流線形車両-4-で総本家さんや河 昭一郎さんから車掌の案内アナウンスの甲子園、甲子園の連呼が取り上げられた。「何回言うねん、うるさいな」という毎日聞かされる御乗客の皆さんからのうんざり感もあったものと思われる。マルーンさんによると阪急電車でもある時に2回案内していたのを1回にしたと聞く。ところで、最近は落語やコントなどお笑い番組でも出演者に鉄チャンが増えたのか車掌や駅員のアナウンスの真似を得意げにする芸人が増えたような気がする。鉄ちゃんはいろいろな世界にいるようだ。
さてかく言う私も若いころによく聴いた車掌の案内放送に旅情を掻き立てられたり格好いいなと思ったことがあり今でも頭の中に残っているものがある。総本家さんには何度も伝えたことがあるが今回はその車掌アナウンスと関係のありそうな時代の車両と共にお伝えしたい。多少の言い回しは車掌にもより、また、私の記憶も間違っているものがあるかもしれないが大体こんな感じだったと思う内容である。間違いをご指摘いただければ幸いである。
まず、阪急神戸線の特急が夙川を出て西宮北口に到着する頃である。
「皆さん まもなく西宮、西宮北口でございます。宝塚、箕面、今津方面はお乗換え願います。宝塚方面は5号線、6号線、今津方面は7号線へお乗換え願います。西宮北口を出ますと十三まで停まりません。」(「大阪方面普通は3号線の電車にお乗換え願います」は案内したとは思うがあまり記憶にない。また、当時は箕面が入っていたが、今津線経由の方が十三経由よりも早く着けたのかどうか定かではない)
1968.04.04 夙川付近は桜花爛漫であるが白黒ではわかりづらい。もうかなり前であるがこの5000系も今でも通用するスタイルである。 梅田行き特急5004 ▼
次に京阪電車三条駅での淀屋橋行き急行である。
「皆さん、毎度京阪電車をご利用下さいまして有難うございます。この電車は大阪淀屋橋行き急行でございます。停車駅は四条、七条、伏見稲荷、丹波橋、中書島、八幡町、枚方市、(枚方公園)、香里園、大阪京橋、天満橋、北浜でございます。次に乗り換えのご案内を申し上げます。近鉄京都、奈良、橿原神宮方面は丹波橋で、六地蔵、黄檗、宇治方面は中書島で、交野、私市方面は枚方市で、国鉄環状線と片町線は京橋でそれぞれお乗換え願います。」とまあこんな調子ではなかったかと思う。始発駅での乗り換え各駅の案内は京阪以外ではあまり聴いたことがない。
1967.11.29 三条 幕板が広い印象の淀屋橋行き急行1301 (3扉化後の姿) ▼
長距離列車の案内は何となく旅情が湧く。中でも近鉄名古屋線の中川行き急行のそれが好きである。
「この電車は大阪、宇治山田連絡中川行き急行でございます。停車駅は桑名、富田、四日市、塩浜、伊勢若松、白子、江戸橋、津、津新町、久居、中川でございます。終点中川におきまして大阪上本町行き急行、宇治山田行き急行に連絡しております。」 と言った調子であった。 国鉄の宇野行き優等列車は大体四国連絡宇野行き急行「瀬戸」とか同準急「鷲羽」とアナウンスされていたがそれに似た感じでこの連絡という言葉の響きが好きであった。
1968.07.13 長島-桑名間を行くシュリーレン台車に履き替えた6317の中川行き急行 ▼
関東では多層だての急行列車があり、誤乗防止を含めたその複雑な(?)なアナウンスが興味深かった。小田急の急行箱根湯本・江ノ島行きや京王帝都の特急京王八王子・高尾山口行きがその例であった。
小田急の場合、「この電車は急行箱根湯本・江ノ島行きです。停車駅は下北沢、成城学園前、登戸、向ヶ丘遊園、新原町田、相模大野です。相模大野で切り離しを行います。前の4両箱根湯本行きは相模大野を出ますと海老名、本厚木、伊勢原、鶴巻温泉、大秦野、渋沢、新松田、小田原、箱根板橋、風祭、入生田の順に停車します。後ろ4両の片瀬江ノ島行きは相模大野の次は南林間、大和、長後、藤沢、本鵠沼、鵠沼海岸の順に停車します。」とまあこんな具合であった。さらに、「この放送が聞こえております車両は前4両の箱根湯本行きです。相模大野で後ろ4両江ノ島行きを切り離します(相模大野でわかれて発車します)。お間違えなきようご乗車ください。」と言った案内を前後それぞれに分けてしつこく(?)アナウンスしていた。それでも誤乗した客を何度も見ている。京王の場合は高尾山口行きは緑の吊り輪にしてそのことを案内のポイントにしていた。
1973.10 鶴川-玉川学園前 2400系8連で前4両が箱根湯本行き、後ろ4両は青と黄色の旧塗装の片瀬江ノ島行き。今は宅地化でこのような写真は撮れない。 ▼
多層だてと言えば東武の3方向行先の快速、区間快速6連クロスシート車の6050系が昨年まで走っていた。アナウンスは省略するが、会津田島と言えば東北の一角福島県であり長時間の乗車である。特急運用に切り替わり廃止されたのは残念である。
2010.03.13 板荷-下小代 区間快速日光・新藤原・会津田島行き。先頭の62102は野岩鉄道所有車。 ▼
車掌のアナウンスは関西は「ございます」、国鉄、関東は「です」調が多かったが今でも「ございます」を使う車掌もいる。因みに国会答弁、特に安倍総理は「ございます」調である。「皆さん」、「御乗客の皆さん」、「お降りお乗換え願います」等かつての関西私鉄は丁寧に語りかける言葉づかいであったように思う。乗務員が詰め襟の学生服スタイルの頃である。関東私鉄では特急、急行等優等列車では途中の通過駅を全部読み上げて各停などに乗り換えるように誘導する傾向があるが、これも平日の通勤時にはうるさく感じる。関東では最近は「どこどこでは前を走る各駅停車に接続しております」とか「乗り換えができます」の表現が多くなった。それはそれでいいのではないかと思うようになった。お客のニーズとしては複雑な列車種別(準特急など早いのか遅いのかよくわからない)で困ることも多く、何時も聞かされている停車駅よりも自分の目的地に早く着く電車はどれなのかを知りたいことだと思う。
かつてのアナウンスで聴いてみたかったのは大宮が終点の頃の阪急京都線のノンストップ特急、同じく京都-宝塚間の歌劇号、阪神のこれも梅田-三宮間ノンストップ特急、南海の四国連絡特急等である。かつての車掌アナウンスや駅の案内放送も南海や京阪のPRソングのように検索で出てこないものだろうか。
河 昭一郎さん、私鉄ばかりで御免なさい。
色々と興味深い写真とお話ですね。
阪急5000系の写真に今も通用するスタイルとありますが全く同感です。
学生時代から、敵ながら悔しくも洗練された都市間鉄道のスタイルだと思っていましたし、これこそが一世を風靡した阪急スタイルそのものだと思います。現在は世の流れからか他社にもありそうなデザインにちょっと崩れてきた(失礼)かなという印象です。
先ずは阪急から入られましたが、続いてはちゃんと京阪もご紹介頂き感謝申し上げます。1300の急行というのが何故?よりによって!という気もしますが、そこは見て見ぬふりをして先に進めます。車内アナウンスは確かに「・・でございます」でしたね。社内では「です、ます」調でもという意見もボツボツ出始めていたようですが、それが長く続きました。乗務した頃には京橋のあとに、天満橋で地下鉄谷町線、北浜で堺筋線、淀屋橋で御堂筋線と続いていたように思います(が、もう忘れました)。また通過駅の案内に関して東西の違いを述べておられます。関西風の「・・まで!停まりません」というのは実はクセもので、人によってはその駅まで含まれると解釈する人がおられて時々クレームがありました。例えば昔の京阪でいうと「枚方を出ますと八幡町まで停まりません」の場合、我々は馴れ親しんでいたので次の停車駅は八幡町だと理解しますが、これを八幡町までは停まらないと聞く人が居たのです。たいがいは「車掌が案内を間違えた」という内容のクレームとして持ち込まれますが、よくよく話を聞くと上記のケースだったということがしばしばでした。社内の放送用語の検討時にも、関東風に中間の停まらない駅名を連呼してはという意見もあったようですが、区間によっては長ったらしいことや、なるべく短くという時代の流れとも逆なので中々実現していません。
実物の鉄道趣味というと車両や写真に目が行きがちですが、ご指摘のあったアナウンスは案内という実際の機能・目的のほかにも、日常の乗車体験とも密接に絡んだ分野だと思います。今まで余り関心を持たれることも少なかった、いわばニッチなジャンルに光を当てられた今回の話題はその意味でたいへん有意義な話題提供であったと思います。さすが準特急さまと感服いたしました。
ところで1300が出たついでですが、車掌乗務時の急行で忘れられないことがありました。当時は1300の通しの急行はもう滅多にお目にかかることはありませんでしたが、たまたま運用の都合で入ったのでしょうか、三条朝8時42分発急行の枚方~香里園間で車内整理に入ると座っておられたご婦人から声がかかり、何かご案内かと思ったところご自分の膝を指さされ、水が落ちてきて濡れたと仰いました。冷房車は2400系の3編成しかない時代ですからクーラーからの水漏れでない事は明らかでした。元を辿るとつり革の先から落下しており、さらにつり革上部の吊り輪棒とそれを天井から支える三角形の金具も濡れていたため、天井からの雨漏りらしいことが判明しました。そういえば途中でちょっと強い目の雨が降っていたのが原因ではないかと思われました。お客さまには「なにぶん古い電車で、車庫でも点検はしている、今日は臨時で急行に使われた」等々と弁解がましい説明をして謝った記憶があります。電車のましてや京阪の雨漏りなんぞ恥ずかしくて言えないことですが、もう半世紀も前で時効でしょうから開陳しました。
ところで京王高尾山口行の吊り輪の色ですが、使用される電車は固定運用になっていたのでしょうか、また小田急のマイクの切り替えに興味が湧きます。一部車両の扉カットはままみられましたが、マイクの切り替えは初めて知りました。技術的には可能でしょうが、配線や放送手順がかなり複雑になりますね。仮にそんな列車を担当すれば、度々ミスをしていたのではないかと乗務員の苦労が偲ばれます。
準特急さんの車内アナウンスについての投稿をみて、頭の中がぐるぐる回りました。まずは映画に出てくる車内アナウンスでいいと思ったのが有川浩さんの小説「阪急電車」を映画化した中であった阪急電車のアナウンスです。この映画は富山で単身赴任に見たのですが、遠く離れた富山で阪急電車の車内アナウンスを聞くと感慨深いものです。それと「イズミヤ」のレジ袋が写ったのも“おおぅ”という感じでした。そしてこの小説、映画になった舞台が阪急今津線で、小説の冒頭のところで「そしてこの物語は、そんな阪急電車各線の中でも全国的知名度が低いであろう今津線を主人公とした物語である。」と(会長さんごめんなさい。)、しかしこのおかげで知名度を上げたのでは。ちなみに「阪急電車」の文庫本はなぜか我が家には3冊あります。もう1つの車内アナウンスとして関西本線(時刻表の地図ではこのように書かれている。)快速のアナウンスが何か遠いところに行く長距離列車の雰囲気がありました。まだ、113系が快速として走っていた頃です。(特に夜遅くの列車は夜行列車のような感じ)柏原を過ぎると列車は大阪と奈良の県境の大和川の渓谷に沿ってトンネルをいくつも越え、間もなく王寺につくところで接続列車の案内があることがあります。「和歌山線の五条行は〇〇時△△分発で◇◇分のお待ち合わせ」とかで◇◇分は20分とか40分の長い時間の待ち時間でした。今は長時間の待ち時間のアナウンスはあまり聞かれないようですが、王寺で奈良行と五条行の分割のアナウンスがあります。
準特急 様
『車内アナウンス』、これはこれは又奥の深そうな話題ですね。
名前を挙げていただいた以上は何かリアクションを、と思ってハッとしました。
鉄道ファンと吹聴しながら『車内アナウンス』については全く無関心で無知だった事に気付き自分自身が呆れております。
ただ、これは何かの記事に書いた事が有ると思うのですが、脳裏に鮮明に残っている小生としては唯一の『アナウンス』が有ります。
それは立花に居た小学生の頃、家族と省線電車(もう国鉄になっていたと思いますが、この頃は皆『省線』と言っていました。)で大阪に『お出かけ』した時の体験です。
その頃は車内放送などと言う文明の設備が無く、駅に近づくと車掌さんは車掌(運転)室の扉を大きく開け、地声(肉声)で案内していました。
特に印象に残っているのは京都行き電車が大阪駅に近付くと、やおら扉を開けて『次は~大阪~、大阪~。 城東線、西成線、福知山線方面は、お乗り換えで~す。』と大声を張り上げていた事です。(途中の尼崎で福知山線方面の案内をしていたかどうかの記憶はありません。)
今思えば『市電じゃあるまいし・・・』ですが、どうやら、これは2~3両の短編成の頃の習慣で、車掌さんが各車両に出向いて『大声案内』していたのではないかと思われます。
その習慣がそのまま5~6両連結になっても続いていたものと考えられ、6両も歩く訳には行かず、かと言って止めてしまうのもマズイとの中途半端な状態だったんではないかと思っています。
河 昭一郎様
京都-西明石間の緩行電車でも放送設備がなかった頃があったのか車掌が肉声で駅名を連呼していたとは始めて聴く話です。阪急今津線でも2~3両編成で車掌が車内をまわり肉声で「次はどこどこでございます」とやっていたような記憶が微かにあります。また、自動ドアがない電車は車掌がいちいち各車のドアを発車前に閉めていたという話は特に関東ではよく聞いた話です。甲子園口近くの西宮市二見町で写真屋さんに行っていたことがありますが、その頃電柱に貼った不動産や病院の案内にはまだ省線甲子園口から5分とかありました。新京阪や奈良電ともども今や死語になりましたね。有難うございました。
準特急さんも言っておられますが、近鉄の長距離列車でも特に急行や快速急行は旅情を感じるものがあります。今も週に2~3回は上本町からの快速急行で車内アナウンスを聞いています。上本町発五十鈴川行きの停車駅を聞いていると…上本町の次は鶴橋(ここは当然大阪府です)、五位堂(すぐに奈良県に入ります)・大和高田・大和八木・桜井(次の榛原まで連続勾配が続きます)・榛原(勾配を駆け上がり一休み、だんだんと山の中に入って来ました、次の駅までの駅間距離は約7キロあります)・室生口大野(次は三重県になります)・赤目口・名張・桔梗が丘・美旗(快速急行も停まります!)・伊賀神戸(伊賀らしくなって来ます)・青山町・榊原温泉口(青山トンネルを越えた山奥?の温泉です、ここからは伊勢湾目指して一気に駆け下ります)・伊勢中川・松阪・伊勢市・宇治山田(やっと伊勢神宮まで来ました)となります。アナウンスには8両編成の場合は「名張での切り離し」また「お手洗いは前から2両目にあります」の案内も入ります。ただ以前から自動放送になったり、英語・中国語・韓国語(いずれもポイントだけ?の短いものです)が追加されたりで趣は変わってきました。
WAKUHIRO様
平坦で単純な名古屋線に比べ連続33パーミルの大阪線のアップダウンは凄いですね。見ていて飽きないのでいつもカブリツキです。室生口大野は特に印象的な駅です。大阪線は役者2200系のガラクタ編成(2200、2227、2250、2300等で編成美はないが全てツワモノぞろい)ながらダブルタイフォンを鳴らし電制を利かしての素晴らしいクロスシート長距離急行列車でした。多分車掌アナウンスは「この電車は名古屋連絡宇治山田行き急行でございます。停車駅は鶴橋、高田、(大和)八木、桜井、榛原、名張、伊賀神戸、榊原温泉口、(伊勢)中川、松阪、伊勢市でございます。」と言ったのではないかと思います。大和高田と伊勢中川の旧国名は言っていなかったような記憶がします。特急中心の今のダイヤと異なりもう少し急行の存在価値があったような時代でした。
準特急様
「毎度阪急電車にご乗車下さいまして有り難うございます。この電車は12時15分発大阪梅田行き特急でございます。途中の停車駅は烏丸、大宮と大阪の十三でございます。大阪梅田終点到着時刻は12時54分でございます。発車まで暫くお待ち願います。なお、車内は禁煙でございます。車内でのお煙草はご遠慮願います。」ってな調子でしたかねぇー。
車内アナウンスは、でございます、願います、まで止まりませんから、現在の、です、下さい、〇〇に止まりますに変わり、若干の違和感を感じたものの、今では慣れてしまった感があります。
西宮北口もダイアモンドクロスの撤去による今津線の分離、阪急ブレーブスの売却、西宮球場の撤去、阪急西宮ガーデンズのオープン等々様変わりして、その時々で車内告知も変わっています。それとお書きのように箕面への乗り換え案内は、宝塚線の高架工事の進捗で運転時分が変わり、今や十三での乗り換えが合理的になっています。
会社によって、時代によって、いろいろ変化していくものですね。こういった視点に立った楽しみ方?もありですね。有り難うございました。
マルーン様
実際に使われたアナウンス有難うございます。御煙草はご遠慮願いますもありましたか。「御出口は右側です」が阪急電車では「右側にお降り願います」と聞いたような気がします。時代の変化と言えば「電車は急には停まれませんのでお立ちの場合は吊皮手すりにおつかまり下さい。」とか戸袋に手をひき込まれないように特に小さなお子様連れの方はご注意ください」という決まり文句から最近は女性専用車両のご協力お願い、非常停止ボタンの利用案内、不審物や不審者を発見した場合の通報、、優先座席のこと、スマホ携帯の利用禁止やマナーモードへの協力依頼、遅延のお詫び、黄色い線の内側歩行誘導など、それに加えて自社やグループ会社のイベント等営業案内等々結構うるさくやっているようです。時代が変わっても阪急電車のマルーン色とホーム表示の〇号線は変わりませんね。
準特急様
興味深い話題をありがとうございます。皆様がコメントされているように、車内アナウンスには様々な思い出があります。そんな中で私が印象深いのは北海道のローカル線旅での車内アナウンスです。「次は〇〇です。本日の△△線への接続はございません。明朝5時30分△△行きまで駅の待合室でお休み下さい」式の乗り換え案内です。民家もまばらな乗り換え駅ですから待合室で夜明けを待つしかないのですが、日付けが変わる頃まで頻繁に電車が走っていることが当たり前の都会人には、えっ、もう今日は最終が出たあと?という驚きでアナウンスを聞いた記憶があります。アナウンスと同様に懐かしいのは、アナウンス前後に流れるメロディー、チャイム音ですね。「汽笛一声」もありましたが、それとは違う ここでは表現しにくいあのメロディーも聞いてみたいものです。
西村さま
コメントを拝見していてハッと思い出したことがあります。札幌駅ホームの特急の到着放送で「〇〇から来ました・・」と始発駅名が今でも流れるのです。例えば「網走から来ました特急オホーツク〇号は只今到着いたしました」てな具合ですが、小生はことのほかこれに旅情を感じてしまいます。遠路はるばるよう来たなと列車を労ってやりたくなりますし、鉄道全盛時代のいわゆる輸送の使命感の名残を感じられてなんともいえない豊かな気分になります。他駅を知りませんが、現在でもこの放送をしているのは北海道だけではないでしょうか。出発案内放送も旅情を感じるものですが、都会に居て始発駅名を聞くと感慨深いのは北海道だからか、はたまた小生だけかもしれませんが。
1900生様
阪急スタイルの原点は昭和35年(1960年)に登場したローレル賞受賞の神戸線2000、京都線2300で以降2100、2800、3000、3100、3300、5000、5100、5200、5300と続きました。基本的に同じ顏で正直言って食傷気味になってきたのも事実です。スタイル、性能等が統一されるのはメンテ等現場サイドではいいこととは思いますが、趣味者はそうではなく勝手気ままですぐ飽きてしまいます。マルーンさんによりますと社内でもいろいろとあるようで線別に色を変えるような案もあったとのことです。
京阪1300の急行を取りあげたことに他意はございません。三条駅で撮った急行は他には2000のスーパーしかなく、阪急も920か810の特急にしたかったのですが、撮っていないので止む無く5000にした次第です。それより運輸省規格型の電車も大変でしたね。1900生さんの親切で丁寧な対応が目に浮かびます。
京王の緑の吊り輪は7連特急で前4両が白の一般吊り輪の京王八王子行き5000に対して後ろ3両の5100系が緑の吊り輪でした。社員の提案制度の採用によるものです。6000系になり5+3の8連で後ろ3両も緑の吊り輪であったと思います。
小田急の急行の個別放送は技術的なことはわかりませんが、スイッチ一つで切り替えていたと思います。東北新幹線の「こまち・はやぶさ」や「つばさ・やまびこ」なども同じ考え方の案内放送と思います。
どですかでん様
コメント有難うございます。阪急今津線はいつの時代も神宝線のお古が回されてきますし、電車も遅いのですが、沿線には関学、神戸女学院等有名伝統校がある学園都市線でもあります。映画の舞台になる要素もあり、住んでみたい路線のひとつでしょう。マルーンさんや893-2さんなども高級住宅街にお住まいですが、私はもう少しガラの悪い地区に住んでおりました。
河内堅上から三郷にかけての県境の大和川沿いは大阪からのアクセスもよく武田尾や保津峡のような都心近くの秘境ととらえています。どですかでんさんの庭先でもある王寺は和歌山線に加えて近鉄生駒線、田原本線の乗換駅でもあり正しくジャンクションですね。関西本線では最も目を離せない、車掌のアナウンスもよく聴きたい駅です。私鉄ばかり取り上げましたが、国鉄の夜行列車のアナウンスも旅情を感じるものでした。停車駅と停車時間の説明の後、明朝〇時の〇〇駅到着まで放送を控える旨の説明があり減灯していくあのシーンはスハネ30で聴くと最高でした。
西村雅幸様
今年のカープも強そうですね。ある解説者の予想ではダントツ1位で以下DeNA、阪神、巨人、ヤクルト、中日だそうです。昨年は木次線でお世話になりましたが例の事件がありバスに乗った関係で全線乗車は諦めました。諦めたと言えば連日報道の三江線もそうです。申し訳ありません。
北海道のローカル線の予想より早い最終列車のアナウンスは寂しく気落ちされた様子がよくわかります。ステホされたのでしょうか。ところでコメントにありました国鉄のメロディーは懐かしいですね。特に終着駅到着前のアナウンスの時に鳴っていたような気がします。青森などで聴くと最高でした。また、青函連絡船で聴く函館からの接続列車の案内も旅情を掻き立てるものでした。また、思い出のアナウンスをお聴かせください。
1900生様
「網走から来ました特急オホーツク〇号」は聞いたことがあるのかどうか定かではありませんが、ちゃんと聴いておれば当然その列車の行程が浮かび、「よう来たな」(毎日来ているのですが始めて見る人はそういう気分になります)という気持ちになります。雪などつけてくるとさらにそのような感じになります。話は少しそれますが1900生さんと言えば飛行機にも造詣が深いとお聞きしておりますが、昔成田ができる前の羽田空港の送迎デッキでは例えば「ただ今B滑走路を飛び立ちました飛行機はエールフランスフランス航空のボーイング747形機で大勢のお客様を乗せまして花の都パリへ向かいました」と気分を高揚させる送迎・見物客用のアナウンスがあり旅情というよりも外国に行きたいなと強く思ったものです。国内線でも同じように「杜の都仙台へ向かいました」というセリフは覚えています。
準特急さんは、つねづね「デジ青のテーマは、なんぼでも転がっている。要はどう組み合わせるかや」と、関東風関西弁で熱く語っておられました。今回の車内アナウンスと写真の組み合わせ、まさに企画の勝利ですね。鉄道の“音”は、一時、走行音や駅アナウンスを集めた商品もありましたが、恣意的に語られることもある車内アナウンスは、商品にはしにくいのでしょうか、ちゃんとした記録が残っていません。“音”そのものも、昨今の“動画”に取って代わられて、“音”だけの商品は無くなりました。それだけに各地、各時代の車内アナウンスを、ちゃんと記憶され、写真とともに披露されたのは、貴重な記録ですね。
総本家青信号特派員様
阪神甲子園駅到着前の「甲子園」の10連発から始まった車掌アナウンスの話ですが外国では駅名を言わない鉄道もありますしアナウンスがある場合駅名のみが一般的だと思います。但し、ヨーロッパの優等列車などは停車駅と停車時刻や乗換案内が印刷物として配布されていました。しかし鉄道のみならずホテルでもどこでも日本はサービスが世界一だと思います。過剰と言われることもありますが、まあ安心できる国です。その証拠に韓国や中国など比較的日本を嫌う近隣国からどんどんリピーターが来ているではないですか。私鉄サービスでは京阪がいろいろな面でトップではないかと個人的には思っています。私鉄はJRと比べインフラもチープですし、何より営業距離も短いので併行区間ではJR等ライバルに負けてはいけないのです。料金、速達性、列車頻度、列車設備など全てとはいきませんが地域ナンバーワンにならないと存在価値がないと思います。だからアナウンスを含めた接遇も重要です。客層や時間帯等を考慮したアナウンスがあればと思います。デジ青は難しい面もありますが毎日見ておられる熱心な読者もいます。総本家さんの素晴らしい50年前の新旧対比紀行に少しでも近づくようにしたいと思います。
準特急さんの投稿もたいしたものですよ!
貴重な写真はもとより、的確な説明や少しシニカルなコメントは、私は大好きです。
特派員さんとぶんしゅうさんと準特急さんの投稿がデジ青の目玉であることは間違いないでしょう。これからも投稿を待っています。
マイテさんという大物が抜け落ちていると思われますが・・・
米手作市様
目玉かどうかわかりませんが、いつも思いますのはデジ青はDRFC-OB会の特徴であり強みと思っています。他大学の鉄研でこれほど長く続き、また、外部の方にもコメントができるように開放されているホームページ的デジ青はないと思っています。それだけに管理人の苦労も大変ですし、発表する側でも気をつかうことは多いと思います。米手さんが会長に就任された時にゼミの仲間との付き合いはあまりないが、鉄道同好会の仲間は死ぬまで続きそうだと言われたことをよく覚えております。それを関先生や散歩道のシリーズ、新人や旧人への支援コメントや辛口コメント、クイズ、援護射撃等々デジ青上でも多いに盛り上げて実践してくれる米手さんこそ目玉だと思います。私はあえて情報を取らず不勉強で知識もありませんが、関西育ちで関東在住であり海外も行ったことがあるなどでどなたの投稿に対しても興味があります。だから何らかのコメントをしたくなるのです。特に企画して投稿はしていませんが、長いこと鉄ちゃんやっていると題材は結構あると思います。今思いますのはマルーン現会長の基調報告にありましたデジ青のさらなる活性化です。新しい人、古い人、懐かしい人、外部の人達が次々と登場して双方向でワイワイ楽しくできればといつも思っています。そうなると少しは長生きできるような気がします。有難うございました。