伊香保の電車について

乙訓の先輩へ

私が高崎で4年間の単身生活をしていた時、休日の楽しみはとにかくクルマであちこちを走り回り、現役車両はもとより、廃車体を探したりすることでした。そんな中で渋川街道は何度も走り、大きな医院の塀の中に電車があるのに気付き、 御断りを言って写真を撮らせてもらおうと ある日門内に入ったのですが 誰も出てこられず やむなく無断で撮影し 早々に立ち去りました。そのときの写真を添付します。下回りはなく、医院の待合室になっていました。戸を開けて車内に入りたかったのですが、さすがにためらわれてそそくさと退散しました。1999年5月23日の撮影です。

伊香保の電車について」への7件のフィードバック

  1. 西村さん、ありがとう。琵琶湖湖畔でお会いする時にお尋ねしようと思っていました。
    待合室に使われていたのですか。道理で窓ガラスが磨きこまれ、車内も整備されていたのが見えました。ポールがないので足回りはどうなのか、気になっていました。
    これで渋川の謎が解決しました。経路について地形図を購入し眺めて見ましたが、全くそれらしき跡が分からずでした。ボランティアの老人が「家の前が線路やったが、今は全く分からない。道路に転用された所は渋川市内を除いてない様に思う。伊香保の終点跡も自分自身がこの範囲と言える自信がない。」と話してくれました。なだらかな榛名山のすそ野を上っていたのですね。九十九折れをスイッチバックで高度を稼いだわけですが、それにしても12㎞ほどで標高差520m強を上っていたとは驚きです。そして常用電制なしで常用手動制動、緊急時のみマグネチックブレーキとは今では考えられない電車だったのです。これに似たのがブラジルにあり、先日事故発生が報じられていました。支那人もびっくり!

  2. 謎が解けて何よりです。伊香保電車については 宮脇俊三氏編著のJTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩く Ⅱ」、原口隆行氏著 同ブックス「日本の路面電車 Ⅱ 廃止路線東日本編」に詳しい解説があります。特に後者には伊香保線に加えて渋川-高崎間の高崎線、渋川-前橋間の前橋線の路線図、停留所名が記載されています。例の医院の前の通り(渋川街道)は高崎線が走っていた通りで 渋川駅前から2つ目の停留所 石原付近です。従って医院の敷地内には比較的容易に引き込まれたのではと想像しております。

  3. この電車は確か勾配を下る際ポールを畳んでいたはずです。理由は1本しかないポールが外れて直立したら、メッセンジャーに負けて根元からもげるのを防ぐためだと思います。京阪京津線の場合は専ら上り勾配で外れたので、もげるところまでいきませんでした。
    京都市電で出町-府立病院前間の通称「玄界灘」で力行中ポールが外れて直立し、メッセンジャーと勝負したとたんに敗け、屋根からもげただけでなくロープも切れ、はるか後方においてけぼりに。運転手が下命して車掌を拾得に派遣した、その電車に乗り合わせた記憶があります。この500型は後続の電車に河原町丸太町まで押してもらい、ここにある亘り線で向きを変え、残ったポールで烏丸車庫へ。
    伊香保の電車に戻って、夜間のヘッドライトは石油ランプだった(まさしく前部標識ですな)という話を聞いたことがありますが、室内灯はどうしたんでしょうか。乙訓ご老人に解説を願いたいですな。

  4. 須磨さん、大変な難題を説明せよとの事。室内灯は6ケ直列だったのではないですか? とすると前照灯は独立するため550~600Vの白熱灯がないためランプをぶら下げたのではないかしら。初期のインターバンの前照灯が大型であったのは、アーク灯だったとのことです。その後、技術が進み前照灯も直列回路に加えられたと聞きます。昔の電車、ヘッドライトのみならず、テールライトも着脱式のものがあったようですが、我々の世代はそうしたものを写真で見ただけです。
    それはそうと、玄海灘では老人が乗車していた300形(3号系統)のポールの滑車部分が折れ、直立となりました。車掌は府立病院のボイラー室に駆け込み、ロープを調達、丸太町橋東詰からやってきた架線修理車や後続電車乗務員の協力を得て
    復旧に当り、後続の5号系統(烏丸今出川経由・600形)に押されて河原町丸太町へ、此処で600形乗車の客は下され、600形は300形を牽引して烏丸車庫に戻りました。数日後、烏丸車庫に行ったら、当該300形は壬生車庫所属車で、車庫西隅に留置されておりました。車庫の門衛さんと仲良し?になっていた頃の話ですから、小学4年(昭和23年)の思い出となりましょう。

  5. ご老体をお騒がせして申し訳ないんでありますが、拙者がお尋ねしたかったのは、ポールを畳んで坂を下りるのが常態であれば、夜間室内燈はどうしたんじゃろうと云う事であります。まさか昼間だけポールを畳んでいた?
    スイスのシーニーゲ・プラッテ鉄道では、坂を下る場合電機のパンタを畳んでいました。登山鉄道ですから夜間の運行はないのかも。

  6. アテネ書房、復刻版によりますと夜間21時前が終電車ですから、須磨の大人が御心配の件、うなずけますね。ランプをぶらさげていたのでしょうか、でも暗がりの中でポールを下げて下るなんて大変な勇気が要りますね。万一の時、マグネットブレーキも使用不能となりませんか。架空線が交差していたであろう、スイッチバック箇所のポイント部でポールをひょいと下げたのが、おもしろおかしく伝えられたのではないでしょうか。分かりません。この頃バッテリーはどうだったのでしょうか。澤村君、この話に乗ってくれんかぁー。

  7. 下り坂でのマグネットブレーキは、抵抗器消費の発電ブレーキでの電気を使うんじゃないでっしゃろか。どなたか電気屋さん、アドバイスを。

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