国鉄八本松材修場について

山陽本線八本松駅と言えば西の箱根、補機の活躍の場としておなじみで 現在でも日常的に後補機の活躍が見られる数少ないスポットになりました。八本松駅の歴史を見ると 明治27年6月10日の山陽鉄道三原-広島間の開通に始まりますが、開通当初は上り列車の後補機を切り離す場所として、また下り貨物列車に車側制動機を取り付ける場所として作業員詰所が設けられたのが始まりです。ところが折角列車を停めるのであれば、旅客扱いをしてほしいとの地元の熱心な要望により、明治28年4月4日に正式に八本松停車場となりました。ただ駅前には一軒も家はなく、少し離れた西国街道に茶店がある程度の寂しい場所だったようです。

この明治27年7月には日清戦争が始まり、9月には 東京から鉄道で直行できる西端であり、宇品港を擁する広島に大本営が置かれ、明治天皇も広島に移り住まわれるという年でした。明治28年には陸軍第五師団の原村演習場が賀茂郡原村に設けられて、八本松駅が最寄駅となり、この駅の重要性が増したのです。この原村演習場は現在も陸上自衛隊海田市駐屯地の演習場として使われています。その後この演習場の近くに陸軍兵器補給廠八本松分廠も設けられて、八本松駅から2.1Kmの専用線が敷かれました。ただこの専用線の開通年月日は調べきれていません。

 さて八本松駅からもう1本の専用線がありました。昭和15年に海軍が設けた呉海軍軍需部川上弾薬庫専用線2.5Kmです。戦後昭和21年に米軍に接収され、昭和27年に正式に在日米軍の弾薬庫となり 極東最大の弾薬庫として今日に至っています。この弾薬庫線跡は山陽線の車窓からもよくわかり、紹介もされている(※)ので今回は割愛しますが、両専用線がはっきりと記載されている 国土地理院発行の1/25000地図(昭和27年7月印刷版)をご紹介します。

左側が弾薬庫線 右側が補給廠線

八本松駅から広島方向に時計回りに延びているのが川上弾薬庫線です。一方八本松駅から三原方向に南東に向かっているのが補給分廠線です。戦後川上弾薬庫が在日米軍の管理下になったのに対して、八本松補給分廠はその専用線、敷地、建物を利用して昭和23年2月に起工し 国鉄の八本松材修場となり昭和24年2月に開場しています。その後昭和28年4月まで設備の拡充が続き、一時は100人を超す人が働く工場になっていました。この材修場の主な仕事はロングレールの接合で、当時最先端であったフラッシュバット溶接を駆使してロングレールを製作し、広島、岡山、米子、門司、大分、熊本、四国、天王寺各鉄道管理局区内へ供給していたそうです。ただこの材修場はすでに廃止されています。いつ廃止されたのかなど詳しいことは調べきれていません。

 私が三原に移り住んだのが昭和50年、ときどき広島に行くときにこの専用線の廃線跡があるのは見ていたのですが、何の廃線跡かはわからず仕舞いのまま月日が流れ、最近になって県立図書館や東広島図書館でようやく正体をつかんだ次第です。さて八本松駅でこの専用線があったことがわかる痕跡を見ることができます。もともと八本松駅の駅本屋は北側にあって 下りホームには跨線橋を渡る駅だったのですが、駅の北側と南側をつなぐ道路橋の建設に合わせて橋上駅化され、駅南側が正面のように変わってしまいました。この橋上駅に上がると 今も下りホーム側にかなり広いスペースがあるのがわかります。これが専用線の仕訳線跡です。丁度15年前の平成9年5月に撮影した写真と、先週撮影した写真を並べてみます。上2枚が下り広島方、下2枚が上り三原方で それぞれ上が15年前、下が今年です。平成24年5月8日撮影

 

以前は3線がスルーしていましたが、今は駐車場になり、下り方に2線が保線用に残されています。上2枚の写真で自転車置き場になってしまっていますが、今も石積みの長いホームが残っていて、陸軍演習場に向かう兵士らが乗り降りしたのかと思われます。呉海軍軍人の回想録などでも呉から列車で八本松に向かい、原村演習場へ行ったという記述が見られます。それぞれの写真を見比べるとレールこそ無いものの、15年経っても殆ど景色が変わっていないのも不思議な気がします。

さてこの八本松材修場線跡をたどってみようとクルマを走らせましたが、それらしき痕跡、遺構は全く見つけられませんでした。専用線跡は殆どが宅地か道路になっており、また終端の材修場跡地はシャープの系列会社の工場や調整池などになっていました。新興住宅地でもあり、旧家も見当たらず 40年以上も前の様子を聞く雰囲気でもないため、取材はここまでとしました。 地図で専用線中ほどに線路が南側に少し凹んだ個所がありますが、そのあたりの写真だけを下に示します。材修場側から八本松駅側を見たところで ゆるくカーブした道路が線路跡と思われます。

昨今 廃線跡探訪はちょっとしたブームのようでもありますが、特に軍用線はその性格上写真なども少なく、謎が多いだけに気になる存在です。この材修場線については 「トワイライトゾーンマニュアル」No.8の昭和26年版専用線一覧表では 大蔵省(旧広島陸軍兵器補給廠)専用線との記載があり、一方の弾薬庫線は「トワイライトゾーンマニュアル」No.11の昭和28年版専用線一覧表で駐留軍八本松軍用側線と記載されています。

最後に私の中で未だに疑問として残っているのは、どんな車両が走ったのかということです。材修場線については 以前 三原から八本松駅に近づいてゆく車窓から 遠くの畑の中に架線柱と架線が見え隠れしたおぼろげな記憶があります。補給分廠のころはともかく 材修場時代にはロングレールを積んだチキを電気機関車が牽いていたとしてもおかしくはないように思えます。当時ならEF15あたりでしょうか?  さて問題は弾薬庫線の方です。こちらは古い写真を見ても架線はなく、弾薬庫に蒸気機関車が入るはずもなく、そうするとディーゼル機関車しか考えられないのですが、昭和30年代の広島地区のDLと言えば 呉にいたDD11ぐらいしか思いつきません。どなたかの写真で呉線安浦駅で撮られたDD11の写真を見た記憶がありますから、同様に呉から八本松へ回送されて来ていたのかとも想像していますが、時系列的に検証できていません。どなたかこのあたりの事情をご存じありませんか。引き続き調べてみようと思っていますが、ご存じの方は是非ご教授を。

(※)弾薬庫線の探訪レポートはhttp://ameblo.jp/sukebe-ningen/entry-10496279719.htmlに詳しく述べられています。

国鉄八本松材修場について」への3件のフィードバック

  1. しょう様
    ご丁寧にコメントを頂き ありがとうございました。貴殿のブログにコメントしてから1年経っているのに よく覚えて頂いていたことに驚いております。猛暑の中を入念に歩かれたようで お疲れさまでした。余談ながら 姫路からJRでお越しになったのか、クルマで来られたのか判りませんが、山陽線なら本郷から瀬野までの間で 山陽鉄道時代のスイッチバック信号場の跡を車窓から見ることができます。本郷・河内間の郷原信号場、入野信号場、上瀬野信号場の3ケ所です。いずれもはっきりとした痕跡はないものの 保線用車両の待避線があってここだと判る程度です。材修場線のように線路沿いの旧家の後期高齢者でなければその存在を知らないというケースが全国あちこちで増えていることでしょう。廃線跡歩きは変人、不審者扱いされそうですが めげずに頑張ってください。

  2. はじめまして。なかなか興味深いです。
    偶然、今日みつけて読破しました。

    地元民です。材集線沿線橫が実家、子供の頃は時々走ってましたね、画像見れば識別できると思いますが…

    弾薬庫線はもはや走ってなかったですね。
    トラックでした。呉、秋月から積み替えなしで輸送でしょうから…
    同時に主たる通用口は裏口になり、(実質)専用道路が供与されました。

    s34生まれ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください