目撃していた。会社で会うと、息せき切って生々しい様子を話してくれた。原因となったオシ17はその日から欠車となった。そして、昭和48年10月には、ハザは旧型客車から12系客車になった。
昭和57年11月の改正で、運転区間は大阪~新潟間に短縮された。編成も座席車・寝台車ともオール14系客車化された。
翌昭和58年4月には牽引機関車の運用が変更され、米原~田村間交直接続のDE10に代わってEF81〔富二〕が米原~新潟の牽引に就く。さらに翌昭和59年2月からは、大阪~米原間はEF58〔米〕に代わり、EF65〔宮〕がその任に就くものの、客車の時代は長くは続かなかった。
▲安土駅を通過する「きたぐに」。湖西線開業後も「きたぐに」だけは米原経由だった(昭和58年9月)
▲EF65PFに代わってからは時折ヘッドマークが掲げられた。これは正月の「頌春」(神足~山崎、昭和60年1月)
▲客車最終日となった大阪駅、「北国」のヘッドマークを付けたEF65PF(昭和60年3月10日)
時代の波とはいえ、寂しくなりますね。 数々の写真を拝見し、思い出に耽っています。
子供の頃は、優等列車といえば昼行は「立山」夜行は「日本海」そして週末臨時準急「ゆのくに」・・・後は鈍行ばかり。(D51,C57の天下だったなー) 今庄で補機に押されスイッチバックで窓の上げ下ろしをしながら、鼻の穴を真っ黒にしながら敦賀を超えたこと、初めての特急「白鳥」が青森行きと上野行きを繋げ、12両で走り去るのをワクワクしながら眺めたこと、北陸トンネルが開通、金沢発大阪行きビジネス急行「越前」(気動車)が誕生し、福井から大阪まで3時間ということに感激したこと等々・・・
思い出を有り難うございます。
向日町の車両基地がほんとに寂しくなりましたね。(おもろーない!)
マルーンさま
コメント、ありがとうございました。マルーンさまが幼少の頃と比べると、北陸本線は、劇的に進化しましたね。在来線のみで、これほど変貌を遂げた線も、ほかでは無いように思います。
お書きの「越前」、ありましたね。それまでの関西~北陸の急行・準急はすべて客車でしたが、初の気動車急行として誕生しました。金沢・福井からは関西へ日帰り可能なダイヤで、人気があったようです。面白いのは、金沢発なのに、「越前」を名乗っていること。列車設定は、石川・福井両県の利用債によったため、始発を金沢とする代わりに、愛称は福井県の旧国名になったと言われています。また、福井での着席サービスのため、6両編成のうち2両は金沢~福井間を回送扱いで、福井から客扱いをしたということです。
特派員様
急行「越前」はそうだったんですね。
北陸線のダイヤは金沢中心(今も勿論ですが)、せめて名前だけでも花を持たそうとしての事かと思っていましたが。ご教示有り難うございました。
急行「越前」は、その後福井発上野行きの夜行急行になりましたね。福井発の唯一の優等列車だったように記憶していますが。
昔の記憶が薄れていきますが、その時分の在来線は面白かったですね。