江若鉄道三井寺下駅再現(その8)

クローバー会総会、懇親会での久方ぶりの鉄分補給のせいか、翌朝も早くから目が覚めて 午後の浜大津での打ち合わせまでの時間を有効に使おうと 朝食もそこそこに湖西線の電車に乗り込む。湖西線の景色を見るのは初めてである。山科からトンネルを出て大津市内を抜けてゆくが 高層ビルが立ち並ぶ風景に驚く。江若廃止から もう50年以上経っているのだから当然の変化なのでしょうが、50年間 時計が停まっていた身には軽いショックでした。高島市駅付近を散策後、近江今津まで足を伸ばし、往時を偲ぶ。また湖西の景色を楽しんで大津京まで引き返して下車。ここから線路跡を浜大津まで歩くことにする。皇子山総合運動公園と皇子山中学の間の道を進み 三井寺下駅跡に近づいてゆく。すると見覚えのある土蔵が目に飛び込んできた。廃車になった貨車などの留置線横にあった蔵に違いなく、興奮する。写真を撮っていると 通行人から不審の眼を向けられる。蔵は少し改修されてはいるものの くぐり戸のある塀も当時のままで よく50年も残っていてくれたと感激。このあとゆっくりと三井寺下跡、疏水の鉄橋など思い出を確かめながら浜大津に到着。浜大津ターミナルや湖岸の風景の変わり様に改めて過ぎし年月を感じる。沖中先輩、福田氏と合流し 秋の運転会の打ち合わせに臨む。「浜大津なつかしの写真展と鉄道模型走行会」は一応 10月29日から11月3日までの6日間の予定となった。いよいよ話が具体化し、後には引けない状況となり工事にもはずみがつく。三原に帰って やはりあの蔵のことが忘れられず、3連休を利用して再現してみました。

平成23年4月24日撮影

昭和43年5月17日撮影

平成23年5月2日復元

というようなわけでまた一つ三井寺下の再現がすすみましたが、三井寺下構内に隣接した民家群をこの調子で再現するのは容易ではなく(日本家屋は瓦屋根を含め、細工が面倒で大変)、今秋とは言わずゆっくりと気の向くままに再現してゆきます。秋の運転会に向けて クローバー会の皆様には何かとお世話になりますが、よろしくお願いします。

並走1件

準特急さんの並走写真を拝見して 思い出したのが上毛電鉄と東武の並走シーンです。高崎での4年間の単身生活の楽しみは 上毛、上信、秩父、わたらせなどの私鉄めぐりで 上毛にも足しげく通いました。上毛は天王宿-赤城間、東武桐生線は相生-赤城間ということになります。いずれも単線区間で列車本数も少なく、たまたま並走(に近い)シーンを撮影できました。

まず 中央前橋行きのクハ721+デハ711が通り過ぎます。後ろから東武5652・・・が追ってきます。

東武が通り過ぎるのを待って 線路内に入って後追いで撮ったのが下の写真です。

 

撮影日時は平成11年8月29日です。

吉都線と霧島連山

連日 霧島連山の新燃岳の噴火が報じられています。学生時代の最後 昭和49年3月に九州を巡り 吉都線のC55, 山野線のC56などとの出会いがなつかしく思い出されます。当時のメモを紛失し、撮影場所や列車名が判りませんが、高崎新田、日向前田、高原あたりであったと思います。そのときは霧島連山としか認識がなく、どの頂きが何岳なのか判然としませんが、とにかく天候に恵まれて 山が美しかったのが印象的でした。現在は宮崎自動車道がこのあたりを走っているようで、多分景色は大きく変わっているのでしょう。

 キハ17、キハ20

 D51

 C55、オハユニ61

 門デフD51

 高原にて 

 D51

平成16年2月に広島から鹿児島まで 日本エアコミューター(JAC)で飛んだことがあります。36人乗りのプロペラ機で 低空を飛んでゆくため 地上の様子が手に取るように見えて 1時間の飛行中 地図と見比べながらずっと外を見ていました。鹿児島に着く手前で霧島連山の上を飛びます。それぞれの山頂が 上空から見るとまさに火口であることがよくわかり 感動しました。この写真も何岳かわからないのですが 新燃岳ではないようです。広島西飛行場も今は営業終了し、コミューター便もなくなってしまって寂しいかぎりです。 

特派員さんの「ユースの旅シリーズ」に刺激されて投稿しました。 

江若鉄道三井寺下駅再現(その8)

今年初めての投稿です。正月休みも専ら三井寺下で過ごしました。来週の梅小路での運転会にお誘いを頂いたのですが、残念ながら参加できない代わりに 今日時点での三井寺下の状況をご紹介します。

駅本屋、本社屋、2棟の車庫、給油所、給炭・給水所、ホームの上屋、洗浄線など主な設備がかなり揃ってきました。各路盤の裏にこれからポイントマシンを仕込んでゆくことになるのですが、ポイントマシンの製作が結構面倒です。ポイントマシンの取り付けと調整が済まないと、レールへのバラスト撒きや固定ができません。

駅本屋とその前の給油所の裏側です。

本社屋も何とかそれらしく出来ました。これもまた外装の色がわからないので 適当な色にしました。この本社屋の左側にももう1棟木造2階建てがあり(後年 組合事務所?)、これから着工です。日本瓦や波板(スレート)はエコーモデルのパーツを使っていますが、本社屋や車庫のように大きな屋根が日本瓦や波板の場合は 屋根だけで数千円にもなってしまうので、雰囲気が出ればよしとしてペーパー屋根にして 必ずしも実物通りではありません。

エコーモデルのレイアウトパーツは種類も豊富で出来も良いのですが、何といっても高くつきます。困るのがブロック塀です。駅構内の周辺の民家にブロック塀が多いのですが、これをエコーのものを使おうものなら 万円になってしまいます。給油所もブロック塀で囲わねばならないのですが、厚紙にスジを入れ、 厚さを出すために張り合わせて作ったのですが、水性アクリル塗料で色付けしたりしているうちに、どんどん反ってきて不気味なブロック塀になり 改善が必要です。全体写真の右側の車庫への引き込み線沿いの境界には延々と古枕木の柵が続いていて この枕木柵の製作もうんざりしそうです。

そして駅周辺の民家をどう再現しようかと 最初から判っていた課題が現実のものになりつつあります。あの市街地の中の三井寺下のムードをどう再現するか・・・・。何か良い知恵がありましたら アドバイスをお願いします。

江若鉄道三井寺下駅再現(その7)

車両の増備にうつつをぬかしていましたが、ようやく土木工事を再開し、三井寺下の敷地に線路の敷設を終えました。2個のカーブポイントを含む合計17個のポイントからなるにぎやかな配線です。まずは全貌が見える形になりましたが、我が工房の床を全面占領する大きさで 足の踏み場がない状態です。1次工事は済みましたが、これから17個のポイントマシンの自製、制御システムの設計、制御盤の製作、そして駅舎や車庫など数多くの建物の製作と これから先が思いやられます。無謀にも工事を始めたからには 開業の日を夢みて がんばることにします。敷地周辺の住宅地の雰囲気をどのように再現しようかと悩んでいます。1/80で仕舞屋風の民家を再現して作れば 立体的で最もリアルなのですが さすがにこれは自信と根気がなく 絵を書く案が有力ですが、これは平面的でかえって違和感を生じるかなどと考えているところです。
三井寺下構内1
三井寺下構内1
三井寺下構内2

三井寺下構内2

江若鉄道三井寺下駅再現(その6)

平成18年に大津市歴史博物館で開催された企画展「ありし日の江若鉄道」の資料を藤本先輩からお借りして 三井寺下付近の航空写真を虫メガネで見ながら建物の配置などを割り出しはじめましたが、先に作った設計図に間違いが多いことが判明。適当に妥協することにして 工事を進めることにします。建設工事は足踏み状態ですが、またしても浮気の産物として ホハ100型客車3両がほぼ出来上がりました。これで 時代考証的に SL1118やC111に牽かせる相手が出来ました。今回も湯口先輩の「丹波の煙 伊勢の径」の写真があったればこそ 製作意欲も湧き 再現できたと思います。ところで このホハ100の色は 後年のナハやオハと同じく緑色で良いのでしょうか?仮に違っていたとしても まだ緑色のマッハの塗料がたくさん残っているので 緑色に塗装するつもりですが・・・。さて 車輌製作は一時休止にして これからはレイアウトの方に励むことにしましょう。

1118牽くホハ3両(旧関西鉄道)

1118牽くホハ3両(旧関西鉄道)

江若鉄道三井寺下再現(その5)

当方も毎度お騒がせ致しております。レイアウトの工事が進まない代りに 蒸機が1両増えました。戦時中の昭和18年に入線した100号機で もと宇部鉄道100→省205→江若100という1B1サドルタンク機です。日本では数少ないバルカンアイアン製。昭和23年には神戸製鋼へ転出したため 江若鉄道では5年余しか在籍しておらず、我々には馴染みのないカマです。オークションに中村精密製のB1バルカンアイアンの完成品が出たので これを落札して入手。サドルタンクを煙突部分まで延長し、キャブは作り直してコールバンカーを短くし、先輪を取り付けたりして100号らしくなりました。この100号については臼井茂信著「機関車の系譜図」と牧野俊介著「岡山より汽車を求めて」に宇部時代の写真があり それを参考にしました。これで私の江若鉄道にはC111,1118、6,100の4両の蒸機が揃いました。今後蒸機を増備するなら ダベンポート製の1号機関車、コッペル製3号機、ボールドウイン製5号機といったところになるでしょう。車輌の増備より 早くレイアウト工事を進めろと株主から責められそうですので、あまり浮気はしないことにしましょう。

江若鉄道三井寺下再現(その4)

(その2)でハ11の更衣室を紹介しましたが、藤本先輩からのアドバイスもあって 塗装(と言ってもアクリル絵の具の筆塗りですが)してそれらしくなりました。ついでにニ1(ヤ4574)のなれの果てであるペンキ小屋も作ってしまいました。お飾りばかりが先に出来て、本体工事はちっとも進んでいません。これらのダルマさんを置ける日はいつになるやら・・・。デジカメ写真にすると 出来の悪さ アラが目立ちます。遠目には満足しているのですが・・・。
ハ11の更衣室
ハ11の更衣室

 

二代目ニ1のペン繧・?屋

二代目ニ1のペンキ小屋

江若鉄道三井寺下再現(その3)

琵琶湖疎水鉄橋を渡る1118

琵琶湖疎水鉄橋を渡る1118

三井寺下の工事はボチボチですが、車輌の方に浮気をして オークションで入手したサンゴのB10キットを改造して 1118が完成しました。1118(国鉄1070形)とB10はよく似ていますが 動輪径がφ1400のB10に比べてφ1524と大きいという違いがあります。でも1/80にすれば1ミリ強の違いなので 気にしないことにしてサイドタンクやコンプレッサー、エアタンクの位置を変えて1118らしくなりました。これで当社のSLはC111、6号機に次いで3両となりました。こうなるといよいよ木造のホハ101~103を作らねばならないかと夢をふくらませています。実は今 オークションでバルカンアイアンのB1 サドルタンクを入札中で 落札して1B1の100号(元宇部鉄道100→国鉄205)に改造して 4両目のSLにと目論んでいます。と言うようなわけで 三井寺下の工事は足踏み状態です。

江若鉄道三井寺下再現(その2)

撤??鉄道ハ11

播但鉄道ハ11

連日の猛暑にうんざりしながら、工事が停滞していますが、ようやく朝晩が涼しくなってきて工事を再開する気分になってきました。まずは気分転換のために 三井寺下車庫に鎮座していた旧播但鉄道のハ11を一晩で作りました。ここでも湯口先輩の「丹波の煙 伊勢の径」の写真が大変役立っています。走らせるための模型は数多く作ってきましたが、廃車体を作ったのは初めてです。レイアウトが完成した暁には アクセントになってくれるでしょう。ところで またまたこの廃車体の色がわかりません。塗り分けではなさそうで、それもかなり薄い色のように見えるのですが、ご存知の方があれば 教えてください。実物の屋根にはキャンバスがダラリと掛けられているのをどのように表現しようかと 思い悩んでいるところです。

ところで 藤本氏の標茶、茶内 そして歌登の簡易軌道の写真と解説を興味深く拝見しました。湯口先輩の「簡易軌道見聞録」の話が出てきますが、以前から入手したいと思っていて いまだに手にすることができず どなたかにお借りして拝見したいと思っています。

標茶町営軌道に添えて

 

藤本先輩の標茶訪問記を拝見し、廃止される前の最後の冬 昭和46年3月7日の写真をご紹介します。先の茶内浜中を訪れる約1週間前に開運町へ行ったときのものです。藤本氏の記事を読みながら、標茶駅から開運町まで1.7kmもあったのかとか、標茶川を渡ったのかなど全く記憶にありませんが、多分誰かに場所を聞いて、黙々と雪道を歩いたのでしょう。着いたところが 車輌は雪に埋もれ 運休していると聞いてガッカリした記憶だけが残っています。ニチユ製のDA57と 運輸工業の牽引客車、釧路製作所製6TonDL(No.3), 北炭夕張製の6TonDL, 車庫内で眠る泰和製?自走客車の5両が撮影したすべてです。

 

ニチユ DA57

ニチユ DA57

 運輸工楨??牽引客車

江若鉄道三井寺下再現(その1)

琵琶湖疎水鉄橋

琵琶湖疎水鉄橋

三井寺下駅の再現に向けて、全体配置図も出来たので工事にとりかかることにしました。とは言え、5ブロックに分けて 自室になんとか収まる大きさで ポイントの数も17個、本社屋、駅舎、車庫2棟、数多くの詰所類、給水塔、播但鉄道の客車廃車体等々これから先の工程を考えると完成がいつになるのか見通しがたちませんが(資金繰りも)、車輌の増備も並行して 気長に工事を進めるつもりです。高島町と白鬚を作った際の残材がそれなりにあって、この残材だけで1ブロックができることがわかり、急ごしらえながら先行着手しました。三井寺下の浜大津側の1ブロックです。このブロックのハイライトは琵琶湖疎水を渡る鉄橋と2つの踏切(1つは遮断機があり警手もいる踏切)、そして場内信号機(腕木)で、小さなブロックながら単独でも展示台として使えるものです。琵琶湖疎水鉄橋部分だけが出来たので ご紹介します。ガーダーは真鍮板で作りました。これまたカラー写真がなく、客車たちを塗装した緑色のラッカーの残りを使って 薄緑色にしました。実際は赤茶色(さび止め色)だったかもしれません。ご笑覧あれ。

江若鉄道 夏の陣

連日の猛暑で白鬚、近江舞子に向かう水泳客をさばききれない中、ようやくオハ27 3両が戦力に加わりました。永らく未塗装のままで放置してあったオハ27とDC30の塗装を大汗をかきながら済ませました。特注のインレタを貼り付けるとグッとそれらしくなり、ビールのおいしいこと。まだ6号機、キハ12、キハ5124、ハフ2、ハフ7が塗装待ち状態、キハ5121-ハ5010-キハ5122、が工場の中と仕掛りが多いのですが、オークションでB10のキットを手に入れたので、1118に改造を目論んでいます。キニ9やキハ20、キハ51も控えていて 当分楽しめそうです。

茶内の思い出に添えて

先に特派員氏や津田氏の若き姿をご披露致しましたが、藤本先生から簡易軌道の紹介がありましたので、これまた茶内の思い出としてご紹介します。

ときどき江若鉄道でお騒がせしていますが、40年も前になくなったものを復元しようとして困るのは 当時はカラー写真が貴重だったためモノクロ写真しか残っておらず、一体どんな色をしていたのかが判らないことです。茶内浜中町営軌道はなぜかカラーで3コマだけ撮影していました。藤本先生の夏の写真とは一転 雪景色ですが かえって赤や緑色が雪のなかでは映えています。撮影日は昭和46年3月12日です。

この1週間ほど前に標茶町営軌道を訪ねて 標茶駅から車庫のある開運町まで行ったところ車輌は雪に埋もれたまま放置されていて がっかりした記憶があります。なんでも大雪で除雪が困難になり、そのまま廃止されたとのこと。そのあと茶内で元気な簡易軌道の姿を見ることが出来て、貴重なリバーサルを3コマ使ったようです。

茶内今昔へのお返しに

特派員殿

茶内駅でのスナップ ありがとうございます。キハ08と一緒のこんなスナップがあったとは うれしい限りです。昭和46年3月12日 この日の写真は白糠駅から始まっていますので、前日の長万部でのC62のあと 釧路行きの夜行普通列車から乗り継いで茶内へ入ったようです。茶内ー糸魚沢間は10Kmあり 確か中間地点付近まで歩いたと思います。混446レをかなり高い場所に登って俯瞰撮影し そのあと下り貨物列車を撮って 茶内へ戻ったと思います。よっぽど時間をもてあましたのか 特派員殿は雪の斜面ではしゃいでいました。それにしても 夜行列車で着いて、ろくな食事もとらず、厳冬のなかを10Km歩き、みんな あの頃は元気だったんだナーとつくづく思う今日此の頃です。

雪遊びに興じる特派員殿

雪遊びに興じる特派員殿

 

津田社長殿

津田社長殿

江若鉄道白鬚駅復元工事(その7)

梅雨明け、水泳シーズンの開業を目指して工事を進めてきましたが、何とか完成に近づいてきました。あとは松並木が残っていますが、車両や建物と勝手が違って 手が止まってしまいます。とりあえず開業し、木はぼちぼち植えてゆくことにしましょう。というわけで完成間近かの様子をご覧下さい。

高島町、白鬚とできたのですが、こうなると次はどうするかということになります。浜大津、三井寺下、近江今津・・・。浜大津を作るとなると京阪浜大津も作りたくなるし・・・、近江今津は実は行ったことがないし・・・、三井寺下は再現したいが、部屋に収まらないような大きさになりそうだし・・・とあれこれ思案を始めています。三井寺下の構内配線はほぼわかるのですが、駅本屋、本社社屋など建物の写真がないのです。三井寺下の駅前風景など車両以外の写真があれば 是非ご紹介ください。

田野城様のお探しの写真

田野城様がお探しの写真のなかで 私が撮影したものはこれだけしかなく ありったけを恥ずかしげもなくご紹介します。

D511  昭和43年3月27日 東北本線奥中山にて。高校を卒業し DRFCに入会する前の春休みに東北均一周遊券で東北を巡ったときのもの。盛岡以北も電化工事が始まっていて 架線柱が立ち並んでいたが 一部DD51も入っていたが 大半は蒸機牽引であった。今どきのようにダイヤ情報もなく 行き当たりばったりだったが、上り下りの客レ、貨物がひっきりなしに通過するので ダイヤ要らずであった。客レはほとんど単機だったが、貨物は重連か3重連、後補機も重連という迫力ある姿を堪能できた。そんな中でD511が上り列車の先頭でやってきた。更に時間をおいて 今度は下り3重連の先頭で戻ってきた。ただし 写っているというだけで お恥ずかしいコマである。

 

C1164 昭和43年3月30日? 早朝の会津若松駅にて。会津線の客レを牽く。確かこの列車に乗って会津線に入ったのだが、当時のメモを紛失して詳しいことが判らない。会津線もC11の天下だった。

 

C59164  昭和44年8月3日 呉線小屋浦 坂間にて。川中氏と暑い盛りの呉線を訪ねたときのひとコマ。上り42レ荷物列車。余りの暑さに 呉線もそこそこにフェリーで江田島に行った記憶がよみがえる。

 

C581 昭和46年3月6日 網走駅にて。 網走駅に入線する列車の窓からの撮影。スハ32がなつかしい。

 

あとは目名や長万部でのC622ですが、福田氏や津田氏とご一緒でしたので 省略します。 

江若鉄道白鬚駅復元工事(その6)

別府鉄道から返り咲いたDC301

別府鉄道から返り咲いたDC301

駅の復元工事は遅々として進んでいない分、車両の工事が割り込んでいます。キハ5122、ハ5010、キハ5121もかなり形になったのですが、通販頼みのパーツが品切れで工事がSTOP。一方アダチ製のキットを入手して、DC301が完成しました。別府鉄道から呼び戻したことになります。もう1両 このキットを手に入れて 下回りだけを使ってDC251を作ろうと考えていますが、アダチのキットも売り切れでガッカリ。そんなわけで車両製作の浮気の虫がおさまるまで 白鬚駅の開業は水泳シーズンに間に合いそうにない状態です。

江若鉄道白鬚駅復元工事(その5)

白鬚駅本屋
白鬚駅本屋

白鬚駅本屋がようやく出来上がりました。数少ない写真はプラットホーム側からのアングルばかりで、道路側や裏側がどうなっていたかわからず、適当に作りました。白鬚駅の特徴は何と言っても唐破風屋根の入り口で 結局加工しやすい桐の厚板から削り出して なんとか格好になりました。

白鬚神社の社務所の写真が大変参考になりました。

白鬚神社社務所

白鬚神社社務所

プラットホーム上にある小さな待合室もついでに作り、残る建物は便所だけです。

白鬚駅に到着するィ??15

まだバラストを撒いたり、砂浜を作ったり配線工事など工事は多く残っていますが、水泳シーズンまでには開業できるのではとボチボチやっています。
「その4」で書きましたが、キハ5121,5122、ハ5010の3連も製作中で当駅の開業列車に使う予定です。
 ところで 水中鳥居はどうも大きすぎたようですが 作り直す元気もないので できるだけ遠くに置いて 小さく見せるしかありません。あとは松林をどうするかが難問です。
道路をはさんで向かい側に食堂?のような建物があるようなのでこれもにぎやかしに作ろうかと
適当な建物キットを物色中です。              以上

 

奥出雲の旅

この連休中は好天との天気予報に気を良くして、急遽1泊旅行を計画し奥出雲に出かけることにした。早朝クルマで自宅を出発し 世羅、吉舎、三良坂を経て庄原へ。芸備線に沿って備後落合着8:15。芸備線のキハ120327を撮影後 木次線の次の駅 油木駅に向かう。途中 木次線備後落合行きキハ120206を撮影。
ィ??120206 備後落合・油木間

キハ120206 備後落合・油木間

無人駅の油木駅にクルマを置いて、今のキハ120206が戻って来るのを待つ。備後落合・木次間は極端に列車本数が少なく 列車でスイッチバックを通過するのは容易ではない。急に決めた旅のため 「奥出雲おろち号」の指定は取れないかと心配したが、前日に 最後の2席が取れたので、油木から出雲横田まで定期列車で向かい、おろち号で油木へ引き返してくるプランである。
油木駅 時刻表

油木駅 時刻表

時刻表のように日に4往復。おろち号は季節列車であり、またもう1往復は第二木曜日運休のため朝夕の2往復しかない日があることになる。風前の灯火のような路線であり、どこに存在意義があるのか不思議である。落合から戻ってきたキハ120206に乗り込んで いざ三井野原、出雲坂根へ。学生時代に夜行のちどりでこの区間を乗ったことはあるが、ようやく景色を楽しみながらの峠越えが実現した。時速20から30キロぐらいでくねくねと30パーミルを登る。並行する国道314号のクルマがどんどん追い越してゆく。広島県から島根県に入り、三井野原駅に着く。何と30人ほどの団体客が乗り込んでくる。整理券を取ったり モタモタと乗り込むのに時間がかかる。3分延発。団体客に聞いてみると 読売旅行のミステリーツアーとのことで次の出雲坂根で下車するらしい。団体客が乗ったせいか、若い運転士は国道の奥出雲おろちループが見渡せるポイントで最徐行し、案内のアナウンスもするサービスぶり。出雲坂根のスイッチバックに差しかかる。最初の折り返し線で停車。運転士はブレーキハンドルを持って 反対側の運転席へ 乗客をかきわけて移動。ツアー客が何だ何だと騒がしい。
逆行運転で出雲坂根駅に降りてゆく。
出雲坂根のスイッチバックを下る

出雲坂根のスイッチバックを下る

出雲坂根に入線

出雲坂根に入線

 出雲坂根駅に入線。ドヤドヤとツアー客が下車。ようやく静かになる。坂根駅には「延命水」という名水があり、一般乗客が水を汲みに行きたいと言い出す。運転士は 遅れているのでダメと言うかと思いきや、あっさりOK。出発信号は青になっているが、運転士は列車無線で「団体客のため延発します。出発信号を一旦赤にしてください」と連絡。信号が赤に変わる。なんとものんびりした路線である。水汲み客が戻り ようやく出発。動き出すときは「変」(変速)であったが すぐ「直」(直結)に切換え、あとは「中」 (中立)で軽やかに勾配を下ってゆく。八川を過ぎ、出雲横田に到着。下車して 下り 奥出雲おろち号の到着まで約40分ぐらいあるので 駅に併設された雲州そろばん伝統産業会館の展示を見る。

出雲横田に到着した奥出雲おろち号

出雲横田に到着した奥出雲おろち号

定刻11:06におろち号到着。先頭のスハフ13801に乗り込む。親子連れの子供だけが乗り込み、親はクルマで追いかける(先回りする)という人もある。今来た道を今度はゆっくりと引き返す。八川駅では地元の人たちがホームに出雲ソバ弁当を売りに来ている。弁当を予約している人もいるらしく、ホームから○○さーんとお客を捜す声もする。のどかな風景である。出雲坂根に向けて勾配を登る。坂根駅は延命水やスイッチバック駅ということもあって国道314号のマイカー族などでにぎわっている。定刻発車。のろのろとスイッチバックを登る。途中眼下に今登ってきた線路と坂根駅が見える地点で最徐行し、乗客たちは車窓から写真撮影。車掌が乗車記念の絵はがきを配って歩く。DE10に押されて登ってゆくが エンジン音もほとんど聞こえず、社内の騒々しさだけで 峠越えの実感がわかない。往きに乗ったキハ120の方がよっぽど楽しかった。これがC56やキハ52ならと思わずにはいられなかった。

 とういことで 3時間半かけて 油木駅に戻ってきた。降りたのはわが夫婦のみ。なんでこんな無人駅で降りるの?という視線を浴びる。
 
 午前中は木次線を楽しみ、午後と翌日は野鳥撮影と船通山(海抜1142m)登山で過ごしたGWでした。
ではまた 江若鉄道シリーズでお会いしましょう。