キハ20系(2)
キハ20系での派生形式として、寒冷地向けのキハ21・22と、機関2台の強力型のキハ52がありました。当時走っていた多くのDCのなかで、1900生さんはキハ20系、とりわけキハ52が好き、とコメントをもらいましたが、私はキハ22が大好きでした。ドアが車端に寄ったうえ、窓が小さく、控え目ですっきりした側面、乗り込んでも急行型に遜色のない設備で、東北の北部、北海道でしか見られない希少性も憧れとなりました。
▲最北端に近い、利尻島を望む宗谷本線南稚内~抜海の海岸沿いを行くキハ22 307の338D、後部の運転室から顔を出す人物一人、よ~く見ると、なんとなく1年先輩のTさんに見える。この時は、“抜海現地闘争”と称して、DRFCメンバーの戦闘的な4人が、勝手に保線小屋に泊まり込んだのだったが、日和見会員(?)も日中には多くが参加して撮影会状態となったため、列車で移動を重ねていたのだった(昭和44年9月)。
▲根室本線落石~別当賀を行く234D、キハ2164+キハ21 16のキハ21の2両編成。キハ20と同じ客室では、北海道ではさすがに寒くて、製造も84両に留まり、以後はキハ22の量産に移行する(昭和47年3月)。
キハ20の寒冷地向けとして、キハ20の一次車と同時に造られたのがキハ21であり、窓は二重ガラス、床下機器も耐寒構造となったが、それ以外はキハ20と同じで、冬季の車内保温が困難なことから、極寒の北海道では使いにくく、東北でも見ることができた。
いっぽうのキハ22は、本格的な耐寒耐雪構造のDCで、客室内の保温のため窓が小さく、二重窓、床板は木製で、ドアを両端に寄せて客室とデッキは仕切られている。シートピッチも急行用DCと同じで、両運転台の特性を生かして1両単位の分割併合を可能で、平坦線のローカル急行にも重用された。製造両数は313両で、これは一般車のなかではキハ20、キハ17に次ぐ両数となった。
▲根室本線落石~別当賀を行くキハ22の2両編成、太平洋を望む断崖の地は、最近の鉄道写真家と称するプロが激賛する撮影地となった。その当時からも、断片的には知られていたが、まだまだ未知の地で、私は一人で地図を確かめながら、雪をかき分けて行ったものだ(昭和47年3月)。 ▲根室本線茶内~糸魚沢を行くキハ22。人跡未踏のような地に見えるが、駅から歩いて数分のところ。列車本数さえあれば、徒歩でも難なく撮影地に到達できるのも北海道の魅力だ(昭和47年3月)。 ▲幌延駅で交換する宗谷本線の列車、左323D、右338Dでキハ22 308+キハ22 107。幌延からまだ羽幌線が伸びていた時代、駅は乗り換え客も含めて賑わいが見られた(昭和46年3月)。
▲深名線朱鞠内駅、豪雪地帯で名高い駅だが、さすがに3月にもなると、地肌も見えてくる。左は乗車した930D、キハ22 45+キハ21 23、右は交換する940Dでキハ22の単行。こうして見ると、両列車とも明らかに傾いている。路盤に浸み込んだ水分が凍結して、線路を不定形に持ち上げる凍土と呼ばれる現象だろう(昭和47年3月)。
さらに昭和33年から製造されたのがキハ52で、機関2台の本州用の強力型、車体長もキハ20よりも長くなった。
▲花輪線龍ケ森~赤坂田の高原地帯を行く1928D、キハ52+キハ58の2連、ともに機関2台の強力型で33‰勾配に挑む。この時は2回目の竜ケ森合宿だった(昭和44年8月)。
▲春浅い姫川沿い、大糸線平岩近くの第7姫川鉄橋を渡るキハ52 43+キハ52 41+キハ55 213の3連、大糸線でのキハ52の活躍は近年まで続いていたが、この付近は平成7年の水害で、大規模な土石流が起こり、鉄橋、付近の街並みまで飲み込んでしまった。いまは、当時とは全く違った様相になっている(昭和46年3月)。▲▲桜の季節、草津線甲賀駅に到着のキハ52+キハ35などの上り列車、草津線は平坦線だったが、共通運用される信楽線には33‰勾配があり、亀山区にはキハ52が配属されていた(昭和47年4月)。
懐かしくて綺麗な写真を拝見させて頂き有難うございます。今となっては貴重なカラーですね。
落石~別当賀は今でも訪れるには少々勇気がいる(列車本数の少なさと走行車両の好みから)ポイントですが、よくぞ雪のシーズンに行かれたこととその熱意に頭が下がります。同線に運用されていた釧路区のキハ21に関しては36.10改正前、DCによる優等列車がまだ急行すずらんくらいだった頃に週末準急として釧路~川湯間に設定された「摩周」を思い出します。いわばその後続々と登場する22準急(のちに急行)の嚆矢となった列車です。
また当時は稚内・名寄・倶知安などといった、今ではもう考えられないような区にも配置がありましたね。
ご紹介頂きましたようにキハ52は小生の最も好きなDCでした。52は単車でも絵になりますが、小生は珍車キハユニ26との組み合わせが好きでした。C56との取り合わせは言うに及ばずです。
余談ですが高校1年の頃、大糸・小海両線の同車に乗りたくて一筆書き切符で京都~綾部~敦賀~糸魚川~松本~長野~越後川口~高崎~小諸~小淵沢~辰野~豊橋~京都と、車中2泊3日の旅を弟と実行したことがありました。この時の飯山線はC56の牽くミキスト、飯田線では17m車のクモハ14に揺られました。
信楽線用に亀山区に配置されていたのはキハ52の15番でした。我々が頻繁に加太通いをしていた矢先に、残念ながら三雲付近での落石事故で大破・廃車になりました。
ところでご紹介の写真は経年を感じさせない非常に綺麗なものですが、カラーリバーサルでしょうか?
1900生さま
さっそくのコメント、ありがとうございます。数々のご教示、感謝いたします。落石~別当賀は、厳冬期なら、それこそKAWANAKAさんの雪中記のような苦労が伴ったと思いますが、行った時は3月でしたので、比較的ラクに行くことができました。ただ、交通不便なことは確かで、この時は根室のYHに泊ったのですが、根室5時50分発の始発に乗ることになり、5時にはYHを出ました。3月の5時なら真っ暗のはずですが、もう薄明るく、さすが最東端の地だと思いました。
準急「摩周」は、私も記憶があります。北海道で初めてのDC優等列車で、まだキハ22の製造前ですから、最新のキハ21が投入されました。それと、昭和35年改正で定期化されて、釧路~網走の運転となった際に、釧路発は標茶まで、根室標津行きのキハ05が併結され、この時はキハ22+キハ05という、なんとも珍妙な準急が誕生したことです。当時読んでいた鉄道雑誌に“日本一みみっちい準急”と称されましたね。
信楽線を走ったキハ52は、当時の配置表を見て、15のみだったこと判明しました。数両配置されていたのかと思っていました。また撮影列車は735Dとも判明しましたが、これは草津行きであり、信楽へ入る運用ではなかったようですが、前後の列車で、信楽線運用の差し替え用として使われていたのでしょうか。三雲付近の落石事故、これも思い出しました。貴生川~三雲の切り通し区間で巨石が落ちてきて、列車が大破しましたね。この時の廃車がこの15号だったとは初めて知りました。
なお、このカラーはすべてカラースライドです。原版はもっと悲惨な状態でしたが、拙い技術で修整しました。肝は、カラー全面をすべて修整することは考えず、背景は犠牲にして、車両の修整だけに注力することと、いきなり色調調整に走らず、まずコントラスト、明暗の調整をします。これだけでソコソコ見られるものになり、そのあと、ほんの少し色調調整で彩度をいじります。
05準急の記事を読んだことは憶えています。当時は05を写真でしか見たことがなく、路線も標津線という超ローカル線だったためか驚いたという記憶はありませんでした。
キハ52 15ですが信楽運用のDCが草津線に併結されて草津を往復するダイヤが存在しました。撮影時がそのダイヤだったかはわかりませんし、甲賀で撮影されていることから仰るように草津線運用の応援に入ったものでしょう。亀山にはほかにキハ53が2両ありましたから、2エンジン車には余裕があったものと思われます。
しかし天ナラの35系がよく連続25‰の続く加太越えをしていたと思いますね。柘植以西にも所々25‰はありましたが短いものだったのと、180PSパワーアップ車だったことから喘ぎながらも登っていたのでしょう。
カラースライドがデジタル技術で鮮やかに甦ったわけですね。引き続きのご紹介を期待しています。
聡本家青信号特派員様
『昭和の気動車』を懐かしみながら拝見しております。
小生の中に有る気動車は、スカ色そっくりの青とクリームのツートンがシックなキハ17系(正確にはキハ10系?)が最初で、次いで今時のJ西山陽地区・末期色よりずっと上品な黄色+窓下赤帯のキハ55系準急車、更には窓周り朱色+肌色(ベージュ?)のキハ58(キハ28)系急行車両です。
更に小生が『鉄ちゃん』として現役の終焉を迎えた頃のキハ80系ブルドッグ⇒キハ81系特急群が脳裏に焼き付いております。特に、当時大ムコに80系が溢れていたのは圧巻でした。
そう、そう、そう言えばキハ30系なる通勤車も居ましたね。
それはそうと、後年特急車を除いてこれらのDCがことごとくタラコ色に塗りつぶされた時には本当にガッカリしたものです。
それにしても鉄研での活動も含めて、貴殿のディープな撮影地へのマメな出撃には敬服しております。
また、この頃から風景との融合を得意としておられた撮影手法に、小生の如く殆ど『車輛専科人』は反省する事しきりです。(もう、遅すぎますが。)
河さま
いつもコメントを頂戴し、ありがとうございます。国鉄時代のDCの塗色、全く同感です。青/クリームのキハ17も、黄/赤帯のキハ55も、朱/肌色のキハ58も、実にシンプルで格式の感じられるカラーでした。大げさに言えば、日本人の美意識が昇華されたものだと思います。それに比べて、いまは‥‥、もう多言は要しないでしょう。
特急群ではキハ81の独特のスタイル、当初は「はつかり」のため、京都では見ることができず、強く憧れを感じたものでした。大ムコにあふれる80系も覚えていますよ。とくに朝、電車で横を通ると、これから運用に就く80系がエグゾーストを上げながら、朝の斜光線に浮かび上がった光景が忘れられません。
たしかに、こうして見ますと、私も我ながらよく出撃したものだと感心しますが、これらのほぼ全部が、学生時代のほんの4年ほどの間に撮ったものです。改めて、若い時代の熱意を感じました。
聡本家青信号特派員様
キハ80系?。
小生も、いよいよボケが来たのかブルドッグはキハ81系のキハ81で、量産特急車はキハ82系でしたね。
そして中間車は共に形式番号は80で、キハ80やキロ80、キシ80を名乗っていました。
従って、大ムコに溢れていたのは80系ではなく82系が正解でしたので、訂正致します。
混乱させてしまい申し訳ありませんでした。
いつも写真と記事楽しんでおります。特に駅の交換風景には胸キュンです。キハ22系(2)の写真ですが、9月8日非戦闘員の私は、南稚内と稚内の中間にある喜登旅館YHに泊まり、翌日氷雪の門見学(このときは鉄爺さんも一緒)後、築別炭砿に向かいましたが、そのときのものだと思います。戦闘員の活躍ぶりを確認するため身をのりだしたのでしょう。築別炭砿は女性車掌だったのが印象に残っており、その後ここの道産子のキハ22を見に茨城の阿字ヶ浦まで幾度か行ったことがあります。一枚の写真からあれこれおもいだしました。
67年Tさま
嗚呼、懐かしい。よくぞコメントをいただきました。本当に、ありがとうございます。この日は、確かに昭和44年9月8日でしたね。改めて、写真を調べてみますと、実に10人ものDRFCメンバーが稚内に集結していました。大部分は夜行「利尻」に乗って朝に到着、67年Tさんのように前泊された方もいたようですが、ほとんどが南稚内~抜海の中間、利尻富士の見える海岸沿いまで歩きました。「利尻富士」と書かれた標柱の前で、例によってバンザイした記念写真も出てきました。いつもコメントをいただく1900生さんもおられました。その日の晩は、最も戦闘的な4人のみが保線小屋に泊まり込み、あとのメンバーは三々五々、別の訪問地へ向かい、その時に、キハ22から顔を出された67年Tさんを写したと言う次第です。
築別炭鉱は私も行きましたよ。ここの自社発注のキハ22は、マルーンに白帯という、シックな塗装でしたね。
このように1枚の写真から、つぎつぎに思い出が広がりますね。写真っていいものだ、と思う瞬間です。これからも、胸キュンのする写真も、胸やけのする写真も、どんどん出していきますよ。
紹介されるまで小生もその合宿に参加していたことに全く気付かず、読んで初めて当事者の片割れであったことを想い出しました。
思い出しついでですがご紹介のとおり大半の参加者が前夜札幌から利尻に乗りましたね。翌朝夜明け前頃9月とはいえさすがに北海道で、窓の隙間などから入る隙間風による寒さで目が覚めました。誰かが編成の前方に探索に赴き「グリーン車や寝台車は暖房が効いとるで」と戻ってきたのでこれは怪しからんと小生と誰かさんが一緒に車掌に暖房を強くするよう談判に行きました。車掌は最初「スチームを入れると蒸気圧が下がり運転に影響するから機関士の許可を貰わんとあかんとか、お宅ら疲れたはるから寒う感じはるのや」とかヌラリクラリした説明で誤魔化そうとしましたが、我々も怯まず「なら何故ネとロにだけ入れているのか。旅客を差別するのか」と食い下がると渋々スチームを入れることを承諾、お陰で暫くしてから効いてきた暖房で最後の一時間ほどはグッスリ眠りましたね。確かにC55単機の牽引なので蒸機は大切だったとは思いますが、真冬ならともかくまだ9月始めだったことから、やはりハザ車の客が差別されたのかとこの旅行唯一の不愉快な想い出として今なお記憶に残っています。
余談ですがこの日の抜海闘争は天候に恵まれ、撮影時に見た完全無欠(少々逆光でしたが)の利尻富士は小生が今までに見た唯一無二のものでした。