丹那トンネル熱海口で東海道線・伊東線を撮る (2)
「丹那トンネル」の名の響きは、それだけで少年時代に引き戻してくれる気がする。少年時代、鉄道図鑑でいつも見ていた鉄道トンネルの長さは、1位清水トンネル、2位丹那トンネルだった。そして、必ず添えられるのが、多くの犠牲者を出した丹那トンネルの難工事だった。「長さ7804m、大正7年に着工したものの、軟弱な地質や、大量の湧水によって工事は難航、67名の犠牲者も出して、昭和9年にようやく完成した」と書かれている。時代が過ぎると、まず北陸トンネルが開通して順位をひとつ下げ、そして新幹線が開業するや、次つぎ長大トンネルが開通して、順位を落とし、今ではいったい何位なのか分からないほどに陥落してしまった。そんな丹那トンネルの変転を感じながら、いつも熱海を通るたびに気になっていた場所へ50年ぶりに訪れた。▲50年前は、翌日も早起きして、丹那トンネルの真ん前で写した。丹那トンネルを出る宇野発東京行き急行「さぬき」、坑門の上部、扁額の両側には、2578、2594と数字が書かれている。これは、着工年と開通年を皇紀で示したもの。扁額とは別に、「丹那隧道」と書かれた木製の表示も、当時は掲げられていた。
▲丹那トンネルに突入する東京発名古屋行き321M、クハ86014〔静シス〕ほか10連、東海道線東京口の普通列車は113系が固めていたが、当時、名古屋行きなどの長距離の普通電車は、静岡区の湘南型が顔を見せ、3枚窓の初期型もまだ見られた。▲そして、熱海の朝は華やかな時間帯となる。上りのブルトレが次つぎと丹那トンネルを飛び出して来るのだ。以前デジ青に投稿したものだが、「あさかぜ」を再掲載した。ミソは牽引がEF65ではなく、まだEF60のところで、その座はわずかの期間だった。左はその後部、客車なのにパンタがある。ホントにカッコ良かったなぁ。
▲西熱海ホテルから見た丹那トンネル熱海口、新幹線、東海道線、伊東線が並行する。右下の広場に来宮駅の駅舎も見える。ちょうど上り特急「富士」が通過中。▲そして50年後、とにかく暑くて汗が吹き出る。限られた時間のなか、熱海駅から必死になって坂道を歩いて丹那トンネルの真上に着いた。一度、熱海口の坑門の裏側の様子を見たいと思っていた。昔なら難なく下に降りられたが、いまは厳重な防護柵があって、これ以上は近づず、50年前との対比はできないが、ちょうど上掲の湘南型を撮ったあたりが画面の中央に当たる。反対側に回っても、左写真のようにトンネルの坑門は草木越しに見えるだけで、ツタ状の植物に覆われしまった。▲丹那トンネルの熱海口坑門の裏側に工事殉職者の慰霊碑が建っている。山の上の建物がもとの西熱海ホテル。山側には犠牲者の英霊を祭神として祀った丹那神社も建てられており、慰霊碑も含めて神社の領域になっている。当初は隧道神社と呼ばれたそうだ。この場所には、かつて熱海発電所があり、旅館街に給電していたそうで、その記念碑もある。▲来宮駅は昭和10年の伊東線開業と同時に開設された。その前は、東海道線の信号場であり、今でも、伊東線のゼロキロポストもホーム横にある。実際は、伊東線は熱海から分岐、東海道線と並行して来宮までは複線、つまり4線となる。間には、左写真のように、複線トンネルとなった両線の新野中山トンネルが並んでいるのがホームからも見える。熱海には東海道線の折り返し列車のスペースがなく、来宮駅横に2線分の電留線が設けられている。▲駅舎は当時のままの姿を保っている。白壁洋風駅舎、オレンジ色のスペイン瓦と、南欧風の駅舎で、古き良き時代のリゾート駅舎の面影を保っている。駅名標も楷書体で、JR東の標準書体である新ゴ系とは異なっている。地下通路にも、以前の国鉄のスミ丸ゴシックを使用した乗換案内があって、至るところ昭和の面影が残っている。ところが、今年になってから無人駅化され、待合室では自動放送テープが流れている。みどりの窓口の廃止、特急「踊り子」の通過と、来宮駅の格がどんどん低下してきている。