50年前の撮影地を歩く -24- 宗谷本線編

音威子府を出た列車は、天塩川に沿って北上を続け、やがてサロベツ原野のなかを突き進みます。途中の駅は、ほとんどが木組みの1両だけのホーム、少しマシになれば車掌車「ヨ」を利用した待合室がある程度で、周囲に人家は見られません。乗車人員もゼロ人台の駅が続きますが、意外なことに、途中の2、3駅では、明らかに土地の人と思われる乗車・下車が見られました。この区間、普通列車は一日3往復だけ、他人事ながら、行き・戻りの列車はどうするのか、列車が遅れた場合の連絡はあるのだろうか、運休した場合は、といろいろな心配をしてしまいます。でも、鉄道を信頼し、一人でも乗る人がいれば、この宗谷本線は存続すべきだと改めて思ったのです。

稚内から普通列車に乗って1時間あまり、幌延に到着した普通列車、みどりの窓口もある、昼間のみ有人駅、かつて羽幌線を分岐していた。

幌延

まだ羽幌線が分岐していた時代の幌延駅、交換する宗谷本線の323D(左)と338D、どちらもキハ22の2連、駅は乗り換え客も含めて賑わいが見られた(昭和46年3月)。同一地点の現在、跨線橋は変わっていない。乗降客はなく、停車時間を利用して、乗り鉄・撮り鉄がウロウロするだけだった。

50年前の幌延駅。稚内を出て1時間あまり、交換待ちの間、機関士も一息入れる。

幌延駅の全景、二面三線構造だが、3番線は、かつての羽幌線発着線で、現在は側線扱い、実質、二面二線となっている。▲▲駅名標と広告看板。

手塩中川

手塩中川の50年前、幌延とよく似た二面三線の規模を持っていた(昭和46年3月)。▲▲現在では側線も撤去され、最低限の交換設備だけの駅になった。

下沼

▲下沼での322レ、現在は交換設備が撤去され、棒線駅になった。駅舎は貨車駅舎

 

 

 

稚内

深夜のサロベツ原野を走り抜き、定時23時47分に稚内に到着した「サロベツ3号」。棒線一本だけの終端駅に変わっていて、その変貌ぶりに、50年前との定点対比はできなかった。

朝6時41分、稚内に到着した「利尻」、この時代もホームは一面だったが、多くの側線があった(昭和43年9月)。▲▲その後「利尻」の牽引はDD51に替わった(昭和46年3月)。

当時の駅舎と、7時55分発の322レ、日中、宗谷本線を走り抜き、当時の乗り鉄の御用達列車だった。

深夜0時の稚内駅、特急から10人あまりの乗客が下車を終えると、明るく照らし出された駅舎のなかに、もう人影は無かった。

 50年前の撮影地を歩く -24- 宗谷本線編」への5件のフィードバック

  1. 稚内が単線の突っ込み線になっているとは・・・
    たぶん幌延の写真を掲載します。D611+9600

  2. 米手さま
    稚内は棒線一本構造のため、隣の南稚内駅の構内配線の一本が伸びてきただけという解釈をしているようで、旭川~南稚内は電子閉塞化されていますが、南稚内~稚内だけは、従来の自動信号方式で残っているようです。
    幌延の写真、拝見しました。番号を見ますと、先頭がキュウロクでした。幌延から、右手に分かれるのが宗谷本線、左手に分かれるのが羽幌線でした。ひょっとして、これは宗谷本線の貨物かもしれませんね。その場合、D61は入線できませんから、次位もキュウロクとなりますが、形式がよく判別できません。

    • 特派員様、おゆるしください!
      幌延と羽幌を取り間違いました。
      撮影地は築別です。本務機はD611、前補機は59695でした。
      お詫びして訂正いたします。

      • 米手さま
        これで写真の謎が氷解しました。築別ですと、右の線路は、羽幌炭砿鉄道のものとなり、合点が行きます。私も、鉄鈍爺さんと一緒に築別を訪ね、この線路を歩いて撮影地に向かいました。貴重な写真、ありがとうございます。

  3. 総本家青信号特派員さま
    懐かしい幌延の写真が出たので同駅に纏わる話を。昭和45年8月に行われたクラブの夏季北海道強化合宿の際、確か逗子のT田さんとご一緒だったと記憶しますが、急行「利尻」で日の出直後の明るくなった幌延に降り、直ぐにホームの先頭まで走って写真を撮りました。カマに近づくとなんとC55の1号機でした。1号機は撮ったことがなかったので興奮して撮ったことを憶えています(まだ純真でした)。
    それに先立つ冬の見聞録旅行では、西村さんと豊富からの帰路に羽幌線に乗り換えたものの、日本海側に座ったはずが、羽幌線は幌延を北西に向けて発車したのち日本海に沿って南下するため、慌てて席を反対側に移したことがありました。当時のローカル線は余程のことがない限りガラガラだったので、なにも慌てることはなかったのですが。
    それにしても稚内駅の変貌ぶりには驚くばかりですね。当時は96による側線での貨物入替もありましたし、その先の港のドームまでの線路もまだあり、それとはなく最北端駅のムードが感じられたものです。現在は近代的な今風の立派な駅になりましたが、最北端駅としての旅情は完全に消え失せてしまいました。札幌直通特急が1本になったことやローカルの削減、更に地元客の乗降が「以外にも」といわれる状況などと併せ、名寄以北の廃止が段々現実味をおびてきたように感じられて寂しくなります。

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