「B」の時代 ②

南九州、夜の機関区

B(バルブ)の時代、つぎは九州の機関区で見た夜景です。夜間撮影の場合、それが目的というより、夜行列車に乗るまでの時間つぶしに、機関区へ行くことが多かったのが実情と言えます。九州ですと、宮崎、鹿児島、人吉、吉松など、夜行列車が発着する駅の機関区へよく行ったものでした。駅で写すよりも、乗客に邪魔もされず、一人で落ち着いて気ままに写したものでした。
以前の本欄でも紹介した宮崎機関区。機関区は駅に隣接した、ラウンドハウスも無い狭くて細長い構内だった。ガントリークレーンのある大型の給炭設備も無く、ハンプ状の給炭線に石炭車で運び、ベルトコンベアに石炭を載せて、給炭していた。狭い分、光線もうまく回っていて、印象的に撮れた(昭和46年12月)。

左には駅ホームが見える宮崎機関区、宮崎=門デフC55の図式だが、この当時、もうC55は宮崎にはなく、すべてC57が占めていて、配置両数17両は、ダントツのC57最大配置区になっていた。C5766〔宮〕、一生を九州で終えたカマで、廃車後、大森駅近くの児童交通公園に保存された。東海道線・京浜東北線の車窓からも見える機関車で、保存機にあまり興味のない私も車内から見たことがある。動輪がエアコンプレッサーで動くと言う。

ここからは人吉区と吉松区。昼間、大畑で写したあと、夜行鈍行1122レに乗るまでの間に、機関区へ行って写したものだ。

C57100〔人〕のキャブ、100というキリのいい番号、黄金に輝く砲金製、楷書体の「人」の区名板が、夜の構内に映える。

 

 

 

 

 

 

しばらくすると構内で入換が始まった。86が何度も構内を行き来して貨車を入れ換える。水銀灯で照らされ構内に煙が渦巻いている光景を、絞り開放、1/8Sで撮り続けた。入換をしていた38633〔人〕がひと息入れた時に、バルブ露光で形式写真。

こちらは吉松機関区、構内は広くて撮りやすい。C56の特徴あるテンダーを入れて長時間露光してみた。 最後に、吉松区でD51を撮ってから、1122レに乗るため駅へ引き揚げた。重装備のD51ではなく、標準装備の吉松区D51453〔𠮷〕は、吉都線の貨物を牽いていた。

 

 「B」の時代 ②」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    以前にも申し上げたことがあると思いますが、この様な撮影技法や撮影苦労話は大変参考になります。特に名門高校の写真部に所属され、迷門倶楽部DRFCの会員、会長を経験され、さらに写真関係の会社に就職された総本家さんならではの体験談は格別です。
    当会は一党独裁ではなく自由闊達な雰囲気が伝統ですが、その伝統に甘えて少々反論を申し上げたいと思います。バルブでの長時間露光撮影はやはり蒸機には不向きと思います。勿論、夜間ならではのムードは味わえますが、やはり煙の上がり方が不自然になりがちです。この点では高感度のデジカメはその不自然さをカバーできるとと思います。人吉のハチロク入れ換えは1/8秒で煙の上がり方が自然で多少のブレをカバーしてくれています。失礼申し上げましたが、私はバルブ撮影時の照明の影響がよく分かっておらず、昔のことですが、厳冬の中朝国境の図門機務段(機関区)でバルブ撮影しましたが、構内に照明などほとんどなく真っ暗な状態で前進型もアウトでした。最後に思い出ですが大森のⅭ5766はKAWANAKAさんの名ドライブで併走撮影をさせていただきました。そのフジカシングル8のフィルムは今は湿気でこれもアウトになってしまいました。

  2. 特派員さんの作品は同世代を生きたものには安心感を与えてくれます。いつも言うことですが、その場の香り(匂い)や音、温度まで同席しているがごとく感じる事ができるのです。
    以前に『汽車の写真は白黒がいい』と言って準特急さんに叱られました。今日、この写真を見て間違いに気付いたのです。白黒がいいのでは無く、そこに写っている被写体が白黒時代しか撮れないものだったのです。木造の駅舎、機関区の点在する職員詰め所、蛍光灯では無い裸電球。出発信号機を眺めるホームには、今ならカーブミラーが写るでしょう。駅舎もプレハブだろうし、なにより柵だらけなのもよろしくありません。
    昔当たり前だった構内風景が今では当たり前では無くなっていました。
    ところで私はバルブ撮影は“有っても目では見えない物”を見せてくれる手法としていい方法だと思います。準特急さんの言われることも間違いでは有りません。要は何を見せるか、何を大切に感じるかの感性の違いで、高速シャッターで一瞬を切り取る写真もスローシャッターを使って目では見えない時間の経過を見せる写真もすばらしいと感じています。
    これからもお互いに切磋琢磨してすてきな瞬間を見せて頂きたいと思います。

  3. 準特急様
    米手様
    名門DRFCの会長を歴任されたお二人からの連続コメント、有り難い限りです。長時間露光によって煙が流れることですが、このことは、写真展の来場者からも同様の指摘をもらいました。逆にフィルム時代ならではの撮り方だと思い、夜間でも手持ちでシャッターを切ってしまうデジタル全盛時代の反省を込めて載せました。米手さんの、蒸機を取り巻く全てが懐かしいのは、同感ですね。私が、いま各地を走っている蒸機列車を、どうしても撮りに行く気になれないのは、そこにあると思います。蒸機も、当たり前の光景を形づくっていた一員なのですね。

  4. 冒頭に挙げたC5789ですが、よく考えたら、もとは梅小路機関区の所属で山陰本線の客車列車を牽いていたカマでした。昭和46年4月の無煙化で宮崎機関区に転属したものでした。当時は、検査期限が残っているカマを、全国に転属させて、古いカマや調子の良くないカマを廃車に追い込んでいました。意外なところで、懐かしいカマに再会できたものです。

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