「信号場」を巡る   ④

スイッチバック式 常紋信号場

信号場の存在がファンの間に知れ渡るようになったのは、蒸機の撮影適地としてクローズアップされたことが大きいでしょう。北海道での代表は、やはり石北本線、生田原~金華にある常紋信号場でした。前後、25‰の勾配が連続し、スイッチバック、補機付き、そして、いわくのあるトンネルと役者が揃っていました。石北本線の遠軽から留辺蘂へ、山越えの途中、延長507mの常紋トンネルを抜けた先に位置するのが常紋信号場。分水嶺のある常紋トンネルに向けて、生田原側、金華側から25‰勾配が続き、信号場はスイッチバック式になっていて、段差を持って、列車交換が見られるのは、スイッチバックならではの光景。右の列車は混合列車で、ダブルルーフの事業用客車、白帯貨車も見られて、この時代ならではの編成(以下、昭和43~47年撮影)。

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戦時設計D52

昨日は8月15日で終戦記念日だった。当日の日経新聞の朝刊には寅さんの山田洋次監督(93歳で幼少期は旧満州育ち)が「僕には故郷がない」と書かれた旧満州の思い出の中にこの日の正午を機に坂の下に広がる中国人の貧しい家々の屋根に国民党の「青天白日旗」が何百本もはためいていたとの記述に戦争とはそういうものだと改めて感じた。「ザ・フォーククルセダーズ」で現在は白鵬大学の学長である北山修さんは「戦争を知らない」はありえないと述べておられた。

戦後80年で私は終戦の3か月前に生まれたので戦争の記憶はないが戦後の列車内に傷痍軍人が募金に現れた子供時代のことは覚えている。最近はDRFC-OBの方から猛暑見舞いを1通いただいたがこの暑さもあって出かけることもなく友人もどんどん減っていることを痛感している。デジ青のラインも覚えようとしないのでなおさらである。デジ青もご無沙汰して基本的な投稿の仕方を忘れてしまった。

戦争と言えば蒸機や客車に群がって乘る乗客や各地に空襲で焼けた電車などを雑誌等で見たことがあるが、今回戦時設計の蒸気機関車でその典型であるD52について私が撮影したものを紹介してみる。これは最近始めたフェースブックに載せたものをを多少アレンジしたものである。

電気機関車のEF13も当初は戦時設計と言われた凸型機関車で関東地区に多かったので見たことがないがD52は戦後20年経った木製板枠のテンダーやデフレクターとその他工程を省略したような機関車が山陽本線に残っていた。これはこれで好きな人もいたが戦争がもたらしたバリエーションの一種で趣味の対象となっても不思議ではない。

戦時設計と言われるものにはD51やC11などにもあった。よくテレビに登場する新橋駅の待ち合い場所に使われるC11も戦時設計の一つで最後は播但線で活躍していた機関車である。

1963年3月27日 下関駅付近の上り貨物牽引のD52460[柳井]でこの写真は光線具合もよく何度も登場させた。▼

1964年4月1日 小郡機関区の同区所属のD52126で正面の前照灯と煙突の間に給水温め器がなく戦時設計を色濃く残している。▼

1964年4月1日横から見たD52126▼

1964年4月1日D52126のテンダー(炭水車)でC58にも同じような船底型があった。▼

1964年4月1日小郡駅当方の上り貨物D52456[小郡]も粗野な感じが残っていた。▼

1965年3月5日福知山線武田尾-道場間727列車大阪発篠山口行きC11271[吹田第一]で機関車の二つコブが丸形でなく角形になっているので戦時設計がわかる。▼

2022年10月26日 東京新橋で度々テレビに出演の待ち合い場のC11292も戦時スタイルである。▼

 

 

 「信号場」を巡る   ③

ホームのある信号場 北豊津信号場

当時の北海道の時刻表を見ると、「キロ数」の欄が空白の駅があります。巻末に解説があって「キロ数を示していない駅は臨時の駅ですから、そこに行かれる際は、その先の駅まで切符を買ってください」と注釈があります。北海道に多かった臨時乗降場の類いですが、これには、もともと臨時乗降場として開設されたものと、信号場が昇格し旅客扱いを行ったものに分かれます。この北豊津は、数少ない臨時乗降場でした。北豊津信号場は、函館本線黒岩~国縫にある信号場。昭和19年、太平洋戦争に伴う輸送力強化の一環で設置された。太平洋戦争中は、陸軍の軍馬補充部があり、戦後も付近で砂鉄の採集が行われていて、仮乗降場として旅客営業が行われていた。昭和62年の国鉄分割民営化に伴い、JR北海道に継承されるとともに、正式な駅へ昇格し、北豊津駅となった。しかし周囲には、民家は皆無で、一日乗降数が0人台が続き、2017年3月に旅客扱いを廃止、信号場に戻って現在も所在する。この当時は、単線から分岐する2線構造の信号場であったが、昭和45年に国縫方が複線化されたため、分岐型の信号場となった。

短めだが相対式ホームを持つ。駅名標には「Signal Station」の表記が見えるが、これは道内の信号場で見られる独自の表記である。国道5号と並行し、その向こうは噴火湾だが、駅前で工事中のため見ることができない。列車は函館発札幌行き「すずらん1号」、56系10連で運転され、函館~札幌は82系DC特急が主体だったが、まだまだ急行が活躍していた。

朝ドラで鉄道 地下鉄で空襲から逃げた ごちそうさん 128話

 大阪の都市伝説となっている大阪大空襲の時に地下鉄で心斎橋から梅田まで避難したという話がベースとなっている放送回である。保存されている地下鉄105形が主役でもある。

 印象に残っているシーンは地下鉄がトンネルの向うからヘッドライトを点けて駅にやってくるところである。子供の頃、電車を待っている時にまだかなと思ってトンネルの向うをのぞいた時に見た光景と似ていた。地下鉄というのは子供にとっては不思議な電車である。

 都市伝説になっている地下鉄で空襲から逃げたという話。白い巨塔、不毛地帯、大地の子などを執筆された山崎豊子さんの日記が発見された。その日記にいきさつが書かれてある。このことは日経新聞(2015年7月13日)記事に

 日記には、警戒警報や空襲警報がたびたび鳴る戦時下の日常が克明に記されている。
大阪大空襲があった3月13日から14日未明にかけて、山崎さんは焼夷(しょうい)弾
が投下される街を逃げる。「両側は火の海」となった御堂筋で煙に巻かれて窒息しそ
うになり、「むしやきかと観念」した後に「地下鉄に飛び込み命助かる」。

 この時の地下鉄が走っていたかわからないが地下鉄で助かったことには間違いないようだ。

 「信号場」を巡る   ②

最東端の信号場 東庶路信号場

では、北から南まで、旅の途中で撮った信号場を見ていただきます。駅と違って、原則、旅客の取り扱いを行なわないため、列車交換の合い間に窓から首を出して撮っただけですが、交換列車や周囲の光景が、時代を映しています。最東端駅の東根室の廃止により、晴れて根室が最東端駅になったことは耳に新しいが、調べてみると、信号場では、根室本線の東庶路信号場が今でも最東端の信号場のようだ。庶路~大楽毛にあり、釧路空港へは至近距離で、写真のようにすぐ国道も走っていて秘境感はないが、どこまでも続く釧路原野の真っただ中にある。昭和41年の開設と新しく、上下共用で一線スルー化され、82系「おおぞら」が爆音を立てて、高速通過して行く。待避線は二本あり3線構造になっている。特筆すべきは有効長で、長大な貨物列車に対応するため、有効長は700m以上あると言う。なお、根室本線は早くにCTC化され、昭和46年には無人化されている。その直前の撮影で、駅員が立つ風景は貴重でもある(昭和46年3月)。

2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その7)最終回

7月28日
最終日となりました。7月28日に旅行日程が入るように合わせにかかったところもあります。タイ国鉄では、年6回蒸気機関車牽引列車の特別運行を行っており、7月28日は、ワチラロンコーン国王陛下生誕日となっています。タイ政府観光庁によりますと、7月28日以外には、3月26日がタイ鉄道記念日、6月3日がスティダー王妃生誕日、8月12日がシリキッド王太后生誕日、10月23日がチュラロンコーン大王記念日、12月5日がプミポン前国王生誕日で蒸気機関車記念運行を行っています。時間は、いずれも下りは、観光901列車バンコクホワランポーン8時10分発、アユタヤ10時20分着、上りは、観光902列車アユタヤ16時40分発、バンコクホワランポーン18時50分着となります。

▲先頭は824号機 バンコクホワランポーン駅

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夏休み 日本縦断の旅 (0日目② 最北端の町を歩く)

この日宿泊するのは、駅から徒歩5分の所にあるユースホステル。部屋の窓からは、稚内港がよく見えました。荷物を置き、身軽になった後は周辺を観光します。まずは北防波堤ドームを見学。雑誌やYouTubeで何度も見ましたが、間近で見るとその迫力には驚かされます。

北防波堤ドーム
かつては、この下に稚内桟橋駅があり、高波から列車を守るために建造された

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その6)

7月27日後半
27日の午前中はサムセン駅での撮影です。かつてはバンコク行きは、ホワランポーン行きでしたので優等列車もほぼ全てサムセンで撮ることが出来たのですが、今は優等列車は、クルンテープアピワット中央駅発着となり、しかもこの高架駅は、列車が発車する直前に改札する方式なので、撮影は、乗る列車しかもホーム側でしか出来ず甚だ窮屈です。その点、ホワランポーン駅は、切符を持つ人持たない人関わらず自由に出入りでき、撮影もし放題でしたのでその落差は大きく、マレーシア方面へ向かう南線、チェンマイへ向かう北線などそれぞれどの辺りで撮るのか、優等列車撮影は工夫が必要です。

▲バンコクホワランポーン駅の構内

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その5)

7月27日前半
空が明るくなってきて目が覚めました。寝台車のベッドで朝を迎えるのは、懐かしくも得難い時間だと再認識させられました。平原のような田舎の景色を走っているので到着までにはまだまだ時間がありそうです。

▲朝の2等寝台

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その4)

7月26日後半

バスの発車時刻は結局わかりませんでしたが、もうこれしかありません。エアアジアAK822便で即決です。しかし14時半になっても飛行機は動きません。それどころか整備員が乗り込んできてゴソゴソしだす始末です。今日はとことんついてないなあ、と思いましたが、30分ほど遅れて何とか離陸しました。プーケットには20分ほど遅れての到着でした。外国語の案内は、英語以外には中国語とキリル文字でした。プーケット島は、東南アジア有数のリゾート地で、かつては日本からも直行便があり、多くの日本人が訪れていましたが、今や日本人は減って中国人やロシア人が増えているのでしょう。

とにもかくにも私には、リゾート地としてのプーケットは一切関係なく、スラターニーへ行くバスを探さねばなりません。しかしタクシーの運転手は、「空港からスラターニーへ行くバスはない。タクシーならバス停までは300バーツ(約1360円)でどうだ」と言います。それが高いか安いか判りませんが頼むしかありません。20分ほど走って小さなバス停で降りました。

▲スラターニーへ向かうバス停の切符売り場

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その3)

7月26日前半
今日はクアラルンプールから国境の町パダン・ブサールまで行き、タイ国鉄の夜行急行に乗り換えます。ほぼ鉄路乗車の一日になる予定です。クアラルンプールからバターワースまでは未乗区間なのでそれも楽しみです。ただ正確には、クアラルンプールからパダン・ブサールまで直達する列車は、バターワースを通らず短絡するようですので完乗とはならなさそうです。今日に乗るEP9274列車は奮発して一等車にしました。一等車には運用する鉄道事業者のサービスへの考え方というかレベルがよく判ると考えています。ですので時間やタイミング、そもそも営業していて乗れる機会があれば出来るだけ乗るようにしているつもりです。一つ先のクアラルンプール駅で駅撮りをしてから乗ろうかとも思いましたが、ここはやはり始発から乗るべきだろうと、中央駅から乗ることにします。まだ時間がありそうだったので、朝食を食べてホテルへ戻ってから近くを散歩しました。

▲KL中央駅 KTMコミューター(普通列車)の改札口

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その2)

7月25日
グマスから首都クアラルンプールまでは電車です。グマス8時12分発クアラルンプール10時45分着のEG9420列車です。今日はクアラルンプールで降りますが、この列車はタイ国境の町パダンブサール16時33分終着となり、長駆8時間半をかけて走破します。

▲EG9420列車、特急用のクラス93の車内。車幅は少しタイトか。

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2025年夏、マレー半島縦断をめざして(その1)

これまで何度か東南アジアを訪問しましたが、マレーシアの首都クアラルンプールへは行ったことがありませんでした。マレーシアの西海岸線にも、29年前に東海岸線を走る夜行列車でワカバルからシンガポールまで乗った時にグマスからジョホールバル迄乗車した以外は、全く未知の線です。クアラルンプール周辺はどうなっているのか、今は電車列車ばかりになっているようですが、一度見ておきたいと思いました。そこで今回は、シンガポールからクアラルンプール、バターワース、パダン・ブサールを経由、タイの首都バンコクまで鉄路で一気通貫をめざすことにしました。

▲スタートは、シンガポール鉄板の観光スポットから

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朝ドラで鉄道 御免与駅の巻

 ドラマを見ていると鉄道が絡んだ場面がよく見る。最近は昔のことでもVFXで映像化できるのが面白い。
 「御免与駅」あれ!高知にこんな駅、あったっけ!鉄道地図で調べてみると「後免駅」はあるが「御免与駅」はない。どうもドラマのためにつくられた架空の駅であるようだ。しかし、こんな声が聞こえてきそうな。「ごめんよ。このドラマのために駅を創ったんよ」「悪かったやちゃ。」「ところで、この駅のベンチはあまり見かけん形やね。普通は長椅子のような形やけど、このベンチは花を飾る花瓶を置く台をぐるりと囲むようになっているね。」「九州の折尾駅が丸い柱をぐるりと囲むように円形のベンチだったが駅が改築された時に復元して新しい駅にも設置されているようだよ。」「ところで近鉄の宇治山田駅のベンチは四角い柱を囲むようになっているよ。」 

  「御免与」じっさいに駅がなくて...

 

夏休み 日本縦断の旅 (0日目① 稚内より近ければ近場)

今期の青春18きっぷが利用開始してから10日が過ぎました。ということで今回から、私が昨年夏に青春18きっぷを使って出かけた旅について書かせていただこうと思います。しばらくこの連載が続くと思います(連載が終わる頃には次の18きっぷのシーズンに入っている気がします)。

 

昨年から授業形態の見直しによって、夏休みが2ヶ月近く及んだこともあり、タイトル通り、我ながらとんでもない旅行をしました。青春18きっぷを使い、できる限り普通列車だけを乗り継いで、稚内から枕崎まで移動するという旅行です。今回は、旅のスタート地点である稚内までの移動についてです。以下の行程で移動しました (ダイヤは2024年8月現在のもので、遅延等は反映しておりません)。

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かぼちゃ電車の思い出 (京都編⑤) 大切なもの 遠ざかっても、、、

後祭の宵山の日とは、季節感が異なるサブタイトルですが、この連載も本日が最終回ということで、乃木坂46『サヨナラの意味』の歌詞を使わせていただきました。

2023年3月、ダイヤ改正から数日後のこと。京都の113系と117系が3月31日を以て引退するとJR西日本から発表がありました。普段、京都駅でよく見かけていたので、後悔は無いと思っていましたが、やはり私が一番好きな電車なので、最後にもう一度乗ろうと思いました。

草津駅で折り返し待ちをする113系。
ダイヤ改正から引退までの間、113系と117系の代走運用が組まれ、湖西線や草津線のほとんどの列車が両系列で運用された。

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かぼちゃ電車の思い出 (京都編④) 高校、大学時代

いつか湘南色に乗りたい。そう思い続けていたのですが、別れは突然やって来ました。私が高校に進学してすぐのこと。最後の湘南色であったC10編成が緑色になって吹田を出場したという情報を友人から得ました。帰宅後(当時、まだスマホは不所持)、調べてみるとそれは本当のことでした。その時に感じたショックは何とも言い表しようのないものでした。しかし、それからすぐのこと、岡山電車区(当時)に所属する115系のうち2本(D26編成とD27編成)が湘南色を維持することが発表され、それから岡山に魅了されるようになり、現在に至ります。岡山の115系については、また別の機会に書かせていただこうと思います。

C10編成はあっさり緑色に塗装変更された (2015.8.9 京都にて、再掲)

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登場して間もない頃の近鉄「あをによし」乗車レポート

2022年7月、デビュー間もなかった近鉄特急「あをによし」に乗車しました。
所用で関西を訪れており、ほぼ一日予定が空いていたため、試しにDRFCの同期と後輩に声をかけてみたところちょうどよい人数が集まったので、あをによしの往復乗車をすることになりました。

だいぶ時間の経ってしまったレポートのため、現在では異なる点もあることをご承知おきください。

前面に負けず、側面も高級感を醸し出している。塗装と帯の色がよく似合うと思い撮影した

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かぼちゃ電車の思い出 (京都編③) 中学時代 (3)

貴生川駅にて並ぶ、113系と信楽高原鐵道の列車 (2015.12.20)

前回と同じく中学2年の時のことです。12月中旬に、友人何人かと後輩と一緒に草津線に乗りに行きました。もちろんお目当ては113系です。ただ往復するだけでは面白くないということで、目的地を貴生川にし、往路は京都から奈良線、関西線で柘植まで行き、そこから草津線で貴生川まで乗車、帰りは草津経由にしました。貴生川では、駅から徒歩10分ほどの所にある撮影ポイントに行きました。草津線はもちろんのこと、関西線や奈良線の黄檗以南に乗車するのはこの時が初めてで、結構充実した旅行だったと思います。

この日は117系の団体列車も運行されていた (京都にて)

草津線は草津~貴生川間が毎時2本、貴生川以南が毎時1本の運行で、この日は草津~柘植間の列車に113系が、草津~貴生川間は221系が充当されていました。やって来た113系は全て緑色でしたが、築堤上を行く113系は迫力があり、とても格好良かった印象です。この場所で湘南色やカフェオレ色を記録できなかったことに悔いは残りますが、113系の晴れ姿を見ることができたのは、良い思い出です。(続く)

三雲~貴生川間の築堤上を行く柘植行きの113系

草津~貴生川間の列車に充当された221系 (三雲~貴生川間にて)

草津行きの列車