運転停車が非常に長くなり、乗客の皆様には「あるいは途中運休か?」とご心配をおかけしましたが、ようやく発車致します。8号車では北の果ての日曹炭鉱専用線をご紹介したところまででしたが、9号車は昭和44年3月9日 稚内からのスタートです。
・羽幌線を南下
さて興奮さめやらぬなか豊富から326Dで幌延へ向かう。幌延から羽幌線、留萌本線経由で深川、岩見沢へ出て 再び大雪6号で常紋を訪れるという計画であった。大雪6号は岩見沢から乗るので もし空席がなければ翌日の行動に差し支えるので 幌延での乗り換え時間を利用して 大雪6号の座席指定券を買うことにする。乗車当日ではあったが、幸いにも2枚指定券がとれた。これで明日は張り切って常紋で活動できる。
羽幌線1822Dはキハ22の2連であった。前の1両は更岸止りである。幌延で海側に座ったつもりが発車してみると 思っていたのとは反対方向に動き出し 我々の席は山側になってしまった。それもそのはず 羽幌線は幌延を北向きに出て 180度回って海岸線を南下するからである。
←キハ22305(旭ワカ 更岸まで)+2214(旭アサ 旭川行)
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平成25年6月に道北を旅した際、気になっていた幌延駅北の羽幌線跡を確かめることができました。
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海側に席を移したりしているうちに更岸である。更岸で前の1両を切り放し ここからは単行となる。例によって切り離されたキハ22はすぐに転線し下り835Dに併結されて幌延に戻って行った。遠別、歌越と進んで行く。このあたりは山が海に迫り 鉄道はトンネルや鉄橋で海岸に沿って走る。初山別の手前で「鉄道ファン」の撮影地ガイドでも紹介されたケンコマナイ橋梁を渡る。晴れていれば天売、焼尻の島々が眺められるのであるが、あいにく曇っていて見えない。海のかなたに陽が沈み 外は急に暗くなってきた。
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このケンコマナイ橋梁ですが、Googleストリートビューを見ると 金駒内橋梁としてコンクリート製の橋脚と橋桁がその姿をとどめているようです。航空写真で見ても廃線跡をたどることができます。現在は国道232号線(オロロンライン)がかつての羽幌線の役割を担い、豊富温泉から留萌を経由して札幌に向かう長距離バスも走っています。
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もうすぐ築別である。築別の手前で「現在この気動車は1両で走っていますが、築別から前に3両を増結し4両となります。古丹別から団体が乗ってきまして、後ろ3両は団体専用になりますので 築別から先へお越しのお客様は ご面倒ですが一番前の車両にお乗り換え下さい。まもなく築別に到着します。築別炭砿方面にお越しの方は18時発の築別炭砿行きがございます。まもなく築別です。お出口左側で19分停車します」というアナウンスがあった。築別に着いたので 仕方なく前に乗り換えることにする。暖かい車内から外に出ると 夜風が身に染みる。かわいらしい羽幌炭砿鉄道のレールバスが出発を待っているのが見えた。先頭車に乗り込むと これが今まで乗って来たキハ2214と同じく 暗い白熱灯のキハ22でゲッソリする。
←キハ22136(深川行)+22100(旭川行)+22101(旭川行)+2214(旭川行)
4両になった列車は築別を出発し 古丹別に着いた。ここで更に1両増結して5両になった。
←キハ22136(深川行)+22100(旭川行)+22101(旭川行)+2214(旭川行)+22218(旭川行) (全車旭アサ)
ところがホームを見渡しても ここで乗って来る筈の団体客の姿など無い。変なこともあるもんだなあと思っているうちに古丹別を発車してしまった。その後再びアナウンスがあり「ただ今列車は5両で古丹別を発車しました。前の2両は旭川行き、後ろ3両は深川で切り放しとなります。なお連絡不行き届きのため 古丹別からの団体客の乗車はございません。」 何ということだ。1両にも満たない乗客のために5両もの気動車を走らせているのである。ところがこの珍騒動はこれで終わったのではない。車掌は留萌で乗務交代となり、列車もまた1822Dから急行「るもい2号」2812Dとなった。留萌を発車して間もなくアナウンスがあった。「この列車は急行るもい2号旭川行きです。前3両は深川止まり、後ろ2両が旭川行きです。主な到着時刻をお知らせします。恵比島20:47・・・・」ということなのです。おわかりでしょうが 旭川行きだったはずの前2両は深川止まり、深川止りだったはずの後ろ3両のうちの2両が旭川行きだったのです。我々は深川で降りるからいいとして 怒ったのは旭川まで行く客。ブツブツ文句を言いながら大きい荷物をかついで後ろの車両へ乗り移って行かれた。
20:48深川着。幸いなことに遅れていた「大雪4号」札幌行きに乗り換えることができた。「大雪4号」で岩見沢まで戻り、岩見沢から下り「大雪6号」に乗ることにする。岩見沢での乗り換え時間を利用して食料を仕入れに行く。午後10時ごろとあって開けている店も少ないが 駅前に食料品店があったので ドーナツなどを買う。さて夜も10時を過ぎると発着する列車も減り、広い待合室もガランとしている。どこへ行くのかリュックに三脚を持った3~4人の中学生がストーブの周りで騒いでいた。改札が始まりホームへ入る。座席指定券を持っているので5号車の乗車位置で待つ。やがて列車が到着し 乗り込もうとすると、デッキに立っていた車掌が「座席指定ですよ」と 我々が座席指定車に乗ってはいけないというような口ぶりで言うので、「知ってますよ」と言うと 席は何番かと しつこく乗せまいとする。指定券を見せるとやっと納得して乗せてくれた。全く腹の立つ車掌である。
・夜明けの煙突掃除
前回と同様 遠軽で下車する。4:09である。各停の一番列車は5:54なのでそれまで待合室でひと眠りできるという計算であった。ところがこれが大きな誤算となってしまった。我々が待合室で荷物を置いてひと眠りしようとしていると、駅員がストーブを燃やすために出てきて 何やらゴソゴソ始めた。最初はさほど気にもせず有難いことだと思っていた。ところがその駅員がいつまでたってもストーブの前から離れようとしない。どうやら火が点かないらしい。そのうち鉄棒で煙突を叩き始めた。ハハーン、煙突が詰まっているなと思っていると 彼の煙突を叩く力はだんだんと強くなって 少しうるさくなってきた。駅長も何が起こったのかと顔を出した。駅員はしつこく煙突を叩いている。そのうち屋根の上でゴトゴト音がし始めた。屋根の上から針金か何かで煙突をつついているらしい。このままではススがストーブの中にたまるので、煙突をストーブから外して 落ちてくるススを石炭バケツで受け始めた。ところで 私がその時の状況を詳しく述べられるのは その間眠られず 作業を見守っていたからに他ならない。遠軽と言えば駅も大きい方で 待合室の天井も高い。そこに立っている煙突だからこれまた長いものである。ところがこの煙突の重量はストーブが支えていたのであるが、煙突がストーブから外されて わずかな針金で天井から吊られた状態であり おまけに屋根の上から煙突を突いているのである。さあもう何が起こったかおわかりでしょう。ドシーンという音と共に煙突が落ちたのです。なんと言っても 煙突の下で落ちてくるススを受けようとしていた駅員はお気の毒に頭からススの雨。落ちた衝撃で詰まっていたススや灰が待合室中にたちこめ、とても寝ているどころの騒ぎではない。駅長はあわててウロチョロするし、我々も荷物を投げ出して外へ避難した。待合室の窓と言う窓を全部開け放してはみたものの全然効果なし。全くひどい目に逢わされた。駅長はさっそく雑巾でベンチなどを拭き始め、我々乗客に「どうもすみませんでした」を連発していた。大雪6号では正味3時間ほどしか寝ておらず 遠軽でのひと眠りを計算に入れていた我々にはとんだ災難だった。
・再び常紋へ
ススだらけのリュックをかついで523レに乗り込む。空は白み始め ひっそりと静まり返った構内に汽笛を響かせて列車は発車した。常紋までは40分足らずである。1週間ぶりの常紋は雪もだいぶ融けて春の訪れを感じさせる。ひとまず信号場へ顔を出す。荷物を置かせてもらってウヤ(運転取り止め)の列車が無いかを確かめる。常紋は午前中は生田原寄りが良いそうだが、トンネルを抜けるのがいやなので 前回と同様金華寄りでねばることにする。1週間前にも来ているのですぐに場所を定めて上り貨物を待つ。残念ながら良い場所は日陰で暗い。上り貨物は96に押されてノロノロと登ってきた。ものすごいドラフトと煙である。すばらしいの一語に尽きる。
それにひきかえ 下り貨物は煙も吐かず全く迫力がない。次の522レまでには少し時間があるので朝食のドーナツを食べる。冬の写真撮影で困るのは 列車を待つあいだ座ることができず立っていなければならないことである。そんな訳でドーナツを食べるのも ゆっくり座ってというわけにはゆかない。食べ終わっても 同じ場所に立っていて寒いだけなので、違うアングルから522レを狙おうと斜面を登ろうとしたが、途中の川らしいところでズボッとはまり込んで立ち往生してしまった。俯瞰撮影はあきらめて 同じ場所で撮ることにする。522レはD51が客車4両を牽いてきた(うち2両は荷物車)。4両とはいえD51は苦しそうに勾配を登って行った。
522レの次は下り貨物である。 この下り貨物の後補機であった96が次は単機で戻って来る。単機回送はスピードが速く どこでシャッターを切ろうかと思っているうちに通過していった。続いて1545Dを写して信号場へ戻る。信号場の手前に場内信号機が立っている。その信号機のレンズの前に風車がクルクルと回っていて レンズに雪が凍り付かないような工夫がしてあった。下り「大雪1号」と上り特急「おおとり」をプラットホームから写す。
次の上りと下りの貨物はここ常紋信号場で交換するので 列車が信号場に入って来るところから 上下列車の補機開放、補機の単機出発、上下列車の出発などの情景をカメラに収める。最後に混528レを写して 常紋での活動を終える。今度常紋を訪れるときには96の姿は無いだろうと思いつつ14:36発1551Dで常紋をあとにする。
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以上のように原文では常紋での行動を極めて簡単に述べているだけですが、もう見ることができないこの交換風景を詳しくご紹介したいと思います。より理解を深めて頂くために常紋信号場の配線図も示します。実際にはダブルクロッシングがあったり もう少し複雑ですが 簡略化してあります。あえて詳しくご紹介するのには理由があります。常紋信号場は石北本線の開通と同時に1914年(大正3年)に開設されました。2001年(平成13年)7月に交換設備の使用が終わり、交換風景は見られなくなりました。しかし閉塞区間の境界としての役割として存続していましたが、この復刻原稿を作成しているさなかの2017年(平成29年)3月4日に信号所は廃止され、103年間の歴史を閉じました。丁度我々が初めて訪問した1969年(昭和44年)3月から丁度48年後でもありました。常紋を訪ねた方は多いでしょうし その光景は数多く紹介されてはいますが、早春の1日どのような光景が繰り広げられていたかを改めてご覧下さい。
常紋信号場の晩年には 常紋トンネルからポイントが集まる信号場前に大きなスノーシェルターが設けられ、上の写真のようにトンネルに吸い込まれてゆく列車の光景は見られなくなっていました。
更に 常紋トンネルの建設は俗に「タコ部屋労働」と言われる過酷な状況で工事が進められ、多くの労働者が亡くなり そのままトンネルに埋められたり 最近でもトンネルの崩落した壁面から人骨が出たりする悲しい歴史を持ったトンネルでもあります。補機が連結された金華駅は利用者がないということで廃止されていますが、金華駅にほど近い金華小学校跡には「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」も建てられていて 置戸国道(国道242号線)には追悼碑の案内看板も立っています。そんな歴史を抱えた常紋だったことを当時は全く意識していませんでした。
常紋での停車時間が長くなりましたが、先を急ぐことに致します。
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・尾岱沼へ行こう
風呂も暖房もない美幌Y.Hで1泊して 翌3月10日は尾岱沼へ行くことになった。川中氏と3人で旅していた時にも尾岱沼へ行こうという話は出たのであるが、当の小林氏は真っ先に反対されていた。ところがその小林氏が「尾岱沼へ行かへんか」と言われたのである。私も他に行きたい所もなく 尾岱沼行きに賛成したのであった。そこで北見発8:07の「しれとこ2号」釧路行きに飛び乗って根室標津に向かう。
←①キハ568+②キハ27205+③キハ27128 (全車釧クシ)
我々の乗った車両には東京の大学生が大勢乗っていてワイワイガヤガヤ騒ぐので非常に気分が悪い。おまけに「観光旅行ですか?」と聞くので 鉄道の写真を写し回っていると答えると 「そんなものどこがおもしろいのですか」と言うのでますます腹が立つ。列車は網走を過ぎて北浜あたりを走っている。8日間のあいだに線路ぎわの雪も解けて あちこちで地面が顔を出している。流氷も我々が最初に訪れた時ほど美しくはない。車窓の景色にも春の訪れが感じられる。斜里、川湯を過ぎて10:57標茶に到着する。標茶からは標津線1327D(キハ22267釧クシ)に乗り換える。例の東京の大学生たちも尾岱沼へ行くらしく、1327Dに乗り移ってきた。標茶を出た列車は根釧原野が山と接するあたりを勾配を登ったり下ったりしながら進む。駅間距離も長い。以前は標茶に標津線管理所が設けられていてC11やキハ05が配置されていたが、現在では管理所もなくなりC11は釧路区の受け持ちとなっている。
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さて 筆者はこの冬の北海道旅行がきっかけとなって、その後も学生時代に2度冬の北海道を旅しています。初めて小林氏と通過した標津線ですが、それから6年後の昭和50年の2月に標茶・中標津間でC11の最後の活躍の姿を追いかけました。その時の写真をご紹介します。景色は多分6年前の昭和44年と大きな変化はなかっただろうと思います。6年前はモノクロでしたが、もうカラー写真の時代になっていました。
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さて1時間足らずで中標津に着く。列車はここで40分停車する。丁度昼食どきだったので駅の外で何か食べようかと思ったのだが、駅前には食堂らしきものはないようなので 売店でパンを買って食べる。午前中はかなり天気も良かったのであるが 次第に曇り空に変わりつつあった。厚床からの列車が着いて ようやく発車。知床の山に行くのか 大きいリュックをかついだ一団が乗って来た。川北でC11が牽く貨物と交換する。13:39根室標津着。
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中標津と根室標津には標津線で活躍したC11が保存されています。
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リュックを駅に預けてカメラだけを持ってゆくことにする。駅前に立つと「標津線廃止反対」の垂れ幕が目につく。いよいよ天気はあやしくなってきた。尾岱沼まではバスで25分である。先ほどの山男のリュックに同志社大学山岳部の文字が見えたので驚く。西別行きのバスは根室海峡に突き出た野付半島の根元を通ってやがて尾岱沼白鳥台に着く。期待に胸をふくらませてバスを降りる。かなりの見物客がいる。白鳥はいるにはいるのだが 海岸からかなり沖に群れをなしていて、腹を減らしたのかわずかな白鳥が何か餌がもらえるかと砂浜をウロウロしているのである。白鳥といえば純白のそれは美しい鳥と思われるでしょうが(我々もそう思ってここへ来た)、白と言うには程遠い灰色というか黒っぽい何とも汚い鳥だったのである。折から低く垂れこめた雲からは風を伴って雪が降り始め いよいよおもしろくないことになってきた。沖の方にいる白鳥も全然飛び立とうとせず、よく写真で見るような翼を広げて群れをなして飛ぶ白鳥の姿を望遠で撮ろうと思っていた私をがっかりさせた。とにかくここまで来たのだから記念撮影でもしておこうと寒さにふるえながらカメラの前に立ったのであった。
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我々がバスを降りた白鳥台ですが、現在も白鳥台バス停はあり「おだいとう道の駅」があります。道の駅と言ってもお店が並ぶ大きな施設ではなく 駐車場とトイレだけのささやかなものですが、「別海北方展望台」と「叫びの像」が建っていて 観光客の休憩場所となっています。
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丁度砂浜にムシロやワラでこしらえた見張り小屋らしきものがあったので、帰り支度をするために中に入って ふと後ろを見ると ムシロの下からダラリと垂れ下がった白鳥の首が見えたので ものも言わずに小屋を飛んで出る。それでなくても寒いのに 更にヒヤッとさせられた。いつの間にか見物客も姿を消し、バスも2~3Km戻った尾岱沼の村落から乗らねばならない。とにかく歩くことにする。後ろを振り返りながら自動車が来たら乗せてもらおうと思ったが、全然自動車など通らない。ものも言わずに黙々と歩き続ける。朝からロクなものを食べていないので余計に寒さが身にしみる。1Kmほど歩いたところで 壊れかけたバスの待合室があったので中に入って休んだがすき間だらけで寒い寒い。まだ歩いている方が暖かいので再び歩く。小林氏はこれがもとで熱を出されたのである。ようやく尾岱沼の町にたどり着いたが、バスの時間まで待つ場所がない。そこでどこかの食堂にでも入って時間をつぶすことにした。ところが冬場で客もいないのに開けている店はない。あちこち探し回ってようやく1軒のメシ屋のようなものを見つけて入る。店内はガランとしていて 我々の前にはいつ客が来たのかわからないような店である。玉子丼しかできないというのでそれにする。しばらくして出てきたのがまずそうな玉子丼。しかし背に腹は代えられないので胃袋に納める。ところが食べ終わっていくらかと尋ねると200円と言う。2人で200円かと思ったら1人200円らしい。あっけにとられて残っていたお茶を飲んで店を出る。いよいよ尾岱沼に来たのが間違いであったのを感じる。17:00のバスまでにはまだ時間があるが 寒さをしのぐ所もなくバス停のところでガタガタ震えるのに時間を費やす。待ちに待ったバスが来てホッとして乗り込む。乗客は我々を含めて3人だった。夏の観光地は人ばかり多くてつまらないし、冬は冬で交通の便も悪く 他にも何かと不便で やはり観光地に行くのは良くないということを身に染みて感じた次第であった。
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当時 玉子丼一杯の相場はいくらぐらいだったのでしょうか。この昭和44年の旅のメモが残っていないのですが、2年後の昭和46年3月の北海道旅行のメモから当時の物価をさぐってみました。
牛乳;(大沼公園)23円、(沼ノ沢)23円、(茶内)20円、(標茶)21円、コーラ;(網走、斜里、池田、沼ノ端)50円、お茶;20円、たばこ;(チェリー、セブンスター)100円、(ハイライト)80円、 荷物預け;(札幌)50円、(大沼、美唄、旭川)40円、札幌市電;25円、新聞;20円、官製はがき;7円、連絡船内のポークカツ定食;290円、そば;(音威子府)80円、ユースホステル;(大沼景雲荘、小清水、留辺蘂)790円、(札幌タイムス)420円、(円山ハウス)590円、(北湯沢)820円。2年の違いは無視するとしても やはり尾岱沼の玉子丼一杯200円は高かったと言えるでしょう。
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・道内横断
さんざんな目にあって尾岱沼をあとにして根室標津発17:55 336Dに乗り込む。中標津から先はこの336Dが最終列車である。小林氏は尾岱沼の寒さがこたえたらしく 風邪薬を飲んで寝てしまわれた。標茶からは混629レ、釧路からは「狩勝3号」と乗り継いで札幌に向かう。「狩勝3号」は小林氏のたっての願いで寝台車を利用した。翌朝 通路をデッキに向かう乗客の足音で目をさます。あわてて飛び起きて外を見ると列車は札幌駅に進入している。小林氏を起こして降りる支度をする。キャラバンシューズをひっかけてボソボソとホームへ降りる。札幌は小雪がちらついていた。
6:30に札幌に着いたが、函館行きは9:25の「すずらん3号」までないので 時間をつぶすのに困る。9:00に駅地下のデパートが開いたので急いで土産を買ってホームへ急ぐ。「すずらん3号」は旭川始発であるが、札幌から2両(うち1両は指定)が増結されるのでそこで待つ。向かい側には下り特急「北海」が停まっている。「すずらん3号」はかなり混んでいたが なんとか座ることができた。函館まで5時間余りの旅である。この列車は千歳線、室蘭本線経由で、登別あたりまでは乗ったことがあるので ウトウトしていた。東室蘭を過ぎるとD52の牽く貨物列車とよくすれ違う。それにしても残念なのは北海道に2週間ほどいて D52もC55もC62も全然写せなかったことである。何しに北海道へ行ったのかと言われそうだが、D52やC62だけが北海道ではないので、冬の北海道の生の姿を見られたのが何よりの収穫だったと思う。長万部でカニメシを買う。ここのカニメシが北海道で一番おいしい駅弁ではないかと思う。大沼を過ぎ 少し遅れて14:40頃函館に着く。14:50発24便にすぐ接続である。
・北海道をあとにして
連絡船の3時間50分は非常に退屈で殆ど寝ていた。ここで眠ったのが効いたのか小林氏の風邪も良くなり 元気に青森に降り立つことができた。青森からすぐに京都へ帰るのもおもしろくないので、東北のどこかを訪ねることにする。どこへ行こうかと迷ったのであるが、米坂線へ行くことになった。米坂線には米沢から入ることにして 19:15発の「津軽2号」に乗り込む。連絡船を降りた乗客の多くは東北線を利用するので 奥羽線経由の列車はすいている。最後部のナハフ11に席をとる。今までは二重窓で小さい窓の客車やディーゼルカーに乗ってきたので ナハフ11の大きい窓が内地へ帰って来たことを感じさせる。DD51の牽く「津軽2号」は定刻青森を発車する。矢立越えでD51の後補機が付いて 後ろからドーンドーンと押してくるのがおもしろい。根室標津からずっと乗り続けてきたせいか いつしか眠りについていた。
DD5132[秋]+マニ352001+①スロ622096+②オロネ102072+③オハネ172236+④スハネ162174+⑤スハネ302109+⑥ナハ112057(指)+⑦ナハ102043+⑧ナハ112072+⑨ナハフ102022+秋田から増結⑩スハフ42 (⑩が東シナ以外全車東オク)
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改めてネガを見てみると 尾岱沼で白鳥を写したあとは 米坂線まで途中では1枚も撮影していません。2月23日に京都を発って17日が経過し、かなり疲れていたのか、フィルムの残りも少なかったのか 写欲が衰えていたのは間違いないでしょう。あるいは冬の北海道を満喫して充実感で一杯だったのかもしれませんが、今となっては思い出せません。
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さて9号車は内地へ着いたところまでと致します。永のご乗車お疲れさまでした。
小生が1957年8月最初の羽幌炭砿鉄道訪問時では、築別以北の羽幌線延長線が工事中で、札幌工事局の5540と2434が撮影できた。1960年3月羽幌炭砿鉄道再訪時は羽幌線が全通(1958年10月18日)済で、幌延-築別間は確か1本の準混を除き気動車で、乗った列車はキハ22+キハ0315。築別まで行くなら03に乗れと言われ、乗り込んだとたんに寝入ってしまった。目が覚めたら03単行になっていたのが記憶にある。幌延始発5時40分、恐らく遠別以南が03単行だったのであろう。築別着7時31分、ここで羽幌炭砿鉄道のキハ1001(←ホハフ5←国鉄キハ42015)が頭に連結されて羽幌まで。これは築別炭砿の炭住高校生が羽幌の高校に通学する列車で、文字通りの超満員だったが、羽幌で完全カラッポに。キハ1001はそのまま単行で折り返す。
3度目は1960年11月で、この時は羽幌炭砿鉄道にキハ22同型車(耐寒装備は国鉄車より優れていた)が同じ運用をしていたが、羽幌から築別までの折り返しではD61牽引準混列車の後尾に併結していた。
その羽幌炭砿鉄道は閉山で1967年12月15日廃止し、羽幌線自体も1987年3月30日廃止。今や宗谷本線すら危うい。
湯口 徹様
早速のコメントありがとうございます。1957年(昭和32年)当時の幌延、築別となれば 鉄道がなければ生活できないような地域だったのでしょう。幌延・遠別間(遠別線)は昭和11年10月竣工していますが、遠別・羽幌間(遠幌線)は戦争で工事が中断したため1958年にようやく全通しています。従って貴殿が訪問された1957年なら羽幌へは留萌側からのルートしかなかったのですね。キハ22とキハ03の協調運転というものを体験してみたかったです。ところで5540ですが 私は青梅鉄道公園で5540を写していますが、札幌工事局にいて羽幌線建設に従事していたとは知りませんでした。また我々が羽幌を通過した1969年にはすでに羽幌炭砿鉄道は廃止されていて訪ねることはできませんでしたが、茨城交通の那珂湊で塗装の剝げ落ちた痛々しい羽幌のキハ22に初めて対面しました。半世紀前に現在話題の「瑞風」などのバカ贅沢な列車が登場しておれば、延々と日本海を眺めて走る羽幌線は間違いなく第1級の運転路線になったことでしょう。