元祖青信号特派員氏への業務連絡 投稿日時: 2021年11月15日 投稿者: 米手作市 佐竹先輩とのコラボ写真展、ご盛況をお祝い申し上げます。 その時に話題になった「脱線転覆・二つ折れしたC5520」の健在時を撮っていました。例によって日時は不明ですが、まだ京都駅東の転車台が稼働している時期です。事故の前か、後かは分かりません。 関連記事: 関連記事がありません。
米手作市様 総本家さんも忙しいのに業務連絡とは穏当ではない言葉!こき使われた遠き時代を思い出します。昭和38年国鉄動力車配置表によりますとC5520は豊岡機関区和田山支区所属です。事故後生き返ったものと思われます。今回の写真展に見られるC57が「出雲」等のヘッドマークをつけた佐竹さん時代の山陰本線ですが、福知山区にいたC57の同僚C54はその後浜田へ、そしてC55は豊岡に転属しました。C55の20は撮っておりませんが、21、22、23号機は撮っております。どうせ他番号は興味ないと思われますので割愛します。 返信 ↓
米手さま 準特急さま 業務連絡、ありがとうございます。またご来場いただいて、お言葉も頂戴し、感謝申し上げます。高倉陸橋下の駐泊所のC55は初めて見ましたよ。たいへん貴重な記録です。ここはおもに東海道線の蒸機の駐泊に使われていたと思うのですが、山陰線の蒸機も利用していたのですね。真横なので流改の様子もよく分かります。 原版を貼っておきますが、佐竹さんは現場をたくさん撮っておられますし、私も当時の新聞切り抜きを保存しているはずです。追って発表します。米手さんからは、大宮陸橋の下で自転車ごと川に落ちた話などいろいろ聞かせてもらいました。それらも合わせて、“佐竹さんあれこれ話”として、開催中に皆さんから聞き書きしたことを記していきます。 返信 ↓
米手作市様 客車のみならず蒸機もよう撮ってますね!梅小路のC55とは恐れ入りました。私はそのころはまだカメラを持っていませんでした。折角の貴重な記録ですのでもう少し、例えばいつ撮ったかとか感激した当時の話などのご説明があるとよろしいかと思います。 返信 ↓
休車後、行橋区で据え置きボイラになっていた19号が、ついに引き出されて、小倉工場に廃車解体に向かう時に立ち会っています。昭和49年の3月から4月の肌寒い雨の日でした。 C55 20番繋がりで出してみます。 返信 ↓
米手様の業務連絡に便乗し、小生も他番号のC55をご紹介しましょう。端緒となった山陰線の事故機20号機は、流線形で登場のC55としては初号機。そこで流線形時代の他号機を貼りましょう。27号機を取巻き、もの珍しそうに眺めているのは、どうみても鉄道職員ではない。新鋭の流線形蒸機に引寄せられて来た、ご近所衆でしょう。同機は昭和11年新製なので、撮影もその頃かと。撮影地は、ネガ(乾板)袋には京都とあったのだが、どうみても違います。27号機の新製配置は仙台。お隣のC51148の当時の所属は平。そう云えば、ずっと後年ながら小生が同区を訪問した記憶では、裏手に小山があった。写真の右手の山が、そんな感じです。これで、左端のD50の機番が読めたら、もう少し深く考証できるのだが、そうは問屋が卸さない。この写真、宮松コレクションにありましたが、撮影は宮松氏ではなく、当時『鐵道趣味』誌に投稿されていた、草野泰二氏ではないか?と云う気がするが、飽く迄も小生の推測です。 さて、これだけアレコレと記しておけば、準特急さまにも御満足頂けたかと。 返信 ↓
宮崎繁幹さん、先日は楽しい時間をありがとうございました。 ところで上の写真は宮崎さんのお考えでは平機関区ではないか?と言うことでしょうか?私も一度平区へ行ったことがありますので写真を詳しく見比べました。ただ、近くの小山は撮していませんが、この写真中央の塔のような構造物と似たものが写っている写真を見つけました。撮影時期に30年の差があるので同じとは言えないかもしれず、構造にも微妙な違いも見て取れます。しかしガントリークレーンの位置に新しい石炭庫が作られたとすると私と宮松コレクションとは相対して撮っているようにも思えます。いずれにしてもご検証下さい。 右端の構造物にご注目下さい。 返信 ↓
『ここどこ?シリーズ』がご無沙汰なので、退屈してました。 場所は平機関区でしょう。宮崎様がおっしゃる「小山」は、磐城平城跡です。 私は平機関区へ行ったことがなく、ネットで画像を探しましたが思うような画像にはなかなか巡り合えませんでした。ほとんどが機関車主体に撮影され、機関区施設の位置が分かるような写真は少数派です。しかし、探せば見つかるものですね。 昭和40年代初め頃、米手様が撮影された給炭槽の左右に、給砂塔がありました。写ってはいませんが左側の給砂塔は両側にパイプがあるタイプで、宮崎様の写真に見えるものです。撮影者はC61が止まっているあたりから左(方角としては西)を向いて、シャッターを切られたのでしょう。 余談ですが、「平」は「いわき」に名称が変更されていたのですね。恥ずかしながら知りませんでした。 返信 ↓
紫の1863さん いつも助けていただき、ありがとうございます。 この構造物は「給砂塔」というのですか!一つ賢くなりました。 友人に平の住人がいたので何度か訪問しています。平と常磐ハワイアンなどの付近数町村が合併して「いわき市」になりました。 返信 ↓
米手作市様
総本家さんも忙しいのに業務連絡とは穏当ではない言葉!こき使われた遠き時代を思い出します。昭和38年国鉄動力車配置表によりますとC5520は豊岡機関区和田山支区所属です。事故後生き返ったものと思われます。今回の写真展に見られるC57が「出雲」等のヘッドマークをつけた佐竹さん時代の山陰本線ですが、福知山区にいたC57の同僚C54はその後浜田へ、そしてC55は豊岡に転属しました。C55の20は撮っておりませんが、21、22、23号機は撮っております。どうせ他番号は興味ないと思われますので割愛します。
米手さま
準特急さま
業務連絡、ありがとうございます。またご来場いただいて、お言葉も頂戴し、感謝申し上げます。高倉陸橋下の駐泊所のC55は初めて見ましたよ。たいへん貴重な記録です。ここはおもに東海道線の蒸機の駐泊に使われていたと思うのですが、山陰線の蒸機も利用していたのですね。真横なので流改の様子もよく分かります。
原版を貼っておきますが、佐竹さんは現場をたくさん撮っておられますし、私も当時の新聞切り抜きを保存しているはずです。追って発表します。米手さんからは、大宮陸橋の下で自転車ごと川に落ちた話などいろいろ聞かせてもらいました。それらも合わせて、“佐竹さんあれこれ話”として、開催中に皆さんから聞き書きしたことを記していきます。
準特急さん、
「どうせ他番号は興味ないと思われます」とは考え間違いもはなはだしい!
その証拠に「他番号」を見せます。C5521 梅小路機関区
米手作市様
客車のみならず蒸機もよう撮ってますね!梅小路のC55とは恐れ入りました。私はそのころはまだカメラを持っていませんでした。折角の貴重な記録ですのでもう少し、例えばいつ撮ったかとか感激した当時の話などのご説明があるとよろしいかと思います。
休車後、行橋区で据え置きボイラになっていた19号が、ついに引き出されて、小倉工場に廃車解体に向かう時に立ち会っています。昭和49年の3月から4月の肌寒い雨の日でした。
C55 20番繋がりで出してみます。
米手様の業務連絡に便乗し、小生も他番号のC55をご紹介しましょう。端緒となった山陰線の事故機20号機は、流線形で登場のC55としては初号機。そこで流線形時代の他号機を貼りましょう。27号機を取巻き、もの珍しそうに眺めているのは、どうみても鉄道職員ではない。新鋭の流線形蒸機に引寄せられて来た、ご近所衆でしょう。同機は昭和11年新製なので、撮影もその頃かと。撮影地は、ネガ(乾板)袋には京都とあったのだが、どうみても違います。27号機の新製配置は仙台。お隣のC51148の当時の所属は平。そう云えば、ずっと後年ながら小生が同区を訪問した記憶では、裏手に小山があった。写真の右手の山が、そんな感じです。これで、左端のD50の機番が読めたら、もう少し深く考証できるのだが、そうは問屋が卸さない。この写真、宮松コレクションにありましたが、撮影は宮松氏ではなく、当時『鐵道趣味』誌に投稿されていた、草野泰二氏ではないか?と云う気がするが、飽く迄も小生の推測です。
さて、これだけアレコレと記しておけば、準特急さまにも御満足頂けたかと。
宮崎繁幹さん、先日は楽しい時間をありがとうございました。
ところで上の写真は宮崎さんのお考えでは平機関区ではないか?と言うことでしょうか?私も一度平区へ行ったことがありますので写真を詳しく見比べました。ただ、近くの小山は撮していませんが、この写真中央の塔のような構造物と似たものが写っている写真を見つけました。撮影時期に30年の差があるので同じとは言えないかもしれず、構造にも微妙な違いも見て取れます。しかしガントリークレーンの位置に新しい石炭庫が作られたとすると私と宮松コレクションとは相対して撮っているようにも思えます。いずれにしてもご検証下さい。
右端の構造物にご注目下さい。
その部分を拡大しました。
『ここどこ?シリーズ』がご無沙汰なので、退屈してました。
場所は平機関区でしょう。宮崎様がおっしゃる「小山」は、磐城平城跡です。
私は平機関区へ行ったことがなく、ネットで画像を探しましたが思うような画像にはなかなか巡り合えませんでした。ほとんどが機関車主体に撮影され、機関区施設の位置が分かるような写真は少数派です。しかし、探せば見つかるものですね。
昭和40年代初め頃、米手様が撮影された給炭槽の左右に、給砂塔がありました。写ってはいませんが左側の給砂塔は両側にパイプがあるタイプで、宮崎様の写真に見えるものです。撮影者はC61が止まっているあたりから左(方角としては西)を向いて、シャッターを切られたのでしょう。
余談ですが、「平」は「いわき」に名称が変更されていたのですね。恥ずかしながら知りませんでした。
紫の1863さん
いつも助けていただき、ありがとうございます。
この構造物は「給砂塔」というのですか!一つ賢くなりました。
友人に平の住人がいたので何度か訪問しています。平と常磐ハワイアンなどの付近数町村が合併して「いわき市」になりました。