第5日目 9月28日 その1
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影
アフリカの東部『アフリカの角』 と呼ばれる部分に位置するエリトリアは、日本の企業がはじめてアフリカに進出した国(当時はエチオピア領)でもあります。1960年代に、銅鉱生産のために鉱山会社が進出しました。
( ※ 地図は、財団法人 愛知県国際協会で発行された ”世界の国を知る・世界の国から学ぶ わたしたちの地球と未来 -エリトリア-” からの転載です 。)
1890年にエリトリアは、公式にイタリアの植民地となりましたが、それ以前にイタリアが一方的に植民地宣言してより、紅海に面した港湾都市マッサワからの鉄道建設が1887年に始まり、1991年に首都アスマラまでが開業になりました。東アフリカでは最も早く建設された鉄道でした。
▲ マッサワからアスマラまでの直線距離ではわずか約60キロですが、アスマラは海抜約2,350mもあり、鉄道建設工事は難業を極めました。30のトンネル、65もの橋梁が必要で、建設資材や車両は1869年に開通したスエズ運河を通って運ばれました。赤線がエリトリア鉄道の路線です。
全長約118キロの鉄道は、当時のイタリア基準のゲージ幅950mmで建設が進められ、途中30‰以上もの急勾配のループ線が連続しました。流入する河川がなく透明度の高い美しい紅海から、荒涼たる砂漠地帯を通り、やがて険しい山岳地帯を登り高原地帯へと向かうエリトリア鉄道は、2時間で3つの季節に出会う旅、「アフリカ一、美しい車窓を持つ鉄道」 と、言われています。
9:10、今日は朝食後、ホテルからツアーで用意されたバスで、アスマラ駅に向かいました。
▲ アスマラ駅正面の全景です。地図はこちらへ
▲ 駅舎から構内に入ると磨きぬかれたマレー機442式機関車が待っていました。当初は、この客車+有蓋車3両+無蓋車3両の編成に乗車してマッサワまで行く予定でした。残念です。左の車庫前には、フィアット社製の「リットリナ」が1両、留置されていました。
▲ アスマラ駅1番線で発車待ち。この駅の標高は、2,364mです。
▲ 構内見学は後でゆっくりと、すぐの9:26、混合列車はマッサワに向けてアスマラ駅を発車しました。
この後、 バスに乗せられて旅行許可証なしでも行ける郊外へと向かいました。”乗せられて”と書くのは、このツアーを申し込んだドイツの旅行代理店側から、エリトリアは社会主義軍事政権で、まだエチオピアとは紛争中です。ツアーから離れた自由な行動は慎むこと、たえず現地旅行代理店の指示には従うことを申し渡されていました。ゆっくりしたいとのこちらの希望は聞き入れられません。
また、この国は2008年度の国境なき記者団が発表する世界報道自由ランキングで、世界176ヶ国の評価で、最下位にランクされていました。ちなみに175位は北朝鮮ですので、この国の様子がどういった国だかお分かりになると思います。
▲ 案内されたのは、マッサワ方面に約30分下った、標高2,276mの登り勾配途中の交換駅上でした。地図のとおりループ線が続いています。ここで先ほどアスマラ駅を発車した混合列車を待ち受けます。
▲ 10:30、待つ事30分で汽笛を響かせながら、ゆっくりと谷にかかる美しいアーチ橋を渡って、混合列車が下りてきました。
▲ やがて列車は、山向うの1番目のループを回り交換駅を通過して、マッサワに向けて下って行きました。これが登りの列車ならもっと良かったのですが・・・。後の楽しみにしました。
朝のSL撮影は、これで終了です。一旦、アスマラの町に戻り、市内見学となりました。 Part11 へ続く
エリトリアには何度も行った者ですが、詳細につづられた紀行文に感激です。機関区もあったなんて知りませんでした。
あんどう 様、コメントをいただきましてありがとうございました。
よくこんなに不便な中々行くことができない、エリトリアに何度も行かれたのですか。目的はナンだったのでしょうか?
もし貴殿のホームページまたはプログがありましたら教えてください。
来秋もドイツのツアーがありますので、行ってみようと思っております。また来春は、ジンバブエに大型SLを撮影に参ります。
エリトリア鉄道訪問記は、続いております。まだ未投稿も準備しておりますので、ご覧いただければ幸いです。