第9日目 5月9日
今日も集安にて北朝鮮からの国際列車撮影です。昨日の時間で来るのか教えてもらえないとは分かっていてもまず集安駅へと向かいました。
▲ 8:20、集安駅に到着。1日1往復しか走っていない駅だけあって、列車が発着しない時間帯は閑散としています。しかし駅前広場の池の前ではおばさんおじさんたちが一緒に朝の体操をしておられました。人けがあるのは、ここだけですね。
まずは駅構内を見てみますと、混合列車が止まっています。写真を撮りたかったのですが、監視員にマークされてカメラを出すことさえできませんでした。
しかし、この列車は何時に到着したのでしょうか? 昨日とは運用が違っています。
駅舎内に入ると切符売り場は営業中でしたので王さんに通訳してもらって、この列車はいつ出発するのか聞いてもらいました。10時過ぎとの返事ですが、本当なのかどうかの確認手段はありません。
イミグレは前に車は止まっていますが、動きはありませんので、すぐの発車はないようです。
▲ 集安駅駅舎に掲げてあった駅名の紹介です。
日本侵略後の満州国建国後に安東省輯安と名づけられたとありますが、1939年9月1日に開業したことは触れられていません。
集安と改名されたのは1965年3月で、周恩来総理の指示があったようです。
▲ 1日1列車だけなのに広い待合室です。日本では考えられませんね。
待つことは苦になりませんので国境の橋まで行くことにしました。
▲ 途中に朝市がありました。お買い物をする住民で賑わっていましたので車を止めて見学会です。
山菜、新鮮野菜は勿論、今が旬のイチゴ、肉、卵等々の食料品、農業器具、衣類やガチョウやアヒルの雛鳥、何でも揃っています。ちなみに雛鳥1羽は15元(約250円)でした。
▲ 国境橋までの途中で踏切がありました。踏切番のおばちゃまが外におられましたので、列車の通過時刻を聞いてみましたら、上記の表のとおりの返答をいただけました。ご覧のように日曜日の運行はないようですが、客車と混合列車が隔日に運行されているようです。
昨日、集安駅で掲示してあった構内横断踏切の通行禁止時間ともおおよそですが、つじつまが合います。
通過時間はその日によって変更されるでしょうが、目安として見て良いでしょう。
9:30、鴨綠江に架かる国境の橋に着きました。そよ風が気持ちの良い小春日和です。ゆっくりと待つことにしました。
▲ 10:10、タイフォンが聞こえ、混合列車がやってきました。集安駅ではよく見えませんでしたが、貨車5両と客車1両の編成です。
DLは昨日同様の105号機、客車も同じ4516号車でした。満浦~集安の専用なのかもしれませんね。
無蓋車には幌がすっぽりとかけてありましたので中身は何か分かりません。中国から北朝鮮に送られる支援物資なのでしょうが、食料品だとしましても飢餓で苦しむ朝鮮人民対応であれば、それほどの量とは思えません。
首都平壌までは、約350キロ。満浦からは急行列車が発着していると言われています。
限られた人への物資程度と思われますね。
▲ 上の写真は、貨車が1両ダブっていますが、この日の混合列車の車両です。客車はご覧のように昨日同様に数人の乗客?しか見えませんでした。
今日もゆっくりと国境の橋を渡り、閉ざされた国へと去って行きました。
この集安鴨綠江国境鉄道大橋ですが、橋の中央まで歩いて行けるように解放されているそうです。行ってみましたが北朝鮮の緊張状態のために外国人の見学は現在不能と掲示されていました。左の写真は、蒸機時代の国境の橋です。
中国のパンフレットから拝借しました。
▲ 丁度、集安から通化行きの6348次の走行写真が撮れる時間です。小竹先生の案内でよさげなポイントを探しました。結果、昭和14(1939)年9月1日に満鉄によって建設された集安近くの山間に架かる鉄橋が良いかなと列車を待ちました。
11:52.DLに牽引された6両編成が通って行きました。
▲ 12:15、今日はもう列車は来ません。集安市内に戻って冷麺で昼食です。朝鮮族が多いとあって本格的です。
集安はかつての高句麗(紀元前37年~668年)の首都で遺跡が残っています。食後は、折角来たので世界遺産を見てみることにしました。4ケ所を見学できるセットの入場券は100元(約1670円)でした。
最初に訪れたのは、集安高句麗遺跡の代表的な前期積石型古墳遺跡、将軍墳です。底辺31.58mの正方形に1100以上もの花崗岩が7段に積み重ねられたピラミッドの高さは13.10mです。
左はその側室の古墳です。
▲ これも有名な好太王碑です。高さ6.39m、約37㌧もある石碑ですが発見されるまで何度も野焼きの影響を受けて保存状態は最悪でした。現在判別できる刻まれた文字は約90%で、ガラスで囲われた中での撮影は不許可でした。
▲ 太王陵です。底辺66m四方の正方形の方壇階梯石室墓ですが、かなり崩れています。石室が見学できたようですが、入口が分かりませんでした。
▲ 最も感銘を受けた禹山貴族墓地です。ここでは石室内に入れて、百虎・青龍・朱雀・玄武の四神を描いた壁画を見ることができました。日本の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画などとの関連性が指摘されている日本史との関連が深い遺跡です。
見学者は一度に入れる定員が決まっていて、その都度に出入り口のドアが閉められているのですが、内部は湿気が充満していて壁画はカビで劣化していました。残念ですがこれでは我々の世代で貴重な遺産は消えていくでしょうね。
▲ 最後に訪れたのは山の中の丸都山城でしたが、約7キロもの城壁は崩れて修復中です。写真は撮らせてもらえませんでした。上の写真は住居跡です。
2004年7月にユネスコ世界遺産に登録されてから来年は約10年を迎えようとしています高句麗遺産ですが、保存復旧がまだまだ進んでいなくこれからのようです。約4,000年の歴史を持つ中国です。こういった歴史にはあまり興味がない私ですが、世界中の人々にとっても貴重な遺産の数々です。大事にしていただきたいと思わずにはおられませんでした。
夕食は先生も大好きな羊肉しゃぶしゃぶを堪能してこれからに備えました。明日は通訳を務めてくださった王さんと別れて7時半のバスで丹東へと向かいます。今日も早目の就寝となりました。 Part 9 へ続く
いよいよ最も関心ある将軍様のお膝元入りが次回から展開されるのですね。先に韓国の山岳地帯のリフレッシュされた姿の紹介があり、将軍様ご一統は国土開発をどのように考えているのか、その比較が可能なのです。その入り口では笑顔がこぼれている姿がアップされました。どのような変化が見られるのか、胸はわくわくしております。高校時代、眉毛半分の老人の容貌を金さん一家だとあだ名つけられた事を思い出します。それだけに関心をもっております。
乙訓の老人さま、コメントをいただきまして、ありがとうございます。
将軍様の国を撮っていくのは、ワクワクドキドキです。特に昨今の緊張状態では中国当局も神経をピリピリとさせていますので、常にマークされない事に気を付けての行動を強いられました。小竹先生も慣れは禁物とその都度注意のアドバイスを送っていただきました。
これからもワクワクドキドキが続きます。ご期待に応えられますように紀行記を続けさせていただきます。