昭和の電車 改訂版(23)ー京福電鉄モボ101型ー 投稿日時: 2019年10月26日 投稿者: 米手作市 和歌山電鉄でちょっと話題が出た京福電鉄嵐山線(らんでん)です。 私などは嵐電といえばこの形を思い浮かべます。 新型になった新101型は色も相まって全く気に入りません。なんであの色なんやろ? この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(139)ー南海電鉄モハ1251系ー 昭和の電車 改訂版(136)ー阪急51系ー 昭和の電車 改訂版(125)ー都電7000型8000型ー 昭和の電車 改訂版(123)ー大阪市営地下鉄60系ー 昭和の電車 改訂版(117)ー阪急フロ54号ー 昭和の電車 改訂版(78)ー近鉄モ6601系ー 昭和の電車 改訂版(72)ー南海クハ2801型ー 昭和の電車 改訂版(20)ー阪和電鉄モタ303号ー
米手さんがホームカミングデーで「デジ青の楽しみ方」と題して発表された時、「昭和の電車 京福電車モボ101型」にコメントがひとつもなかったと嘆いておられました。そこで、懇親会の席上で、そしたらコメントいれますは、と言ったのですが何をコメントしたらいいのか・・・それで思い出したのが円観でのコンパの前に行う一大行事、それは数か所の通過ポイント駅を一筆書で鉄道利用をして回るラリーであります。スタートは室町BOX。嵐山駅がポイントとなると嵐電に乗ることに。そして京阪京津線の上栄町駅もポイントなることになると大変です。コースは走者の自由で不正がないか伴走者と一緒に走ることになります。誰が1位なるか。こんなことも市電が走っていたからこそできるのであります。まあ、こんなことしかコメントできません。お邪魔しました。 返信 ↓
(注釈)円観:円山観光会館 今は無い。かつてDRFCのコンパ指定食堂で、長楽寺でのすき焼きコンパが仏罰が下り寺から追放された後、円山公園内にあった当会館に移動して継続開催。コンパ後、八坂神社石段での「同志社大学鉄道同好会、バンザーイ!」の三唱は、当時京都の秋の風物詩となっていた。 返信 ↓
米手さま、お嘆きなされますな。おそまきながら、例によりGordon Davis 氏の作品を御紹介しておきます。昭和31年5月撮影の104号です。特徴的な台車も、判ります。小生が見たこともない景色なのですが、何となく撮影地は、昭和33年7月に廃線となったと云う、北野~白梅町ではないかと云う気が致します。 返信 ↓
宮崎繁幹様 いつもながらの救いの手、ありがとうございます。 昨日のホームカミングデーで特派員氏から「おまえは前座!須田寬先輩までのつなぎのスピーチせよ!」と言われて「デジ青の楽しみ方」を訥々と話しました。その中でデジ青がご縁で河 昭一郎さんや宮崎繁幹さんという鉄道趣味界の重鎮の方々と軽口をかわせるのも我々の宝だと話しました。すると出席していた先輩の大阪通信員さんも「デービスさんのカラー写真など、デジ青のご縁で見せて頂けてこんな幸せなことはない。冥土の土産だ。なむあみだぶつ」と手を合わせておられました。改めてお礼を申し上げます。 さて、写真の場所ですが、後の「太陽ブロック」という会社は今はありません。遙か彼方に見える山は愛宕山です。電車は『帷子ノ辻』行きですから今出川通を東側から北西方向を向いています。電車の前方に半分隠れている家がやや斜めに振っている様に見えます。GoogleEarthで白梅町ー北野間を見ても北側で斜めの家は一軒しかありませんでした。それがこれです。撮影角度がデーヴィスさんとは逆方向ですが理由は後で説明します。 返信 ↓
写真二枚目 これがデーヴィスさんとほぼ同じ位置からのGoogleEarthの写真です。見にくいですが橋の向こう側の空き地がこの家の跡です。 GoogleEarthを見ていたら北側の道を東へ進んでいてこの家の前まで来ると次の瞬間家が消えてしまいました!つまりここが撮影時期の切り替わり位置だったのです。一歩東へ進むと家はなくなり駐車場に変わります。反対車線を西進しても家はありません(この写真)。GoogleEarthの写真の珍しい瞬間を見つけました! 撮影場所は今出川通りの紙屋川付近と推定致します。 返信 ↓
米手作一様 10日には久しぶりにお会いできたのですが、満足にお話ができず失礼いたしました。米手様の御高説『デジ青の楽しみ方』を拝聴できなかったのが、誠に残念でなりません。 嵐電はデジ青の皆様に人気がないのか、コメントが寄せられないことを小生も気にしておりました。宮崎様は救世主です。 撮影された場所は米手さんがおっしゃる通りで、今出川通の紙屋川を少し東へ行ったところです。実はこの付近、半世紀前の小生が足繁く通った場所で、2枚目のグーグル画像中央に見える白いビルは、当時書店でした。店頭の「少年マガジン」や「少年ジャンプ」を立ち読みするため、週に一度は通っておりました。 白梅町-北野間で嵐電が写った画像は滅多に見ませんが、「国鉄時代」42号に高橋弘さんの作品が載っておりますが、残念ながら北側からの撮影です。手掛かりを求めて画像を拡大すると、西へ走るバスの右に自転車を押す男性と、スカートを履いた女性が写っています。足元には歩道の切れ目も見え、北側に道があることを暗示しています。今出川通りと交差する電線も、道の存在を示しているように思えます。紙屋川の東にある駐車場の横に、今小路通りへ通じる細い道があって、中学生のころクラスで美人と評判のOさんの家がありました。この道は電車の陰に隠れて見えませんが、撮影場所の特定には十分な条件がそろいました。米手様がおっしゃる斜めの家が見える場所は、この場所をおいて他になく、遮る建物がないのは紙屋川があるからです。ですが、「太陽ブロック」がいつ頃まであったのか、全くわかりません。 返信 ↓
紫の1863さん、補強証言をありがとうございます。 会場での話の中で、このホームページが取り持つ縁で河さんや宮崎さんや紫の1863さんや関さんなどと親しくさせて頂けるようになったことを報告しておりました。 今後ともよろしくご指導をお願い致します。 返信 ↓
「白梅町~北野の写真は滅多に見たことがない」とお書きです。12月に上京区役所で開催します「上京区電車物語」で、まさに、この写真を探していましたところ、ある方から大量の写真を貸してもらうことができました。貴重な記録、満載です。ぜひ、12月7日、8日は上京区役所へお越しください。 返信 ↓
秋保電車にコメントするため、井口悦男さんの作品から伊予鉄8号の写真を探し出したときに、この写真に気がつきました。紫の1863さんのコメントによれば、北野~白梅町で撮られた嵐電の記録は少ないとのことです。ならば、北野駅での写真も珍しいかと存じ、ご紹介しておきます。昭和25年3月22日に、北野駅で撮られた嵐電112号です。小生にはモボ101型と同じように見えますが、どこか違うのでしょう。 返信 ↓
宮崎繁幹様 駅舎側から撮影された写真は見たのですが、ホームや留置線の様子がハッキリ写った写真を見るは初めてです。 私事になりますが、廃止から2~3年過ぎた頃の話です。幼稚園に上がる前の小生が母と並んでホームに座り、今川焼を食べたことがありました。駅舎はすでに解体されていたと思うのですが、ホームだけはしばらく残っていたようです。年齢を重ねるほど、あの日のことが懐かしく思い出され、北野駅のホームが、どのような風景だったのか知りたくてたまりませんでした。宮崎様のおかげで積年の願いが叶い、これほどうれしいことはありません。有難うございます。 釈迦に説法の類かもしれませんが、モボ101形とモボ111形(112号)は、製造年と車体の製造メーカー・制御器・台車が違うだけのようです。 返信 ↓
宮崎繁幹さん、紫の1863さん 私はこの駅は知りません。見たことはあると思うのですが記憶が無いので知らないと言うことです。 以前に何度かここでご登場頂いた中村進一さんの写真の中に廃止直前の北野駅があったと思うので探してみます。 返信 ↓
米手さんがホームカミングデーで「デジ青の楽しみ方」と題して発表された時、「昭和の電車 京福電車モボ101型」にコメントがひとつもなかったと嘆いておられました。そこで、懇親会の席上で、そしたらコメントいれますは、と言ったのですが何をコメントしたらいいのか・・・それで思い出したのが円観でのコンパの前に行う一大行事、それは数か所の通過ポイント駅を一筆書で鉄道利用をして回るラリーであります。スタートは室町BOX。嵐山駅がポイントとなると嵐電に乗ることに。そして京阪京津線の上栄町駅もポイントなることになると大変です。コースは走者の自由で不正がないか伴走者と一緒に走ることになります。誰が1位なるか。こんなことも市電が走っていたからこそできるのであります。まあ、こんなことしかコメントできません。お邪魔しました。
(注釈)円観:円山観光会館 今は無い。かつてDRFCのコンパ指定食堂で、長楽寺でのすき焼きコンパが仏罰が下り寺から追放された後、円山公園内にあった当会館に移動して継続開催。コンパ後、八坂神社石段での「同志社大学鉄道同好会、バンザーイ!」の三唱は、当時京都の秋の風物詩となっていた。
米手さま、お嘆きなされますな。おそまきながら、例によりGordon Davis
氏の作品を御紹介しておきます。昭和31年5月撮影の104号です。特徴的な台車も、判ります。小生が見たこともない景色なのですが、何となく撮影地は、昭和33年7月に廃線となったと云う、北野~白梅町ではないかと云う気が致します。
宮崎繁幹様
いつもながらの救いの手、ありがとうございます。
昨日のホームカミングデーで特派員氏から「おまえは前座!須田寬先輩までのつなぎのスピーチせよ!」と言われて「デジ青の楽しみ方」を訥々と話しました。その中でデジ青がご縁で河 昭一郎さんや宮崎繁幹さんという鉄道趣味界の重鎮の方々と軽口をかわせるのも我々の宝だと話しました。すると出席していた先輩の大阪通信員さんも「デービスさんのカラー写真など、デジ青のご縁で見せて頂けてこんな幸せなことはない。冥土の土産だ。なむあみだぶつ」と手を合わせておられました。改めてお礼を申し上げます。
さて、写真の場所ですが、後の「太陽ブロック」という会社は今はありません。遙か彼方に見える山は愛宕山です。電車は『帷子ノ辻』行きですから今出川通を東側から北西方向を向いています。電車の前方に半分隠れている家がやや斜めに振っている様に見えます。GoogleEarthで白梅町ー北野間を見ても北側で斜めの家は一軒しかありませんでした。それがこれです。撮影角度がデーヴィスさんとは逆方向ですが理由は後で説明します。
写真二枚目
これがデーヴィスさんとほぼ同じ位置からのGoogleEarthの写真です。見にくいですが橋の向こう側の空き地がこの家の跡です。
GoogleEarthを見ていたら北側の道を東へ進んでいてこの家の前まで来ると次の瞬間家が消えてしまいました!つまりここが撮影時期の切り替わり位置だったのです。一歩東へ進むと家はなくなり駐車場に変わります。反対車線を西進しても家はありません(この写真)。GoogleEarthの写真の珍しい瞬間を見つけました!
撮影場所は今出川通りの紙屋川付近と推定致します。
米手作一様
10日には久しぶりにお会いできたのですが、満足にお話ができず失礼いたしました。米手様の御高説『デジ青の楽しみ方』を拝聴できなかったのが、誠に残念でなりません。
嵐電はデジ青の皆様に人気がないのか、コメントが寄せられないことを小生も気にしておりました。宮崎様は救世主です。
撮影された場所は米手さんがおっしゃる通りで、今出川通の紙屋川を少し東へ行ったところです。実はこの付近、半世紀前の小生が足繁く通った場所で、2枚目のグーグル画像中央に見える白いビルは、当時書店でした。店頭の「少年マガジン」や「少年ジャンプ」を立ち読みするため、週に一度は通っておりました。
白梅町-北野間で嵐電が写った画像は滅多に見ませんが、「国鉄時代」42号に高橋弘さんの作品が載っておりますが、残念ながら北側からの撮影です。手掛かりを求めて画像を拡大すると、西へ走るバスの右に自転車を押す男性と、スカートを履いた女性が写っています。足元には歩道の切れ目も見え、北側に道があることを暗示しています。今出川通りと交差する電線も、道の存在を示しているように思えます。紙屋川の東にある駐車場の横に、今小路通りへ通じる細い道があって、中学生のころクラスで美人と評判のOさんの家がありました。この道は電車の陰に隠れて見えませんが、撮影場所の特定には十分な条件がそろいました。米手様がおっしゃる斜めの家が見える場所は、この場所をおいて他になく、遮る建物がないのは紙屋川があるからです。ですが、「太陽ブロック」がいつ頃まであったのか、全くわかりません。
紫の1863さん、補強証言をありがとうございます。
会場での話の中で、このホームページが取り持つ縁で河さんや宮崎さんや紫の1863さんや関さんなどと親しくさせて頂けるようになったことを報告しておりました。
今後ともよろしくご指導をお願い致します。
「白梅町~北野の写真は滅多に見たことがない」とお書きです。12月に上京区役所で開催します「上京区電車物語」で、まさに、この写真を探していましたところ、ある方から大量の写真を貸してもらうことができました。貴重な記録、満載です。ぜひ、12月7日、8日は上京区役所へお越しください。
総本家青信号特派員様
白梅町-北野間の写真が大量にありますか!
うれしいニュースをありがとうございます。
上京区役所には万難を排して駆け付けます。
秋保電車にコメントするため、井口悦男さんの作品から伊予鉄8号の写真を探し出したときに、この写真に気がつきました。紫の1863さんのコメントによれば、北野~白梅町で撮られた嵐電の記録は少ないとのことです。ならば、北野駅での写真も珍しいかと存じ、ご紹介しておきます。昭和25年3月22日に、北野駅で撮られた嵐電112号です。小生にはモボ101型と同じように見えますが、どこか違うのでしょう。
宮崎繁幹様
駅舎側から撮影された写真は見たのですが、ホームや留置線の様子がハッキリ写った写真を見るは初めてです。
私事になりますが、廃止から2~3年過ぎた頃の話です。幼稚園に上がる前の小生が母と並んでホームに座り、今川焼を食べたことがありました。駅舎はすでに解体されていたと思うのですが、ホームだけはしばらく残っていたようです。年齢を重ねるほど、あの日のことが懐かしく思い出され、北野駅のホームが、どのような風景だったのか知りたくてたまりませんでした。宮崎様のおかげで積年の願いが叶い、これほどうれしいことはありません。有難うございます。
釈迦に説法の類かもしれませんが、モボ101形とモボ111形(112号)は、製造年と車体の製造メーカー・制御器・台車が違うだけのようです。
宮崎繁幹さん、紫の1863さん
私はこの駅は知りません。見たことはあると思うのですが記憶が無いので知らないと言うことです。
以前に何度かここでご登場頂いた中村進一さんの写真の中に廃止直前の北野駅があったと思うので探してみます。