最後のN電を写す
N電最終日、昭和36年7月31日の様子を続けます。撮影されたのは、いまは首都圏にお住いのHさんです。大阪で生まれ、当時は東京の大学生だったHさんは、ちょうど夏休みとあって、帰省の折に、何度か京都まで出かけられています。快くネガを貸していただきスキャンすることができました。改めてHさんに御礼を申し上げます。▲7月31日の最終日、光線から考えて朝の時間帯、大阪から来たHさんは北野線に乗って、まず終点の北野まで来られた。すでに市民が集まり、職員も整理に当たっている。到着した5号は、車掌がポールを下ろして、片や運転士のほうはポールを上げて、折り返しの準備を進める。
▲北野車庫も公開されていた。奥に留置されていた9号を、低い位置からとらえて、ポールを空で抜いて、標識も完備した、活きた姿の形式写真を撮られている。
▲北野に到着の23号、左の木造2階建ての相馬病院は、4階建てになっていまも現地にある。私にとっても特別な思いの残る病院。
▲相馬病院の前から北野天満宮方面を見る。右手の鳥居が別のところに移転して、下ノ森にあった、一ノ鳥居が、ここへ移ってきたことが、先日の関西テレビ「報道ランナー」の特集で伝えられた。
▲北野車庫前で3両が連なって発車を待っている。いずれも、モール飾り、横幕は付いていない。西川ふとん店は、いまも北野車庫跡の向かいに、業態は変更しているが、NISHIKAWAの看板を出している。▲ここからは7月29日の撮影となる。中立売橋を渡って行く北野行き。この日は、小雨模様となった。
▲同じく堀川中立売、右手着物姿のご老人が手を振っているように見える。N電に乗り込む、孫を見送りに来たのだろうか。
▲雨のなか、Hさんは堀川通を南下されている。堀川丸太町で丸太町線と交差するが、交差部にやや起伏があるせいか、N電がずいぶん傾いているように見える。
▲堀川御池で復元車と遭遇、記録映画用に衣装を着た出演者が乗っている。
▲四条西洞院まで来ると、雨も上がって、晴れてきた。三線軌条の停留所で右折信号を待つ。右手の市バスの丸いお尻も懐かしい。
総本家青信号特派員様
堀川線・北野線・N電・チンチン電車など、多くの呼び名を持つ路線ですが、私の住んでいた地域では「北野電車」の呼び名もありました。
さて、そのN電ですが、昭和36年頃にはカメラも普及し始めてましたが、全ての家庭にいきわたるほどではありませんでした。私の家にはカメラがなく、鉄道趣味に引きずり込んだ友人の家にもありませんでした。一方で、鉄道に興味のない市民にもN電は愛されていたようで、普段は電車にカメラを向けない人も最後の姿を記録しています。日の目を見ない多くの写真が、一般家庭に眠っていることでしょう。
これまでN電の写真は趣味誌などに数多く発表されてきましたが、撮影場所は限定的でした。京都駅前・西洞院通・四条通りの三線区間・二条城が見える堀川通り・堀川を渡る鉄橋・北野終点など・・・。しかし、撮影者が変わると視点も異なり、同じ場所でも撮り方が違ってきます。僅かな角度の違いが別の背景となり、これまで見ることがなかった店が見えたりします。
私は下ノ森の街並みに特別な思いがあるのか、西川ふとん店は興味深く拝見しました。相馬病院の建物も初めて見ましたが、この病院には家族全員がお世話になり、私は腹を切ってもらいました。
上京区役所の写真展会場で初めて会った方と、中立売通りの千本以東の写真を滅多に見かけないと話しましたが、沿線住民の家に死蔵されてるのかもしれませんね。
数々の貴重な記録に出会えることに感謝し、どんな場面が発表されるのかワクワクしております。
下ノ森にお住まいの紫の1863さまに喜んでいただいて何よりです。背景の変化が楽しめるのは、街に溶け込んだ路面電車ならではですね。西川ふとん店は、ストリートビューで見てもシャッターが閉まっていてよくわかりませんでした。相馬病院にはずいぶん世話になられたのですね。私も母親の最期のときは、週3日は朝から晩までいましたよ。お蔭で、北野商店街の店はずいぶんと知り、昼はだいたいメッサ北野で買い出しでした。