1957年5月金沢機関区



C5776とC5778

北陸鉄道のネガをゴソゴソやっていたら、国鉄車両も出てきた。金沢では機関区、客貨車区も、行きがけの駄賃というか、ついでに覗いていたのである。C57はどうでもいが、E10がズラリ並べられていた。周知のようにE10は1949年4月24日奥羽本線福島-米沢間電化で失業し、その後北陸本線倶利伽羅峠の補機として使われていたが、新随道の掘削で勾配が緩和され、再度失業していたのである。


E101  奇怪な除煙板にご注意あれ



E102(上)とE104(下)

その後北陸本線交流電化で、米原-田村間4.7kmという長大デッドセクションになり、ほぼ勾配のないこの区間が彼らの失業対策―最終職場になった。交流電化開業は1957年10月1日だから、米原区転出の数か月前だったことになる。さらにはこの米原-田村間も1962年12月28日電化され、全く用途を失って廃車された。

 

機関区の片隅に、立山重工製Cタンクが1両、さして荒れずに放置されていた。同類は各地で見られ、軍需工場や陸海軍工廠等で使われていたものが、敗戦後GHQ(General headquarters=占領軍総司令部)から賠償指定され、大蔵省管轄で保管されていたものである。結局は賠償にはならず、車両類は1953年ごろから順次指定解除されて私鉄で再活躍したり、引き取り手がないものは解体されてしまった。このCタンク機も、本当に車両不足が切実だった時期を無為に過ごし、再起したとは聞かない。金沢機関区は単に置場を貸していただけである。


ホユニ5051が完全な姿で残存していたのには一驚

客貨車区を覗いて仰天しかけた。何と、ホユニ5051(形式5050)がまともな姿で残存しているではないか。これは鉄道作業局ニボ17として、1889年神戸工場で誕生したもので、ホイロ5166(5150)→ホロ5508(5495)→ホユニ8605(8600)→という経歴。1950年2月14日名タヤで廃車されているから、この時点7年を経過している。

通常食堂や休憩室、組合事務所などに廃車体を転用する場合、台車を外すのに、これは一体どうしたことか。別段保存や転用などというものでもない。単に解体から漏れていた、というだけなのは、出入り口にハシゴ・階段の類が付けられていないことから分かる。蒸気機関車なら、誰かが画策して密かに残していた―例えば吹田教習所にC5345、555、65が残存―こともあったが、こんな例は珍しい。小生にしても、救援車や配給車化されず、営業車のままの雑形客車で、しかも足つきは、これ以外ほぼ見ていない。


ロ642車体

建物の間に、ロ642の車体を見つけた。形式628、628~680は新橋工場1888~1900年にかけ製造された、サイド2箇所扉のロングシート車で、片隅に便所があり、定員26人。

1957年5月金沢機関区」への1件のフィードバック

  1. 東海道本線準急「比叡」の車窓から見える吹田、梅小路、草津、米原、大垣、岐阜、稲沢は蒸機機関車の入れ替え作業や休憩中の姿が見られて大変楽しかった思い出があります。E10は米原で休車中の姿をちらっと見ただけで交直接続ジャンクション区間は既にD50に置き換わっていました。E10はC62のデフレクターをはずした5軸のタンク機関車と言った感じで、結局まともに撮影したのは青梅鉄道公園でした。申し訳ありませんが、湯口先輩の本命ターゲットからはずれたついでの記録に興味があり、どうでもよかったC57に目を奪われます。その頃は製造後20年くらいで油ののりきった綺麗な姿で輝いて見えます。このように改造されていないオリジナルに近い姿を記録したかったですが、生まれが先輩より一回り後で、趣味への目覚めも遅かったようで残念です。C5776は山陰線西部で改造された晩年の姿を記録しています。
    ホユニ5051は見事な国宝級の記録です。宝探しで最高の宝にめぐり合った様子がうかがえます。小生の歳ならどこかで木造車、少なくともナハ22000やB6と言われたタンク機関車を見ているはずですが、全く記憶がありません。オハ31やスハ32くらいから記憶にあり、記録しております。木造客車、木造電車、内燃車について当時の風景や人物を入れた貴重な写真を今後も掲載下さい。

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