桂川駅から西大路駅近くまで、歩いて巡った東海道線開業時の面影巡り、ここから先の京都駅方面へは、2008年ごろの旧掲示板から新掲示板への移行時期に、「京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ」として本欄で紹介しました。ところが、見返してみると、旧掲示板は「おっと失礼」で、見ることができなくなっていました。ちょうど10年が経過していますので、その後の変化も含めて、改めて西大路~京都の開業時の遺跡を探索することにしました。
前回の「超低い恐怖のトンネル」がある御前通を過ぎると、まもなく京都鉄道博物館が見えてきます。米手さんご紹介の地図からも分かるように、ここまでの区間は、開業時の路線と、現在の上り線とが一致していますが、ここから開業時路線は、徐々に現在線の北側へ振るようになります。ご承知のように開業時の京都駅は、現在の駅前広場にあって、その延長線上に、開業時の東海道線があったことになります。ちょうど、京都鉄道博物館の梅小路機関庫・梅小路公園の芝生広場の直下に、開業時の路線があったことになります。
◀梅小路公園を走るN電、このすぐ南側を開業時の東海道線が走っていたことになる。
10 鉄道博物館の下に眠る遺跡?
京都市では大規模な開発工事がある際には、遺跡調査が義務づけられている。もと梅小路貨物駅を廃止し、梅小路公園に向けた工事を行う際にも発掘調査が行われ、「西八条第」という平家一門の邸宅群の遺跡が発掘された。現在も梅小路公園内に説明板が立てられているが、その際に、開業時の東海道本線の遺跡が発掘されたのかは不明である。また京都鉄道博物館新設の際にも発掘調査が行われたが、顕著な歴史的な遺物・遺跡は発掘されなかったようだ。
11 大宮陸橋下の開口部
梅小路公園を過ぎて、大宮通まで来た。ここに東海道本線を越える大宮陸橋がある。陸橋の下は、コンクリートの壁ができて、内部を窺うことはできないが、一ヵ所だけ、開口されていて、東西を結ぶ道路となっている箇所がある。これこそが、開業時の東海道線の廃線跡である。おそらく土地の所有区分が違うため、陸橋の架橋時に、ほかとは違う扱いになったのではと推察する。▲大宮陸橋の架橋は、市電大宮線の開業と同じ昭和10年。東海道線の廃線部だけが開口部となって、面影を残している。その向こうが、開業当時の仮駅跡に当たる元梅逕中学校。
12 京都仮駅跡のいま
大阪~京都の開業時、京都駅の工事が間に合わず、仮の京都駅を設けて、明治9年9月に京阪間を開業した。その仮駅の跡が、大宮通塩小路東入る、元梅逕中学校付近である。もっとも明治10年2月には、京都駅が完成して東へ延伸されており、その存在は6ヵ月に過ぎない。もちろん資料などは残っておらず、おそらく一面一線程度のごく簡素なものだったと想像される。元梅逕中学校は、明治2年に小学校として開校しているので、東海道線が開業した当時は、駅と小学校が隣り合わせにあったことになる。▲大宮通塩小路東入る南側にある元梅逕中学校、その一部が京都仮駅だったと言われる。現在でも塀の構造が異なる箇所があり、右側が仮駅の用地で、のちに学校用地として拡幅されたと考えられる。▲廃線跡に建つ住宅(写真右)、塩小路通の一筋南側の細い路地で、東から西を見ており、正面突き当たりに前掲の元梅逕中学校の塀が見える。この路地と塩小路通の間が廃線跡に相当する。のちに払い下げられて民家が建った。
13 旧線の煉瓦があった寺
昭和59年、鉄道友の会の「京都駅周辺の鉄道遺構めぐり」に、顧問の大西友三郎さんから誘っていただき、私も特別に参加させてもらった。京都駅の会議室を借りて説明を受けたあと、周辺の実地見学へ飛び出した。まず向かったのが塩小路通の宗徳寺、女性の守り神として知られ、通称「粟嶋堂」と呼ばれている。この本堂前の敷いてある煉瓦、ふつうは方形だが、一部に台形になった異形煉瓦がある。たとえば機関庫のアーチ窓のように、アールを出すところに使われるもので、当時の鉄道の構築物から転用されたものと推察される。
▲昭和時代に粟嶋堂の境内で見られた異形煉瓦、前の塩小路通の南側が旧線跡に当たる。付近には鉄道施設が集中していたと推測され、廃煉瓦を転用したと見るのが自然だ。
▲現在の粟島堂、お火焚き祭が行われていた。境内には煉瓦が敷き詰められているが、これは平成に入ってから新しく敷かれたもので、旧線時代の煉瓦ではない。裏側にいまも煉瓦が保管(放置)されているとも聞くが確認できなかった。