2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part8  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その2

第6日目 5月23日 続編
五峰駅の周辺は住宅になっていて、中に食堂が1軒ありました。冷たいビールを頼みましたがありません。仕方ないのでホットビールで一息つけました。

▲ 人影もないヤードになぜに鉄条柵があるのかと不思議に思っていましたら、羊の集団がやって来ました。放牧の進入防止のためだったのですね。

昼ごはんを食べ終わる頃に汽笛が聞こえてきました。O氏の狙いは当たったたなあと思いましたが、蒸気が走るのは確認出来ましたので安心です。
たっぷりと食べれましたので行動開始です。F先生はヤード向うの築堤で午後はゆっくりと撮ってみたいと向かわれました。 一方私は、逆方向がどうなっているのかが気になりましたので、こちらを選択しました。12:50、分かれてすぐにおり返しの上遊1425号機が単機回送で戻ってきました。
Taxiで来る時に踏切手前を回って側道を行きましたが、その踏切に着きました。有人踏切で踏切番がおられましたので小屋に入らせていただいて列車情報を聞きました。ここでも信号所と同様に列車司令室からの指示が無線で入ると言われ、通過記録簿を見せていただきました。踏切の場所はこちらです。

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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part7  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その1

第6日目 5月23日

① 北京北20:59(2559次)→6:38赤峰
② 赤峰7:33(K7384次)→8:38平庄

2559次は寝台のみの編成でした。丁度乗車日は日曜日、北京に買い物や遊びに行ってきた若者が多く、私の乗った硬座寝台の3段寝台6席のコーナーは私以外は全員若い女性でした。座席が取り難かったわけです。
▲ 5時過ぎにはもう明るくなって、車窓には小高い山々が広がっています。今日は快晴です。終着1時間前には列車乗務員が「換票」(寝台券と切符の交換)に来ました。
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2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part6  河南省建材廠を走るC2型 その5

第5日目 5月22日

①  
榮陽(Bus・Taxi)→11:40郑州站
② 郑州12:19(D136次)→17:22北京西(Taxi)→12:56北京北站
③ 北京北20:59(2559次)→6:38赤峰

昨夜は部屋に戻ってからも郑州鉄道日記さんと夜遅くまで話し込みましたので爆睡、朝6時にお二人にノックされた音も夢の中でした。ゆっくりと目覚めましたので、7時半ごろに通ったC2型単機回送も部屋の窓から見ました。車庫ヤードでの作業がなかったのでいつもより早い通過でした。
今日は12:19発の列車に乗車しますので、11時半には郑州站には着かなければなりません。遠くには行けないのでレンガ橋付近での撮影としました。
▲ 左は2番列車の復路(撮影場所はこちらへ)、右は1番列車の復路(撮影場所はこちらへ)です。森林鉄道の感じで撮りましたが、曇り空では新緑がもう一つでした。

▲ 2番列車の往路です。今日は水鏡になりましたが暖かかったので煙はでません。鉄道写真はこれだから難しい。(撮影場所はこちらへ)
レンガ橋での撮影は同じ場所だけでしたが、煙が出る冬場でしたら朝の撮影場所は反対側が最適です。朝焼けをバックに理想的な写真が撮れるでしょう。ただ朝焼けになるかどうかは運しだいです。 続きを読む

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part5  河南省建材廠を走るC2型 その4

撮影機材はNIKON300Sを使用しています。オプションのGPSを装着していますので、撮影場所をGoogleマップで見ることが出来ますが、今まで投稿原稿にリンクする方法が分かりませんでした。我が家のパソコン先生が帰宅しましたので頼み込んで教えてもらいました。今回よりリンクさせていただきますので、(場所地図はこちらをクリックしてください。ご覧いただけます。緑の矢印が撮影場所です。

第4日目 5月21日
今日は頼りになるゲストをお迎えします。地元で働いておられる鄭州鉄道日記さんです。彼とは昨年芭石鉄道の帰りの郑州から乗車した广州行きの夜行寝台列車で、同じコンパーメントで一緒になるという中々ない出会いで知り会って以降、中国鉄路についての現地情報を教えてもらっています。前もってご連絡を入れておきましたら、土日曜日なら仕事はお休みなので行きますとのお返事をいただきました。

来られるのは昼頃なので、まず列車が今日は走るのかの確認をするため車庫に向かいました。(場所地図はこちら

しかし、残念ながら車庫はシーンと静まりかえっていて、2台ともおいてありました。
仕方がないので近くの中国鉄路榮陽駅に行ってみる事にしました。車庫前の人民に聞きますと、真っ直ぐ行って線路手前を右に行くと分かるです。真っ直ぐ歩くと鉄路と立体交差していましたので、地上部分を進み撮影できる場所を捜しました。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part4 河南省建材廠を走るC2型 その3

総本家様、朝方まですごい雨でしたがあかってきて青空が見え出しました。絶好の撮影日和となるといいですね。皆様方も雨上がりの路面電車撮影に飛び込みご参加してはいかがですか。6月12日(日)13時、 阪堺線恵美須町駅に集合(地下鉄堺筋線恵美須町下車4番出口すぐ)にてお待ちしております。途中参加も歓迎します!

第3日目 5月20日
ホテルの近くに食堂はあっても朝食時は営業していません。仕方がないので3人とも1F売店でカップラーメンを毎朝用意してもらうことにしました。
昨夜の打ち合わせで撮影場所は各自で決めることにしました。朝食後はそれぞれの望む撮影地へ、F先生とO氏は車庫方面に向かわれました。一方私はレンガ橋で昨日撮りそこねた上り列車を撮ることです。
ところが始発列車が出発する8時以降に汽笛が何回か聞こえたのですが、その後待てどくらせどやってきません。どうなったのだろうと心配しますが、確かめようがなく、じっと待つしか方法はありませんでした。
やきもきしているとお2人が戻ってこられました。昨日の最終列車は私の視界から遠ざかった後にトロッコ1台が脱線したそうです。その日は切り離してそのままに、残った前方の編成を牽引して荷降ろし場に向かって運転終了。今日朝はこの残されたトロッコを線路上に戻す作業をして車庫へ回送していたので、手間取ったと聞かされました。この作業を見てみたかったです。

▲ 8:55、ようやく上り列車が来ましたが、期待していた煙はほんの少し、池もさざなみがたって水鏡になりません。夕方の上りに期待して先に積出場に向かわれたF先生の後を追いました。ロケハンと、昨日新幹線とナローゲージを一緒に撮ろうと約束した張ご夫妻とお会いするためでもありました。 続きを読む

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part3  河南省建材廠を走るC2型 その2

第2日目 5月19日 続編
中国人老夫妻に呼び止められたおかげで、橋で来ない列車を待つという無駄な時間を過ごす事は回避できました。しかし車庫でC2型蒸気機関車を撮りだしますと、撮った画像を見てアングルが悪い、もっとこういう位置で撮りなさいとご自分のショットを見せながらの指導を受けました。

▲ ご指導を受けて撮りましたC2型の正面写真。207号機は前照灯が良いですね。芭石鉄道は今年からシールドビームに替わってしまいましたし、ここにあるもう1台のC2型機は2灯になっていますので、正面から撮るにはこちらです。
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2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part2  河南省建材廠を走るC2型 その1

第2日目 5月19日
昨夜はK179次の快適な乗り心地で熟睡できました。 北京から689キロ、所要時間8時間28分、表定速度81.4km/hで走り、7;06郑州駅に定時に到着しました。この区間をよく乗られる郑州鉄道日記さんによると、この区間は勾配やカーブが少なく路盤もよく整備されていているので、中国鉄路では最も乗り心地が良いそうです。
▲ 朝の郑州站1番ホームに到着。どっと乗客が降りますが、大きなズタ袋を持った出稼ぎ民工はいなく、落ち着いた光景でした。

郑州站に降り立つのは、2度目です。前回は、芭石鉄道へ行った帰りにでした。予約していたホテルの場所が分からずTaxiで向かう事にしましたが、並んでもTaxiが来ないので仕方なく白タクと交渉した苦い経験があります。今日はたくさんのTaxiが来ていますが、乗る前に白タク運転手に捕まりましたので、料金を聞くと200元の返答、交渉をすると140元まで下がりました。目的地まで30キロはあるとの事でしたので、そんなもんかとこれで手を打ちました。
走ること30分余りでO氏一行との合流場所の伊鴻賓館に着きました。Taxi運転手に伊鴻賓館の電話番号を伝えて向かいましたが迷うこともなく意外と近かったです。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part1 旅立ち

【旅立ちはいつも直前決定】
ご老公様との四国路の旅を終えて帰宅しますと、3月に芭石鉄道でお会いした早稲田大学鉄道研究会OBのO氏からお誘いメールが届いていました。以前から行って見たいと思っていたC2号機が走る樺南と榮陽市の河南省建材廠、そして上遊型が走る炭鉱専用鉄道の平庄と阜新へのSL撮影旅行でした。しかも写真家F先生との同行と聞いては・・・、絶好の写真上達のチャンスです。

O氏一行は既に新潟~哈尔滨の航空券を 購入済みで、出発も5月18日と確定しておられます。しかし、クローバー会の郵送物作成と郵送を完了しないと出発は許されません。どうしたらいいのかと迷っている内に時間が過ぎていきます。14日にOさんから樺南は運行に支障があって走行確認が取れないので諦め他の路線を回ろうと日程表が送られてきました。
取りあえず航空券確保が必要ですが、搭乗日や航路変更が出来ないガチガチ格安航空券は買えません。JALのマイレージの特典航空券を用意しようとしましたが、予約を入れられるのは搭乗の7日前です。15日に22日発の伊丹から成田圣由の北京行きを予約しました。後は作業完了出来次第にどこかで合流できればと全力投入です。最後は事務局のF君を自宅に招いて共同作業で16日に作業を終えました。

作業完了の目処が出来た時点で、搭乗予約済みの22日から18日への変更をJALに申し出ますが、あいにく18日は満席で予約待ちです。こんな時にグローバル会員の特権が生かせます。他の予約待ち客をゴボー抜きして予約1番に立ち、郵便局に出しに行く夕刻には「お席が用意できました。」との連絡を受けました。
すぐにO氏に連絡して参加を伝え、合流場所は18日榮陽市の河南省建材廠で宿泊予定の伊鴻賓館としました。田舎の民宿に毛の生えたようなホテルですので、勿論予約なしでの飛込みです。

翌日は、いつにも増しての旅準備です。前回は荷物が20㎏と重すぎて準特急先輩に多大なご迷惑をおかけしました。今回はビデオカメラ、三脚等の重量物は入れず、衣類も最小対応としました。結果、10㎏と軽量化に成功しました。

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ユースで巡った鉄道旅 -10-

久しぶりの本シリーズ、九州を切り上げ、つぎは中国地方へ行くこととしましょう。
中国地方の中でも、山陰西部は、関西から近いものの、なかなか行きにくいところです。本掲示板でもこの地方の報告は見たことがありません。陰陽連絡線が恐ろしく不便になったことも原因なのでしょうか。
40年前は、山陽本線には夜行が多く走り、山陰へのアクセスも、どの線区からでも容易に入ることができました。いまや不便極まりない木次線にも、広島から夜行急行が走っていたとは、現状と照らすと信じられないことです。
ユースの立地条件から見ると著名な観光地が少なかった故か、ユース自体が少なく、泊まったと言えば、大社と浜田だけでした。今回の浜田ユースは、商人宿のような古びた建物を改装した典型的な民営ユースでした。浜田駅から歩いて数分、市内を流れる川に沿ったところにありました。9月の残暑厳しい時で、部屋に西日がガンガン入り込んだのだけをなぜか覚えています。今は閉鎖されたようで、検索しても、この名は出てきませんでした。

ユースへ向かう前に、浜田機関区に立ち寄る。夕陽を受けたC57の前面と、煉瓦庫が鈍く輝く。浜田機関区には、最後のC54がいたことで有名だった。私は京都駅でC54を目撃したことはあるが、写すことはできなかった。製造わずか17両、福知山から浜田へ流れ、山陰を根城にした目立たないカマだったが、独特のスタイルは好ましかった。C51の後継機にもかかわらず、C51よりも早く昭和38年に全廃されている。それは、遠方へ撮影に行ける環境の整った、わずか3、4年前のことで、今なら瞬きするような時間差だが、その当時は、取り返しのつかない遥か昔の出来事のように感じた。

浜田に泊まった目的は、三江北線のC56の牽く貨物を撮ること。当時、三江線として全通しておらず、三江北線は浜原までだった。貨物は早朝に浜原へ向かい、小憩ののち、浜田へ戻るダイヤ。一番列車で終点の浜原に着いたものの、転車台もなく、期待のC56はワフ1両とともに、尻を向けて、静かに息をしているだけだった。

終点の手前、浜原~粕淵間で、三江北線は江の川を渡る。河原へ降りて、その頃でも数の少ないDC列車を写す。キハ25+キハ25+キハユニ26という、当時のローカル線の典型的な編成だった。訪れた年の翌年、昭和47年に三江北線は集中豪雨に見舞われ、この橋脚も崩壊してしまい、以後2年余り不通のままの状態が続いた。

目を山陰本線の西部(米子以西)に転じると、特急列車は「まつかぜ」「やくも」、急行は東京からの「出雲」など、数多くの優等列車が運転され、今では死語のような”亜幹線”がピッタリする線区だった。キハ82は全国区の特急用車両であり、人によって思い出は様々だろうが、私にとってキハ82と言えば、まず「まつかぜ」だ。デビュー間もない時期に、家族で鳥取へ旅行した時に「まつかぜ」に乗ったことがある。暗く陰鬱な山陰に舞い降りた、それは華々しい特急だと子供心にも感じたものだ。

一方、普通列車は、大まかに言って、米子~浜田はC57、浜田以西はD51だった。C57は集煙装置付きが多く、見栄えの点ではもうひとつだが、時として、このように重連も設定されていた。米子~浜田は、海岸沿いを走る区間はあるものの、なかなか撮影に適したところが少なく、これは地上時代の出雲市駅での撮影。手前の架線は一畑電鉄のもの。米子付近の普通列車には、荷物車代用のワキが連結されていたのが、大きな特色だった。この写真でも、C57の次位にワキが見える。

いっぽう、浜田以西になると、旅客はD51牽引が多くなるものの、海沿いの撮影適地が多くなる。撮影地ガイトも無い時代、五万分の一地図を見ながら車内からロケハンしたものだ。これは、朝の三見~飯井間を行くD51の牽く貨物列車。この区間で朝から撮ろうと思っても、浜田のユース泊では時間が掛かる。そこで利用したのが、米子~博多間の夜行急行「さんべ」、北九州と山陰という、それほど需要がありそうにも無い区間にも夜行が設定されていた。山陰均一周遊券の場合、自由周遊地域への入り込みは、山陰本線幡生経由も認められていたから好都合だった。

じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part6  馬路から別子へ 別子鉱山鉄道

Part5を投稿してより1ケ月近く経過してしまいました。Part6の下書きは用意していましたが、クローバー会の皆様へのお知らせ郵送があって、こちらに全力を向けました。
ようやく16日に作業が終わりましたので、3月に芭石鉄道で出会った早稲田大学鉄道研究会OBのO氏よりお誘いがあった中国地方線に現役で残るSL撮影旅行に出かけることにしました。
いつもでしたら中国からでも投稿していましたが、今回は愛用ノートパソコンが直前に物理的に壊されて持っていけません。(たまたま床に置いてあったのを掃除人に踏んづけられて、液晶画面がバリッと割れました。)
そんな訳で、こんなに遅れてしまいました。ご老公様、申しわけありません。続編を投稿させていただきます。

第3日目 5月6日 馬路→高知駅→善通寺
魚梁瀬森林鉄道は現地に来て、生い立ちから廃止への歴史を学びました。馬路からの帰路は、対岸に見た1・2号トンネルを真近に見るために途中から一般道を離れ、廃線跡を奈半利まで向かいました。今では狭いながらも農道に使用されています。


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じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part5  魚梁瀬へ 魚梁瀬森林鉄道3の3

【馬路温泉から魚梁瀬へ】
馬路温泉から約16キロの山道を森林鉄道遺産を見学しながら魚梁瀬に向かいました。
▲ 馬路村から魚梁瀬までもトンネル1箇所が林道として、橋も3箇所が拡幅され一般道路として利用されています。中にはトラス橋もありしっかりした橋が築かれていたことが分かります。途中、森林鉄道で使用されたレールと連結器が山積みにされて放置されていました。保守にでも使われるのでしょうね。森林鉄道遺産についての詳細は、魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアムに紹介されていますので、こちらをご覧ください。

森林鉄道を飲み込み廃止に追いやったダムですが、景観はコンクリート製と比べると、辺りの自然と上手くマッチしているように見えました。

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じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part4  馬路村へ 魚梁瀬森林鉄道3の2

第2日目 5月5日

① 「道の駅 田野駅屋」 7:30→9:00馬路温泉
② 馬路温泉→郷土資料館→11:30魚梁瀬
③ 魚梁瀬12:40→13:25馬路温泉

土佐くろしお鉄道「田野駅」の駅の下が、道の駅「田野駅屋」となっています。朝7時になると近辺の農家のおばさん、おじさん達が軽トラックでやってきて、朝に畑で収穫した野菜を並べて販売準備を始めました。 続きを読む

じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part3  馬路村へ 魚梁瀬森林鉄道 3の1

第2日目 5月5日
① 「道の駅 田野駅屋」 7:30→9:00馬路温泉
② 馬路温泉→郷土資料館→11:30魚梁瀬
③ 魚梁瀬12:40→13:25馬路温泉

朝日が上がる早朝6時に、ぶんしゅう7号の寝台車内で目覚めました。ゆっくり起きだし、朝食準備をしていますと、ご老公は地元の朝散歩族の方々とコミュニケーションを楽しんでおられます。私も中に入って林鉄時代の話を聞き入りました。
今日は馬路村に復元されている森林鉄道を訪問します。ただ、運行されているのは日祝日だけです。電話で確認を入れましたら5月3日~5日は大丈夫と言う事でしたので、昨日約450kmもの道のりを走ってきました。馬路村には2箇所に走っていると聞きましたので、かつて森林鉄道が走った安田川沿いを馬路温泉に向けて上がっていくことにしました。

【馬路村との出会い】
学生時代は小さな蒸気機関車が走る
森林鉄道(略;林鉄)など全く興味がありませんでした。身近にC57、C58やD51が走る山陰・草津・信楽・関西本線が蒸気全盛期を迎えていて、気が向けばいつでも撮りに行けました。小さな蒸気はせいぜい小海線を走るC56が大好きだったぐらいです。

馬路村知ったのは昨年3月にTV番めざせ!駅弁日本一」た時でした。京王百貨店で1966年(昭和44年)から開催されている大会(正式名;元祖有名駅弁と全国うまいもの大会)に今は廃線となってしまった路線から、懐かしい駅弁をご紹介する企画として「馬路村の村おこし弁当」が特別参加されていました。

▲ 馬路温泉で注文した地元食材をふんだんに使って調理された村おこし弁当駅弁。見てのとおりボリュームはありませんが、素朴な山菜料理でヘルシーです。

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じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part2  高松琴平電気鉄道

春の大型連休が終わりましたが、皆様どのようにお過ごしになられましたでしょうか。旅行・撮影にお出かけになられたり、鉄道模型製作に励まれたかと思っておりますが、私は乙訓の老人こと「ご老公」のお誘いを受けて一緒にぶんしゅう7号に乗り、5月4日から8日まで4泊5日の四国路の旅に出ました。
お互いに老朽化で車体・モーター・台車に多くの問題をかかえていましたが、幸いにして故障発生はなく無事帰還いたしております。今回は、天候にも恵まれてゆっくりと、新緑がまばゆい四国路を回ることができましたので紀行記をご披露させていただきます。

第1日目 5月4日

① 乙訓 6:00(名神・中国・山陽・瀬戸中央・高松自動車道)→11:30 琴電岡田
② 琴電岡田付近→滝宮駅→土器川鉄橋(旧型車両走行撮影)
③ 土器川鉄橋 13:55(高松・高知自動車道)→土佐くろしお鉄道田野駅(道の駅 田野駅屋)

連休中の高速渋滞を考慮して早朝6時に出発しましたが、予想に反して空いていました。快調に走行を続けましたが、岡山手前で突然に渋滞に遭遇、見れば車10数台の衝突事故でした。まだ警察・救急車も来ていなく発生したばかりです。本線上に止まる事故車を避けながら抜けきりましたが、道中での高速事故遭遇はその後2度もあって、その都度渋滞に巻き込まれました。連休中は普段、高速道路を使わない不慣れなドライバーが多く、こういった事故発生による渋滞が多発します。自分達も加害者にならないようにスピードは控えめに慎重運転に努めました。

今日は琴電の旧型車両4連が走行する日です。ご老公が若き日に自転車に乗って走り廻り、情熱を傾けられたお奨めの撮影地を目指しました。聞けばこの時期は「こいのぼり」が乱立しての一緒の撮影が出来たそうですので楽しみにしましたが、全くこいのぼりが見えません。どうしたことかと嘆くご老公ですが、若者の過疎化、また少子化という時代の流れは、5月の風物詩まで奪ったようです。


11:45、高松築港からの3221。23+500+200+120の旧型電車4連。岡田~羽間。
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じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part1  旅立ち前

第3回総会も無事終わり、連休明けにはどこかへ行こうと目的地を考えていましたところ、乙訓の老人(以下;ご老公)より「5月4日から8日まで時間が取れたので、前から連れて行ってもらいたいと言っていた四国へ行きたい。ぶんしゅう7号の都合は、どうだろうか。」との電話がありました。
四国へは昨年春に2度参りました。そして秋にも馬路村のトロッコ訪問を計画しましたが、【9712】とほほ…. 馬路村の魚梁瀬森林鉄道行けずにて投稿しましたように、出発直前に断念、リベンジを誓いました。
連休中で大渋滞も予想されますが、恐れおおくも電車の神様、ご老公様からのお話です。リベンジも含めて二つ返事で答えました。

ご老公は手術後まもなく、私も初老で持病持ちですので、無理なく動ける行程を組んでみましたので、訪問したい馬路トロッコへ確認電話を入れますと3~5日は運行するが、後は8日の日曜日だけです。それもお客があればとの返事でした。8日に乗車と撮影すれば、当日中の帰宅は強行軍となり無理です。
高松琴平電気鉄道(以下;琴電)も旧車両が5月連休中は、3、4日走行します。折角ですので撮りたいと思いましたが、当初予定では現地到着は走行後です。 現地事情に合わせての行程変更が必要でした。

4日 自宅→ 琴電岡田付近にて撮影→夕日の綺麗な土佐湾浜辺で野宿
5日 →馬路トロッコ訪問→朝日のあがる太平洋海岸で野宿
6日 →高知駅、土佐電気鉄道車庫訪問→夕焼けの見える瀬戸内で野宿
7日 →別子鉱山トロッコ訪問→善通寺ご老公姉貴宅訪問泊
8日 →琴電仏生山車庫訪問→帰路

結局こんな予定になりましたが、予定はあくまで予定です。どうなりますやら。
勿論、讃岐うどんや新鮮魚料理等の現地B級グルメと地酒試飲、ゆったり温泉につかっての垢すりは含んでおります。   Part 2 へ続く

ユースで巡った鉄道旅 -9-

しばらくシリーズを休んでいましたが、しつこく続けることにします。
新幹線全線開業で賑わう鹿児島、ここにも、ユースがありました。何軒かあったと記憶しますが、もっぱら利用したのは”鹿婦”の略称で呼ばれた鹿児島県婦人会館。婦人会館や青年会館がユースを併設する例は各地にありました。自治体の直営ユースではないため、民営のユースに区分され、設備・食事内容にはバラツキがあったように思います。
単なる寝場所としか考えていなかったのか、このユースには全く記憶が残っていません。ただ市電「交通局前」の近くにあったことだけ覚えています。交通局前へは、西鹿児島駅から市電に乗っても遠回りルートになるため、いつも駅から歩いて行ったものでした。
調べますと、館はあるものの、ユースは平成2年に閉鎖されていました。

西鹿児島駅前に停車する鹿児島市電300形304号。東京都電120形を昭和24年に購入した、鹿児島初のボギー車で、のちに半鋼製となったが、ワンマン化されず、訪れた昭和44年には、大阪から来た市電と代わりに廃車されている。行き先は、昭和60年廃止になった伊敷線の終点、伊敷町を指している。右側に西鹿児島駅がある。駅前の配線は何度も変更されており、この時代は、向こう側の郡元方面が一直線で見通せるが、昭和46年にクランク状カーブになり、平成16年には、新幹線の開業に伴い、さらに駅舎側に移設されている。

鹿児島を訪れる一番の目的は、やはり鹿児島機関区の訪問だった。小はB20から、大はC60・C61まで、昭和42年時点、配置両数は29両と中堅規模ながら、7形式もあり、バラエティに富んでいることでは随一だった。その小のB2010、北の小樽築港機関区のB201とともに、希少なB20である。区での仕事は、給炭用のセム車の入換ぐらいで、ほとんどラウンドハウス横の定位置で昼寝している。煙を吐いて活動する姿を数時間粘ってやっと捉えられた。

大のほうのC60・C61は、まだ非電化だった鹿児島本線の旅客牽引用だった。優等列車は、DD51化されていたが、それでも臨時急行はC60が牽いていた。給炭線で、顔を並べた両形式、出自の違いがよく理解できる。いま動態復元されて話題を集めるC61だが、この33号機は、ラストナンバーに当たる。

新幹線の終着・鹿児島中央となった西鹿児島。これはまだ鹿児島本線が電化前、新幹線など噂にすら上がらない時代の九州南端の夕方のホーム、多数の通勤客が待ち受ける中に、C60の牽く普通列車が入線する。当時の地方の中核駅からは、これほどの人が、長編成の列車に乗り込んでいた。

西鹿児島と鹿児島は、年々西鹿児島の比重が高くなり、新幹線の開業でその差は決定的になってしまったが、昭和40年代の前半でも、西鹿児島が当地の中心駅として機能していた。ただ、車両基地は鹿児島のため、西鹿児島~鹿児島間には、さまざまな組合せの回送列車が行き来した。これは、東京から到着したDF50+20系の「富士」、機回しをした後、アタマにC5765が連結され、回送で鹿児島へ向かう図である。

これは夜行列車「はやと」を待つ西鹿児島駅の待合室。盆・年末年始の長距離列車の始発駅では、客をホームに入れず、待合室で集合させて隊列を組んでホームに案内していたが、昭和45年8月末の西鹿児島駅でも、このような方法が採られていた。壁に掲げられた万博の誘致ポスター、「万博はあと12日」の幕があるように、万博閉幕が迫ったこの時でも、人気は絶大で、この日も、夕刻にDD51の牽く旧型客車を連ねた団体列車「さよなら万博」号が、大阪へ向かって行った。世の中、前へ前への時代、列車も満員の時代だった。

桜前線追っかけ2011年 Part1 越美北線

毎年桜の時期は雨が多いのに、今年は不思議と晴天が続いてくれますが、東日本大震災以降各地の桜祭りは自粛ムードで寂しそうです。
何でもかんでも自粛、自粛と続くとみんなの元気がなくなり、被災に遭われた方々への「元気をだして頑張ろう」とのメッセージも届かないのでは、またこれでは復興を支えるべき日本経済そのものが活性化を失ってしまうと、ようやく気づきました。

年金生活者としてのできるだけの義援金には協力しました。時間はたっぷりとあるのでボランティアに出たいのですが、この老体と健康状態ではすぐにボランティアされる方になるのは明らかです。それでは経済活性化しか協力はないだろうと、 割り切っての行動にでました。
今回は、3日後にDRFCクローバー会総会の打ち合わせがあるので、出られるのは2日間 のみです。昨年桜前線を追いかけましたが、すでに葉桜となってしまった越美北線、越前鉄道、福井鉄道を目指しました。相棒は久しぶりのぶんしゅう7号です。

4月14日朝の天候を確認し、大山崎ICから京滋バイパス、名神高速を圣由して北陸道に乗りました。右手に見える伊吹山は残雪が残り湖北は遅い春を迎えています。日本海の見える北陸路に入ってからの山々も残雪がたっぷりと残っています。福井ICで降り、真っ先に向かったのは、越美北線一乗谷駅です。


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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part19 三道嶺、芭石鉄道、成都地下鉄、上海路面電車のまとめ

マイナス20度の新疆ウィグル自治区からプラス20度の四川省芭石鉄道へ、温度差40度の冬から春への14泊15日、うち車中6泊におよぶ旅が終わりました。中国鉄路に乗車した距離は過去最長の8,636キロ、乗車時間は100時間を超え105時間11分と日本国内では経験したこともない最長時間でした。これに撮影時間を加えると、鉄道三昧の撮り鉄、乗り鉄と鉄道好きにはこたえきれない至福の時間を持てました。

糖尿、頚椎ヘルニア、狭心症と持病が多くなり、かかりつけ医も呆れかえっておりますが、これからも美味しい酒が飲め、身体が動けるうちは老体に鞭打ってでも続けて参りたいと思っております。よろしくお願いします。

今後、訪問される方の手助けになればと思い中国鉄路に乗車した走行路線、行程表、乗車した列車表、費用、そして各紀行記のリンク表をを作成しました。ご参考にしていただければ幸いです。

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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part18 上海の路面電車 上海トランスロール(現代有軌電車)

第15日目 3月8日

①成都17:15(D358次)→8:50上海虹橋
②火車虹橋駅9:53(上海地铁10号線)→10:33豫園
③豫園11:55→南京東路(2号線)→12:25張江高科
④張江地铁駅12:55(路面電車)→13:25張東路金春路
⑤張東路金春路駅(原動自転車タクシー)→14:10張江地铁駅
⑥張江高科14:28(2号線)→15:11浦東国際空港
⑦上海浦東空港17:50(JL898)→20:55関西空港

上海は昨年11月以来、4ヶ月ぶりです。トランスロール撮影前に豫園で小籠包を食べたいと前回は未開通だった10号線に乗車して向かいました。やはり長蛇の列でしたが、美味しいものを食べるのには苦になりません。デイト中の若者と話しながら順番を待ちました。


▲ 蟹肉小籠包16個で20元(約390円)、朝兼昼食です。
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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part17 CRH1EのD358次初乗車

第14・15日目 3月7・8日


①成都17:15(D358)→8:50上海虹桥

小腹も満たしました。四川のパン、果物も買いましたので、荷物を受け取って少し早いが成都駅の軟座待合室でゆっくりとすることにしました。

鄭州鉄道日記さんのプログを拝見して知っていたのですが、今まで見たこともない立派な軟座待合室です。北京西站の貴賓室は勤務時代に何回も入りましたが、広さでは勝ります。座っていますとお嬢さんがお茶を運んでくれます。
但し改札時刻になりますと、この待合室からホームに案内してもらいますが、立ちはだかるのは長い階段です。重いスーツケースを持っての上りは苦痛でした

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