岡山県下の鉄道遺産については小西伸彦氏著「鉄道遺産を歩く 岡山の国有鉄道」という名著があり、山陽本線をはじめ津山線、宇野線、吉備線などのトンネル、橋梁、駅などの詳細な調査結果が解説されています。レンガに関しても詳しい説明があって、多くのヒントを得ています。まず松濱臨港線で発見して驚いた弧状レンガのことですが、時代の最先端であった鉄道建設には、意欲に満ちた技術者が橋台のような目立たない部分の外観や意匠にも意を払い デザイン重視で弧状レンガを使ったそうです。弧状レンガは通常レンガと違って特注品であり、当然高価なレンガでした。しかし時代が進み、路線の延伸が進むにつれて意匠よりコストが優先されて弧状レンガは使われなくなり、やがてレンガから石材に移行し 次に石材からコンクリートへと進化してゆきます。そんな技術的な流れから考えて 松濱臨港線で最も古い橋台をA1の弧状レンガだと推定しました。しかし弧状レンガが使われたのはA1の1ヶ所だけです。そこで明治30年測図の地図と考えあわせて導いたのが次の図です。
さて拙稿(1)のコメントとして スエ31殿から貴重なコメントを頂きました。山陽鉄道明治25年度下半季報告書の増築補修工事の項に「三原駅内(すなわち糸崎駅内)海岸より荷物揚卸の便を計り37鎖22節の副線を敷設す」との記述があるそうです。これはまさしく松濱臨港線のことを指していると思われます。37チェーン22リンクはほぼ750mに相当しますので、停車場中心から臨港線終端までの距離とほぼ合致します。明治25年7月20日(即ち上期)に開業し、同年下期に臨港線を敷設完了ということですので、開業と同時ではなく半年遅れだったことが判明しました。このことは建設資材を鉄路で運んできたか、海路で運んだかに関わってきます。特に弧状レンガは岡山県下で多く使われていますが、その残材を貨車で運んできたという可能性もあります。
一方どのような建築資材を使用するかは その工区を請け負った業者によっても左右されるようです。岡山県下で弧状レンガを好んで使用した業者が 松濱臨港線建設工事を請け負ったので残材を有効活用したとも、あるいは臨港線工事を請け負った別の業者が岡山県下の現物を見に行って それを真似たかなどいろいろな想像が膨らみます。
さて小西伸彦氏の著書によると、山陽鉄道で使用されたレンガには大きく分けて2種類あるそうです。山陽型の寸法は218.2×104.5×51.5mm、山陽新型は一回り大きい227.3×107.6×69.7mmだそうです。当時はまだ統一的な規格がなく、大正14年に初めて210×100×60mmという規格が定められたそうです。それまではメーカー任せだったということです。もちろん弧状型レンガは特注の規格外品です。余談ながらレンガは手で積み上げてゆくので、片手で持ちやすい寸法で作られていたようです。そのため当初の外国製品よりひと回り小さいサイズと重さが日本人に合ったサイズとして規格化されたようです。
A地点は干潮の日に水路に降りてレンガの採寸をしました。まず両端が弧状レンガで築かれたA1橋台の通常レンガは平均して214×102×51mmでした。山陽型218.2×104.5×51.5mmと見て良いようです。隣のA2橋台の方は 219×105×68mmとひと回り大きく、特に厚みが厚くなっています。山陽新型は227.3×107.6×69.7mmですが、厚みは近いものの山陽新型とは言い難く、むしろ山陽型の厚みを増やしたタイプのようです。従ってA1橋台は山陽型とし、A2橋台の方はメーカー独自の寸法だとしておきます。今回適当な5,6個をサンプルとして測ったのですがバラツキも大きく、もっとサンプル数を増やすべきだったと反省しています。一方 糸崎・尾道間に残っているレンガ積み拱渠などのデータとの突き合わせも次なる課題ですが、その大半が山陽本線の現役橋台なので採寸は無理だと思っています。また残念ながらB1のレンガの採寸は足場も悪く難しそうです。B1とA2が同寸なら私の仮説が成り立つのですが。
レンガはどこで作られたかですが、鉄道専用のレンガ工場として 岡山県三石の「稲垣煉瓦製造所」、現在の赤磐市松木(熊山)の「稲垣煉瓦製造所松木支社」、現在の岡山市東区上道の「梶岡煉瓦製造所」で製造されたレンガが山陽鉄道に多用されたそうです。他にも備前焼の本場和気にもレンガ工場があり、また大阪堺の「堺煉瓦株式会社」のレンガも瀬戸内海から吉井川を遡ったりして山陽筋に供給されたようです。更には観音寺市に「讃岐煉瓦株式会社」もありました。堺や讃岐製には刻印があるようですが、松濱のレンガには刻印は認められませんでした。
上記山陽鉄道報告書には「併せて1380坪(約4500㎡)を埋め立てた」とあるそうです。この埋め立てたエリアがどのエリアなのかは判然としませんが、明治30年の地図でもわかるように、臨港線が敷設されたあとでも海側は葦の茂ったような湿地、荒地ですから、A地点から先の荒れ地を埋め立てて整地し、線路を敷き 護岸整備も行ったのではと思います。
1899年(明治32年)に松濱港は全国で29番目、瀬戸内海では下関に次いで2番目に外国船が自由に出入りできる輸出入港に指定されます。それを機に糸崎港にニューヨーク・スタンダード石油の油槽所が建設されることになり、海岸は埋め立てが進み、松濱港には臨港線の増設・整備が行われたのではないかと考えました。明治30年代の石油は現在とは比較にならないほど用途が限定されていたでしょう。油槽所構内には石油缶、ドラム缶の製造工場も併設され 輸入されてタンクに貯められたガソリンや石油類はタンク車というよりは 石油缶やドラム缶で輸送されたようです。弧状レンガのA1橋台を通る線路は そんな石油を詰めた缶を貨車に積み込むための引込線となり、新たにA2、B1の通常レンガを使った橋台を建設して臨港駅に向かう新たな線路が増設されたのではと考えてみました。海岸には貨物上屋も設けられ、臨港貨物駅の体裁を整えていたのではないかと思います。
スタンダード石油の建設工事が行われている頃の貴重な写真が残っています。
中央左寄りに3基の石油タンクが黒く写っています。中央右寄りには3線の糸崎機関庫があります。明治後期でも帆船が活躍していたようです。油槽所が完成したあとの写真もあります。
手前に1本線路が見えます。これが松濱臨港線だと思われます。防油堤で囲まれたタンクの左手にある建物群がドラム缶工場です。A地点は画面左端から少し先だと思われます。昭和初期の写真もあります。
糸崎は山陽鉄道の要所として機関庫も設けられました。給炭、給水設備もあった筈です。水はともかく石炭はどこから糸崎機関庫に運ばれてきたのでしょうか。当時の瀬戸内海には北九州から大消費地である京阪神に向けて多数の石炭船が往復していました。多分そんな石炭船が松濱港に寄港し、短い距離ながら無蓋貨車で松濱港に荷揚げされた石炭を糸崎機関庫に運んだのではないかと これも推測です。
明治34年には下関まで開業し、明治39年には山陽鉄道は国有化されます。山陽本線は大幹線として輸送量も増大し、松濱港(糸崎港)の荷扱い量も増えるに従って 線路が増設されたと思われます。その時点ではレンガから石造りの時代に移行しており、A3、B2、B3の橋台は石造りとなったと思われます。明治から大正、昭和と時代は移って行きますが細かな変化は知る由もありません。最盛期のイメージを図にしてみました。
昭和10年代初頭に描かれたと思われる鳥瞰図があります。
簡素化して書かれていますが 糸崎駅から分岐して港に向かう線路が描かれています。不思議なのはかなりの面積を占めている筈のスタンダード石油のタンク群がはっきりとは書かれていません。昭和10年代初頭でもこの種の施設は伏せるように配慮していたのでしょうか。
糸崎機関区の海側には多くの倉庫が建設され、糸崎倉庫専用線も敷設されます。この倉庫線は松濱臨港線からスイッチバックするかたちで敷かれたため、臨港線が倉庫線への引き上げ線も兼ねるようになって複雑な配線になったようです。
現在 スタンダード石油会社油槽所のタンク群は撤去され エッソ石油系の石油店の小規模な油槽所が残るのみですが、かつてタンク群を囲っていた防油堤の一部が今も残っています。山陽鉄道とは直接関係ないのですが、明治の遺構としてご紹介しておきます。
現在の法令では防油堤は鉄筋コンクリートか土で作るように決められているようですが、木が生えていることからもわかるように土と石を積んで作られています。目地はセメントか?
肝心の山陽鉄道そのものを偲ばせる遺構は結局 A1、A2、B1の3つのレンガ積み橋台だけで、石積みの橋台は国有化後 大正期以降の構築のようです。レンガについては奥が深く付け焼刃の不勉強ですが、石材も同様に全く知識がなく 鉄道考古学も容易ではありません。
なお山陽鉄道時代ではないのですが、松濱臨港線の存在を示す貴重な写真を入手しましたのでご紹介します。
上記最盛期の地図の下部 臨港線の先端に2基のテルファーを記載しています。これは大正末期に港の荷役を行っていた糸崎運輸合資会社(現在の備後通運)と鉄道省が建設した2Tonクレーンです。上の写真の撮影時期は不明ですが、画面中央に直交する2基のテルファーが写っています。テルファー完成当時の写真もありました。
居並ぶお歴々は岡山鉄道管理局糸崎機関区長、糸崎駅長、糸崎運輸合資会社の幹部だそうです。人海戦術の荷役に比べて画期的な設備であったと思われます。吊っているのは炭俵でしょうか?船は木造機帆船でしょうか。現在のこの場所の様子です。水産会社の先端 海岸部分です。
中央に護岸ぎりぎりに木造平屋建ての倉庫が見えますが、その倉庫の下から先には海中の石積みがありません。その護岸部分が臨港駅の先端部で木造倉庫のあたりにテルファー1基が海に突き出ていたと思われます。
糸崎機関区の海側に水深も深い立派な岸壁が建設され 大型船が着岸できるようになると、小型船しか着岸できない松濱臨港駅は役目を終え、テルファーも昭和40年頃には撤去されたようです。全国各地に小規模な臨港貨物駅がありましたが、この松濱臨港駅もそんな貨物駅のひとつだったと思われます。
以上が水路で見つけた弧状レンガがきっかけで あれこれと想像を膨らませて推察した結論です。大変雑駁な考察で間違いや誤解も多いと思いますので、お気付きの点はどしどしご指摘下さい。なお尾道から糸崎にかけて、そして三原市街地をとばして 広島方面にもまだ多くの山陽鉄道の遺構(主には橋台ですが)が残っていますので それらも調査、記録を進めています。次は糸崎港を離れて 順次ご紹介したいと思います。ローカルなレポートで恐縮でしたが 最後までおつきあい頂きありがとうございました。
『日本鉄道請負業史 明治編』には山陽鉄道の建設を請け負った業者についての記述はなく、『図表と写真でつづる日本鉄道請負業史』に、岡山-三原(現・糸崎ではなく、現・三原)間の請負者は「不明」と記されています。(既にご存じかもしれませんが)
また、蛇足かもしれませんが、増築補修工事の記述をもう少し追加します。
「……副線ヲ布設ス其工事ハ『カルベルト』貳ケ所開展各十呎ヲ架シ築堤純盛土九百二十五坪土留石垣面二百坪ヲ築設セリ又荷物貯蓄塲トシテ驛内卑濕地三ケ所ニ於テ千三百八十坪ノ埋立ヲナセリ」→最初から全部お知らせすればよかったですね。すみません。
スエ31様
またしても貴重な情報をありがとうございます。「カルベルト」即ち「線路敷設に伴い分断される水路に対する橋」が2ヶ所あり いずれも長さ10フィート即ち約3mということは まさしくA、B2ヶ所の水路に違いありません。それは良いのですが、となると臨港線敷設の第1段階から2ヶ所に橋台を築いたわけで、なぜ弧状レンガと通常レンガが並んでいるのかの謎が更に深まってしまいました。私の仮説は成り立たず、まずA2とB1の通常レンガ橋台が作られ、次に弧状レンガのA1、そして石造りの橋台という順になります。まあ冬の夜長に頭をひねる丁度良い材料になったようです。いずれにせよ確たる裏付け情報が得られたのが何よりです。ありがとうございました。