富岩鉄道セミボ20、21号 投稿日時: 2013年7月11日 投稿者: 米手作市 富岩鉄道と言えば富山港線。富山と言えば乙訓の長老。 さらに静鉄と岳南、長老様、あとをよろしく。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 関連記事がありません。
解説のところで関三平さんは九頭竜川河口の岩瀬浜とありますが、神通川の河口に岩瀬浜があります。関三平さんはなにか勘違いされたのでしょう。ところでセミボ20でしょうか。オーバークロスの上を走る電車の飾り窓は近鉄モ5626の飾り窓と似ていますが、なにか関係があるのでしょうか。誰か教えてください。 返信 ↓
富岩のセミボ20と21で、側面上部の飾り窓形態が、異なっているとは今まで気付きませんでした。 確かにこの両車は、買収国電中でも売却が早く、2台が仲良く記載されているのは、朝日新聞の「世界の鉄道’66」くらいです。 セミボ20の方が大阪鉄工所、21が日車です。 近鉄の5621は先の5両が川崎でつくられており、藤本さんの記事を読むと26は大阪鉄工所製なので意匠の関連は、同じメーカー、同じ時期ということで、共通性があるのでしょう。 また伊勢電211(近鉄6201)は地元の日車製ですが、セミボ21の方は、同じ日本車輌でも床下にトラスロッドがあったり、木造車の域を出ないスタイルをしています。 四角い明かり窓はWルーフ時代の屋根のものを、下に下げて来たかのように思われるのですが、宮崎交通のハ14(武蔵野鉄道の元気動車)にも同じような幕板部の窓のあるものがありました。 返信 ↓
セミボ20、21の国鉄時代の写真は、佐竹先輩の名著「私鉄買収国電」にボ1と共に掲載されているのでご覧いただきたい。 「デジ青」には、平成24年7月13日【21925】「富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線」にボ1(富山地鉄→加越能鉄道譲渡後)、ボ2(富山地鉄譲渡後)、セミボ21(岳南鉄道譲渡後)の画像を掲載している。(セミボ20→静岡鉄道クハ7がないのは撮影していないため) セミボ20は、昭和28年廃車後、30年に静岡鉄道に譲渡され、Tc化の上クハ7に改番して、同社オリジナルのモハ7(昭和15年木南車両製)と固定編成を組み、41年に廃車になった。 私は41年3月に訪れたが、見かけなかったので既に廃車されていたのかも知れない。 どですかでんさんから、セミボ20が近鉄モ5626と飾り窓が似ているとのご指摘であるが、理由は次のように考えられる。 富南鉄道が大正13年にボ1、ボ2を新製するにあたり、モデルにしたのが大阪鉄道デイ1形→近鉄南大阪線モ5601形(鋼体化改造後のモ5801形)であった。(大鉄は15m3扉車に対し、富南は12m2扉車) ボ1、ボ2は大阪鐵工所製に対し、大阪鉄道デイ1形は川崎造船所製のため、一見メーカーは関係なさそうに見えるが、モ5621形は5621~5625が川崎造船所、5626、5627が大阪鐵工所で製作されているため、関連があったのかも知れない。 セミボ20は、ボ1、2の延長線上で作られたため同様のスタイルになったと思われる。大鉄デロ21形(→近鉄モ5621形)もデイ1形の延長線上で作れられている。 セミボ21は昭和3年日本車輌製で、片側に荷物積込スペースを設けたため、窓配置が変わり、ついでにデザインも変えたということではなかろうか。 鉄道会社にとっては車両は大切な商品(財産)であり、単に乗客を運ぶ道具としてではなく、見せかけだけにしても、豪華さという付加価値を付けたということであろう。 返信 ↓
K.H.生様 藤本様 私のコメントの疑問に対して教えていただいてありがとうございます。まず、お詫びしなければなりません。私のコメントで近鉄モ5626の飾り窓と似ているとありましたが番号が間違いでした。関三平さんの絵ではモ5622でした。さらに、藤本さんの投稿記事などを調べてみるとモ5621からモ5624で飾り窓のあるのはモ5622とモ5624でどうもモ5621とモ5623には飾り窓がなかったようです。この2両は最初から飾り窓がなかったのでしょうか。モ5623は現在琴電23として現存しているようです。飾り窓に関してはあまり深く考えない方がよいかもしれません。発注者も設計者も遊び心があったのではと思ってしまいます。どうもお騒がせしました。 返信 ↓
飾り窓の件 元大阪鉄道の車両は、デイ1~13(後のモ5601~5611)、デロ21~27(後のモ5621~5627)、デハ101~115(後のモ5651~5663)までの車両にはすべて飾り窓付きであった。 モ5621形は戦後の車体改修時に順次撤去され、たまたまモ5622、モ5624の2両のみ飾り窓が残っていた。 モ5651形は、昭和30年頃から正面貫通化、乗務員扉の設置、外板張替えによる飾り窓の撤去等が実施され、すっかり平凡なスタイルになってしまったが、南大阪線では昭和46年まで、養老線に転属した車両は52年頃まで使用されていたので、実際に乗車された方も多いと思う。 返信 ↓
藤本様 未熟者にこのように何回も教えていただきありがとうございます。近鉄のHPの中に近鉄資料館というのがあって、デイ1形について説明がありました。説明を読んでみますと日本最初の1500V直流電化をしたのが現在の南大阪線で、その時にデイ1形を製作して運行させたとありました。日本最初の直流1500Vの電車ということがわかりました。その電車に飾り窓をつけたというのは何か当時の鉄道関係者の気合を感じてしまいました。これっきりでなくこれがベースとして後の車両にも飾り窓をつけ、富山に開業した電車のモデルになってこのセミボ20に至ったと思うと、やはりチキンラーメン?と同じように大阪の方から広がっていったと思うと面白く、また関西パワーを感じます。 返信 ↓
おはようございます。 どですかでん氏が最初に指摘された九頭竜川と神通川の間違いは、産經新聞に苦情が行っていると思うのですが、退職後何年も経つ古巣のことが、少し気になります。 さて、ここからは鉄道マニア周縁の話題ですが、富岩鉄道の発起人には岩瀬浜の人々が当然多く関わっています。 岩瀬浜は、江戸期に栄えた、回船業の寄港地の一つで、海運で財を成した旧家が今も何棟か、よすがを伝えています。 江戸期以来の回船業は、当然上方の商圏を背景にした財力で、北陸本線への連絡輸送の支線建設の目論みがあれば、当然機材の購入も、昔からの縁のある浪速商人につてを探すのは普通の理由だと思います。 北陸は、昭和以降は名古屋の日車製の電車が増えますが、この頃は新車を発注するのなら、まず大阪の会社に頼んでみようという気運が、普通にあったのではないでしょうか。 安宅産業などの大手商社も北陸にルーツを持っていましたし、北陸と関西の繋がりは、現在でも電力会社などに大きなパイプが残っていますが、広がると言うより昔の方が、大阪の勢力圏であったと考えた方が、不思議ではないように思えます。 失礼いたします。 返信 ↓
解説のところで関三平さんは九頭竜川河口の岩瀬浜とありますが、神通川の河口に岩瀬浜があります。関三平さんはなにか勘違いされたのでしょう。ところでセミボ20でしょうか。オーバークロスの上を走る電車の飾り窓は近鉄モ5626の飾り窓と似ていますが、なにか関係があるのでしょうか。誰か教えてください。
富岩のセミボ20と21で、側面上部の飾り窓形態が、異なっているとは今まで気付きませんでした。
確かにこの両車は、買収国電中でも売却が早く、2台が仲良く記載されているのは、朝日新聞の「世界の鉄道’66」くらいです。
セミボ20の方が大阪鉄工所、21が日車です。
近鉄の5621は先の5両が川崎でつくられており、藤本さんの記事を読むと26は大阪鉄工所製なので意匠の関連は、同じメーカー、同じ時期ということで、共通性があるのでしょう。
また伊勢電211(近鉄6201)は地元の日車製ですが、セミボ21の方は、同じ日本車輌でも床下にトラスロッドがあったり、木造車の域を出ないスタイルをしています。
四角い明かり窓はWルーフ時代の屋根のものを、下に下げて来たかのように思われるのですが、宮崎交通のハ14(武蔵野鉄道の元気動車)にも同じような幕板部の窓のあるものがありました。
セミボ20、21の国鉄時代の写真は、佐竹先輩の名著「私鉄買収国電」にボ1と共に掲載されているのでご覧いただきたい。
「デジ青」には、平成24年7月13日【21925】「富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線」にボ1(富山地鉄→加越能鉄道譲渡後)、ボ2(富山地鉄譲渡後)、セミボ21(岳南鉄道譲渡後)の画像を掲載している。(セミボ20→静岡鉄道クハ7がないのは撮影していないため)
セミボ20は、昭和28年廃車後、30年に静岡鉄道に譲渡され、Tc化の上クハ7に改番して、同社オリジナルのモハ7(昭和15年木南車両製)と固定編成を組み、41年に廃車になった。
私は41年3月に訪れたが、見かけなかったので既に廃車されていたのかも知れない。
どですかでんさんから、セミボ20が近鉄モ5626と飾り窓が似ているとのご指摘であるが、理由は次のように考えられる。
富南鉄道が大正13年にボ1、ボ2を新製するにあたり、モデルにしたのが大阪鉄道デイ1形→近鉄南大阪線モ5601形(鋼体化改造後のモ5801形)であった。(大鉄は15m3扉車に対し、富南は12m2扉車)
ボ1、ボ2は大阪鐵工所製に対し、大阪鉄道デイ1形は川崎造船所製のため、一見メーカーは関係なさそうに見えるが、モ5621形は5621~5625が川崎造船所、5626、5627が大阪鐵工所で製作されているため、関連があったのかも知れない。
セミボ20は、ボ1、2の延長線上で作られたため同様のスタイルになったと思われる。大鉄デロ21形(→近鉄モ5621形)もデイ1形の延長線上で作れられている。
セミボ21は昭和3年日本車輌製で、片側に荷物積込スペースを設けたため、窓配置が変わり、ついでにデザインも変えたということではなかろうか。
鉄道会社にとっては車両は大切な商品(財産)であり、単に乗客を運ぶ道具としてではなく、見せかけだけにしても、豪華さという付加価値を付けたということであろう。
K.H.生様 藤本様 私のコメントの疑問に対して教えていただいてありがとうございます。まず、お詫びしなければなりません。私のコメントで近鉄モ5626の飾り窓と似ているとありましたが番号が間違いでした。関三平さんの絵ではモ5622でした。さらに、藤本さんの投稿記事などを調べてみるとモ5621からモ5624で飾り窓のあるのはモ5622とモ5624でどうもモ5621とモ5623には飾り窓がなかったようです。この2両は最初から飾り窓がなかったのでしょうか。モ5623は現在琴電23として現存しているようです。飾り窓に関してはあまり深く考えない方がよいかもしれません。発注者も設計者も遊び心があったのではと思ってしまいます。どうもお騒がせしました。
飾り窓の件
元大阪鉄道の車両は、デイ1~13(後のモ5601~5611)、デロ21~27(後のモ5621~5627)、デハ101~115(後のモ5651~5663)までの車両にはすべて飾り窓付きであった。
モ5621形は戦後の車体改修時に順次撤去され、たまたまモ5622、モ5624の2両のみ飾り窓が残っていた。
モ5651形は、昭和30年頃から正面貫通化、乗務員扉の設置、外板張替えによる飾り窓の撤去等が実施され、すっかり平凡なスタイルになってしまったが、南大阪線では昭和46年まで、養老線に転属した車両は52年頃まで使用されていたので、実際に乗車された方も多いと思う。
藤本様 未熟者にこのように何回も教えていただきありがとうございます。近鉄のHPの中に近鉄資料館というのがあって、デイ1形について説明がありました。説明を読んでみますと日本最初の1500V直流電化をしたのが現在の南大阪線で、その時にデイ1形を製作して運行させたとありました。日本最初の直流1500Vの電車ということがわかりました。その電車に飾り窓をつけたというのは何か当時の鉄道関係者の気合を感じてしまいました。これっきりでなくこれがベースとして後の車両にも飾り窓をつけ、富山に開業した電車のモデルになってこのセミボ20に至ったと思うと、やはりチキンラーメン?と同じように大阪の方から広がっていったと思うと面白く、また関西パワーを感じます。
おはようございます。
どですかでん氏が最初に指摘された九頭竜川と神通川の間違いは、産經新聞に苦情が行っていると思うのですが、退職後何年も経つ古巣のことが、少し気になります。
さて、ここからは鉄道マニア周縁の話題ですが、富岩鉄道の発起人には岩瀬浜の人々が当然多く関わっています。
岩瀬浜は、江戸期に栄えた、回船業の寄港地の一つで、海運で財を成した旧家が今も何棟か、よすがを伝えています。
江戸期以来の回船業は、当然上方の商圏を背景にした財力で、北陸本線への連絡輸送の支線建設の目論みがあれば、当然機材の購入も、昔からの縁のある浪速商人につてを探すのは普通の理由だと思います。
北陸は、昭和以降は名古屋の日車製の電車が増えますが、この頃は新車を発注するのなら、まず大阪の会社に頼んでみようという気運が、普通にあったのではないでしょうか。
安宅産業などの大手商社も北陸にルーツを持っていましたし、北陸と関西の繋がりは、現在でも電力会社などに大きなパイプが残っていますが、広がると言うより昔の方が、大阪の勢力圏であったと考えた方が、不思議ではないように思えます。
失礼いたします。