出雲坂根今昔

71661で湯口大先輩が見事に察知されたように、ここのところ木次線で盛り上がっています。湯口氏、東ウラ氏、どですかでん氏から貴重な俯瞰写真や新旧の案内図が次々と紹介され デジ青らしい盛り上がりを楽しませて頂いております。米手作市氏からは貸切列車で煽られておりますが、それは宿題にさせて頂くとして、もう少し火に油を注いでみたいと思います。手元にあります 昭和53年3月発行の「日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇」の木次線の項を開いてみました。すると開通直後と思われる スイッチバックの俯瞰写真が載っていました。

開通当時の出雲坂根

開通当時の出雲坂根

出雲坂根駅で交換したと思われる上下2列車がとらえられています。

さて少し木次・備後落合間の歴史を整理しておきたいと思います。大正12年4月に米子建設事務所所管で木次から測量が開始されます。昭和2年12月に 第2工区となる出雲三成・下久野間にある下久野隧道(2241m)を国鉄直轄でまず着工します。このトンネルは当時としては山陰随一の長大トンネルだったようです。第2工区が国鉄直轄工事だった以外は 第1甲、第1乙、第3~第9各工区は請負工事で進められています。昭和7年12月に木次・出雲三成間が開業します。昭和9年8月になって宍道・木次間の簸上鉄道が国鉄に買収されます。約2年弱の間は 21.1Kmの私鉄の先に20.4Kmの国鉄線が延びていた きせる状態だったことになります。次いで昭和9年11月には出雲三成・八川間が開業しています。さてこの八川から先 出雲坂根のスイッチバックを経て三井野原までの第7工区が最大の難工事区間で 鹿島組が695,000円で請負っています。請負の9工区の総請負金額が2,541,000円ですから、その27%がこの工区です。ちなみに駅設備等々を含めた全区間の建設費は7,080,000円だったようです。

湯口氏ご紹介の「いずもさかね周辺図」を勝手に再掲させて頂きます。親切なことに各トンネルの名称が記載されているからです。

木次線出雲坂根周辺図1973.8.13

スノーシェルターを出てすぐのトンネルが第1坂根隧道で第8まで続きます。第3隧道の次のトンネルはなぜか追番ではなく、「中央坂根隧道」となっています。鹿島組の工区主任の回顧談をご紹介します。『この箇所は当初約2万㎥の大切取り(切り通し)の予定で開削を行い、切取りがほぼ完了した時点で 左側の山側から少しづつ押し出してきた。そこで押し出しの原因部と思われた箇所の辷り面の上部を切り取ったが、その増し切取りの法面が崩壊した。ここから雨水の浸入は必至であり、その後の大崩壊の誘因ともなるので この開削部分に鉄筋コンクリートで延長80mの短い隧道を作り、元の切取りを埋め戻した。』  当初は計画していなかったトンネルだったため このトンネルだけを「中央坂根隧道」と名付けたようです。どですかでん殿、この崩壊は平家の祟りだったのでしょうか。

次の第4隧道も難工事だったようです。引き続き回顧談です。『本隧道は木次方から約100mの所に線路とほぼ直角に断層(辷り落差約40m)があって、進行がはばまれた。また本坑では水圧によって坑奥から土砂が延長60mから70mにわたって2回押し出されたため 本坑での作業が不能になり、迂回坑を右の方に掘削したが、ここも水圧と土圧のために前進できず、放棄して改めて左の方に迂回坑を掘削して ようやく断層部分を突破することができた。この間、2年ぐらいの間に迂回坑で水をしぼったことと、左側の迂回坑の断層の厚さが薄かったことが成功した原因であったと思われる。』

現在なら数々の重機を投入してあっというまに開通するのでしょうが、たいした機械もなく人力で開削してゆく当時の苦労は想像もつきません。井戸の水を飲むときは井戸を掘ってくれた先人の苦労を偲べと言われますが、トロッコ列車で歓声をあげて景色を堪能するだけではなく 3年9ケ月を要したこの区間の先人の苦労を忘れてはならないと思います。そして苦労の末 昭和12年12月12日に備後落合までが全通しています。

次回訪問時には 当時のご苦労を偲びつつトンネルをくぐりたいと思います。更には湯口先輩受難の近道も探してみようと思います。なおどですかでん氏から紹介のあった木次線フォトコンテストのパンフレットを入手していますので 添付しておきます。お一人様3点までとなっています。

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