山陽鉄道が神戸から西進し、糸崎まで開通したのが1892年(明治25年)7月20日でした。もう124年も前のことになります。糸崎から広島へ伸びたのが2年後の明治27年6月10日ですから、糸崎は短期間ながら山陽鉄道の終着駅だったわけです。なぜ急にこんな古い話を取り上げるかと言いますと、私は三原市の市民学芸員活動もしていまして、三原市の近代化遺産なるものを調査していて 山陽鉄道のことを調べることになったわけです。手元に大日本帝國陸地測量部 明治30年測図の1/20000「松濱」という地図があります。山陽鉄道開業から5年後のものです。「糸」の字も「絲」が使われています。当時は貢郡東野村で瀬戸内海を往き来する船が立ち寄る松濱港を中心とした港町でした。
そんな港町が鉄道の終着駅となり、港に向かって臨港線が建設されました。但しこの臨港線についての詳しい資料は少なく(私が見つけていないということですが)、この地図は貴重です。しかし測図が明治30年ですから明治25年の開業当初に同時に臨港線も敷設されたのか、広島延伸などに合わせて明治30年までの間に敷設されたのかは この地図だけでは判断がつきません。糸崎といえば、C59,C62が活躍した糸崎機関区を思い浮かべる方も多いと思いますし、多くの方が糸崎駅や糸崎機関区での写真を撮っておられることと思います。機関区の海側には糸崎港岸壁があって臨港線もありました。昭和48年の地図をご紹介します。
この地図でわかるように機関区の海側の岸壁に行く新しい臨港線と今回話題にしたい明治時代に敷設された松濱港に行く臨港線があったのです。正式名称ではありませんが、松濱臨港線と岸壁臨港線という名前をつけて区別したいと思います。糸崎機関区を訪ねた方が岸壁臨港線に足を伸ばしたことはあっても、なかなか松濱臨港線までは訪ねていないだろうと思います。もちろん私も同様です。では現在の松濱臨港線はどのようになっているかをご紹介します。
この松濱臨港線は糸崎駅での貨車による貨物扱いがなくなり、東福山からトラックでコンテナが運ばれて来るORS(オフレールステーション)になったあとも、一部のレールは撤去されずに保線用車両の留置線として残っていました。しかし現在ではすべてのレールは撤去され、ご覧のように長い扇形の空き地となっています。
余談ではありますが、明治30年の地図をご覧ください。糸崎駅の北側の道路を右(東)に進むと、本線を横切って松濱臨港線に沿って進み、松濱の集落に入ってゆくのがわかると思います。この道が参勤交代の行列も通った旧山陽道です。
そんな松濱臨港線跡地を横切るように2本の川(水路)があります。レールが敷かれていたときはさすがに鉄道用地には入りづらかったのですが、すでにすっかり空き地となっていますので その川にまだ橋台が残っているのではないかと 空き地に入ってみました。JRさん ゴメンナサイ。最初に訪ねた際は お天気もよく丁度いいやと思って見に行ったところ 丁度満潮で橋台のほとんどは水没していて観察できませんでした。しかし橋台がしっかり残っていることが確認できたのは収穫で、改めて干潮時刻を調べて後日現地に向かいました。そこで驚きの発見がありました。混乱を避けるため 手書きの略図を作ってみました。
左上をA地点、右下をB地点とします。A地点には4対の、B地点には3対の橋台が残っていることが判りました。旧山陽道からA地点を見たのが次の写真です。
改めて干潮時に訪ねた際に A地点には時代別に4種類の橋台が、B地点には新旧2種類の橋台が残っていることが判明しました。まず最も驚いたのが A1橋台です。すぐ隣のA2橋台と同じくイギリス積みのレンガ橋台なのですが、A1橋台には角が丸い「弧状レンガ」が使われていたのです。A2橋台は通常のレンガです。
弧状レンガは岡山県下では数多く現存しているのですが、尾道・三原近辺ではまだ未発見です。そういう意味で驚きの発見でした。川の中に降りて 近づいて観察してみました。
一方A2橋台の山陽道側のA3橋台は石造りです。
さて次にB地点がどうなっているかが気になります。実はB地点の水路から海側は元は臨港駅があった場所なのですが、現在は水産会社の敷地となっています。最初にB地点を訪れた時にフェンス越しに2対の石造り橋台が残っているのを確認し、喜び勇んで帰りました。
家に帰ってA地点の4対の橋台とB地点の2対の橋台から 時代を追ってどのように線路が敷かれていったのかをあれこれ推定してみました。最も古いのが弧状レンガのA1、次が通常レンガのA2、次いで石造りのA3、B2、B3、そしてA4のコンクリートというのが妥当な順番だと考えられます。しかしながら そのほかの資料や古写真とどうもツジツマが合わないのです。上の写真でB地点の水路が右にカーブしているのがお判りでしょう。どうも2対の石積み橋台の先にもう1対レンガ積み橋台があるのではないかと思えてきました。しかし水産会社の構内に入らないと確認できません。そこで別の日に水産会社の事務所を訪ねて事情を説明し、敷地内に入れてもらいました。すると想定通りレンガ積み橋台が1対残っていました。しかしレンガは弧状レンガではなく A2橋台と同じ通常のレンガでした。
これでようやく謎解きのための最低限の実態調査が済みました。これらの調査結果に基づいて 松濱臨港線がどのような発展を遂げ、衰退していったのかをこれから明かしてゆこうと思っています。(続く)
松濱臨港線の綿密な調査に脱帽です。西村さんの面目躍如ですね。得られた資料から当時を推測すのは中々難しいこととお察ししますが、いわばパズルを解くような面白味もあり、それを支えに励んでおられるものと拝察します。小生も廃線探訪にいささか興味があり、続編を楽しみにしております。
4~5年前に糸崎駅の東方2.5km辺り(新設の国道2号線と従来の185号線の接続点辺り)で115系湘南色を撮ったあと、駅まで歩いて帰りましたが、途中から交通量の多い国道を避けて古い集落の街中を戻りました。この集落が元の松濱集落だったのですね。現在の地図にはもうこの地名は無く、全て「糸崎(一)や(八)」と書かれていますので、松濱の名は今回初めて知りました。郵便業務や自治体による管理効率化のため、住所表示を変更・統一するのは仕方のないことと理解はしますが、その結果各地で由緒ある地名が忘れ去られていくのは寂しいものがあります。のみならず、今回の探訪もそうですがそのうち当時の調査などにも支障するのではと心配しますね。
1900生様
いつも素早いコメントをありがとうございます。糸崎駅から海岸を尾道方面に向かわれて撮影されていたとは存じませんでした。糸崎駅に戻られる際に歩かれた古い町並みが北前船が寄港した松浜です。国道2号線から側道に入られてすぐのあたりにかつて糸崎税関があり、その先には遊郭もありました。すでに税関はありませんが、まだ遊郭の名残りを留める町屋は残っています。お説の通り郷土史を調べる第一歩はまず古い地名(小字名、大字名)を調べることからです。なかなか一気には情報は得られず時間を要します。その過程が楽しいとも言えますが。続編は期待して頂くような中味にはならないと思いますが、現地調査も並行して行いながら書き進めてゆきたいと思っています。
臨港線の敷設時期ですが、『明治二十五年度下半季 山陽鐵道會社第拾壹囬報告』の「增築補修工事」に「三原驛内海岸ヨリ荷物揚卸の便ヲ計リ三十七鎖二十二節ノ副線ヲ布設ス」と記述があります。明治25年10月~26年3月の間に完成したようですね。そして同時に合計1380坪を埋め立てたそうです。
[注]「糸崎」は最初から糸崎ではなく、当初「三原」と称していました。
スエ31様
貴重な情報をありがとうございます。明治25年10月から翌3月ということは 開業と同時ではなく、開業後に着工ということになります。続編で触れるつもりですが、レンガがどこで作られ、どういう手段で工事現場に運ばれてきたかが判りません。開業後なら貨車で運べるのですが、開業前なら船便が有力です。まず37チェーン22節を換算して検証してみます。
スエ31様
基本的なことを教えて下さい。1チェーンを20.116mとすると37チェーン22リンクは約750mとなります。この37チェーン22リンクとは側線が2本あればその側線2本分すべての長さを表すのでしょうか。750mでは長すぎるのです。
停車場中心がどこなのかははっきりしませんが、臨港線の分岐点からではなく停車場中心からなら約750mはほぼ符合します。お騒がせしました。