以前の投稿「【95139】大阪市営地下鉄からOsaka Metroへ」にある写真の解説で「戦前に計画された谷町線のトンネルは今は天王寺行のホームに」とかコメントで「うまい具合に戦前に計画された谷町線のトンネルが利用できたのが幸いでした。」と記述しました。それについて、いつもデジ青をご覧になっている河様から経緯などを教えていただきたいとのコメントがありました。あまりええ加減なことをお教えすることが出来ないので出来る範囲で調べてみると私の知らないことがたくさんありました。図書館で調べたり、ネットで検索したりしたのですがとにかくややこしいのです。
まず日本で地下鉄がどのように開業していったのかというと、東京で明治39年12月に民間の東京地下電気鉄道が高輪~浅草間と銀座~新宿間の地下鉄を出願したところから始まります。しかし、開業したのは昭和2年(1927年)12月30日に上野~浅草間でした。そして、問題の大阪の地下鉄ですが、地下鉄計画は大正15年(1926年)3月に決定となり、昭和2年(1927年)6月に軌道法に基づき特許取得しました。「大阪市地下鉄の歩み」によると「大阪の高速鉄道路線は主としてとして都市計画道路の中心に入れることを原則としているので都計街路の密接な関連がある。」と書かれていました。この点が大阪の地下鉄が「鉄道」ではなく「軌道」である由縁です。
出典 佐藤信之著 地下鉄の歴史 首都圏・中部・近畿圏 グランプリ出版-原出典先「大阪市交通局七十五年史 大阪市交通局 昭和55年3月」
大正15年(1926年)の地下鉄計画路線図を見ると現在の梅田ー我孫子と大国町ー玉出までの路線は第一期の計画と同じのようです。しかし、第二期計画である2号線は現在の谷町線である谷町筋の地下でなく、マッハ模型店の前の道を扇町まで東へ進み、ここから天神橋筋、「まっちゃまちのふくいたや、にんぎょとゆいの」で有名な松屋町筋を真っ直ぐに南下して天王寺駅南側まででした。そして森小路までは今のJR線(当時の鉄道省線)の北側まで伸びて現在の阪急電鉄本社前から東へ向かって天六から都島通りを森小路へ向かったと思われます。以前はここに阪神電鉄北大阪線が走っていました。東へ曲がる阪急電鉄本社前には北野という電停がありました。これについては「“平成”の思い出 鉄道の記憶(10)」で総本家青信号特派員さんがコメントも含めて書かれています。この時点ではほぼ大阪地下鉄路線の骨格は出来ていたようです。そして、まずは現在の御堂筋線梅田ー心斎橋の開業をめざしました。
さてそのややこしい梅田駅のことですが当初の計画では駅の構造が違っていました。今の大国町駅のように方面別ホームで計画されていました。
また将来の利用者増加をみこして、第2期2号線のホームも含めて4線2面ホームという大きな駅で計画が進められました。天井の形状はアーチです。2つのアーチ天井が並ぶことになる予定だったのです。
上の図は大阪市交通局編集の「大阪市地下鉄建設五十年史」に載っていた図より作成いたしました。第二期の2号線は赤の破線で示しています。駅を作るなら2号線の駅も作っておこうということなのでしょうか。工事は1930年(昭和5年)1月から始まりました。この時は世界的な大恐慌の時代です。こんな時代に建設するお金はどうしたかというと、失業者に仕事をしてもらう事業とするからお金を集めさせてくれと頼んで、それがOKとなってやっとお金集めができました。しかし、世の中は超不況です。人は集まったのですが着流しに雪駄履きのおっちゃんが来たり、とにかく難儀したようです。その後、昭和6年頃から熟練工を作業員として雇うことができて何とか工事が進むようになったようです。
NHKの朝ドラで「ごちそうさん」がありました。主人公のだんなが大阪市地下鉄建設に携わっているということで、建設当時のことがドラマに描かれています。第14週の「アイスる力」から地下鉄建設の話が始まります。それは昭和7年の頃で、漏水で苦労していることが描かれています。場面の中で大阪市交通局から提供をうけた当時の写真がありました。その中に建設途中のアーチが二つ並んでいるのがあり、これは梅田駅の建設現場の写真かもしれません。漏水がひどく工期がかかり遅れに遅れていることから、なんとか昭和8年(1933年)5月に梅田駅は仮駅として心斎橋まで開業にこぎつけました。この時に工事変更の認可を受け、方面別ホームから路線別ホームの駅に計画変更をしました。
上の図は変更後の梅田駅周辺計画図です。まだ、梅田本駅はできていませんので仮駅です。資料の図によるとホームは40mの1面でした。現在の場所でいうと阪神百貨店が改装されて阪神名物のイカ焼きなどを売っているスナックパーク辺りになります。地上から見た位置関係は下の写真のようになります。
この車が走っている道路の下に地下鉄や地下街が広がっています。まあ、地底都市と言えましょうか。梅田本駅の完成は昭和10年(1935年)10月でした。本駅完成と言っても南側の部分だけです。資料によると全体の1/3だけの完成で、ホームの長さは46mでした。短いホームでも大丈夫です。開業時は単行運転ですし、増えても2両編成ですから。残りの工事ですが、梅田駅周辺は軟弱地盤で難工事だったようです。地質は梅田層といって海成粘土層という厄介な地層です。もともとこの辺りは海でした。だから水分を多く含んでいて都市建設には不向きな地層です。今であれば建設技術が進んでいるので何とかなるのですが、戦前の建設工事、特に地下鉄工事となると大変なことであることはすぐにわかると思います。
さて、地下鉄梅田駅ですが大阪市がすべて建設したのではありません。梅田駅の北側の120mは当時の省線敷地内の地下ですので鉄道省に工事を委託されていました。梅田駅は全長217mあまりです。大阪市が建設した南側の46mは完成しています。大阪市担当分の残りは中央部の51mです。ところがこの51mの建設区間がとんでもないことになるのです。それは昭和11年(1936年)2月10日のことです。工事現場で大崩落事故が発生しました。惨憺たるものです。大阪駅東口の駅舎は倒壊寸前というか事実上は倒壊しているといてもよい状況です。そして、作業員の方が2名犠牲になりました。崩落エリアは今の場所でいうと大阪駅の東口から阪急百貨店への横断歩道一帯です。
今はインバウンドでにぎわっているたこ焼き屋や阪急方面へ多くの人が行き来する横断歩道のところです。今から80年程前は大崩落が起こっていたのです。ここで、そんなことがあったとは・・・
「鉄道史料」に載っていた当時の新聞によると崩落したエリアの北側は問題はなかったとあります。そこは鉄道省が請負っていて、工法は潜函工法で建設されていたからです。大阪市の事故調査報告によると崩落の原因は軟弱地盤による不可抗力によるものだけでなく、大阪市側が万全の注意を払っていなかったという点があったと書かれています。このような地盤のところでは最初から潜函工法であればよいのに工事費が倍ほどかかるということと、今までは普通工法でも問題なかったので普通工法にしたが結果として崩落したとしています。崩落していない鉄道省が建設した北側は1936年(昭和11年)9月1日に竣工しています。この時に鉄道省が請け負った2号線用トンネルも完成しています。それが今は南行ホームの一部になっています。そして、アーチの部分は南行ホームへの通路になっています。
さて、崩落したところはいつ頃完成したのでしょうか。当時の新聞に載っていた事故調査報告にはこのように書かれています。「・・・破壊した工事材料を上部より順次取り片付け、本年(注:本年とは1936年、昭和11年の事である。)八月に完成する豫定には豪も變はりはない」と。これによると鉄道省担当の工事が竣工と同じく1936年(昭和11年)9月には崩落した部分も完成したのではないかと思います。
心斎橋から難波まで1935年(昭和10年)10月30日に延長開業し、さらに天王寺まで1938年(昭和13年)4月21日に開業しました。そして3号線(現在の四つ橋線)の大国町ー花園間が1942年(昭和17年)5月10日より営業開始をしました。しかし、地下鉄延長建設は戦争の影響で1943年(昭和18年)3月で全面中断となりました。戦後の地下鉄建設再開は1号線の延長工事でした。それは1950年(昭和25年)6月17日の事でした。
当初、梅田駅に乗り入れるはずであった問題の2号線は1964年2月1日より工事を始めました。すでに当初の予定ルートでは地下鉄を通すスペースが地下にはなく、現在のルートとなったのです。谷町線(2号線)の開業は1967年でした。この時は梅田駅の2号線トンネルは残されたままで「幻のトンネル」と言われていました。ところで1970年頃から御堂筋線は混雑が激しくなり、朝のラッシュ時、梅田駅は改札制限が行われるようになりました。ホームから人が落ちそうなくらいの状態でした。それで拡張改築が計画されます。そこで中断していた2号線用トンネルを利用することになるのです。そして1989年(平成1年)11月から天王寺方面ホームとして利用開始となりました。やっと1930年の起工式から59年目にして当初計画の梅田駅2号線用トンネルはやっと日の目を見ることになりました。
少しややこしい構内ですが、これでホームが広くなりました。これぐらい広ければまあ安心です。戦前に計画されたトンネルのおかげです。このトンネルがなければどうなっているのでしょうか。御堂筋ができた時は町の真ん中に飛行場でもするのかとか、2両しか走っていないのに長いホームを作ってどうするんやとか言われたのですが、今となっては役にたっているのです。先見の明ともいうのでしょうか。これで私も納得です。当たり前のように利用している大阪メトロになった梅田駅ですがあまりにも知られていないことが多いことがわかりました。
地下鉄梅田駅は多くの建設にかかわった人々の遺産(いま流行の言葉でいうとレガシー)が詰まった駅でした。
参考にした資料
大阪市交通局編集 「大阪市地下鉄建設五十年史」
井上潔氏著 「大阪市地下鉄の歩み」
佐藤信之著 地下鉄の歴史 首都圏・中部・近畿圏 グランプリ出版
鉄道史料 146号から149号 竹田辰男 大阪市高速鉄道の資料に寄せて(Ⅰ)~(Ⅳ)
米屋こうじ著 あなたの知らない大阪「駅」の謎
森口誠之 ブログ「トレイン工房の汽車旅12カ月」 【未成線】大阪市営地下鉄の梅田駅”幻のトンネル”2面4線化構想
NHK DVD ごちそうさん 7 13週「ふくが来た!」、14週「アイスる力」
どですかでん様
すばらしいレポートをありがとうございました。資料調査や現場での写真撮影などご苦労がしのばれます。地下鉄に限らず、戦前の土木工事は大した機械もなく、人力頼みの工事で、犠牲者も多かったと思われます。話はそれますが、最近知ったことなのですが、大正期から昭和初期にかけてが、従来のレンガ積み、石積み構造からコンクリート構造に切り替わってゆく時期で、特にコンクリートの初期に作られた構造物には鉄筋が使われていない無筋コンクリート構造だということです。鉄道網の広がりとともにトンネル、橋脚があちこちに建設されます。そのように80年から90年を経てなお現役の土木構造物が鉄道に限らず全国にゴマンとあるはずですが、現在の耐震基準を満たしていないのは明らかです。当然、順次耐震補強工事は進められているのでしょうが、昨今は何か大きな災害でもあって、犠牲者が出てようやく動き出すのが常のように思います。三原市の呉線沼田川橋梁は昭和4年に三呉線として建設された18.3mの桁が17連の全長311mの鉄橋ですが、16基ある橋脚は無筋コンクリートだそうです。平成13年に芸予地震がありました。三原市西部に伸びる山陽新幹線の高架(もちろん鉄筋コンクリート)は大きな被害を受けましたが、無筋コンクリートの沼田川の橋脚は無傷でした。伯備線の無筋コンクリート橋脚は根元で水平ズレを起こしたそうですが、なぜ震源に近い三原で壊れなかったのかというと、芸予地震の地震波の加速度が南北方向に大きかったため、丁度南北方向に橋脚が並ぶ沼田川鉄橋は橋桁が橋脚の揺れを食い止めたために水平ズレを起こさなかったということだそうです。もし東西方向の揺れだったら、もたなかったことでしょう。幸運にも被害を免れたとはいえ、こんな心配をし始めればキリがありませんが、この度の周防大島の衝突事故と言い、山陰迂回貨物のことやら、交通網やインフラの脆弱さがあちこちで顕在化しています。地下鉄網は便利な一方で、水没すれば機能マヒは「想定外」ではないのですから、やれ万博だ、オリンピックだと浮かれておらずに、もっと足元をしっかりと見直して欲しいと思います。またしてもグチになりましたが、ご勘弁を。(追伸)昨日、福塩北線が全通しました。明日、呉線が全通します。
西村様 コメントありがとうございます。もとは本文にあるように河様の問いかけから始まったのですが、調べたら簡単だろう思っていたのですが、かなり手こずりました。投稿の打ち込みを開始したのは4月末で、ほとんど5月からと言ってもいいぐらいです。7カ月半かかりました。何がややこしいというと開業しているのに駅の完成時期や崩落事故があった時期が前後するのでひとつだけの資料ではわからなっかったのです。たとえばある資料では駅の南側のところだけなのに梅田本駅が開業したとよみとれるので、多くの資料にあたらないとわからなかったので時間がかかりました。西村さんの言われるようにインフラが心配です。大正から昭和初期にかけての建設されたものが今でも活躍?しているのですから。阪神なんば線の水面すれすれの鉄橋も架け替え工事の起工式が12月9日にありました。今の橋梁は1924年に架けられたもので、当時は阪神伝法線と言われていたようです。それで10日に写真を撮りに行きました。猛烈な豪雨があれば芸備線の鉄橋のように流されてしまうかもせれません。とにかく、オリンピックや万博が開かれる時期はとんでもなく危険ではないかと思ってしまいます。煽るのではありませんが、とにかくこれからは覚悟しておく必要があるようです。ラジオの「竹田鉄矢・今朝の三枚おろし」で今週はホォッサマグナな話でしたが、その中で日本はひょっこりひょうたん島と言っていましたが、まさしくそんな感じだと思っています。ところでデジ青にブロックエディターとやらが新しくあるのですが淀川橋梁はこれで作成しようとしているのですが、なかなか慣れるまで大変です。とにかく伝法という地名やなかなか面白そうなのでボチボチ調べようかと思っています。
どですかでん様
たいへんな力作をありがとうございます、梅田周辺の町並みや地下街をイメージしながら読むことができました。梅田駅の拡張に際しては「昔のトンネルを利用した」とは聞いていたのですがこのような「なんやかんやの背景」があったとは初めて知りました。大阪に居た時は、1号線(御堂筋線)は最もよく利用した路線です。特に高校のときは天王寺~大国町を毎日の通学で使っていました、天王寺駅でも改札制限があり近鉄や国鉄からの乗換え客も含め、地下の通路は大混雑していました。
2号線(谷町線)が開通したときには「東梅田駅」と「梅田駅」が離れている理由も深く考えていなかったのですが、なんやかんやしている間にルートが変わってしまったのですね。
膨大な調査報告、たいへん興味深かったです、次のレポートを楽しみにしております。
wakuhiro 様 街並みや地下街をイメージしながら読んでいただきありがとうございます。私も今回調べるまで知らなかったことがほとんどです。一番わかりにくかったことは西村さんのコメントの返事に書いたように、梅田本駅が開業しているのに梅田駅工事現場での崩落事故の発生です。開業しているのに何で、という感じでした。こまかく内容を読んでいって分かったのですが、さらっと流して読んでいると間違った理解をしていることだと思います。まあ「なんでやねん!」を繰り返さないといけませんね。ところで西村さんのコメントに対する返事で訂正があります。「竹田鉄矢・今朝の三枚おろし」と書いてあるところは「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」です。お詫びして訂正いたします。
どですかでん様
私も“なんやかや、いろいろあって”なかなか閲覧ができませんでしたが、やっとゆっくり読ませてもらいましたよ。自ら撮影に出向かれ、地図も駆使して、丁寧な取材、編集には頭が下がります。私の記事がヒントになったとのこと、嬉しいです。北野のトロバスも撮影されたのですか、阪国も写っていて貴重な記録ですね。地下鉄のルート決定までの経緯は、調べると、たいへん興味深いです。当初は谷町筋ではなく、松屋町筋に敷設計画だったこと、また、堺筋線を潜り、また堺筋線を潜るというルートも、決定当時の事情が絡んでいるのですね。最初は、南森町から扇町まで行き、梅田方面に向きを変えて、北野・茶屋町から天六へ抜けるヘアピンのようなコースでしたが、これでは東海道線、阪神北大阪線、阪急、国鉄大阪駅と、4つもの鉄道線の直下を通るため工費が膨大になり、結局コースは、現在の南森町~西天満~東梅田~中崎町~天六となり、駅も曾根崎警察近くに梅田駅に新たに設けて、本来計画していた梅田駅には立ち寄らないことになりました。どですかでんさんも書いておられるように、鉄道線との交差部の工事はたいへんだったのですね。
トロバスと阪神北大阪線の電車は高校生の時に撮ったものです。以前から狙っていたのですが、夕方のしょぼしょぼとした雨降りですので写せるかどうかイチかバチかで撮ったのですが、何とか撮れていました。地下鉄のことですが、なんば以南でも関西線の下をくぐるところとか大変な工事だったようです。天王寺駅ですが地下と言ってもあまり深くないので北側の天井近くの壁に通気口のような丸い穴がありました。そこから電車の下の部分が見えていたように思います。今はふさがれていますが、丸くふさいだような凹みが残っていたように思います。子供の頃は不思議に思ったものです。
どですかでん様
凄い内容のご投稿ですね。どですかでんさんの探求力、整理力等に改めて敬意を表します。
阪神電鉄の北大阪線は、丁度社会人になった頃に廃線されたと記憶しています。その路線は阪神バスが野田から天六までを引き継いで走っていましたね。
なかなか乗る機会はなかったのですが、時が経過し阪急と阪神が統合されることになり、阪神電鉄で打ち合わせがある時の野田行きや野田から阪急本社まで帰る際は便利で利用しました。ただ、運行頻度が少なく、乗れるときはラッキーと思ったものでした。
そのバスも今は廃止されたようで、残念です。そんなことを思い出してしまいました。
北大阪線の電車が廃止されてから阪神バスが走っていたのを私も覚えています。大阪に住んでいた頃、大阪駅に行くにはトロバスが走っていた系統で市バスと阪急バスが走っていたので、それに乗るのですが中津あたりで野田阪神へ行く阪神バスを見ました。銀色のような色でブルーの帯が入っていたような感じだったと思います。乗る用事もないので乗っていません。天六から野田ですと今であれば谷町線で東梅田に行って、阪神梅田から野田というルートですね。北野辺りであれば梅田まで歩いても苦にはならないと思います。梅田が通り道となると、寄り道となるのですが、野田も天六も寄り道ポイントですから選び放題となるようですね。
どですかでん様
最近のデジ青の様子に、自分勝手な解釈でノロノロ牛歩を感じてしまい、スッカリご無沙汰していました。
その間に貴殿から小生の名前を呼び掛けて頂いていた様で、今頃気付き大変失礼致しました。
今回、改めて御堂筋線と谷町線の因縁をご解説いただき、再認識している次第です。
ただ、『ロートル』で『関西脱走者』である小生の中では大阪の地下鉄は御堂筋線が唯一に近く、加えてカツテは4号線と言っていた今の中央線の開通直後で終わっており、『臨場感』が追い付きません。
こちらこそ、河様のおかげで勉強させていただきました。地下鉄梅田駅のことを自分では知っていると思ったいたのですが、全く知らなかったことが多くあるので衝撃をうけました。簡単に説明できると思っていたのですが見込みが甘かったようです。あまりにも長くかかりすぎて申し訳ありませんでした。なんばから先の延伸工事でも、当時では最先端隧道工法であった小野式隧道工法で一部建設されたようです。地上の交通に影響が少なくなるような工法のようです。まだまだ知らないことがたくさんありそうです。