年賀状の季節となりました。さて古い年賀状を調べていると、今は亡きO君からの蒸気機関車がワフを一両牽引している写真の年賀状がありました。文面に問いかけの文で「・・・ここはどこですか・・・」とあって小さく「答・・・、長崎(本当は京都)」とあります。しかし、長崎でも京都でもないと思うのですが。機関車はC12で昭和48年の消印です。いったい、O君はどこで撮ったのでしょうか。どなたか教えてください。
コメントで撮影場所が明智線か高森線かで盛り上がっていますが、やはり機関車のナンバープレートがポイントなりそうなので拡大してスキャンしました。
いかがでしょうか。末尾2桁は「42」に見えるのですが・・・
この画像では番号が明瞭ではありませんが2ケタのようです。
1972年頃に撮影したと仮定して、1972年版国鉄車両配置表によりますと、C12の2ケタ番号機は次のとおりです。
福知山-西舞鶴 32 51
札幌-小樽築港 38 64
広島-厚狭 39
名古屋-中津川 42 69 74
大分-南延岡 55 93
仙台-会津若松 60 66
長野-上諏訪 67
金沢-糸魚川 88
どですかでん様の原画なら番号が読めるでしょうから、配置がわかれば走行線区がわかるので、場所の見当もつくのではないでしょうか。
「ここはどこ」はかまいませんが、「私はだれ」にならないように注意しませう。
想像ですが、風景から見て高森線ではないかと思いますが、いかがでしょうか?
残念ながら、C12の2桁は活躍していませんでしたが、3桁のカマは、走っていたようです。
とはいうものの、私は、生まれてはいましたが、遠くに出かけるなんて言う年ごろでなく、親父にNケージを誕生日プレゼントに買ってもらい、ほしかったC11やEF65でなくEF70でがっかりしていた頃でした。
井原さんの調査による当時の配置区から、小生が想像できるのは「明知線」です。だとすると機番は不明ながら中津川配置のどれかということになります。周囲の山々の形状と、やや高原状の標高が高い地点と思われることからの推測です。無責任な推測なので外れたら御免なさいです。
井原 実さん、デカンショまつり号さん、1900生さん 撮影場所の推理ありがとうございます。井原さん、この写真の原画は月光のポストカードに焼付されたプリント年賀状として送られてきました。差出は消印によると左京とあるので京都から出したようです。水洗が足りなかったのかセピア調に変色していますし、ピントがあまいのでルーペで見てもやっとC12とわかったのです。井原さんの調査結果からもう一度ルーペでよく見てみました。どうも一番右端は「2」のように見えます。デカンショまつり号さん、私も最初は高森線と思いました。O君が長崎だったのでひょっとしたら高森線に行ったのかなと思ったのです。しかし、井原さんの調査結果やデカンショまつり号さんがC12の2桁が活躍していないということなので、残念ながら高森線ではなさそうです。さらにルーペでよく見ると「2」の左隣りをよく見ると「4」のようにみえるのです。そうすると1900生さんが想像される明智線かもしれません。西村さんが補機No.36(1971年5月号)に明智線を訪ねた時の事が書かれていました。それによるとC1242が走っていたと書かれています。西村さんが撮影された貨物列車はC12にワム+ワフだったそうです。そうするとこの写真は明智線の可能性がかなり高いということです。ところでO君はいつ、どのようなルートで行ったのかわかりません。補機にも青信号にもあまり記事を書いていませんでしたから。模型班でしたが写真も撮りに行っていました。想い出深いのは萩へ行こうと誘われて美祢線経由で萩へ行ったのです。薄暗い早朝の寒い中で美祢支線の列車をいっしょに撮ったことがあります。今となっては詳しいことを聞くことが出来ません。しかし、皆様のおかげで何とかどこの線区かわかりました。ありがとうございました。
撮影場所もわからなかったのですが、文面の「・・・ここはどこですか・・・」はよくよく考えてみると撮影場所でなく、O君がいま年賀状を出そうとしているところではなかったのでしょうか。そう考えると「答・・・、長崎(本当は京都)」と書かれていることがつじつまが合うのです。この時はどうも実家がある長崎に帰っていなかったようです。
どですかでん様
O君の思い出話ありがとうございます。穏やかな彼の笑顔が思い出されます。ところで問題の線区ですが、明知線だとすると明知のC12は明知行きが正方向、恵那行きがバック運転ですから、この写真は明知行きということになります。そこでいつものようにグーグルのストリートビューで該当しそうな場所を探索するのですが、ゆるやかな斜面を横切っていて、背景にそこそこ高い山がある地点が見つかりません。とはいえもう40年以上も前と今では耕地の様子や風景は変わっているでしょうから場所の特定はあきらめました。もしこのカマがC1274であれば、後ろのコールバンカーが増炭改造で嵩上げされています。またナンバープレートは青ナンバーでした。74は現在恵那市中央図書館に屋根付きで保存されています。この写真を最初に見た時には、阿蘇の外輪山をバックにした高森線と感じました。どうも明知線ではないように思えます。いずれにせよ、1枚の写真から犯人の足跡をたどる松本清張ばりの推理を楽しませて頂きました。
西村さま
なるほど高森線ですか。後方の高い山が外輪山といわれるとそんな気もしてきます。外輪山であれば貨物後方の黒い樹林は長陽駅の1㎞ほど西の森かと思われ、その向こうで線路は右にカーブし、その先トンネルと有名な白川橋梁へと続いて立野駅に至ります。余り意味はないと思いつつ地理院地図を見ると益々その思いが募ります。一方明知線沿線には仰るように写真のような地形はちょっと見当たらないですね。
よって小生も高森線の可能性が大きいと推測を変更します。
1900生様
えらそうに高森線とは言いましたが、私は立野駅から白川鉄橋まで歩いただけで、高森線には乗ったことがありません。従って土地勘は全くなく、全国すみずみまで出向かれている1900生様にご賛同頂き恐縮至極であります。ところで立野のスイッチバックはもう復活できないのでしょうか?
投稿本文にナンバープレートの部分を拡大スキャンして画像処理して数字が読めるようにしましたがちょっと難しいようです。私は本文に書いてあるように末尾2桁が「42」のように見えるのですが、いかがでしょうっか。
どですかでん様
確かに42に見えますね。するとやはり明知線ということになりますね。ナンバープレートの上の小さなプレートは多分「架線注意」の銘板でしょう。中央西線の電化時期も要確認です。
大津の86さんがコメントが投稿できないとのことでメールで送られてきたコメントを代行して投稿します。
どですかでんさま
最近サボっていて3日ほどデジ青を見ていなかったのですが、Oさんの写真で盛り上がっていたので私も首を突っ込ませていただきます。プレートは42に見えるとおっしゃっていますが、末尾の2は間違いないので、これを頼りにC12二桁ナンバー末尾2を探してみると、該当するのは42だけで(1972年当時他のものは廃車や入れ換え機などでした。)中津川の配置、69年には明知線で活躍していたとありました。そこで撮影場所の確定ですが、「明知線のC12」でYahoo検索すると「津島軽便写真館」http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/JNR-akechi/akechi1.htmlというのが出てきてその中の明知線NO8恵那ー東野間の写真の背後の山の形がOさんの写真とそっくりです。この場所は恵那駅から歩いて行ける場所だそうで、登り33‰の勾配、このあたりで撮られたのではなかったかでしょうか。当時撮影には車で行くことなかったと思われ、明知線は日中5時間ほど空白の時間帯があって、なかなか奥まで行って写真を撮るというのは難しかったと思います。
Oさんとは卒業後一度だけお会いして一緒に日本橋のニノミヤに行ったのを覚えています。その後何年かして亡くなられたことを知りました。はるか青森の地で苦労されたのではなかったでしょうか。どですかでんさまの投稿で懐かしく思い出しました。
以上の内容です。これによるとどうも明智線でしかも恵那駅の近くのようです。明智鉄道も行ってみたいので、この撮影場所も行ってみて確認したいと思っています。かなり風景は変わっていると思いますが。
どですかでん様
代理投稿ありがとうございました。スマホからなら送れるようです。
明知線のようですね。グーグルマップのこの座標の踏切から見える山の形がそっくりです。
https://www.google.co.jp/maps/@35.4569407,137.4173345,3a,75y,273.6h,77.27t/data=!3m6!1e1!3m4!1sR2A_oHIcjpOQ93xaDJkCdw!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja
如何でしょうか。場所は恵那-東野の恵那の近くです。
「ここはどこですか」捜索隊の皆様 捜索に大変ご苦労をおかけいたしました。893-2さんのグーグルマップでの場所の捜索報告からさらに写真を注意深く観察して調べてみました。たぶん、893-2さんが示していただいた踏切からもう少し東野寄りに墓地があり、この墓地から撮影したのではないかと思っています。写真をよく見ると列車は築堤のところを走っているようです。この辺りを現在の地図で見ると線路をくぐっている道があります。写真にはワフの後ろに影のような部分が写っています。影かと思ったら、これは築堤を切通にして小さな鉄道橋梁ではないかと思いました。写っているものでここに影ができるものがないからです。さらによく見ると機関車と右側の小さな木の間に下っていく道が見えます。現在のグーグルの地図やストリートビューを見ると、線路をくぐる道と橋梁があります。右へ曲がると中央道の築堤をくぐって北側に行く道となっています。O君が撮影した時は中央道がなく棚田であったのでしょう。線路をくぐった所を見るとかつて道があったような痕跡らしきものがあるようです。そして写真の下側にある低い木は成長して列車が隠れる木立になったのではないかと思います。大畑のループや出雲坂根のスイッチバックと同じように風景が変わってしまっているようです。ところで撮影したと思われる墓地はストリートビューで見ると手でギッタンバッコンする井戸ポンプがあったり、五輪塔があることから古い墓地だと思われます。たぶん、ここから恵那方面に向かって明智から来る貨物列車を撮ったのでしょう。今は同じ写真は撮れないと思います。
以上で「ここはどこですか」は明智線(現在の明智鉄道)の恵那-東野間であることがわかりました。撮影場所もほぼわかったのではないかと思います。あとは現地調査です。「ここはどこですか」捜索隊の皆様、これで何とかわかったような気がします。ありがとうございました。いつになるかわかりませんが、現地調査隊を派遣して無事その調査が出来れば、その結果をご報告いたします。
今は亡きO君の差し出した一枚の年賀状からの熱い論議、楽しませてもらいました。撮影地は明知線と判明しましたが、では、なぜO君が明知線へ行ったのか、その謎が残ります。昭和48年の年賀状とすると、昭和47年に撮られたものでしょうか。その手掛かりとして、私も同じ昭和47年に、この場所から少し奥へ入った東野~阿木で写しています。それは、同年3月に越後鹿渡で合宿が行われ、集合が深夜の名古屋駅だったため、T君と二人で昼間は明知線でC12を撮り、夜に名古屋へ戻りました。O君もひょっとして、その前後に同じ行程で行ったのかと思い、鹿渡の記念写真を探し出して確認したのですが、そこにはO君の姿はありませんでした。ただ、写真は、冬枯れのような雰囲気ですから、その前後に明知線を訪れていたのかもしれません。
いろいろ考えてみましたがO君の足取りの手がかりがありません。可能性として西村さんの補機に書かれてある明智線の訪問記です。これを参考にしたのではないかと思っています。模型班でしたが結構、写真も撮っていたようです。美祢支線も一緒に撮りに行ったのですから。