どうも、信貴電の呪縛から逃れることが出来ない。信貴電に関することを調べていく中で過去に秋田で走っていた電車がなにやら関係があるかもしれないのではと感じたのであるが詳しいことがわからない。もやもやとしていたのであるが、ふとしたことから秋田県立博物館で「あきた大鉄道展」を知り、8月25日までは小特集として「機関車・電車のものがたり」で秋田の電車についても展示があるという。ということで、なにか手がかりがないかと秋田へ向かったのである。秋田行きからまもなく2ヶ月になるので秋田弾丸ツアーの一部始終を述べてみよう。
秋田へ行くには特急日本海があれば大阪駅発17時47分で秋田駅には翌日5時32分に着く。しかし、もはやお盆の時期でも不定期で走らなくなったようだ。飛行機以外は新幹線を乗り継ぐか日本海側を特急3列車乗り継ぎでいけるのであるが、どちらも秋田で用を済まして帰ってくるには秋田で2泊しなければならない。しかも旅行代金として高くつく。そして夜行ではないので効率が悪い。残る手段は船便とバス便である。
8月19日、敦賀10時出港の新日本海フェリーの新潟、秋田寄港の苫小牧行「あざれあ」に乗船して秋田へ向かったのである。秋田に到着するのは翌日5時50分の予定である。船旅では時間がタップリあるので、これをうまく利用するに越したことがない。私は日頃ゆっくりと本が読めないので、本を読むことにしている。沿岸を航海しているときは風景を眺めたり、船内をブラブラしたり、本を読んだりと好きなことをしているとすぐに時間がたつ。考えてみればたいへん贅沢な旅であるが、ツーリストJ船室(このクラスは従来の2等船室である。)であれば運賃は秋田まで6800円である。こんなに安い料金で贅沢な気分を味わえるのはすこぶるよろしい。
新潟を23時30分に出港、乗船客は深い眠りにつく。ところが、夜中に「ドン~」という船室に響き渡る大きな音があり、びっくりして起きると同室の他の人も起きていた。窓側の人がカーテンを開けると稲妻が見えた。あの大きな音は雷によるものであった。そして、再び眠りにつく。秋田入港は予定より少し早く、5時30分ごろであった。秋田駅へ行くバスに乗るのだが、時間があるのでフェリーターミナルで簡単な朝食を食べる。バスは路線バスであるので、秋田の市街をぐるぐる回って秋田駅へと行く。駅に近づくと車窓からの風景に何か懐かしさを感じる。以前に特急日本海に乗るまで時間があったので夜の街をぶらぶらとしたからである。一度行ったところは結構覚えていて、再び訪れると「あ~帰ってきたな。」という気持ちになるのは不思議なものである。
秋田県立博物館の開館時間が9時30分なので最寄り駅の追分駅へ行く列車の発車時間まで待ち時間があるので船中で読んでいた本の続きを読んでいると上野からの寝台特急「あけぼの」が未明の豪雨で遅れているらしくうまくいけば「リゾートしらかみ」とツーショットが撮れそうなので、本を読み終えてからホームに行ってみる。男鹿線の気動車などの写真を撮りながら撮影するポジションを探る。「あけぼの」の到着と発車時間がわからないのでヤキモキしたが男鹿線の列車も含めてスリーショットの写真となった。
その後、特急「津軽」や快速「リゾートしらかみ」の発車を撮って、男鹿線の列車に乗る。
さて、いよいよ目的の博物館であるがの最寄り駅から20分ほど歩かなければならない。博物館のHPを見ると写真入りで、車で行く場合や徒歩の場合など詳しく案内されているので迷うことはない。
ところでこの博物館は県立小泉潟公園のなかにあり、分館として旧奈良家住宅がある。今回は時間がなかったので行かなかったが、再び秋田を訪れる時はぜひ見学しようと思う。ちょっと話はそれるが、家に帰ってから司馬遼太郎の「街道をゆく 秋田県散歩」を読みかえしてみると旧奈良家住宅のことが書かれてあった。「奈良家」というのが妙に引っかかっていたのであったが、読んでみると初代は奈良県の大和郡山近くの小泉から秋田に移住して開拓したと書かれてあった。そして、その地名を小泉と名付けたとある。実際に秋田市金足小泉という地名がある。そして、この「旧奈良家住宅」のあるところは「県立小泉潟公園」である。ということで、じっくりと読んで再び秋田を訪れようと考えている。由利高原鉄道や秋田内陸縦貫鉄道と魅力のある鉄道もあるし。
静かな環境の中にこの博物館はある。ここの博物館は常設展については無料であるが、今回のような特別展は有料で500円であった。入場券は写真でご覧のように硬券で入場する時にパンチを入れてくれる。そして、名刺サイズの鉄道写真カードを1枚選んで、これも入場記念としていただいた。
展示室に入るとまず、最初に壁一面に行き先方向幕が展示されている。ほとんどが秋田周辺の列車行き先方向幕であるが、九州や関西地区の行き先も見られる。また、秋田を走った列車のヘッドマークや由利高原鉄道で使用していたタブレット閉塞機、横荘線の写真や運行表などがあり、さながら秋田県鉄道博物館という感じであった。
子どもたちは由利高原鉄道おばこ号(YR-1500)の運転シミュレーターがお気に入りであった。これはYR-1503の顔の部分をカットしたものであることが後でわかった。ところでこの車両がはいていた偏心台車は良く考えたものである。
そして、目的である秋田の電車(秋田市電のこと)の展示を見る。展示は写真ようなものであった。そのなかで「さよなら市営電車」と題した映像展示がかつての秋田市電の姿がよくわかる。そして写真にもあるように映像のモニターがあのソニートリニトロンカラーテレビであった。現役で映像を写していることに感激した。1ガン-3ビーム電子銃の円筒ブラウン管(アパーチャーグリル方式)という技術のソニーを代表するものである。よくぞ残っていたものである。ところでなぜ秋田市電なのか。それは次のような勝手な妄想をしている為である。
いま、一番気になるのが村田式台車の単台車が存在していたかである。信貴電のデハ100形の製造会社である日本電機車輌株式会社で検索していと、秋田市電100形という電車にたどり着いた。この電車は秋田馬車鉄道から秋田電気軌道になって動力が電気となった時に導入されたものである。時は大正10年である。そして、吉川文夫氏が鉄道ファン189号(1977年)に書かれた「回想・秋田市電」のなかで吉川氏は大正10年にこの電車を作ったメーカーは日本電機車輌ではないかと、述べられている。そして、信貴電デハ100形と同じ運命をたどっているのである。この電車について妄想をめぐらしてみるとどうもあやしい。ひょっとしたら、村田式単台車をはいていたのではないかというとんでもないことを推理したのである。しかし、推理をするにしても状況証拠不足である。ふとしたことから、秋田県立博物館で「あきた大鉄道展」を知り、8月25日までは小特集として「機関車・電車のものがたり」で秋田市電についても展示があるという。ということで、なにか手がかりがないかと秋田へ向かったのである。これが秋田行の真相である。
展示ではそんな手がかりになるようなものがなかったが、会場におられた鉄道ボランティアの人に事情を言って、秋田市電開業当初の100形についてご存知の方がおられるか尋ねてみた。この件に関して他の人にも聞いてもらうようにお願いして、もし何かわかれば連絡してもらうことにした。このボランティアさんからお聞きしたのであるが、今回の鉄道展は鉄道会社が全面的な協力があったので、規模の大きな鉄道展となったということをお聞きした。この鉄道展(前期)終了時には来場者数が2万人を超え、地方の鉄道展としては大盛況であったと新聞紙上で伝えられていた。やはり、一般的な鉄道展でなく「地元」の鉄道を取り上げていることが成功したのだろう。
展示を見て特に注目したのは横荘鉄道と仁別森林鉄道である。横荘鉄道は羽後本荘と横手間を結ぶ鉄道で現在の由利高原鉄道がその西側の路線、すでに廃線になった羽後交通横荘線が東側の路線のことだとわかった。まったく、知らなかった。あとで調べてみると羽後本荘からの路線は国有化され、矢島線となり、現在は由利高原鉄道となって残った。なぜ国有化されたというと本荘から矢島を通って院内への鉄道計画があり、その一部として買収された。結局、院内まで延長されなかった。横荘鉄道は東側と西側では違った運命をたどったのである。この事は帰ってから調べてみてわかったことであるが、旅というのはこのようなきっかけを作ってくれる。それでは何で西側が残ったのだろうか
もうひとつの知らなかったこと、それは秋田駅のすぐ近くに森林鉄道の大きな貯木場があったことである。森林鉄道の貯木場が県庁所在地の中心駅にあったのは他に例があるのだろうか。森林鉄道の展示のところに日本森林林業振興会秋田支部に似別森林鉄道のジオラマがあるらしい。時間がありそうなので行ってみようと思う。
博物館を出て、追分駅に行く。ここで新潟行きの切符を購入し、男鹿線の列車で秋田へ向かう。とにかく、蒸し暑くて汗をかいていて、気持ちが悪いので案内所で風呂のあるところを教えてもらった。地図で見てみると森林鉄道のジオラマがあるところに近い。風呂に入ってから覗いてみようと思う。
風呂といっても「スーパー健康ランド華のゆ」で天然温泉であった。風呂に入ってさっぱりして、森林鉄道のジオラマがあるところに行ってみる。中に入ると内装に木が使われていて雰囲気がなかなかいい。
ジオラマのほかに仁別森林鉄道の写真などが展示してあった。だれもいていないので二階に事務所があるので見学と写真を撮りたいとお願いをすると、一人の方が下りて来て説明などをして下さった。展示を見ていると仁別森林博物館というところには車両が保存されている。そこに保存されているボギー式の機関車の写真と模型が展示されていた。新潟へ行く「いなほ」の時間が近づいたので事務所に礼を言って駅へと向かう。
駅でおみやげに「スギッチサブレ」というお菓子を買い、列車に乗るためにホームに行くとアナウンスで新潟行「いなほ14号」になる折り返しの列車が新潟方面での大雨で遅れて到着すると言っている。ヤキモキをしていると45分遅れで到着した。新潟からの大阪行夜行バス「おけさ号」は22時5分発で、「いなほ14号」の新潟到着時間は20時9分であるから接続には問題ないと思うが、とにかく気象状況は不安定でどのようなことが起こるかわからないのである。16時34分発「いなほ14号」は32分遅れで秋田駅を発車した。しかし、まだ不安である。そして秋田を発車してからしばらく日本海沿いに走っていると海側の窓から怪しげな雲が見えた。このような不思議な形をした雲はついに海面までつながったものを見た。写真を撮ろうとしたが残念ながらチャンスを逃してしまった。気象の状況が急変したら。そのような不安が募る。しかし、何とか「いなほ14号」は新潟に予定より40分遅れの20時50分頃に到着した。
さて、新潟から大阪へ帰るのであるが列車の利用がかなり不便になった。昼間しかなく、しかも北越とサンダーバードの乗り継ぎとなる。急行「きたぐに」もないのであとは夜行バス「おけさ号」だけとなった。新潟交通と阪急バスが運行していて各1台運行していて、金曜日の夜に出発する便はほとんど満席となる。運賃が安いので若い人が多く乗車する。今回は夏休み中であったので満席であった。バスは定時に出発する。途中「三条燕」から女性3名が乗車する。大阪までに京都駅にも停車するので京都観光にも都合がよい。数名の乗客が降りた。そして、千里中央にもよって終着大阪となる。大阪は阪急梅田三番街の北側にあるバスターミナルである。到着するバスや発車するバス、そして降車客、乗車客で混雑している。その多くは若い人であった。いまはネットで席の予約ができるのでスマホなどを使って簡単に予約しているようだ。そして運賃が安いので利用する人が多いのであろう。そんなことを思いながらガード下の新梅田食堂街で朝食をとり、帰宅したのであった。
残念ながら、まぼろしの電車は「まぼろし」のままであった。今回の旅もハラハラドキドキすることがあった。しかし、本来の目的は達成されなかったが、新たな発見があった。今度はどこを探検してみようか。そうだ!羽後本荘へ行ってみよう。そして矢島へも足を伸ばしてみよう。なにか、ありそうだ。
幻を求めての大旅行、老人には考えもつかない船旅、ご苦労様でした。老人も1959年9月に秋田へ京都市電N電を求めて訪れた事があります。解体された後で、大工町車庫には何もありませんでした。車庫でその時に聞いた話では移転直後で、旧車庫跡に行けばなにか残っているものがあるかもと言われましたが、現況の話を聞いて辞去しました。100型の事が知りたかったのですが、新車庫に古い資料が未だ引き継がれていないから分からない、と言われ2度目のため息となりました。この車庫を訪れる前に、大工町停留所前を7:40に発車した6両続行の車号は次のとおりです。201、34、31、32、23、25で、先ず2両が土崎から始発、途中で1両が加わり、大工町から3両加え、市内をゴロゴロと秋田駅前に向けて走り出したのを見ました。これは撮っておりますが、どなたかに進呈しましたので、追ってプリント出来ましたら、披露したいと思います。
乙訓の長老様 コメントありがとうございます。京都市電N電が秋田で走っていたとは知りませんでした。今回の鉄道展で鉄道友の会秋田支部が「秋田市電営業廃止記念」の物が展示されていてダブルルーフ単車の電車の絵があったのが少し不思議に思っていましたが、乙訓の長老様が書かれたコメントで納得しました。100形についてはこの投稿がきっかけとなって新発見があればと思います。「車台動揺防止装置」がアメリカで特許を取得していたこともわかったのですから、そのうち何かわかると思います。それを楽しみにしています。さて船旅ですが、大阪から北海道、東北や四国、九州方面へはフェリー航路があるのでその気になれば十分に利用できます。大阪から徳島まで行けば東京にもフェリーで行くことができます。一度、利用するとはまってしまいます。豪華列車「七つ星」には風呂がありませんが、フェリーには無料の展望大浴場があります。フェリーターミナルから最寄駅までの接続も便利になっています。ぜひ、ご利用をおすすめします。