2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part20   中国最初の鉄道 唐胥鉄路、天津博物館

天津路面電車については、コメントに追加しましたように路線図が疎開地時代であり、その後に延伸等があったことが未調査でした。漏れがありまして、大変失礼をしました。まだ何か出てきそうですので、再度中国語サイトでの歴史を調べなおしておりますが、真偽性を確認出来るのに手間取っております。もう少し時間をいただきたくよろしくお願いします。

第14日目 5月31日

中国鉄路の歴史は、Part18の中国鉄道博物館正陽門館また2009年の上海鉄路博物館訪問記で、ご紹介させていただきましたが、最初の路線の天津にはもっと詳しい資料展示があるのではないかと期待して天津博物館を訪問しました。

まず目に入ったのは、中国最初の鉄道として河北省に開業した唐胥鉄路を走ったと表示されています、その名もロバート・スチーブンスが設計したロケット号にちなんで名づけられた、「ROKET of CHINA」号(中文では中国火箭号)の展示用の複製です。

この蒸気機関車は動輪数が当時の写真と違っているように見えますが、・・・・。最高速度は、32km/hです。

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2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part19   天津の路面電車(疎開地時代)、天津博物館

14日目 531 天津 1500C2044次)北京南2121D321次)上海虹橋

今日は、京滬高速鉄道(北京~上海)が開通すると廃止されるとの噂がある寝台夜行電車に最後に乗車しておこうと思い、天津から再度北京に逆戻り乗車します。
十分時間がありますので、その間は北京鉄道博物館正陽館で見た、最初の中国鉄道の歴史資料が天津にもあるかもと天津博物館を訪ねることにしました。

【天津博物館】
市内にあった歴史博物館・民族博物館・芸術博物館の老朽化に伴い機能を統合して2004年に建設されました。建設設計については、11人の建築家による国際指名設計競技が行われ、最優秀に選ばれた本人建築家「高松伸」先生と、構造家「川口衛」先生との共同設計によるものです。湖面で翼を広げる鶴を表現されたものと言われ、21世紀の中華民族の発展を表しています。

開館日:9時~16時(16時半閉館)無料 月曜定休
公式HPはこちらです。

高松伸先生は同志社小学校の設計もされておられます。

【天津の歴史と路面電車】
天津の発祥は隋の時代の大運河完成にさかのぼり、また海に 面した軍事拠点として、清時代には現在と同様に政府直轄地として要衝されました。
1858年第2アヘン戦争で英仏戦争に敗北してからは、北京の外交として開港され急速に発展して行きました。1900年代からは、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・オーストリア・ベルギー・イタリア・ロシアそして日本の租界が設置されています。この中でフランス・オースリラリア・イタリア・ロシア・日本の5ケ国租界と中国管轄の城内での交通機関として、初めての路面電車が1906年に圣由しないベルギー資本で登場しました。色分けの6系統が走行しました。


▲ 1919年時代の地図に各国租界区分と路面電車路線図を挿入しました。赤線が路面電車の路線です。この路線網なら非常に便利です。天津東駅(現;天津駅)に降りて路面電車に乗って、すぐに市内繁華街へと向かえます。今はまだ地下鉄が未開通ですので、Taxiに乗っていますが、オリンピック前までの長い年月は駅前にはボッタクリTaxiしかいなく交渉がおっくうでした。どうして廃止してしまったのか分かりません。
停留所位置と名前は、調べきれませんでしたので今回は、お許しください。


▲ 日本租界の天津銀座と呼ばれたメインストリート旭街を行く69号路面電車。後方にそびえ立つのは、日本租界のランドマークとなるゴシック尖塔を持つデパート中原公司です。

▲ 各国の租界を路面電車は走りました。かなりの国別製造の車両が活躍していたと思います。通常は、単車か1両の付随車の2両編成でしたが、中には2両を牽引した3両編成もあったようです。

▲ 館内には、当時の様子を再現したレブリカの路面電車もおいてありました。中国人ギャルも興味津々で撮影していました。

▲ 当時の日本租界の街並みを走行する光景も描かれています。

▲ 旧天津城。北京城ほど広大ではありませんでしたが、天津も城壁で囲まれた都市でした。しかし、1900年に勃発した義和団の乱・八国聯合により天津は戦場となって城壁は瓦礫と化してしまいました。

旧天津城跡は、鼓楼が再現されて古文化街として観光地化されています。現在の街の中心は各国の疎開地があった付近を中心に発展していきました。

 

ベルギー電灯公司経営の天津路面電車は経営順調で、1920年代には破壊された城内を循環して街中を走行していました。運賃も安かったことから貧しい庶民にも乗車でき人気でした。走行速度は約10km/hほどで、走っていても乗車できたそうです。最長路線では約2時間もかけて走行していたと言いますので、ずいぶんとゆっくりした路面電車だったのですね。
当時、ご乗車された車窓からの見た疎開の様子を田中良平氏が詳しくHPに書かれています。是非、こちらをクリックしてご覧ください。

天津路面電車は、経営会社のベルギー租界が離れすぎていたために1931年に中国に返還されています。その後1943年には日本軍に接収されて「天津交通」として運行されましたが、日本敗戦後は国民党政権、そして共産党政権へと引き継がれ、理由は明記されていませんが、1972年66年の歴史を終えました。


▲ かつて路面電車が走っていた可動橋(跳開橋)の万国橋が見える天津駅(旧天津東駅)周辺の綺麗に整備された現在の光景です。ここが見える橋のたもとには天津電力技術博物館があって、2両の路面電車(複製)が展示されています。

66年もの歴史があったわりには、資料が少ない天津の路面電車です。一体どのような車両が何両走行していたのでしょうか。現在の天津には痕跡すらなく見られません。何でも埋めてしまう国ですから、廃線跡を掘り起こせば何か出てくるかも・・・。
中国鉄道創世記の歴史ですが、天津博物館にもありました。Part20で説明させていただきます。 Part20  へ続く

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part18   天津軽軌(津滨轻轨)、地铁9号線 十一経路まで延伸

13日目 530日 中山門(天津地下鉄9号線) →十一経路

久しぶりでの天津での一日は、激変を続ける街をと比べながらゆっくりと散策することにしました。駐在時には片手で数えるほどだった高層ビルは、数え切れないほどに増えて街並みは全く変ってしまいました。都市中心部の交通機関は、北京に続いて1984年に中国2番目の地下鉄が開通して、他の都市と比べても進んだ街との印象がありましたが、中途半端な路線であったため利用者は少なく、リニューアル化して2006年に再オープンしました。しかし、その後の新たな開業はなく、後から開業した都市に大きく遅れてしまいました。また遅れるばかりだけでなく、開業予定日が住んでいても全く分からないので市民は計画そのものを信用していません。むしろ市民は呆れています。

そんな訳で今回も軽軌が5月1日に延伸開業(中山門~天津駅間7.35キロは地铁9号線)したらしいが、知人達は誰も乗っていないので、疑心暗鬼で既に開業していた中山門駅までTaxiで向かいました。


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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part17   中国鉄道博物館正陽門館(正阳门馆)

第12日目 5月29日

① 阜新19:00(2106次)→10:17北京北
② 西直門(地铁)→前門
③ 前門(地铁)→北京南(京津高速)→天津

北京北站に隣接する西直門站から地铁に乗って前門に着きました。3月に準特急先輩と行きました時は、なぜか直前で休館となっていた中国鉄道博物館正阳门馆は今回開館しているのを往路で確認済みです。館内にはどんな展示がされているのかとワクワクしながら入場券を買って入ってみました。(※ 前回の様子は、こちらをご覧ください。)
▲ 入場券は、20元(約240日本円)、開館時間は9:00~17:00で月曜日休館です。鉄道ファンの方がゆっくりと見学するには、 約2~3時間は必要です。

入館して最初に聞くことは、館内の展示物やパネル撮影が許可されているかどうかです。日本と違って、中国の一般の博物館の殆どは撮影OKですが、かつて日本人として初めて入場した瀋陽鉄道博物館では、展示パネルは撮影禁止でした。 (※ その時の様子はこちらをご覧ください。)
警備員に質問しますと、すべてOKとの返事です、安心しました。


中国鉄道博物館正陽門館中国鉄路博物馆正阳门馆)は、私がかつての現地に勤務時代していた1990年代には、この館内に北京鉄道分局関係の事務所があって、北京に業務で来る度に訪れていました。分局関係者からは、日本軍が侵略占領時に建造した北京の中心駅でラストエンペラーが紫禁城を追われる際にも乗車をしたのだと聞かされていました。ホームやレールが撤去された館内にかつての駅舎としての面影を残すものは切符売場ぐらいでした。
その後館内は商城(百貨店)に改装されて使われていましたが、オリンピック前には閉鎖されて、北京市と鉄道部が共同で中国鉄道博物館として準備が進められました。オープンは2010年10月23日ですが、上記のように一旦閉鎖されて、再オープンしました。
しかしこの建物は、展示されている建設当時の写真と比べると、なぜか時計台の位置が左右逆転しています。経緯は分かりませんが、大躍進時代に改装または壊されて再建築されたと思われます。興味を惹かれましたので、少し調べてみました。

【北京城と正阳门站】
中世の世界中の都市がそうであったように中国でも多くの都市が、敵に攻められた場合を想定して、街の周囲を頑丈な城壁で守った城壁都市が多くありました。明時代からの北京も、高さ12m以上の城壁で守られた都市で、皇城(故宮)のある周囲約23キロの内城と多くの庶民が暮らす外城の2つに分けられていました。内城は北京城と呼ばれ、城外への往来には城門が設置されていました。城門を撮影した貴重な映像がYouTubeにあります。こちらをクリックしてご覧ください。約8分強あります。

鉄道線は内城を囲むように敷設され、皇城の正面玄関である正陽門を挟むように東站・西站と2つの正阳门站が建築されました。東駅は京奉線(北京~天津・奉天)、西駅は京漢線(北京~石家口、漢口)の列車が発着していました。中国鉄道博物館正陽門館は、正阳门東站でした。

現在、環城線と東便門站~正阳门站~京漢線の城壁内線路は撤去され痕跡もありませんが、正阳门東站、路面電車、当時の市民生活を撮影した1930年の貴重な映像がYouTubeにあります。こちらをクリックしてご覧ください。約8分強あります。
▲ 青線が路面電車です。現在観光用として一部の区間を復元され走行しています。

文化的に貴重な人類の歴史的遺産である城壁、城門でしたが、中華人民共和国が建国された1950年代に始まった大躍進時代に次々に破壊撤去されていきましたが、なぜに誰が推し進めていったのか、中国の歴史では触れられていません。しかし、これだけの重大事を決定できるのは、一人しかいないのを人民も良く知っています。現存するのは、正陽門、天安門等わずかです。
城壁跡には、環状線道路(2環)と地下鉄2号線が建設されました。

中国鉄道博物館正阳门馆 展示内容】



▲ 3ツ折のパンフレット
館内は①1876~1911年、最初の鉄道建設、②1911-~1949年、紆余曲折の歩み、③1949~1978年、進む鉄路延伸、④1978~2002年、著しい発展の鉄路、⑤2002年~ 技術開発の鉄路 と、5ブロックに分けられて、清朝末期から今日に至るまでの発展の過程が展示されています。

詳しくは、中国鉄道博物館の公式HP;http://www.china-rail.org/

中国鉄路の開業は、1871年に開業した日本に5年遅れることの1876年に呉淞鉄道(上海〜呉淞間14.5キロ)が最初でしたが、無許可であったため撤去されました。これにつきましては、上海鉄路博物館訪問記をご覧ください。リンク先はこちらです。
正式開業は1881年の唐胥鉄道(唐山〜胥各庄間9.2キロ)となります。

唐胥鉄道路線図と使用された中国製第1号蒸気機関車。当初の営業用はラバ牽引でしたので、工事用に使用されたと思われます。レールは15kg、軌道は1435mmでした。

▲ 1年後の1882年には英国製が輸入されて、初めて蒸気機関車が営業用としての運用されました。1887年には芦台までが開業し営業45キロとなり、以後は諸外国主導のもとに延伸が続けられて行きました。

上海の鉄道博物館では、上海を中心とした歴史が展示されていましたが、ここ北京では全国レベルでの鉄路発展の歴史を写真やパネルで見ることが出来ます。一方、空港近くにある中国鐡道博物館ではかつて活躍した機関車、車両が50台以上も実車展示されています。北京に来られましたら是非にご覧ください。  Part18  へ続く

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part16  阜新から北京へ 2106次乗車

Part15を投稿してから1ヶ月あまり経過してしまった。中国版新幹線の追突事故発生があって控えていたわけではなく、次の旅の準備に追われ、また大の野球好きですので連日好戦の続く高校野球に見入って、単にサボっていました。申し訳ありません。続編を掲載させていただきます。
前回の紀行分 Part15こちらです。

第11日目 5月28日          阜新19:00(2106次)→10:17北京北

阜新の海州露天鉱国家鉱山公園での撮影を終えTaxiに乗って、17:45に阜新站に着きました。
1929キロ先の上海往復の所要時間約25時間を筆頭に上下20本が発着する阜新站の待合室は、1階のみで他の中国鉄路站同様に天井が高く十分な広さがあります。

▲ 改札までの間、お話していた先頭で並ぶ可愛い3人姉妹、親戚の家に遊びに行くといっていました。発車35分前に改札が開始されましたが、春節時期と違って走る人もなくゆっくりの乗車光景でした。
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追憶の旅(その5  最終回)

旅の終わりは周防大島です。なぜ周防大島を訪れたかというと 私が敬愛する民俗学者 宮本常一氏の生まれ故郷であり、氏が全国各地で撮り集めた約9万枚の写真が 周防大島文化交流センターでデータベース化され その他の文献、資料類とともに集約、保管されているからです。宮本常一氏のフィールドワークについては 最近多くの写真集や、全集が発行されていますので ここでは触れないことにします。さて 周防大島と言えば宮島や仁方・堀江航路と並んで大畠・小松間に大島航路という国鉄連絡船で結ばれていた島です。昭和51年に大島大橋が開通し、同年にこの航路は廃止されています。宮島は一大観光地として連絡船があるのは納得できるのですが、特別な観光地もない大島になぜ国鉄連絡船が就航していたのか ずっと不思議に思っていました。それもあって一度は大畠に降り立って 大島に行こうと考えていました。

大畠駅から大島大橋を望む

大畠駅はすぐ海に面していて、大畠瀬戸の渦巻く急流に抗して進む船を間近に望むことができます。かつての連絡船乗り場がどこにあったのか形跡がなく 聞いてみると 今は商工会館になっているあたりが桟橋だったとのこと。昭和36年の時刻表を見ると、大畠駅には赤帽さんもいたようです。さて桟橋のことはそれ以上詮索するのはやめて バスで島に向かうことにしました。通称 周防大島、正式には屋代島は淡路島、小豆島についで瀬戸内海では3番目に広い島で島内の足は防長バスが担っています。今は防長バスですが、かつては国鉄バスが走っていました。なぜ国鉄バスが走るようになったか その経緯については調べていませんが、全国でただひとつ国鉄バスが走る島だったそうです。連絡船もかつては県営だったようですが、島の国鉄バスとの連絡運輸ということで、連絡船も県営から国鉄連絡船になったようです。このあたりのことは どなたか薀蓄をご披露頂ければありがたい。国鉄バスが走っていたことを裏付けるように 主要なバス停には今も○○駅という立派な建物があります。道の駅ならぬ バスの駅です。そう言えば 京都市北部の周山などでも国鉄バスの駅があったような・・・・。

 周防久賀(くか)駅

かつては島の浦々は発動機船(ポンポン船)で結ばれていて、「瀬戸の花嫁」の世界でしたが、今は道路も整備されバスが足になっています。とは言え 本数は少なく、路線も経路が複雑だし、休校日ダイヤなど細かく設定されているので よく調べて行かないと足止めをくらうことになります。そんなバスを利用し、一部区間は歩いて島の風情を楽しみました。目的の文化交流センターの隣には やはり大島出身の作詞家 星野哲郎氏を記念する星野哲郎記念館が開館していて ここを訪ねるのも楽しみだったので 目的をかなえて 満足して島をあとにしました。

昔お世話になった均一周遊券に代わって 青春18きっぷを初めて利用して短い旅をしてきましたが、これに味をしめて また次のコースを計画しようと思っています。

追憶の旅(その4)

防府で泊まった翌朝は 徳山に向かう。途中 富海、戸田あたりの海岸線はかつて大型蒸機の撮影ポイントだったところだが、糸崎ー尾道間と同様 海岸の景色はあまり変わっていないように思えた。徳山で岩徳線に乗り換える。キハ40の単行である。乗客14人で発車、櫛ケ浜から岩徳線に入る。海岸を走る山陽線が艦砲射撃で不通になったときのバイパスとして作られたと聞いたことがあるが、そのため線路規格は幹線並み、途中の交換駅もDC1両には不似合いな長いホームや有効長がある。それ以外には特徴の少ないローカル線であった。意外だったのは 乗降客が多いことで、確かに高校生(もう夏休みに入っていたのでクラブ活動?)が多かったが、岩国に近づくほど乗客は増えて立っている人もいたほどだった。私以外に徳山から乗り通した人(鉄ちゃんではない)がいたのも驚き。西岩国で下車。西岩国の駅舎は昭和4年に建てられた洋風のしゃれた駅舎なので 錦川鉄道に乗り換えるのはこの駅と決めていた。乗り換えまでの12分ほどのあいだに 駅前に停まったバスが動いてくれず 駅舎だけの写真を撮り損ねたが これも時代の記録と思ってパチリ。駅正面玄関上や窓の上のアーチは錦帯橋をイメージしたデザインである。バスは各地で増えている コミュニティーの巡回バスである。無人駅のため広いコンコースは殺風景だが、非常に良い雰囲気の駅だった。立派な跨線橋を渡って 錦川鉄道に乗り換える。

やってきたのはNT3002 ひだまり号だった。錦川鉄道はかつての国鉄岩日線で錦川に沿って北上し 錦町まで約1時間の旅である。営業上の起点は岩徳線川西駅だが、実際の分岐点は川西駅から1.9Km先の森ケ原信号場である。信号場と言っても遠隔操作のポイントがあるだけで 詰所も何もない。

このトンネルを抜けると森ケ原信号場。場内信号機左上が岩徳線で赤、右下が錦川鉄道で青を現示している。

森ケ原信号場

 

この信号場を過ぎて 最初の駅が御庄(みしょう)である。車内では「山陽新幹線はお乗換え」とアナウンスはあるが 乗り換える人などいない。駅名が新岩国ではなく御庄であるように 全く別の駅である。無人駅で ホームにはヨ8000の車体が待合室になっている。駅の少し岩国寄りに新幹線の軌道基地に入ってゆく引込線が残っているが、途中 レールは撤去されて使われていない。

あとはただただ錦川を左手に見ながら川を遡ってゆくのみ。眺めの良い個所では徐行し、景色をお楽しみくださいとアナウンスがある。観光客には良いかもしれないが、いつも乗ってる地元の人にはありがた迷惑かも。ほぼ中間点の北河内で岩国行きと交換し 錦町へひた走る。

殆どこのような景色が続く。なぜか線路際に電柱がなく、非常にすっきりしている。錆止め色に塗られた線路際の柵が細いレールで作られているのが気になった。森林鉄道は無かったはずなので、岩日線建設当時のトロッコのレールか?

 

終点錦町から先にもトンネルや路盤は続いていて、「とことこトレイン」なるバッテリーカーというか遊園地のこども列車のような乗り物が雙津峡(そうづきょう)温泉まで運行されていて 観光客はほとんどそれに乗り換えるが、私はトロッコもどきに興味はないので 8分後に折り返し発車する岩国行きを撮るべく 錦川鉄橋まで駆け足で戻る。

 

錦川鉄道には現在NT3000型の4両しかなく このピンク色は桜をイメージした3002 ひだまり号、青はアユやヤマメをイメージしたせせらぎ号3001、薄みどりがカワセミをイメージしたこもれび号3003、黄色が蛍をイメージしたきらめき号3004で 殆んど単行で運用されている。

駅か駅前に食堂か店屋ぐらいあるだろうと何も食べ物を持たずに行ったのが間違いで、かつて営業していたであろう食堂や店屋はあっても 駅の売店にパンもなく 仕方なく少し離れた錦町の集落まで歩く。幸い農協が開いていて弁当を手に入れられたが 余計な時間を費やし 次の列車も同じ鉄橋で撮るハメになってしまった。今度は青い3001がやってきた。

錦川鉄道の本社や車庫はここ錦町にあり、この日は3003と3004は車庫で休んでいた。これらも撮影して全車両を撮り終えて満足。岩国行きの発車まで駅で時間つぶしするが、駅の売店のおばさんが 弁当もパンもなくてゴメンとリンゴをむいてくれたのには恐縮してしまった。お礼に錦川鉄道の絵はがきを買う。

 

40Km弱の路線に4両のDC,全駅無人、保線も含め何人で運営されているのか聞きそびれたが、発車までの時間 若い運転士が洗車を始めた。ワンマン運転のため車内アナウンスなどは当たり前の仕事だろうが、このような弱小鉄道ではひとりで何役もこなしているのだろう、鉄道が好きでないと務まらないだろうと思いながら 若い運転士が頼もしく見えた。

岩徳線や錦川鉄道は初めての訪問で、追憶の旅ではなかったのですが、一応鉄道マニアとしての旅はここまでで、岩国から大畠経由周防大島に渡って 4日目は島の旅でしめくくることになります。

追憶の旅(その1)

初めて青春18キップを使った旅に出ました。普通列車だけで どこをどのように巡ろうかと思案しましたが まずは地元からということで 三原を起点に福山から福塩線、芸備線、木次線、山陰線、一畑電車、山陰線、山口線、山陽線、岩徳線、錦川鉄道と巡り、三原に戻るプランを立てました。勿論夜行列車などは無いので ビジネスホテルや民宿で3泊4日の旅です。初めて訪れる岩徳線や錦川鉄道もありますが、その他の線区は40年前に旅した思い出の鉄路であり、40年前を想いおこす旅となりました。そんななかで特に写真で対比できるポイントを中心にご紹介します。まずは 芸備線備後落合駅のスナップから。

No.4790 米手作市さんの「こんなんあるでぇ」を開いて ご覧ください。昭和39年2月の風景です。ハチロクとC58の重連貨物のスナップです。私が初めて備後落合を訪ねたのは昭和47年3月で 山陰旅行の途中で立ち寄ったというか、夜行のちどりで深夜 備後西条で折り返すところ 寝入ってしまって備後西条を過ぎ 仕方なく広島まで行って また引き返してきた時です。貨物列車はDE10になっていましたが、バラエティに富んだ貨車たちが活躍していた時代でした。

 

当時の車両配置表によると広島機関区には 写真のDE101075をはじめ32両ものDE10が配置され、芸備線や各駅の入れ替えに活躍していたようです。気動車は芸備線管理所のキハ20のようです。米手作市さんが手にされた二段重ねの幕の内弁当があったかどうかは定かではありませんが、山間の小駅ながら乗り換え客や駅員も多く、詰所の煙突からは煙が上がり 人の気配が感じられ 活気のある乗り換え駅でした。

さて今回の旅では 木次線を通り抜けるには 臨時列車の奥出雲おろち号を使わざるを得ず、幸い指定席券510円を足せば青春18きっぷでも乗れるので 出雲坂根のスイッチバックをトロッコ列車で堪能しました。この列車には以前にも乗っているのであくせくせず、ゆったりとした時間を楽しむことができました。下の写真は スハフ13801の車窓から、三次から乗ってきたキハ120320を見たひとこまです。駅構内には 詰所や駐泊所の庫など当時の面影を残すものは何もなく かつての賑わいがウソのようでした。

木次では保存されているはずのC56108を見ようと雲南市役所を訪ねました。

確かに保存されてはいましたが、雨ざらしで相当痛んでいました。説明看板には 木次機関区のOBが手入れしているとありましたが、高齢のOBにたよるような保存なら 一考を要するのではと感じた次第です。

では次回は一畑電車をご紹介します。

ユースで巡った鉄道旅 -15-

前回紹介の奥中山ユース、こんな不便極まりないユースに泊まったのは、特派員以外には絶対にいないと確信していたところへ、米手作市さんが泊まったとコメントを寄せられたのには驚きました。同じような体験をされ、しかも数回に渡って宿泊されたとは、恐れ入った次第です。さて、蛾が乱舞する汚いバンガローで泥のように眠った翌日は、絶好の天気。体力、気力とも十分に回復して、高原頂上のユースを出発します。途中、止まってくれた耕運機の荷台に便乗して駅近くまで行き、本日の狂化合宿地、龍ケ森へと向かいました。

奥中山から146レに乗り、好摩へ。途中、御堂で下り臨時急行「第2おいらせ」と交換する。東北本線はほとんどが複線化されていたが、沼宮内~御堂間のように単線のまま残っている区間もあり、このような上下列車の交換がまだ残っていた。電化開業を前にしたこの時期、優等列車はほぼEL・DL牽引だったが、「第2おいらせ」だけは蒸機牽引で残っていた。牽引はD511113〔尻〕+C6013〔盛〕と、盛岡以北の客車牽引の標準的な組合せであった。続く客車は臨時ながらも10系客車で編成されていた。本務の機関助士がキャブから乗り出すようにして、誇らしげに通過して行った。左は乗車の146レ

狂化合宿は龍ケ森を舞台に2日間に渡って行われ、その後、再びDRFCのメンバー4人とともに、奥中山へ戻ってきた。最後を見届けたかったのと、本日は特別な列車が走るためであった。三重連は今日も何本か見られた。あいにく天気は下り坂で、もう吉谷地カーブへ行く意欲はなく、駅の周辺を行ったり来たりしている。ナメクジD51を先頭にした上り三重連貨物は、下り勾配を軽快に下ってきた。ドラフトも煙もないが、ドレンをわずかに吐きながら、安堵の表情を見せて駅構内に入ってくる蒸機の姿もまたいいものだ。

本日の特別な列車とは、お召編成9109レだ。と言っても本番ではなく、回送で1号御料車編成が通過するのだ。この時、北海道で開道百周年に伴う行幸があり、お召し列車が北海道で運転される。もちろん天皇は空路北海道入りのため、お召編成は、遠路はるばる北海道まで運ばれるという次第。DRFCの面々と駅北側の踏切で待つことしばし、やって来た9109レ、牽引はDD51あたりかとの予測が外れ、現れたのはC6128〔青〕、蒸機であることは貴重なのだが、肝心のお召編成はドレーンに包まれてしまい、ほとんど見えない。1号御料車には、すっぽりと白布が覆われていたのには驚いた。

奥中山駅の駅舎は、二重となった仕切り、勾配屋根、雪止めと、すっかり雪国の仕様になっている。これ以降、昼間に奥中山を通ることはなくなったが、付近は「奥中山高原」の名でリゾート開発が進められ、自然休養村、スパ、キャンプ場、天文台、スキー場などが散在しているという。かつての鄙びた高原は、すっかり姿を変えているようだ。駅も、IGRいわて銀河鉄道の奥中山高原駅と名を改めている。あの強烈な思い出を残したユースはネットによると昭和56年には閉鎖されている。

薄暗くなりかけた頃、45レに乗って奥中山を去った。朝は一緒だったDRFCメンバーも次の目的地へ向かい、自分ひとりだけが残って、しつこく撮っていた。45レは、C6020+D51という通常とは逆パターンの牽引、尻内(現:八戸)でホームの先頭へ行ってみると、さらに前にD51が付いている。一戸で増結したらしいが、夜間ながら旅客列車の三重連が実現している。途中からさらに雨は激しくなってきた。窓ガラスに水滴をまとわり着かせながら、列車は北上を続ける。旅はまだ始まったばかり、これから、青函連絡船に乗り、初めての北海道に向かう、大学一年生の夏であった。

今年も炎天下の気まぐれ撮影

 大震災と放射線問題が続く中、今年は梅雨明けが早く、熱中症で倒れる人が昨年より多いとか。この先が思いやられます。老人が増えていることも原因があるのでしょう。私も65歳以上の高齢者でありますが家にじっとしていることができないので「さあー今年も夏が来た!」と言うことで散歩がてらどこか夏らしい風景でも撮りに行こうと考えた。「そうや写真展もあるしなー」と考えて超ローカルな小湊鉄道に出かけた。熱中症対策として水筒(今水筒と言う言葉使ってますかな?)に塩分と砂糖を用意。血圧が高めなので塩分は複雑な気持ちで持参。もう一つ注意すべきことは炎天下にあまり歩かないですむということで桜の時期に行った上総大久保駅に最初から決めておいた。この駅自身格好がいい。桜の時期は大勢の同業者さんで一杯になるが、さすがこの蒸し暑い時期は少ない。同業者さんは土曜日なのでこの先のいすみ鉄道に大糸線から来たキハ52を撮りに行っているのかもしれない。駅の先にある踏み切りの近くで休んでいると船橋から来たと言うご婦人(と言っても私より歳が上)から声をかけられた。三脚に一眼レフデジカメの本格派であるが、鉄道を撮っているのではないようだ。いろいろ最近の地震や洪水の話などをしたら、「自然がもうええ加減にせいと言っているのやないか」と言われた。同感である。

    2011.07.16 上総大久保 養老渓谷行き 206+201

 

次の養老渓谷行きで一人降りてきたが、その人の後をついていくと挨拶してくれた。言葉が関西系なので訊いてみると枚方の人で新幹線で今着いたということであった。立命館のOBであり同じ京都の学校ということで親近感を感じたが年代差が大きそうなのでそれ以上は会話を進めなかった。

    2011.07.16 上総大久保~月崎 五井行き201+206

 

 小湊鉄道は車両がキハ20タイプに統一されて面白みに欠けるが沿線風景は抜群である。この先紅葉の頃や冬枯れの頃にも行ってみたい所である。車内には沿線を走る列車写真が多数展示されており、小湊鉄道会社も作品を募集しているようである。中には非常に参考になる作品も多く見られ刺激を受けた。なお、上総大久保駅にはジュース等飲み物の自販機は一切なく、踏切から下って養老川の橋の手前にあるよろずやに行かないとない。

参考に今年の桜の時期に行った時に撮影したものも加えた。

      2011.04.10 上総大久保 養老渓谷行き210

 

     2011.4.10 上総大久保 上総中野行き203

ユースで巡った鉄道旅 -13-

続きも東北のユースの話を。
蒸機時代の東北の名所と言えば、龍ケ森と奥中山が双璧でしょう。その2ヵ所をハシゴしたのが、昭和43年、大学1年の夏休みでした。龍ケ森で当会伝統の狂化合宿が厳かに且つ賑々しく行われ、その参加の前後に奥中山にも寄ったのでした。
龍ケ森はまだハチロクが全盛、奥中山も同年のヨンサントウ改正を前に、大型蒸機が最後の活躍を見せていました。今回紹介するのは奥中山ユース、奥中山の名は知られていても、ユースの名はほとんど認知されていませんでした。
なにせ奥中山駅から交通機関のない山道を1時間以上歩かないことには到着できない、未踏のユースなのです。この時は、別のユースに宿泊予約を入れていながら、止むを得ず泊まるハメになったのです。その経緯は後述するとして、奥中山の一日から綴ってみました。

前日、磐越東線でD60を撮ったあと、急行「八甲田」で深夜の盛岡入り。駅のベンチで合宿用に買った寝袋で仮眠をして、夜明けとともに駅裏の盛岡機関区へ向かう。真っ先に目に飛び込んできたのが、C60のトップナンバー機だった。「1」のナンバーを見ると、とくに蒸機の場合は感慨深いものがある。東北のカマらしく煙突回りに小デフを付けている。盛岡区は最後の大型蒸機で賑わっており、前にも紹介したが、区に置かれている「ゆうづる」「はくつる」のヘッドマークをC60、C61に付けては楽しんだ。C601は、この年の10月の東北本線完全電化で廃車となり、翌年には仙台市の西公園に保存された。以前、Fさんと仙台市電を撮りに行った時に、同公園で保存されているC601に再会している。

盛岡7時50分発の539レで、いよいよ奥中山へ向かう。D51868〔尻〕+C6018〔盛〕の重連。盛岡を出ると車窓に見える岩手山の山容、そして、厨川、滝沢、渋民、好摩、と続く駅名の響きが、「みちのくへ来た」という感慨になる。御堂~奥中山の中間にある、有名な吉谷地の大カーブに列車は差し掛かる。東北本線は、腹付け線増された区間が多く、このように上下線が離れている区間が多い。広々とした雄大な東北らしさを演出してくれている。

沼宮内で若干の停車時間がある。ホームのすぐ横の側線には、これから始まる十三本木峠の難所に備えて、多くの補機が休んでいる。ホームから飛び降りて、ひと通り写し回った中で、今度はD51のトップナンバー機と初めて出会った。同機は、トップナンバー故か、用途を終えると、その後、各地へ転属を繰り返す。私も各地で出会ったが、特別扱いされることなく、多くの本務・補機の一員として黙々と働いている、この時期の姿が、いちばん似合っていた気がする。

待望の奥中山到着、頬をなでる風もさすがに涼しさを感じる。駅でダイヤを聞こうとすると、ちょうどD51三重連が通過してしまい、臍をかむ。トンネルを越えて吉谷地の大カーブへ向かうが、来る列車、DD51かED75ばかりで、蒸機が全く来ない。トンネルを越えた水路橋の下で捕らえたED75132の荷43レも、これが蒸機だったらと悔やんだものだが、今となっては、かえって貴重な記録かもしれない。

一緒になったファンから、奥中山で撮っても、煙の期待できる下りの蒸機列車はほとんど来ないので、峠の反対側の小繋へ行かないかと誘われる。奥中山以上に雄大な区間があるし、煙を期待できる上り蒸機列車も多いと言う。思い留まればよかったものの、疲労と空腹で思考能力も著しく低下していた。ノコノコ着いて行ったのが、悲劇の始まりだった。小繋まで行き、炎天下の中を4キロほど歩いて、小繋~小鳥谷間の中間地点まで来た。確かに雄大な光景ではあるが、架線に阻まれてロングは難しい。ふと今晩予約していた、花輪線大更駅前のユースが気になって時刻表を見ると、まだ16時前後というのに、本日中に大更までの到着が不可能なことが分かった。東北本線と接続する好摩の下り花輪線の最終はなんと18時47分、夏ならガンガン照りの時間帯にもう終列車が出てしまうのだった。

一瞬、顔が青ざめた。もう撮影どころではない。同行のファンから離れ、もと来た線路上を必死になって戻った。途中でD51三重連が通過、本日初めての三重連だが気もそぞろ。奥中山にユースがあることを思い出し、何とかここまでは到達したい、しかし奥中山は次の駅なのに、運悪く列車は数時間も先、もうここは、初めて経験するヒッチハイクしかない。恥ずかしそうに手を挙げるが、クルマは止まる気配もない。やっと止まってくれた大型トラックの運転手に懇願し、奥中山駅まで送ってもらう。
ところが駅で聞くと、ユースは駅からはるかに離れた高原の頂上に所在し、駅からは歩くしかないと言う。1ヵ月分に近い重い荷物を背負い、夜行連続でほとんど寝られず、しかも前日から何も口にしていない。水も尽きた。靴ずれの足も痛む。夢遊病者のようにフラフラになりながら、山道を歩き、ようやくユースに到着した。ところが悲劇はまだ待っていた。まさか宿泊客など居るはずがないと思っていたところ、近隣の林間学校生が大量に宿泊し、これ以上は泊められないと言う返事、思わず床に倒れそうになったが、拝み倒して、薄汚いバンガローの片隅にようやく泊めてもらえることができた。もうとにかく、体力の極限まで使い果たした、奥中山ユースだった

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part15  阜新煤礦鉄路 その5

第11日目 5月28日

平安14:08(114次)→14:35王營(Bus)→15:32阜新
② 阜新19:00(2106次)→10:17北京北

モーニングコールよりも早くに起き上がれました。ロビーに下りると既にF先生とO氏のお二人さんともお待ちでした。
今日お二人は、阜新から瀋陽に向かわれ、乗換えてハルピンへ。一泊されて翌朝のCZ便で帰国されます。一方の私は、夜の夜行列車で北京に戻り、いつもの一人旅となります。

▲ Taxiを待って昨日同様の平安駅踏切に着きましたがご覧のとおりの夜明け前です。写真は3:56、ISO3200、F5.6・1/40の手持ちで撮っています。


▲ 4:20、ようやく入替作業の開始、昨日と違ってスモッグが濃いようです。まだ薄暗いのに機関車の前照灯は消していました。入替機は1319号機


▲ 5:131319号機が入替作業を終えて一息つく頃に朝日が雲間から顔を覗かせました。

▲ 5:20、ヤード横からの1460号機が後ろ牽引でズリ捨て線を上がっていきました。


▲ 7:06、朝日が差し込む平安站に到着した988号機牽引の職工通勤列車。

お2人が帰途につかれた後、平安站からまだ行っていない王營站までを乗車してみることにしました。




▲  平安~王營間は工場、住宅街の中を通って14:25に王營站に到着しました。所要時間27分間の短い乗車時間でした。乗客の殆どは終点一つ手前の民主站で降りて、王營站では私一人の下車でした。王營站は採炭場があるのみで見渡す限りのとうもろこし畑が広がっています。折り返し列車は17:28。蒸気もいなく時間があり過ぎるので職工さんに近くのバス停を教えてもらい阜新站に戻りました。 王營站はこちらです。

阜新站からはバイクTaxiに乗って新邱からの帰りに見た上遊型が放置されていた高徳站方面に向かいました。

▲ 16:30高徳站に到着。O氏が運行しているかどうかを確認したがっておられた海州露天鉱方面からのズリ満載の5両編成が入線していました。牽引するのは、この炭鉱線で最も綺麗と思われる1320号機。しばらくすると新邱方面へと走行して行きましたが、この方向にはズリ捨て場はなかったはずで、一体どこへ向かったのか疑問が残りました。本線上をヤード方面に向かうのは、1460号機牽引の空車のズリ6両編成。と言う事は、新邱方面に見過ごしたズリ捨て路線があるようです。


▲ 探していた上遊型の廃車は、ヤード方面に約10分歩いた所にありました。911、989号機と番号不明のもう1台の計3台が放置されていました。本線上との塀のかさ上げ工事をしていた職工のお兄さんには写真を撮って欲しいと頼まれました。ついでに入っておいでよと誘ってくださいます。上遊型の他にもかなりの車両が放置されていて見てみたかったのですが、見るとかなり時間がかかりそうなので、丁重にお断りして先を急ぎました。

【海州露天鉱国家鉱山公園】
さらに線路沿いをヤードに向けて約20分を歩くと海州露天鉱国家鉱山公園に着きました。海州露天鉱はかつてアジア最大の露天鉱と言われ、阜新は石炭によって立ち、石炭によって栄えました。2005年、資源枯渇のために一応閉鎖されましたが、その歴史を保存する記念館が開設されていました。地図はこちらへ。

▲ 幅4×2キロ、深さ250mもの広大な露天掘を一望できる展望台があり、かつての路線跡も見ることが出来ました。そして公園内にはかつて露天鉱で活躍した車両の展示もされていました。

▲ 露天鉱で使用された連接式のZG150-1500型電気機関車、韶峰028号機。1972年製造、でかい!

【ZG150-1500型】
直流1500V、 全長;20.26m、幅;3.20m、高さ4.77m、
自重150㌧、軸配置;B0-B0-B0、1時間定格出力;350kw×6=2100kw、1時間定格引張力;256KN、軌間;1435mm、最小走行半径;80m、最高速度;65km/h、撫順露天鉱等主要炭鉱で使用された。


【推土犁 Bulldozes the plow】
全長;14.41m、幅;3.604m、高さ;4.456m、自重95㌧、ズリ線のラッセル用。自走は出来ず機関車に牽引してもらいます。


▲ 巨大なパワーショベル、ラッセル車、1974年製の上遊型1395号機。

もう少しゆっくりと見たかったのですが、夜行列車の乗車時間が近づいてきました。阜新站へと急ぎました。  Part16  へ続く

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その1その2その3その4

ユースで巡った鉄道旅 -12-

今回のユース巡りは、東北の被災地近くにあったユースに目を転じました。
大震災からの復旧の端緒が見えないJR線の中で、原発事故も重なった常磐線北部は、最大のダメージ区間でしょう。現在、久ノ浜~亘理間は、全く復旧の見込みが立っていません。この常磐線北部、45年前には、日本で唯一、C62の牽く特急が撮れる区間として、賑わっていた場所でした。
私も高校3年の時、一度だけ撮りに行きました。撮影で利用したのが平ユースホステルでした。ここは少しの記憶が残っており、平駅からバスに相当乗って、最寄バス停で下車、海岸へ向かって田んぼの中の一本道を行った先に、目指すユースはありました。訪れたのは、夏休みも残り少ない時期で、宿泊客もほとんどなく、食堂からは海岸風景が望めました。今も健在な公営のユースですが、震災の影響で当分の間、休館とのことでした。津波の影響があったのかもしれません。

「ゆうづる」のC62牽引区間は仙台~平、夜行列車なので、撮影地は限定される。平から二つ目の四ツ倉がもっとも行きやすいところだった。これを撮るためのアクセスは、上野22時24分発の常磐線経由の青森行き、夜行鈍行227レに乗り、四ツ倉4時12分着で行くのが、唯一最上の手段で、227レの編成前部は、カメラを持った人間にほぼ独占されていた。
四ツ倉に着いて撮影地へ向かうが、もう完全に電化が完成している。もう少し早く来ていたらと悔やまれるが、今から思うと、高校3年生の身で、京都からよくぞ行ったものと思う。「ゆうづる」が通過する前に何本かの蒸機列車の通過があり、テストが出来る。カーブの外側から、C6237の牽く普通列車を狙う。当時は、周囲を入れようという意識はなく、とにかく蒸機の迫力を表現するため、画面ギリギリに入れるのが好きだったが、予想より煙が出すぎてしまい、爆煙が切れてしまった。

本命の「ゆうづる」の四ツ倉通過時刻は、5時50分ごろ。まだ光量が十分でないことを考慮して、初めて高感度のトライX一本を購入し、うやうやしく詰めたカメラを構える。四ツ倉から久ノ浜方面に歩き、鞍掛山トンネルまでの間を探すも、編成全体を見通すことは架線柱に阻まれてかえって不利と考え、ここでもC62と20系数両だけを切り取ることにした。下からあおると、半逆光線にC62の動輪やボイラーが輝いた。牽引機は、ゆうづる専用機に近い23号機だった。

当時の常磐線の非電化区間の平以北では、旅客がC62、C61、C60、貨物がD51が使用されていた。ハドソン三兄弟が揃い踏みしていたのは常磐線だけだった。C62が余りにも有名で、C61、C60は影が薄かった。とくにC61は、平区に1両だけの配置だった。近頃のC6120の動態運転の記事を見ても、過去の写真は奥羽本線や日豊本線ばかりで、常磐線は見たことがない。仙台行き223レを牽くC6121、動態運転中のC6120とは1番違いのカマは、この年に廃車されてしまった。

常磐線は、東北本線より距離が少し長いが、線形が良いため、東北へ向かう優等列車が多く運転されていた。伝統の特急「はつかり」も設定当時から常磐線経由で、昭和35年12月から、それまでのC62牽引の客車編成から、キハ81系に替わった。運転当初は、事故や故障が続発したが、その後に誕生したキハ82と同様に改造してからは順調になり、キロ2両、キサシを組み込んだ、東北唯一の昼行特急に相応しい編成となっていた。もちろん初めての撮影であり、よくよく見ると何とも愛嬌のある顔をしている。翌年の東北本線完全電化により、「はつかり」は581系化されることになり、キハ81系は、昭和44年から「ひたち」「いなほ」に転用される。


四ツ倉駅に到着する226レ、一日の撮影を終え、この列車に乗って、平まで行ってユースへ向かった。浜通りと呼ばれる、福島県の常磐線沿線にはかつて多くの専用線が分岐し、古典蒸機が活躍していた。四ツ倉もそのひとつで、住友セメント四倉工場専用線が駅の裏側から八茎鉱山へ向かい、ナスミス・ウイルソンの600形が動いていた。昭和40年代が全盛時代で、蒸機に代わったDLが24時間運転していたようだが、昭和57年の工場閉鎖とともに専用線も廃止されたが、今でも廃線跡は残っているらしい。現在では福島原発の避難地域が久ノ浜以北となり、いわき~草野~四ツ倉~久ノ浜は、特別ダイヤで運転されている。

平駅。8月の終わり、残暑の厳しい時期だった。駅舎、自動車の姿を見ると、今昔の感がする。駅の所在する、いわき市は、訪れた前年に、平、勿来、磐城などの14市町村が合併して、当時日本一大きな面積を持つ、いわき市が誕生した。平駅も、平成6年に「いわき」に改称されてしまい、名実ともに「平」の名は消えてしまったが、ユースの名称だけは今も平を堅持している。その後、この駅を訪れる機会は無いが、ネットで現状を見ると、再開発の大型ビルが林立しているようだ。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part14  阜新煤礦鉄路 その4  時刻表、路線図

第10日目 5月27日 乗り鉄と夕日撮影

① 太平10:04(111次)→11:06新邱13:09(114次)→14:03平安

ホテルで朝食を食べながらO氏と私は阜新煤礦鉄路の起点、新邱站に露天鉱があるので行ってみたいと意見が一致しました。Taxiにのって、ホテル近くの太平站を目指しました。太平站はこちらです。
▲ 阜新煤礦鉄路の客扱いをしている平安~新邱間の路線図です。中国鉄路の新義線とほぼ平行する路線で、平安~高徳間のみ複線となっております。営業距離につきましては、平行する中国鉄路では、平安~新邱間18キロ(所要時間37分、一日あたり3往復のみ)となっていますのでほぼ同じと思われます。東阜新站は現在、どの列車も停車しませんので、信号所扱いになっていると思われます。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part13  阜新煤礦鉄路 その3

【上遊型のプロフィール】
前回の投稿でプルプルさんより「機関車のスペックも記載して」とのご注文が出ました。専門外ですが分かる範囲でまとめてみました。ベースとなったミカロとD51との比較もしてみました。


▲ 表でもお分かりのように蒸気機関車上遊型は、南満州鉄道のミカロを参考に製造されていています。
上遊型詳細公表がないのでの真偽性は不明ですが、極めて類似しています。製造開始当時は製造の基礎知識は欠落していたと思われますので、おそらく殆どがコピーされたものと推測します。前回の投稿で、朽ち果てた上遊型の写真を掲載していますが、その中に1台、番号不明ながら「JF****」と読み取れる蒸気がいました。外観を見ましても類似していました。

ミカロの写真は、2010年10月27日に瀋陽鉄道博物館訪問時に撮影しました。訪問記の詳細はこちらへ。 続きを読む

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part12  阜新煤礦鉄路 その2

第9日目 5月26日 午後

ようやく見つけた五龍炭鉱前の庶民食堂で遅い昼食後、平安站ヤードへの路線を歩きながらロケハン再開です。


▲ 14:54、早速ZF型ホッパ車5両とC50型石炭車1両の編成を後押しで1210号機が上がってきました。ホッパ車に積載されているのは残土ですが、石炭車には発電所から出る廃土「フライアッシュ」だとO氏は言われます。フライアッシュは石炭燃焼時にガスとともに吹き上げられる微粒子で、そのまま捨てると風にまって、吸い込むと人体に悪影響が出る産業廃棄物です。日本では捨てず、吸水性が良いのでセメントと混ぜて使用されて処理されているとのご説明です。O氏は定年退職されるまで某大手製鉄会社にお勤めでしたので、この道の専門家なのです。日本では輸送する際にはタンク車が使用されていますが、ここでは無蓋車に積んでいます。当然、撒き散らしながらの輸送です。勿論ここに住む人民や働く職工には知らされていないでしょう。撮影される際はマスクが必需です。


▲ 15:22、続いて1818号機が3両のホッパ車を牽引して山を下って行きました。バックの橋はかつての路線です。海州露天鉱への架線を張った路線も残っていました。先のカーブには今まで見たこともない6本のレールを使っての補強がされていました。

▲ 15:34、先に進むと、カーブをホッパ車5両と車掌車を牽引した1319号機が下りてきました。

▲ 15:41、ちょっと変った踏切小屋のありました。ホッパ車5両の牽引機は1195号機です。

▲ 平安站付近でTaxiに乗ってヤード向うの太平站方面に向かいました。16:32、5両のホッパ車を牽引して黒い爆煙を上げて発車する0988号機、平安方面に向かいます。

ぼちぼち陽も傾いてきました。ヤードに沈む夕日が綺麗と言われている場所に再度Taxiを捕まえて移動しました。


▲ 17:41、ヤードに到着しましたが、冬場では中央に沈む夕日もこの時期はマンション右側で斜光を期待するしかありません。 真っ先に来たのは東風5D型0068号機が牽引する客車6両の職工通勤列車でした。

その後、0988、1210、1320号機と発着しますが、夕日はぼやけてきて斜光は期待できず引き上げることにしました。この日までに確認できた上遊型は合計8台でした。


▲ 帰り道は、ヤードから見えていたマンション群を抜けていきましたが、車庫の中には朝見た職工通勤列車の他にYZ22-79004、79005、79008の客車と、朽ち果てた上遊型0036、0076、0127、0391、0576の他ナンバー不明の2台の計7台が放置されていました。かつては相当数の上遊型が運行されていたことが分かりました。

▲ 今夜も夕食は
蒙古族の料理で、「羊肉火鍋」です。ホテルから歩いて約5分にレストランが並ぶ繁華街がありますが、1番多いのが羊肉火鍋のお店です。
  Part13  へ続く

 

2011年 春から春から夏への中国鉄路の旅 Part11  阜新煤礦鉄路 その1

第9日目 5月26日 午前

今日は平庄煤礦鉄路に続いて上遊型が現役で残る阜新煤礦鉄路を訪ねる。阜新市は遼寧省省都である瀋陽市の西北西約200キロに位置する地級市です。阜新駅周辺の地図はこちら

朝6時にホテルを出発して上遊型が客車を牽引する唯一の通勤列車の撮影を目指しました。

▲ 6:22、約20分で中国鉄路の阜新站に隣接した 阜新煤礦鉄路平安站近くの踏切に到着しました。站は近くにあり屋根もある立派な?ホームです。この日に見た最初の上遊型は1319号機。平安站はこちらへ。
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ユースで巡った鉄道旅 -11-

大社線を行く

回からの山陰つながりで、もう一軒、大社のユースについて触れてみます。出雲大社の参道沿いの「ゑびすや」というユースです。例によってユースの記憶が全く残っていませんが、昭和46年9月、山陰本線で撮影したあと、夕方に投宿、翌日、大社線で撮影しています。
名前からすると、大社の門前旅館に併設されたユースと想像されます。もうすっかり消えてなくなっていると思い、念のため検索してみると、まだ盛業中なのが判明しました。立派なホームページもあり、なんでもユースの場所は、阿国歌舞伎の劇場跡に建てられ、明治の時代から旅館としての歴史を有し、戦後すぐにユースを開設したという老舗のユースだったのです。

社線は、当時、典型的な赤字盲腸線だったが、そこは由緒正しき、出雲大社への参宮路線、ひと味違う列車が走っていた。大社へは、大阪から直通の急行「だいせん」がなんと3往復(夜行2、昼行1)、名古屋からも小浜・宮津線経由で「大社」が運転されていた(すべて大社線内は普通列車)。大阪からの直通急行は、昭和10年から運転されていると言い、わずか7.5キロの路線ながら、歴史と格は違っていた。C11261の逆行で大社駅に到着したのが「だいせん崩れ」の125レ。C11の次位に荷貨客共用貨車で、パレット輸送用のワサフ8000を連結しているのが、この時代を反映している。

戻りの上りとなると、大阪行きは1本のみで、残り大阪・名古屋行きは車両基地のある、出雲市からの発車となるため、大社に到着した列車は、客扱いのまま普通列車として出雲市へ戻って行く。出雲高松駅で下車して、すぐの大カーブで、上記列車の返しとなる126レを捉える。営業はしていないものの、ロネ、ハネ、ロザを連結した、12両編成の豪華な普通列車が出現する。

大社線の中間駅は、出雲高松、荒茅の2駅のみ。126レを撮ったあと、少し歩いて、出雲名物の築地松の見える地点で、128レを待って、C11261+無蓋車+客車を撮る。混合列車が、この時代でもまだ運転されていた。米子区のC11は、全機シールドビームで、回転式火の粉止めを付けた姿は、末路を暗示しているようだった。

ユース宿泊に先立つ7年前にも、臨時急行「伯耆」に乗って、大社線に乗っている。以前にも記したが、その牽引機はC51、それも化粧煙突の米子区の80号機だった。カーブに差し掛かると、窓から乗り出してハーフサイズのカメラで編成を撮っている。中学3年生にとっては精一杯の撮影行為だった。大社線では、この出雲高松~荒茅間のこのカーブが唯一で、あとはすべて直線で、上記126レを捉えた位置と同じだった。なお、戻りの列車は、キハ06の単行だった。

昭和46年訪問時は、出雲高松駅で128レに乗って出雲市へ向かい、大社線を離れる。駅は棒線一本のみの駅。格式のある参宮路線も、次第に輸送密度が低下してきた。大社駅へ降りても、出雲大社へは1.5キロほど歩かねばならず、参拝客は徐々に自動車、バスへ転移していく。結局、特定地交線の第三次廃止路線に指定され、平成2年4月に廃止となる。出雲高松駅ホーム跡は今も残っているという。

有名な大社駅の駅舎は、大正13年に全面的に改築された二代目である。著名な社寺の最寄り駅を、社寺を模した駅舎とすることが、流行った時代の産物でもあった。大社線の廃止の前年、平成元年に乗ったキハ40単行の列車は110%の混雑で、大社駅も最後の賑わいを見せていた。

大社駅には、翌年の廃止の予告看板が早くも掲げられ、廃止前のイベントが行われていた。大社造りと称される二層屋根の神殿風の駅舎は、廃止後も線路とともに残され、国の重要文化財にも指定されている。その後の廃線跡は、ほとんどがサイクリング道として整備されている。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part10  平庄煤礦鉄路から阜新煤礦鉄路へ

第8日目 5月25日

① 平庄9:32(4210次)→16:14阜新

今日は阜新までの337キロをゆっくりと6時間42分、表定速度50.3km/hで向かいます。叶赤線を終点の叶柏寿まで走り、ここから錦承線を途中の义县から分岐した新义線と3路線を走行していきます。
出発までゆっくりとホテルの朝食を食べておりましたら、お二人が撮影から戻ってこられました。朝5時頃に部屋の窓からお出かけが見えていました。O氏は昨日の列車の半分が切り離されて五峰站に留置されていたので、ひょっとしたら朝に回送機がやってきて1ヶ月に1度走るかどうかと言われた五家鎮に向かって行くのではと期待して向かわれたそうです。

昨日私が帰った後、その路線をロケハンされると撮影ポイントが数多くあったのでどうしても撮りたかったと言われました。残念ながら昨日も今日朝も望みは叶えられなかったと悔しがっておられましたが、気迫には頭が下がります。一方、F先生ももっと早くに装煤站ヤード方面に向かわれていました。 朝焼けの空をバックにしての撮影にのぞまれたそうです。元々風景写真を撮っておられた写真家らしい発想です。お二人にかかっては私はまだまだひよっこだなあと思いました。

この2日間でロケハンで歩いた経験をもとに路線図を作成しましたのでご覧ください。
▲ 黄色が平庄煤礦鉄路の路線図です。距離が分かりませんが、中国鉄路の平庄~平庄南間が9キロです。目安にしてください。
中央司令室がある装煤站に行かれる場合は、近くに燕京ビール工場がありますので、Taxi運転手に伝えれば行けます。正門前が線路と交差する踏切になっています。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part9  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その3

第7日目 5月24日
約束どおり5時半に白タクは迎えに来てくれました。 F先生は五峰站ヤード付近で下車されましたが、O氏と私は平庄南站近くに小高い山がありましたので、ここで朝日を浴びた上遊牽引列車を撮りたいと向かいました。

▲ 5:46、中国鉄路叶赤線を走行する長編成の石炭列車。バックが黄色になっているのは、黄砂と朝日の影響です。平庄南站手前の踏切で撮りましたが、この路線は単線ながら列車が頻繁に通過します。撮影位置はこちらです。標高525m地点。

6:04、標高約585m(鉄路との標高差60m)の小高い山に登りますと、眼下に平庄南站そして昨日撮っていた橋が見えますが、残念ながら霞んでいました。7:50前後に来るかもしれない平庄煤礦鉄路の列車を待つついでに中国鉄路の列車も撮ることにしました。(撮影場所はこちらへ)

▲ 6:16、最初に撮影した和諧号重連の長編成の石炭列車。

▲ 7:57、平庄南站に進入する大連発赤峰行きのK7351次。

▲ 8:51、叶柏寿発通遼行きの6327次が到着。平庄南站は、平庄煤礦鉄路と中国鉄路との接続站で貨物ヤードもあります。平庄站より規模は大きい站ですが、1日当たり発着する客車列車は上下共各3本のみでこれが下りの1番列車です。


▲ 8:52、平庄に来る時に乗車した赤峰発山海関行きのK7384次。これも上りの1番列車で6327次と平庄南站で停車交換します。今日は行李車を連結していない7両編成でした。蒸気時代のこの叶赤線は前進型が走っていたそうです。この場所で遠くから白煙をなびかせながらの走行を見たかった、撮ってみたかったと思いました。

9:00までO氏と二人で約3時間粘ってみましたが、平庄煤礦鉄路には1本の列車も走行しません。そろそろ諦め時だと意見が一致しましたので下山しました。五峰站に向かって道路を歩いているとワゴン車が走ってきたので手を上げると止まってくれました。どうやらここでは交通機関が少ないので、走っている車は手をあげれば止まって乗せてくれるようです。もちろんタダではなく町までなら20元(市内~平庄南間)と決まっています。
インターネット検索では装煤站から立井站間は1往復の運用があるようだとの記事しかないので行ってみたいとO氏との希望と一致しましたので、昨日私のみが行った装煤站へ運転手に頼みました。


9:40、装煤站ヤードに到着。SY0400、1052、1425号機の3台はいますが、1487号機はいません。中央司令室に聞きに行ってみましたが担当者は不在で知る事はできませんでした。

先に立井方向に進んでいたO氏を見ると、ヤード内で人海戦術で路盤工事をしている保線員の責任者に捕まっています。急いで行ってみるとここから先は通行不可と制止をされています。
お任せください。こんな時はゆっくりにっこり笑っての対応が効き目あります。いつもと同様に「私達の趣味はこの立派な蒸気機関車を撮影する事です。日本からそのために来ています。撮影は中央司令室で了解してもらっています。」と説明してタバコを薦めますと喜んで吸ってくれました。後は私たちは朋友ですと握手すれば完了です。

タバコを薦める事は中国での初対面の挨拶ですが、逆に1本が1箱、そして1ケースとなり最後は金銭にまで進んだ樺南鉄路の悪例もあります。出来ればやりたくありませんが、お金も要求してきましたのでこの場合の緊急対応です。日本の鉄ちゃんも訪れる時は後に続く人の事も考えて甘い対応はしないでください。この国の人民は一度甘い汁を吸うとそれが当たり前になってエスカレートしてしまう事もあるのです。

ヤードを過ぎると有人踏切がありましたので通過記録簿を見せてもらいましたが、今日はまだ通過していません。昨日見たダイヤグラムでは装煤8:45→9:35立井11:50→12:30、装煤14:25→14:50三井15:58→16:30装煤がありましたので午前中には1往復は来るだろうと思い待つ事にしました。
O氏はカーブを曲がった畑の中の直線区間で、私は先の林の中を目指しました。

10:44、新緑の林の中で珍しく綺麗な水が流れている所がありましたので汚れた手を洗って線路際の犬走りに戻ると汽笛もなくSY0400号機が単機バック運転で突然にやってきました。シャッターは切りましたが、もう1つです。その後まああ気に入った場所がありましたので折り返しを待つ事にしました。近くで汽笛の音は何回も聞こえるのですが中々来ません。


12:31、待つ事1時間45分。ようやくSY0400号機が戻ってきましたがセキの牽引はなくまたも単機です。今回は単機回送ばかりでまともに石炭列車は撮影出来ていません。(撮影場所はこちらへ)

O氏と中々上手くいかないなあと嘆きながら近くに食堂を探しました。
庶民食堂で昼食後、Taxiを捕まえて再び平庄南站へと向かいました。


14:44、 平庄南站到着。ホーム2本3線の交換駅です。ローカル駅とあって窓口は1ヶ所だけですが、ホームは広く、ヤードでは東風4型3877号機が入替をしていました。やがて長編成の石炭列車が到着しました。

▲ 撮影していますと、作業を終わって側線に引き上げた運転手が手招きしています。中に入れてもらって運転席内を見学させてくださいました。中には電熱器も備えられていてお湯も沸かせます。

通称「緑亀」と言われる東風4型電気式ディーゼル機関車は、1974年から約3,500台余りが量産されました。1980kwの出力を誇り、貨物用4B型(最高速度100km/h)、客車用4A型(最高速度120km/h)の他、出力アップした4C型、4CK型、4D型もあります。最近は強力な新型DL和諧号も量産されていますが、今なお中国鉄路の非区電化区間の主力DLです。車体色は濃い緑色ですが、帯は水色と黄色があり前者は「スイカ」後者は「カボチャ」と愛称されています。

石炭列車を待っていましたが夕刻になっても来ません。ここの運行には振られっぱなしです。明日は朝に平庄を離れて阜新へと向かいます。これまでかと諦めだした時に今までと違った方向から汽笛が聞こえてきました。

五峰駅から分岐して五家鎮へと向かう鉄路からです。この路線は信号所の担当者もめったに走行しない。走っても1ヶ月に1回もあるかないかですと言われていました。
17:10、全力で音の聞こえる方向に向かうと林を抜けて人民が畑を耕す中を長編成の石炭列車が姿を現しました。(撮影場所はこちらへ)

▲ 17;25、列車は五峰駅ヤードに入り、スイッチバックで機回しをした後に築堤を上がって向かってきました。牽引するのはどこに行ったのかと行方を捜していたSY1425号機でした。大地に残された蒸気機関車が走る平庄煤礦鉄路の1シーンです。(撮影場所はこちらへ)

ひたすら来ない列車を終日辛抱強く待っておられたF先生、私と右往左往して平庄南站手前で降りられ待っておられたO氏もガッツポーズです。変哲もない上遊型が牽引する石炭列車ですが、ようやく撮れたとの感激は3人にはありました。
F先生は満足げに今日はこれでいいと帰られました。O氏と私は帰路の発車を見たいと残りました。しばらくすると本線に空のセキを牽引した DF5型1797号機が平庄南站に入選して来て、SY1425号機と双方の石炭列車の機交換を行いました。

SY1425号機はDF5型から受け取った60両余りのセキを牽引して五峰駅ヤードに向かって行きました。
私はこれで満足でしたが、まだ期待できる何かがあるかもとO氏は残られました。3人で大地で残る蒸気機関車を求めて旅を続けていますが、具体的な行動はあくまで各自のマイペースを尊重する事が重要と認識していました。   Part10  へ続く