廃止1年半後の三井寺下


真ん中で屋根裏を露呈している残骸はキハ51か52

1971年5月5日、我々の仲間、I君(その後消息を聞かないが元気でいるかしら)の結婚式が在住地の大津であった。で、二次会に皆して江若鉄道三井寺下庫(跡)に車で乗り付けた。まだ建物も残ってはいたが、祭日とあって人気はなかった。構内は解体済の残骸が山の如く、大げさに言えば足の踏み場もないほど。解体を待つ車両は数両。この時点では、売れる車両はとうに姿を消していたのである。

悲惨な残骸の山に、一同言葉もなくただ立ち尽くすだけだった。


窓ガラスは投石で割られている キニ9は最終日の飾りつけが残ったままだが窓枠は撤去
再起しなかったキハ21(←キハ079←42537←42217←42050)

三井寺下庫はその後整地されて駐車場になり、全く面影が失われたのを記憶している。

廃止1年半後の三井寺下」への1件のフィードバック

  1. 解体シーンを見るにつけ烏丸車庫で市電300型解体を見ていたことが思い出された。
    1959年1月12日付廃車の305、310、313、329、336、337、341、343、344、349、
    の10両で、いずれも九条車庫配置のものであった。敷地にゆとりあった九条ではなく烏丸に集められたのは、九条にはレイル敷設部分ににゆとりがなかったからであろう。しばらくしてカメラ持参で行ったら台車が放置されていた。乗り心地悪いブリルタイプで知られた台車を写しただけである。木部は風呂屋に引き取られ、その他の「鉄」部はくず鉄屋に即座に引き取られたに違いない。

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