書棚に並ぶ本がどうしても増え続けるため、定期的に必要度の低くそうな本から処分しているのですが、その中で捨てられずに書棚の一角を占めているシリーズに朝日文芸文庫の司馬遼太郎「街道をゆく」40巻があります。敬愛する司馬遼太郎氏による旅行記ですが、これを読んで現地に行ってみたいと旅先に選んだことが少なくありません。今回はその第15巻「北海道の諸道」に触発され、函館、江差、松前の旅を計画し、6月8日から13日まで道南を巡ってきました。司馬遼太郎氏の旅は40数年も前のことですが、年月を経ても、その土地ならではの風土や文化を追体験できればというのが旅の目的です。その中に「鉄」の要素も加えると、いつも結構忙しいプランになります。ここでは、その5日間の中での「鉄」部分だけをご紹介致します。
今回の旅のコースは次のようなルートです。1日目 広島空港→仙台空港、仙台から「はやぶさ」で木古内へ、木古内から道南いさりび鉄道で函館入りし、函館泊。2日目、レンタカーで亀田半島を1周して森から落部へ、落部から山越えして銀婚湯で1泊。3日目、銀婚湯から江差、松前へ。松前で1泊。4日目、松前城下散策後知内温泉で1泊。5日目、函館に移動してレンタカーを返して、函館市内観光後、函館で1泊。6日目、函館市内観光後函館空港→羽田→広島 というルートで、渡島半島の南半分を1周してきました。学生時代を含め、何度か道内を旅していますが、函館は通過点であったことが多く、また江差、松前線などの行き止まり支線は訪ねることなく廃線になっていましたので廃線跡だけでも訪ねようと思っていました。
1.道南いさりび鉄道
仙台から乗車した「はやぶさ23号」は盛岡で秋田行き「こまち」を分割後、快調に青函トンネルを抜けて、北の大地に着きました。そのまま終点新函館北斗まで行くのが早くて便利なのですが、それでは旅の趣旨に反しますので、木古内で下車し、旧江差線の残存区間である道南いさりび鉄道に乗り換えました。はやぶさを降りて乗り換えた物好きな乗客は我々夫婦2人だけでした。キハ401796が発車を待っていました。
パラパラの乗客を乗せて発車。久しぶりの二重窓の車両に感激です。シートも昭和の雰囲気です。
泉沢駅到着前にATSが「キンコンキンコン」と鳴る音が聞こえたので、交換があるのだろうと待機しているとJR貨物のEH800がゆっくりと入線し、通過してゆきました。初めてEH800を撮影しました。EH機の撮影は半世紀前のEH10以来です。
右手に函館湾や函館山を望みながら、ゆっくりと進みます。比較的温暖な道南とは言え、1軒として瓦屋根の家はなく、煙突や大きな灯油タンクを備えた家の造りにも北の大地に来ていることを実感させられます。明治2年の函館戦争の際に新政府軍が江差に上陸し、松前城を陥として五稜郭を目指したときに、榎本武揚軍の防衛線がこの茂辺地、矢不来あたりだったとされており、旧幕府軍と新政府軍としての津軽藩兵との戦いの地でした。函館の郊外住宅地化してしまった車窓風景からは、そんな歴史の面影は全く感じられませんでした。約1時間で五稜郭、函館に到着です。
久しぶりの函館駅です。カーブした長いホームがある独特の雰囲気をなつかしく思い出しました。
2.函館市電駒場車庫から志苔館(しのりたて)へ
函館駅前で泊まって、有名な函館朝市も見物しましたが、コロナも収まって海外旅行の制限が無くなったせいか、台湾、韓国、中国からかと思われる観光客が多いのには驚きました。早朝から数千円もする海鮮丼を食べる気にはならず、早々にレンタカーで出発です。函館市電の湯の川温泉方面の途中にある駒場車庫を覗いて行くことにしました。あいにくの雨模様で、車庫入口で少し撮っただけでした。
旅の終わりに函館市電を撮る機会はあるので、数カットだけ撮って先を急ぐことにします。亀田半島を右に津軽海峡、太平洋を望みながら反時計回りに海岸を行くのですが、函館空港近くに「志苔館」という遺跡があります。室町時代の和人の館跡です。蝦夷地には古くから和人が住み、先住民との争いの歴史がありました。志海苔川から砂鉄がとれたことから、和人がここで鉄器を作っていたとされます。海を見下ろす遺跡は、司馬遼太郎先生の記述のイメージ通りでした。
3.国鉄戸井線跡
江戸時代から津軽海峡をはさむ両岸はロシアをはじめとする外国船との軋轢の地で、特に太平洋戦争時代は要塞地帯として軍事的に重要な地域でした。大正13年に戸井村から恵山にかけての地域が要塞地帯に指定され、砲台設置計画が浮上すると、昭和11年には五稜郭から戸井村を結ぶ鉄道の建設が始まります。亀田半島先端の恵山は現在も活動する活火山ですが、半島全体が硬い火成岩であり工事は難航します。トンネル掘削は難しく、急峻な斜面にコンクリート橋を建設しながら工事は進みますが、要塞も鉄道も完成しないまま終戦を迎えます。軍用線としての戸井線は未成線として、約80年後の今日、その姿を留めています。
資材も枯渇する中で、よくもこれだけの構造物を作ったものだと驚くほかありません。結果的に壮大な無駄遣いと莫大な労力の消費は、今日でも姿を変えて続いていると警告を発しているようにも見えました。
4.JR森駅
戸井の汐首灯台から半島を進むと、臼尻町縄文文化センターや道の駅しかべ「間欠泉公園」があります。青森の三内丸山遺跡などと共に、津軽海峡をはさんだこの地域には縄文文化が栄え、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に指定されたこともあって、立派な展示施設が作られ 見応えがあります。そこで時間を使いすぎて、雨の中を先を急ぎます。左手から函館本線砂原回りの線路が近づいてくると、ほどなく森駅です。駅手前の踏切が鳴り出したので、あわててクルマを停めてカメラを向けました。すると砂原回りのキハ40単行がゆっくり近づいてきました。
砂原回りの下り列車は7:00台の5881Dの次は、森着16:27のこの2841Dまでないのです。あと暗くなってから3本ありますが、貴重な1本だったとあとで知りました。踏切から遠望した森駅の様子です。
するとまた踏切が鳴り出したので、あわてて待機しました。函館行き「北斗14号」でした。
森駅と言えば、「イカめし」を思い出しますし、D52,C62をはじめ活気のある駅だったと思いますが、今は乗降客もまばらで、特急停車駅ですが往年の活気はありませんでした。
この後、落部から谷沿いに渡島半島を横切るかたちで銀婚湯に向い、1日を終えました。(後編に続く)
西村さんお久しぶりです。私も「街道をゆく」を読んで出かけることがあります。秋田県立博物館で「あきた大鉄道展」があったときは帰ってきてから「秋田県散歩」を読みました。県立博物館があるところに旧奈良家の住宅があったからです。たくさんあるのでダブって買ったものもあります。今は電子書籍もあるのですが、時々読み返すので紙の本の方がやはりいいようです。まだ、買っていないものもありますので買ってみようかと思っています。ところで北海道はあまりいかないので青森で写真展があったときにフェリーを利用して行き、江差線に乗りました。江差で沖縄のお菓子をお土産で売っていたのはびっくりしました。そのイキサツは「小樽から江差へ、そして青森へ」の投稿に書いてあります。
西村様、
函館の路面電車の運転開始から、今日でちょうど110年。6枚目のお写真の530号も73歳。函館市電は1981年の田沢湖での夏期合宿後に1日だけ撮影したことがあります。そのうちの1枚をご笑覧ください。
1981年8月31日、宝来町から青柳町へ登ってくる530号です。道路面や軌道面、横向きの信号機など、現在のストリートビューと比べるとツッコミどころ満載です。この頃、既に経営的にはヤバイ状態だったようで、幕板部には「利用しましょう 電車・バス」と大書されていました。(写真からはわかりませんが)
以前にもデジ青に投稿をしたことがあると思いますが、函館市電の駒場車庫で撮った京王電軌から1940(昭和15)年に6両譲渡された23形のうち最後まで残っていました405です。1969.3.19駒場車庫で保存中の姿です。京王電軌23形は1920(大正9)年から1926(大正15)年までに44両つくられそのうち25両は当時の函館水電(現在の函館市企業局交通部)の他にも新京交通、多摩湖鉄道、東京地下鉄道、広島瓦斯電気などにも譲渡されました。函館市電は1897(明治30)年に亀函馬車鉄道として開業しましたが、当時東京馬車鉄道(後の東京都電)などが技術指導したと言われそのせいか都電、京王電軌と同じ1372ミリゲージです。