今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ③ 》

下ノ森の“お別れの会”

紫の1863さん、お待たせしました。下ノ森に特化した写真を、前回のHさんがしっかり記録されていました。この騒ぎ、7月30日に、北野天満宮の特設テント広場で、京都市主催の“お別れ式”が行われた時のもの、当時の高山義三京都市長ほか500人が参加して行われ、表彰式などのあと参会者が7両のN電に分譲して、京都駅前までパレードした時のもの、Hさんは、見事なアングルで、市民の表情や服装まで活写されていました。

下ノ森にズラリと並んだパレードのN電、取り巻く市民、窓に号車札を付けたN電7両が、“お別れ式”の参会者の乗車を待っているところ。一般の乗車は?と思うが、この時間帯は、北野~下ノ森を営業休止して、パレード用車両を留置し、北野車庫前から特発したのだろう。

参会者を乗せてつぎつぎに発車して行く。復元車も交じっている。

いまも盛業中の岡本修美堂の前を行く復元車、警官、ボーイスカウトまで出動して人員整理している。Hさんは走って復元車を追い掛けて、西川ふとん店の前でも撮影している。「6」表示のN電が、右手の長五郎餅の前を行く。つぎが「7」で、これでパレードも最後。民家の前に貼られた児童の絵も記録されている。

テント広場で行われた“記念式”、京都市の市章が大きく飾られている。なお、市長の高山義三は、同志社の発展に貢献した中村栄助の三男にあたり、栄助は京電の経営にも関わりがあった。「父が経営した京電を、息子が廃止に追い込むのは無念」と涙ぐんだと言う。▲▲境内では写真展も開かれた。

一ノ鳥居がバッチリ写った下ノ森、これは別の日で、天候からすると、雨の降った7月27日のようだ。下ノ森ですれ違い、左手、電停看板とともに、バス停がもう建っている。

この熱狂ぶりを見ると、小学校の臨海学校で行けなかったことが、60年経った今でも恨めしく思えて来る。Hさんの記録には感謝、感謝である。

 今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ③ 》」への18件のフィードバック

  1. これは素晴らしいですねぇ、良いものを見せていただきました。
    下ノ森の「お別れ式」の写真はこれまでにも書籍や趣味誌等で発表されてますが、これほど多くのシーンは見たことがありません。趣味誌の性格上致し方ないのですが、電車に特化した写真ばかりで、N電最後の姿を見送りに来た多くの市民が写った写真は見たことがありません。昭和36年7月31日は月曜日だったようで、下ノ森という場所柄から買い物に来た主婦が多く写っています。この地域は西陣の一角でもあり、仕事の手を休めて見物に来たのであろう男性の姿も見受けられます。坊っちゃん刈りの男の子も、いつの間にか見なくなりました。電車だけではなく、あの時代が生き生きと写し込まれていて、風俗の記録としても貴重なものです。下ノ森の「あの日」を撮影されたH様に感謝です。
    影の様子から判断して、「お別れ式」は午前中に行われたようですね。写真が展示されていたことも、初めて知りました。
    子供が描いた絵を展示していた場所は、「加賀谷町」の文字から中立売通り浄福寺西南角にあった民家と思われ、左端に見えるブロック塀とタイル張りのような建物は正親小学校と思います。
    60年前の記憶は微かなもので、7月31日にN電に乗ったということだけです。当時の下ノ森の様子を知ることができました。
    撮影されたH様と、発表してくださった総本家様には、感謝しかありません。ありがとうございました。

    • 投稿直後に長文のコメントを頂戴し、ありがとうございます。私もパレードがあったことは、雑誌でも知っていますが、車両中心で、こんな大勢の市民が出たことは、Hさんの写真で知りました。トップ写真の手前にいる、ランニング、半ズボン、坊ちゃん狩りの少年は、まさに私と同年代の団塊世代です。京都には居なかった私が、そこにいたような既視感を覚えました。このお別れ式は、新聞切り抜きから見て、前日の7月30日午前に行われたようです。加賀谷町の位置、よくわかりました。ありがとうございます。

  2. このお別れ式の様子を報道した、京都新聞、7月31日朝刊です。右下に最終日の晩には、ラジオ京都(現KBS京都)が実況することの報道もあります。米手さんに話したところ、ラジオ中継のこともよく覚えておられました。

  3. お別れの会が行われたのは、7月31日と信じて疑いませんでした。それというのも私が見た雑誌や書籍にハッキリとした日付の記入がなく、堀川線最後の日の記録と一緒に纏められていたのです。ピクの122号には故人となられた有名なY氏の記事で、「最後の日31日は朝北野でお別れ会を各界名士を招いて行った後駅前までパレード」(原文ママ)と書かれていた、いよいよ31日に違いないと考えた次第です。
    もっとも、ちょっと前までは今ほどの興味はなく、何日であっても一向に差し支えなかったのです。しかし、何の因果か正確な記録を残さねばならないなどと大それた考えを持つに至り、総本家様の記事に7月30日の日付があるのを不審に感じてしまったのです。ですが、新聞記事にある通り、実際は7月30日の午前9時30分ごろからお別れの会が執り行われ、その後京都駅前まで7両の電車がパレードをしたというのが正しいのでしょう。31日の最終日は月曜日になりますので、一日早く日曜日の30日に前倒しされたのだと思います。
    数年前の深夜にカンテレで放送された京都市電の番組に、お別れパレードがありました。他にも廃止間近に運転された鉄道友の会の「おなごり乗車会」など、珍しいシーンが満載です。しかし、この番組でも「お別れパレード」は7月31日と紹介されていて、私も信じ込んでおりました。
    総本家様が保存されていた新聞記事は、間違った定説を正すものであり、後世に残すべき正しい記録だと思います。

    • 紫の1863さま
      はい、私もハレードが行われたのは、最終日の7月31日だと思い込んでいました。当時二誌しかなかった鉄道趣味誌を見ますと、「ビク」は紹介されたおりYさんの記事に7月31日と書かれていて、「ファン」はNさんの記事で7月31日と書かれ、ご丁寧に「9時半から“お別れ会”を催した」と時刻まで書いてありました。しかし京都新聞の記事は、右下にラジオ京都の中継の予告記事が出ていますから、間違いなく7月31日朝刊で、お別れ式は前日の7月30日を示しています。私は臨海学校で京都にいなかったため、自分の記憶で確認することができませんが、7月30日だったと断言できます。

  4. 総本家青信号特派員様
    N電は小生も終焉の頃「追っかけ」をやり、全線を歩いたり、乗ったりで忙しかった記憶がよみがえります。
    添付の写真は視点を変えた「N電の写真」です。
    保存が悪く、アップして見ると乳剤の溶解が気になります。

    序ながら、鉄道ピクトリアル誌2012年10月号の「京都市電 追憶と慕情」の中で「N電の北野線」として小生の記事+写真が掲載されています。(一部トロリー線の記述で「四条通り乗り入れ部分の全区間が2本併設」との誤記がありますが。)

    なお、写真4枚は連続投稿の形でアップさせていただきます。

  5. 河さま
    N電の思い出写真、ありがとうございます。私は当時、小学生でほんの数枚撮っただけでした。ピクの掲載写真も含めて、河様のきめ細かな記録には頭が下がります。とくに車内のスナップまで、撮られているのですね。私は、N電の外観もさることながら、あの狭い車内が子ども心にも衝撃でした。ぜひ自分のカメラで収めたいと思ったのですが、さすが乗客の視線が気になって、とてもカメラを構える勇気はありませんでした。ピクの記事も改めて拝見しました。河様は一時期は京都と縁が深かったとは言え、自分の足で歩いてきっちり記録されており、とくに市電がいちばんキレイに見える角度から撮っておられる点、さすがだと思いました。

  6. 総本家青信号特派員様
    フト思い出したように「いただいたコメントから間が開いた」投稿です。
    N電の車内写真にお褒めを頂き恐縮致しております。
    記憶をたどれば、小生も乗客にカメラを向けるのには一瞬のタメライが有った気がしますが、それよりも「記録」意識の方が勝った感じで、夢中でシャッターを切ったのを思い出します。
    今ならタメライどころか「肖像権の侵害」の方が問題ですネ。

    そう言えば「自分の足で歩いて記録」は電車撮影には付き物でしたネ。
    暑い寒いも何のその、良くもマア「シンドイ事」も平気でやってたもんです。
    市電などの町なか撮影もさる事ながら、鉄道の線路際をテクテク歩くのも「ヨーやってたもんです」。
    最寄り駅から電車区までの往復も、結構シンドかった~。
    特に、築堤上の夏の暑さは格別でしたネ。(笑)

  7. 河 昭一郎さん
    いいですね~!
    二枚目と四枚目が特にいい!
    四枚目は西洞院通りですか?

  8. 米手作市様
    2枚目は四条のダンゴ運転、4枚目の西洞院通りは雰囲気出てますよネって、自画自賛。
    「N電」で血が騒ぎ、他の「やる事」も忘れての投稿で~す。

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