1954年高校修学旅行 その5


島原鉄道ホハ12087 左側2ブロック目は本来3個窓の筈が4個である 12088も同様

前回島原鉄道ホハ12087の窓が1個多いと記し、写真も入れたが分かりづらい。実は同じ車両だが1枚挿入漏れがあり、今回改めて窓1個多い客車をご覧頂こう。小生がこの「不思議」に気付いたのは、かなり後になった引延しプリント現像中で、安全光の下、バットの中で徐々に浮かび上がってくる画像には胸がわくわくするものだが、このときばかりは絶句し、己の目を疑った。こんな客車が有ったのか。木製客車ファンの端くれを自認(未成年の若造だったが)していたが、未だかってこんな情報はなかった。もしかして新発見?

2浪を経て何とか大学生の資格を得た1957年3月、三度目になる島原湊で、車両課に乗り込んで担当者に詰問。このくだりは鉄道史料40号(1985年11月刊行)に記したが、ご覧頂い方は少ないだろう。結果のみ記せば、国鉄制式中型客車であるホハ12087、88は、ちゃんと1・3×5の窓配置で製造され、廃車の払下を受けた島原鉄道では、車体大修理の際当時買い溜めしていたガラスを経済的に切断使用した結果、窓幅を若干狭くせざるを得ない。それに合わせて窓を配置=間柱を建てていったら、どこかで窓1個増設しないと辻褄?が合わなくなったという、「ウッソー」といいたい話であった。


三角での機回り 三角11時56分発572レは3軸ボギーの2等車連結だが何と準混列車

貨車入換中のC1190 準混列車を牽引し熊本へ

セムフ46 三角で 北九州なら珍しくも何ともない

ミ105 水運車がいるとは ここは水が悪いのであろう 

三角構内に放置されていた軽便無蓋貨車 連結器とも本格的な構造で単なるトロッコとは思えない

話を戻して、かろうじて無事汽船出帆に間に合い、三角港に上陸。ここから熊本までは1日7本の列車があり、うち昼間2本には2等車が連結されている。すなわち島原半島との観光客連絡列車で2等車は新婚さんへの配慮である。しかし我々が乗車した572レ=列車番号で分かるように、これは貨物列車に客車を併結した準混合列車―略して「準混」であった。熊本着13時14分。

熊本では観光バスに乗換え、お決まりの熊本城や水前寺公園をめぐる。小生は再び観光を辞退?して、熊本駅で16時11分発豊肥本線723レ大分行に必ず合流するからと誓約し、自由行動。今度はお目当て熊延鉄道に行ける。確か市電を辛島町で乗換えて南熊本へ行ったと記憶する。

今なら全国津々浦々情報が満ち溢れているが、当時熊延鉄道に関しては、僅かに有蓋貨車改造の「丈夫そうなハコ」客車(TMS誌号数失念)と、「機関車」第1巻第3号(読者)通信欄の竹島秀美「熊延鉄道の機関車」しかなかった。それだけ初見参の期待も膨らもうというものである。


熊延鉄道1号機と「丈夫そうなハコ」 ワム23000が種車だが詳しくは次回に


熊延鉄道1号機 日車1943年製28トン


5号機 日車1932年製25トン

3405 九州鉄道から国鉄、博多湾鉄道、西日本鉄道、再買収という経歴で熊延入り

ピッツバーグ1898年製45トン 9号機の筈だが3405のまま

正体不詳のCタンク機残骸 

賛書紹介「あの電車を救え!」

昨年6月中旬、衝撃的なことがあった。何時お会い出来るかと、楽しみにしていた方が亡くなったことがテレビで報じられた。この年の前年、大宮に鉄道博物館が開館した。それに合わせた年賀状に、「ぜひお訪ね下さい」と添え書きされた【岸由一郎】さん、非業の死であった。何故? それは栗原電鉄の廃線跡を地域振興で活用するため現地へ赴いておられた最中、地震に遭遇された出来事であった。

平成14年秋、吉川文夫さんから電話があり「交通博物館で学芸員なさっている岸さんをご存知ですか、」との問い合わせであった。「存じません。」「ピクトリアルで京福福井支社の開業期について発表された方です。」「それなら覚えています、あの時2度読み返した位です。」「その岸さんが十和田観光電鉄の改軌、電化直後の写真を探していらっしゃるのですが、ふと思いついたのが貴方のことです。学生時代に東北の旅をされ、十和田にも行かれましたね。」「はい、その時のメモと自家現像のピンボケフィルムはまだ残っています。」「それを彼に提供して頂けませんか。」

翌日、書留で吉川さんから聞いた住所、小金井市のアパートへフィルム1本を送った。「お役に立つものがあれば、自家現像で薄い画像ですが自由にお使い下さい。」と、添え書きを入れた。その時思い出したことがある。共に故人となった三谷、能勢両氏を加悦駅構内の“SL広場”に案内した時、加悦興産の方から保存車両整備を手伝ってくれる若いお医者さんがいるとの話を聞いた。その方は笹田さんだなと直ぐ分ったが、笹田さんと岸さんがポン友の間柄だとは全く知らなかった。笹田さんのことが趣味誌で紹介される毎に岸さんの名前が見え隠れすることに気付き、鉄道遺産保存に熱心なコンビに尊敬の念を抱くようになっていた時期でもあった。趣味が高じて鉄道遺産保存に我が身を投じた岸さんの人物像が知りたくもあった。それはいくら鉄道が好きであっても、自分の生涯の仕事に出来なかった老人の歯がゆさでもあった。そうしたことからお二人の行動に感銘を覚えた。

さて、賛書「あの電車を救え!」は、笹田さんが行動を共にした岸さんの思い出、追悼の言葉をまとめたものである。何々ブームと言われる度ごとに「鉄チャン」の資質が世間で問題にされている。私たちはどうなのだろうか、胸に手を当て反省することはないだろうか。こんな思いに駆り立てられるのは、

鉄道遺産を自分の欲望達成対象としてのみに捉えている輩が多いが、本当に鉄道を愛するなら「お二人の爪の垢でも煎じて飲んでごらん」、と言いたい老人なのである。

岸由一郎さんのような人物が今後、鉄道趣味界に生まれるだろうか。また大切な我が子を、趣味の世界に没入する事を許したご両親に、敬意を表したい。

クローバー会の諸兄はぜひご購読頂きたい、賛美の書であると思っている。

「あの電車を救え!」親友・岸由一郎とともに 著者:笹田昌宏 

発売JTBパブリッシング 1,575

RM LIBRARY 51 十和田観光電鉄の80年 著者:岸由一郎 

発行所(株)ネコ・パブリッシング 1,050

ようこそ十和田観光電鉄へ

ようこそ十和田観光電鉄へ

電化と共に1951年製・オール日立
電化と共に1951年製・オール日立
最新型は1955年製・車体と台車は帝車/電装品は東洋
最新型は1955年製・車体と台車は帝車/電装品は東洋
30屯電気機関車・1951年 日立製
30屯電気機関車・1951年 日立製

1954年高校修学旅行 その4


雲仙一帯は鉄道と無関係だから、小生もおとなしく一緒に行動し、もっぱら帰京後お買い上げ頂く級友の撮影にいそしんだ。行程は島原港から三角に船で渡るが、バスは島原港で乗り捨てる。当時の島原-三角間九州商船は80分、1日4往復、花園丸138トンとあり、これではバスを乗せられるはずもなく、しかも我々修学旅行生だけでも500人以上が乗船したのだから、ボートピ-プル並のすさまじさ。今では島原外港から直接熊本港に60分、2社17往復のフェリーが運行している。

島原では出港まで30分ぐらいあったか。売店のおばさんに聞くと、島原鉄道の本社車庫がある島原湊(現在島原)まで10分ぐらいという。それなら往復20分として、5分だけでも撮影が出来ると無謀にも聞いた方角に走り出しかけたら、おばさんが呼び止め、当時まだ貴重品に近かった自転車を、どこの馬の骨とも知れぬ、しかも団体の一員に貸してくれた。恐らくは小生の人品骨柄卑しからぬを察知したのであろう。


台枠以下を生かし、車体を近所の造船所で新製した私鉄版木製オハ61?のホハ31 元来は温泉鉄道ホロハ2だった

一見中型車だが、その実雑型車(鉄道作業局)の窓配置を改造したホハニ3751 国鉄ホハユニ3751が原型

必死にペダルをこぐ。この自転車はまだ新しいのに、何とブレーキがないではないか。減速には足で地面をこすり、ともかく島原湊駅待合室に自転車を乗り入れて放り出し、居合わせた駅長に一声掛けて改札口を駆け抜け、目に付く限り撮った撮った。二眼レフはすぐフイルムが尽き、交換している暇はなく、35mmは幸い余裕があった。


16号機 鉄道省1406←九州鉄道38

22号機 ←海軍呉工廠 立山重工業1943年製

キハ202 中国鉄道キハユニ110の買収車 原型をよく残している

キハ102 元来キハニだったが、敗戦後急行用に整備 最終ユニ102に

日車製キハ4501 私鉄車ではトルコン装着のはしり

ハフ52 屋根がやたら深いのは雨漏防止改造 元来口之津鉄道カ1 雨宮製量産60人乗り2軸車

この島原湊はすぐ傍に海が迫り(そんなことは後年再訪、再々訪で知った)、余り広くないところにぎっしりレールが敷かれ、しかも1線ごとに整備清掃用の足場があって、かような切迫した撮影ではイライラするばかり。何がなんだか分からぬまま、ともかく目に付く車輌を乱写し、さらに欲を出して駅長に廃札を所望。駅長は1日4便の出港時分=その切迫を承知だから、他の仕事をしている駅員も動員督励し、確か3人掛りで廃札印を押して一式呉れた。


ホハニ3751

ホハニ3751の台車

ホハ12187 国鉄同番車の払下だが、何と窓が1個多いのに気付いたのは1年半後

ナユニ5660 国鉄同番車の払下 旧関西鉄道477「関西大ボギー」の生き残り

屋根と窓数から旧九州鉄道ヘ(1等)かト(2等)車の成れの果てと分かったのははるか後年

ユ2 単車とはいえ全室の郵便車は私鉄では珍しい

ニ11 

救援車

また必死にペダルを漕ぎ、かつ足で地面をこすって船着場へ。その間近になって、やっとこの自転車は輸出用で、ペダルを少し戻すとブレーキになることが判明した。花園丸にはすでに仲間全員(小生以外)が乗船済で、売店のおばさんに礼を述べて自転車を返却。教師は無断離脱とあってカンカンに怒っていた(らしい)が、面と向かっては何も云わなかった(当然仏頂面だったが)。

1954年3月高校修学旅行 その3

先回急行「筑紫」で博多まで乗車したように記したが、長崎には翌朝到着している。すなわち門司で「筑紫」を下り、門司港発22時20分(門司22時33分始発)の長崎行各停夜行列車411レ(大村線経由)に乗車したとしか考えられない。我々の高校は普通科、商業科併せて1学年11クラス、当然500人を超えていたから、客車も6両は必要で、全員が同じ行動をしたのか、日をずらしたのかは全く記憶がない。


C51253 門デフが珍しかった

長崎終着は7時10分で、全員下車と思いきや、かなりの乗客が残ったまま、列車はそのまま走り去った、と記憶する。はるか後年島原鉄道で諫早経由、長崎大に通学された山城正一氏に伺うと、三菱造船所への通勤者輸送だった由で、長崎以遠は勿論時刻表に記載のない列車だった。

長崎では島鉄バスでグラバー邸やらの名所を廻るのだが、小生は教師に申し出て観光を辞退し、バスを下り一人長崎交通の電車を撮った。所定の時間・場所に必ず居るから、と誓約したのは当然だが、今から思えばよく教師がOKしたものである。当時大学受験万能の指導に反発し、突っ張って(別段暴力を振るっていたわけではない。ただ全く勉強をせず、映画館に入り浸ってはいた)おり、担任教師からは間違いなく問題児扱いだったから、いくら止めてもこいつはやりたい事をするだろうと諦めたか、しばらくでも問題児の顔を見ずにすむと思ったか。両方かもしれない。

で、先ずは長崎駅構内でC51253を撮る。その後有名になった「門デフ」装着機関車を見たのはこれが初めてで、門デフに尋常ならざる執念を燃やした関 崇博氏がその後鉄道ファンに連載した折にはこの時の写真も使って頂いた。最近ネコ社から刊行された同氏の「門鉄デフ物語」にも56頁に1枚、C51253がある。


長崎電軌61 長崎駅前
同 51

同 54

長崎電軌は別段撮りたくて撮ったわけではなく、他にターゲットがなかったから。時間も余りなく、撮影も、バスにピックアップしてもらったのも、記憶は定かでないが長崎駅近辺ではあった。それから雲仙へ。このとき丁度「君の名は」のロケと重なり、確か雲仙のどこかで岸 恵子様の麗姿も寸見した。行く所ことごとく「君の名は」で埋め尽くされ、イヤというほど「君の名は饅頭」や「真知子漬け」が氾濫し「真知子岩」やら「真知子橋」やらが雨後の筍さながらに満ち溢れていた。マフラーかストールかを「真知子巻き」するのも大流行していた。


同 124

同 131

同 213
同 307

続・熊電探訪

 室園車庫から北熊本駅へ旧街道筋を炎天干しとなり歩く。やって来た藤崎宮前行きは待望のモハ51号であった。運転台にはGE4個モーター用のでっかい制御器が鎮座していた。かぶりつきで前方注視していたから車内の印象はない。駅前食堂で丼とうどんを食って水道町交差点に向け再び炎天下を歩いた。交差点から電車通りの正面を見ると、熊本城がみえた。お城見物で熊本に来たわけではないが、木陰を求め休息の場とした。その後、大江車庫まで歩き市電撮影となった。車庫では在籍車についていろいろ教えて貰い、駅前で再び市電撮影。陽が傾いたころ、大牟田に向け普通列車に乗ったのは良いとして、うたた寝となり気づいたら久留米を発車したところであった。ステホは博多に変更としたのは良いとして、台風来襲を知り逃げ帰る始末となり1年後、再挑戦となったのだが……。

富山、大阪勤務時代の業務出張では熊本市電の変化を追うことが出来たガ、「熊電」にお目にかかることはなかった。観光で熊本に立ち寄ることがあっても城か公園で、藤崎宮参りはなかった。

1967年向日町に転居してからは冬眠、やっと1986年に目が覚め鉄道趣味界に再び足を踏み入れた。新しい仲間から情報を貰い電車行脚のスタートは四国、そして九州となり198952日夕は門司港駅に着いたのであった。この時、鹿児島に向け乗った夜行列車は“かいもん”で、“玄海”は記憶違いである。3日は鹿児島市内をうろつき夕方には熊本着となり、大江車庫至近のビジネスホテルを予約しておいた。

4日は朝8時、大江車庫を訪問した。こちらも昨夜予約済みであった。現況についてお話を伺い、入庫車両を中心に車両移動もして頂き、在籍全形式撮影が出来た。その時、2人の若者が参入した。「お早うさん、何処から来たの?」「京都からです。30日の“かいもん”で鹿児島、長崎へ、昨日は熊本電鉄に行って来ました。」「なに、熊電へ!どうだった。」「71号が残っていたし、古い車もありました。」「ほんまかいな、そら行くべしや。」2人は立命鉄研現役であった。

予定を変更、午後は久留米移動の筈が昼食後は上熊本へ。出迎えてくれたのは“青蛙”であった。車庫移転先の北熊本へ。32年前は室園車庫から遠望しただけに終わった71号が迎えてくれた。

これだけで満足だが、目に付いた元静電と若者が旧型車と言っていた元小田急の廃車体も撮影した。静電がモハ100形を熊本、福井に売却したと聞いた時「もったいないことをするなぁ」と思ったが、背後に東急が居る会社だけに「さすが」と感心したものだ。片運電動車6両が入線し後にMcTc3本になったと聞いていた。ところが601号なる両運車がやって来たので、キョトンとなった。なんでも事故車復旧の際にワンマン改造に合わせ1両のみ片運にしたとか。

元小田急モハ1100110511084両を1959年に購入しているが、これらは1958年春に経堂車庫を訪問した時、110111044連と共に現役古参車として、朝ラッシュ時のみ新宿・成城学園間の各停専用で使われていた。この小田急中古車導入がモハ51形の追放に繋がり、静岡からの導入車が小田急中古車引退を促進させた。青蛙は何を蹴りだしたのかは知らない。新車を自社発注が出来ない地方私鉄は、最近大手私鉄の中古冷房車の吐け口となっている。その中で遠州鉄道は全て自社発注車で、全車冷房化をいち早く達成した優等生である。福井の熊電501形と同系車モハ300、クハ350形は冷房化されていたが、LRT構想のため2005年廃車となった。もったいない話だと思った。廃車直前の姿を紹介しておく。熊電についてはネコ・パブリッシング、RM25に詳しく紹介されており、今回参考にさせて頂いた。

35年前の烏来軌道


ぶんしゅう氏の台湾レポートに、烏来の軌道があり、拙老も35年前に乗車したのを思い出した。1977年3月で、生まれて初めて外国なるものに足を踏み入れた最初が台湾だった。マレーシアのクアラルンプールで開催される見本市のアテンドで、これも生まれて初めてパスポートを取得。1USドルはニクソンショックのおかげで、長らく続いた360円から308円だったが、今から思えば隔世の感がある。

何しろフライトチケットも今のような安売りがなく、すべて定価。旅費を50万円貰って目をむいたが、そのうち35万円ぐらいが飛行機往復チケット代(勿論ツーリスト)に消えたと記憶する。あとの15万円で丸々1か月暮らして来いという訳だ。勿論ホテル代込みである。

機内の酒サービスは今のビジネス以上で、コニャックやスコッチのボトルを目の前で開け、いくらでもお代わりしてくれる。機内は保税扱いだから、着陸体制に入ると、パーサーやスチュワーデス(客室アテンダントなる言葉はなかった)が、バケツに中身を捨てていた。

目的地がマレーシアなのに、なぜ台湾経由かというと、日本が中国との国交を中華民国(台湾)から中華人民共和国に切り替えたため、もしかすると台湾には永久に?入国出来なくなるんじゃないか、と当時の上司が本気で心配し、今のうちに例え2日でも寄って来いと勧められたからである。

上司の紹介で、台湾の貿易商(本省人)の世話になった。C57が健在だった台湾鉄路を撮りたかったのに、先方はあちこち、観光地を案内してくれ、そのひとつが烏来だった。この時は横に2人が座れる「単端式」座席車を3両つなぎ、後ろから単気筒の動力車が押し上げる。動力はホンダのバイクの廃品利用だそうだ。


終点では客車(といえるかどうか)を1両づつ小さな転車台で向きを変え、下り勾配だから先頭の2両を切り離し、ブレーキマンが乗って速度を調節しながら、惰力で起点に戻る。その昔、上りは人力で押し上げていたそうな。後ろの動力車は1両だけで下っていた。




同じような転車台が三井金属鉱山(神岡鉄道)にもあった

2両編成で下ってきた列車 その後ろは動力車

これも惰力で下ってくる1両編成 真中の顔は後ろでブレーキを操作する兄ちゃん

1954年3月高校修学旅行 その2


藤田興業フハ33 この車両は最後にはサイドに両引き扉を設けワフ ニフになった

39レ急行「筑紫」は姫路で1年前に誕生した下り特急「かもめ」に抜かれ、10時33分発山陽路を西に向かう。次なるアイテムは和気(通過)での藤田興業(片上鉄道)だが、人気のないホームには2軸木製客車のフハ33が1両ポツンと取り残されているだけ。側戸式マッチ箱客車(形式ハ1005)を1937年東洋車両で両オープンデッキ車体を新製したものを戦後運輸省から購入。どこか分からないが戦時中の買収車である。

岡山には10分停車。86牽引列車(津山線か)、建物代わりに使われているナハユ15018を撮る。その左側も紛れもなく木製客車だが、気付かなかったようだ。甲種輸送中のEF15はどこで撮ったか思い出せず、番号も読めないが、撮影日が1954年3月11日だから、三菱三原で竣功したばかりのEF1585か86であろう。

ナハユ15018 木製の踏み段が付き建物代わり

これも確か岡山かと思うが確かではない 三菱三原からの甲種輸送 右のトキも懐かしい

無人の鞆鉄道福山停留場 この時点では既に廃止11日後だった

鞆鉄道ボワ6

笠岡も停車せず井笠鉄道は撮影できなかったようで、次は13時20分着の福山である。何としても鞆鉄道カが見たかったのに、鞆のホームには有蓋貨車ボワ6がたった1両だけ。鞆鉄道は永い間国鉄福山駅に入れず、300m程西の三の丸が終起点で、徒歩連絡から無料バスでの国鉄福山連絡であった。やっと延長が叶ったのは開業から17年以上経った1931年で、それも用地が得られず、福山とは称しても無人の停留場、しかもポイントも亘り線も何もない、「1本突っ込み」線だけ。当然三の丸-福山間は上りか下りかのどちらかが推進運転になる。最もこんな事ははるか後に知った。なお鞆が存亡の危機とは聞いていたが、実は11日前の2月末日で廃止済であった。その後5月29日一人で訪ねた時は勿論バスで、終点の鞆と三の丸にほぼ全車両が残存はしていた。


福塩線の電車 左側は南武鉄道 その後ろは豊川鉄道買収車


豊川鉄道買収車

福塩線の電車も何両か。ダサい車両が多かった南武鉄道買収車では一番スマートなグループ、それに京都在住者なら奈良電デハボ1000でおなじみの、丈夫そうな3扉車(豊川鉄道買収車)などが並んでいた。


セノハチも勾配を上る急行「筑紫」 当然補機が付いていた マイネ40がひときわ目立つ

憧れの「セノハチ」もたった1枚撮っただけ。一段と屋根が高く丸い客車はマイネ40である。「筑紫」の編成は下り側からユ、ニ、イネ(特イネ/イネ)、特ロ×2、ロ、シ、ハ×8で、ユは東京-門司、イネと特ロ1両、シ、後尾3両のハは博多で切り離す。したがって博多-鹿児島間はユ、特ロ、ロ、ハ×3の6両となる。


広島でのC597

広島は15時41分着、50分発。C597と入換のC50しか撮っていないのはなぜか分からない。


入換機はC50 京都でもお馴染みだ

白状しておくが、これら走行中の急行「筑紫」からの撮影はすべて35mmスプリングカメラのバルジーナで、ファインダーに手動のパララックス矯正装置が付いている。台車や銘板、社紋などを撮る時には実に重宝な機能だが、接近撮影後はほぼ100%戻すのを忘れる。従ってその後の撮影はそれに気付くまで、横位置なら全部天部が苦しく、地部がドカンと空く。それをトリミングで誤魔化そうとすると、かような細長構図を余儀なくさされるのである。

熊電探訪

熊本駅に降り立ったのは195795日、夜9時を回っていた。この年716日、前期試験が終わるや始めた氷屋のアルバイトは8月30日に終わった。45日連続で(日給500円×45)+報奨金2,50025,000円を稼ぎ出し、831日夜9時発の四国連絡宇野行きで京都を後にした。翌1日は琴電、2日琴参、3日土佐電、4日伊予電、その夜は高浜港でステホをやった。翌早朝の関西汽船で10時過ぎ別府に上陸した。5日は温泉街で電車を追いかけ湯の町知らずであった。熊本では風呂に入りたいが駅前で見付からず、旅館の客引き小母さんと交渉の結果、1泊朝食で280円まで値切った。豊肥本線96に燻され道後の湯の効果は消えてしまっていたようだ。

熊本の鉄道事情など全く知らず、JTB時刻表を頼りにやってきた。奥野師匠は1つだけ教えてくれたが、それ以外はなにもなし。宿の小母さんに熊電の乗り場に行く方法を尋ねたら、駅から市電1番で子飼橋行きに乗り藤崎宮前で降りると目の前だ、と教えてくれた。藤崎宮前駅構内で先ず目に入ったのは、師匠が教えてくれた木造切妻電車。並んでいる3両のトレーラー58415757,58号が切妻、41号はダブルルーフの丸妻で関西では見慣れないタイプで、共に元電動車であったことを物語る台車構造をしている。そしてもう172号、これの出自はピク誌28号「買収国電を探る・可部線」の記事で知っていた。「原爆の日」紹介した熊電71形の1両である。

「車庫は何処ですか?」と駅員に問えば、「次の黒髪町と北熊本の間で、電車は今出たところだから、歩いて行けば20分位。その方が早いよ」との返事を貰った。このくそ暑い中をと思いつつ、教えられた道筋を辿った。砂利道を歩くうち左から単線が寄り添い、その向こうに車庫が見えて来た。車庫正門?らしき所に着いたとき前方の北熊本駅に着いた電車がある。慌てて線路寄りに移動すると、103号と名乗る3扉車がやって来た。

車庫事務所で型式図を見せて貰い筆写する。先の103号が昭和19年製(日立)と知りびっくりした。その前年に切妻木造車体の515154両が田中(現近車)車両で生まれているのだからだ。戦時体制強化で益々日本は窮乏の途を歩んでいたのに、何故こんな片田舎の電鉄に新車が入線したのか、その後も持ち続けた疑問であった。次いで202号が試運転に向け整備中、木造国電モハ1の払い下げ車らしい。福山(福塩線)で見たものが琴電に入線しており初対面ではない。簡易鋼体化されていた。201号は遠望しただけで、共に旧番号など分からなかった。電動車は他に56号があり、電装解除された55号は58に改番された。同形には57号があり竣工時より客車であった由。これら50番代が戦時下の切妻木造電車であった。

41号は元名古屋鉄道からの63形導入による供出車で、71形入線で電装解除されたのであった。他に3132号の木造客車があったが、これは改軌電化(19238月)を同時施工しているが、改軌前(3フィート)の有蓋貨車を客車化したもので、近く廃車になると聞いた。客車はモハ515456、モハ71,72、モハ101103、モハ201,20212両、付随車はコハ3132、ホハ41、ホハ57585両であった。これ以外に工作車(架線修理用)モコ1があったが、これも買収国電の一員で、宇部電鉄の木造単車がプロトタイプであった。室園車庫の一隅には木造車体が倉庫代わりに置かれていたが、これは電化当時の電車6両の一つであると教えられた。

1954年3月高校修学旅行 その1

先回までの「高校生東京へ」からほぼ1年後=2年が終了する3月に、修学旅行があった。1954年3月12日、京都から急行「筑紫」で西へ向かったのだが、1954年の時刻表を繰ると、39レは東京を前日21時30分発、京都7時35分着、50分発。大阪、三ノ宮、神戸、明石、姫路、岡山、倉敷、福山、尾道、糸崎、広島、宮島口、岩国、柳井、下松、徳山、三田尻、小郡、下関、門司、小倉、折尾と停車し、博多着22時23分。再び夜行列車となって翌朝5時48分鹿児島終着である。

この時はカメラを二台もって行った。いずれも戦時中防空壕で過し、レンズが名古屋市大曽根の湿気にやられてカビが生えていたが、ローライコードUとバルジーナなる、バルダックス社製35mmスプリングカメラである。せっせと同級生を撮り、あとでプリントしてひと稼ぎ=自分の車輌写真分のフイルム代プラスアルファを浮かそうという魂胆である。まだカメラは高価で誰もが持てるわけではなく、修学旅行イコール6,800円(プレミアムがついて8,000円かそれ以上出さないと買えなかった程人気があったのは、ただただ安く、よく写ったから)のリコーレフというのは、我々のひと世代後の話になる。またしばらくカビの生えた古写真にお付き合い願いたい。


進行中の「筑紫」デッキから撮った兵庫駐在のD50 右側は旧ナロハのナハ10064で、確か旧2等室は転換クロスシートが残っていたと記憶する

B50は神戸港線と共にいっぱいいた

最初に撮ったのは兵庫のヤードである。今では和田岬線も電車になり、高架と地平の中間辺に乗降場があるが、以前は勿論地平で、かなり広いヤードと機関車駐泊所があり、川崎車輌、三菱造船所、鐘紡、神戸市中央市場等の貨物を扱っていた。高架線へ貨車を押し上げるため、D50が1両常駐していたほかは、B50ばかりだった。

D50の後ろはサイドに扉を設けた通勤客車 冷蔵車は勿論中央市場用

和田岬線は現在では三菱の通勤客のみになり、かつての超混雑振りは見られず、またヤードは新興高層住宅が建ち並んでしまい、かつての面影はない。ここの木製客車はどてっ腹に引戸2か所を設けた、戦時中からの通勤客車が大方だったが、それでいて同じ木製でも転換クロスシートが残った旧2等車、播丹鉄道買収で制式中型車に編入された丸屋根車(ナハフ14070)=共に側扉はない=もいた。

国道の南(左)側はすぐ海である のち線路の右山側に列車線が新設され複々線に 今走っている線は緩行・快速電車専用になった 中央のトラックはパンクでタイヤ交換中だが いやに低くへべちゃい荷台は 米軍放出のダッジ4輪トラックか 詳しい方のご教示を待つ 右(明石側)からやってくるトラックはニッサン

左手に淡路島を望む進行中の写真は塩屋西方で、分離帯も何もない国道2号線の南側はすぐ瀬戸内海である。今では西神戸地区の下水処理場のためすっかり埋め立てられ、人工の丘や林で視野が遮られてしまった。ただ新快速は一段高い斜面に張り付いて走るから、景観は良い。


このモニ53ならぬモニ13はどこで撮ったか記憶がないが、地平ホームだから明石しか考えられない。この駅は手荷物扱いホームから容易に(ほぼ人目を気にせず)外に出られるとあって、小生は事の外愛用?したものであった。それを聞きつけた故羽村兄も何度か「活用」した由。今では高架になり、そんなことはあり得ない。


姫路に到着した39レ急行「筑紫」

姫路は機関車交換のため12分停車するので、その間走り回った。飾磨線のホームではC1178が20メートル大型木製客車1両だけを牽引し、煙を吐いていた。その木製車は何とスハニ28907で、座席は一方方向クロスシート。すなわちスハニ35の二世代前の特急つばめ用客車である。

飾磨線のC1178+スハニ28907 この列車は姫路10時20分着で 次の飾磨行は15時45分までない

かつて東海道を我物顔に走った特急つばめ専用客車の成れの果て 妻面のレタリングDは木製客車の状態をAからEまで5段階評価したもの 台枠はその後オハ61系に生かされた

その室内 背ずりモケットはなく ベニヤ板だが、京阪1000型もそうだった それでも一方クロスシートがのこっていたのである

原爆の日

同志社の鉄道ファンの皆様

 朝日新聞日曜版(BE版)などに、熊本電鉄がモハ71 被爆電車(実際には同型で既に廃棄したモハ72が被爆し、この71は下関に移動していて被爆していない)を近代産業構造物として保管し、整備しなおしたものを一般公開するという記事と写真がありました。

その画像を見たとき、同志社時代に1.2回生の頃、奈良から京都への通学で使っていた奈良電(今の近鉄京都線)の創業時の車両デハボ1000と酷似していることに気がつきました。

そこで手元の「私鉄電車プロファイル」の中の奈良電デハボ1000型の精密イラストと比較してみました。

やはり、双方とも 1928年(昭和3年)の日本車輌製造であることがわかりました。

 モハ71の方は製造当時は日本国有鉄道(今のJR)が製造を委託した車両ですが、同時代の流行を取り入れ、昭和3年の開業に備え奈良電が発注したデハボ1000の両者には共通点が見受けられます。

 ヘッドライト、一灯だけの尾灯の形や位置、少し丸みを帯びた正面の三枚窓、行き先表示板差込口などに共通点が見出せます。 扉が2扉か、3扉の違いなどはありますが。

 最近の通勤用の車両では、製造コストを下げるために発注会社が共同して共通仕様で製造を委託するケースがあります。たとえばJR東日本と東急などがあります。

 JR 東日本 E231系と共通仕様の車両

 東急    5000系 5050系 5080系

 都営地下鉄 10-300系

 横浜市営  Y500系

 相模鉄道  10000系

 下記に、熊本電鉄モハ71と ()奈良電 デハボ1000 の外観の比較をしてみました。

ご覧ください。

熊本電鉄 モハ71

1928年 日本車両製造

奈良電デハボ1000 正面イラスト

1928年 日本車両製造

 

奈良電デハボ1000  側面イラスト1928年 

日本車両製造

 画像集から撮影したため、少し反って見えます

 

200928                         河野賢太郎

拙文をお読みくださり、また「デジタル元祖青信号」転載のお申し出をいただき、恐縮に存じます。駄文でございますが、そこはDRFCHPであれば転載していただいて、当方は異議ございません。下記のように一部書き改めておきました。ただ、少し心配なのは写真は朝日新聞から、車両のイラストは出版物から、無断で複製している点であります。個人的使用という範囲で収まればいいのですが、「デジタル元祖青信号」が広く鉄道のファンの方々に読まれていますと、その点がいささか心配です。また、この文章は同志社のグリークラブのOB合唱団東京クローバークラブのHP東京クローバークラブ「タイムズ」の『てっちゃんノコーナー』にも近々掲載が予定されていますのでご承知おきください。         河野賢太郎

 

 河野さんは乙訓の老人と入学年度は同じです。土肥の雄さんの紹介で入会され以前、青信号64号には投稿されました。同好会40周年記念・大井川鉄道探訪の時にお会いしました。大学現役時はグリークラブのメンバーだったことを今回初めて気付きました。老人の幼馴染と出自の異なる先輩格のクローバー会で、ご一緒だとも知りました。本来2ヶ月前に転載するつもりでしたが、写真展その他で忘れておりました。その間に被爆電車とされました72号を、19579月に撮影したものを見つけました。その時、71号の方は元木造国電20171で北熊本・上熊本間でシャトル運行についていましたので、室園車庫から遠望したに過ぎません。そして73号となった車体は、幡生工場から回送されたままの姿で室園車庫に留置されていました。これら3両については、佐竹先輩の「買収国電」で紹介されました。ぜひ参考にされますようにお勧めいたします。       

ちょっと嘴を入れますと、熊電71型は国鉄が製造を依頼したものではありませんから、頭を整理しておいて下さい。そして今回、掲載する日は64年前、広島に原爆が投下された日です。被爆された方々に心から哀悼の意を表します。老人の親類にも被爆、亡くなった方があり、広島へいく時は必ず平和公園の慰霊の碑へお参りに行きます。1946年夏休み、母の故郷から帰京する時、兄と一緒に宮島口から広島駅前まで広電に乗りました。この時に見た広島の街の光景は、生涯忘れるものではありません。

 今回の転載についての責任は、全て乙訓の老人にあります。

江若鉄道6号機のこと

懲りもせず江若鉄道の再現を進めています。珊瑚の古典大系A-8のキットが手に入ったので 江若で除雪用に最後まで生き残った6号機の晩年の姿にしようと、暇を見つけては組み立ててようやくかたちになって 試運転にこぎつけたところです。湯口先輩の「私鉄紀行No.39」の昭和29年当時の写真も大いに参考にさせて頂いたのですが、晩年の写真がなく多分発電機があったと思われるのですが、確証がないので どなたか6号機の晩年の写真をお持ちなら お教え頂きたく。炭庫は増炭仕様にかさ上げし、キャブには窓枠を入れましたが、これから面倒なコンプレッサとエアタンク、エア配管をしなければならず、上回りと下回りの切り離しをどうしようかと悩んでいるところです。煙突のチムニーキャップはなくして ストレートタイプにします。スノプローは両側に装着されていたのかもよくわからず、スノープローを付けると連結が難しくなるので これもどうしようかと考えているところです。

高島町駅の再現は足踏み状態ですが、6号機の前にキハ51とハフ2も完成し、車両の増備が先行している今日この頃です。

「さよなら四季彩号」

【3551】で書き込みした通り、201系「四季彩」は7月18日~20日、立川~奥多摩間を「募集型企画旅行」として運転された「さよなら四季彩号」をもって営業運転を終了した。20日のラストラン(ほんまは3日とも)に撮影に行きたかったが、19日、20日は他の予定が入っていたため18日に出かけた。今までとは異なり、立川~奥多摩間1往復のみであるため、撮影場所を何処にするべきか迷ったが、結局オーソドックスに下り奥多摩行は軍畑鉄橋、上り立川行は二俣尾駅周辺、豊田電車区への入庫回送は立川~日野間の多摩川鉄橋にした。

沿線は俄かマニアを含め撮影者でさぞ混雑しているだろうと思いつつ、青梅駅9時31分発の電車に乗ったが、有名な青梅~宮ノ平間の山根踏切で5名、軍畑の鉄橋は、山の斜面に10名程度と意外に空いていた。通過まで2時間近くあるので、そのうち増えるだろう思ったが、通過直前でも30名程度であった。通過20分前に職員が2名、5分前に保線関係者が1名巡回に来たが、全員山の斜面で、線路際撮影者はゼロのため、拍子抜けしたような顔をして戻って行った。SLやELに比べると電車を撮影する人は少ないが、同じ電車でも583系は人気が高く撮影者は多い。撮影後、次の電車で「四季彩」を追い抜く古里で下車して中線に停車中を撮影した。人出は15名程であったが、ハイドマイクを持った駅員氏が、黄色の線を少しでもはみ出して撮影している人を見つけると大声でどなりまくっていた。はみ出さなくても電車は停まっているので十分に撮影は可能であるし、無理にはみ出して撮影しても結果は殆ど変わらない。次の電車で奥多摩まで行き、ヘッドマークを撮影後、上りの撮影のため折り返し青梅行に乗車。車窓から見た限りでは、古里~川井間、沢井~御嶽間のカーブはいずれも5~6人、先程撮影した軍畑鉄橋は後追いになるためかゼロ、順光になる対岸もゼロであった。二俣尾で降りて奥多摩寄りの踏切に行くと中学生が2人いるのみ、通過直前でも7名であった。次は中央線立川~日野間の多摩川で撮影するため、上り電車に乗り、青梅で東京行の特快に乗換え立川へ。「四季彩」は停車中であったがパス。下り電車の車窓から見たところ多摩川鉄橋でも人出はさほどでもなかった。日野で降りて鉄橋に向かったが、堤防の目前で通過してしまった。やむなく駅に戻り、豊田寄りの電留線で入庫待ちで停車中を撮影した。こちらはやたら人が多く(とは言っても20名程)不思議に思っていたところ、程なく201系の上り快速が通過し、皆さん、201系同志の並びを撮影するためであることが判明した。残念ながら私は情報を持っていなかったため撮影はできなかったが、「四季彩」最後の営業運転を無事に見届けることができて良かったと思った。どこかの私鉄での再起を密かに期待したが、7月23日早くも長野工場に向け自力で回送されてしまった。

かくして201系「四季彩」は姿を消したが、何故か魅力を感じる電車であったのは、休鉄時代から奥多摩登山、ハイキングで時々利用していたからかも知れない。独特の塗装もさることながら、4扉ロングシート車の片側をクロスシートや外側に向けたシートに取り替える等、異色の電車であった。

軍畑鉄橋を渡る奥多摩行

 古里駅の中線で定期電車を退避する奥多摩行/方向幕の「快速 奥多摩」の表示はファンサービスか。

 奥多摩駅停車中

 

二俣尾駅付近を走行する立川行/方向幕は「快速 立川」を表示

 

下り定期電車と交換のため二俣尾駅で停車中

 

二俣尾駅発車/方向幕は「臨時」を表示

 

立川駅から豊田電車区に回送入庫のため日野駅の中線で待機中

 

 

1953年高校生東京へ その9(最終)


東京を終えて、夜行(当然各停)で豊橋へ。天気が悪く、駅前で豊橋交通の2軸単車を2枚だけ撮る。

次いで飯田線の電車を。この時点戦時中の買収電車は社番のままだったから、モハ36とは豊川鉄道30型で日車製。同系の電車=川崎製=は多く、関西なら奈良電気鉄道の1000型、阪急600型もそうだ。

モハ36+クハ38099+モハ32004 豊橋

クハニ56004+モハ32040+サハ77017+モハ32 
実は飯田線を全線乗車し、辰野、塩尻経由中央本線で名古屋に戻ったのだが、天気が極度に悪く写真は何も撮っていない。それと空腹(路銀欠乏)でファイトが萎えていたようだ。

名古屋鉄道3658特急

名古屋で初体験―といっても遊郭や赤線に行ったわけではないからお間違いのないように。ステーション・ホテリング(略してステホ)の第一回を挙行したのである。浮浪者(ホームレスなんて言葉は数十年後のものだ)が多数おり、本来の旅行者も多く座席確保だけでも大変で、便所にも行けない。深夜一斉に滞在者を追い出し、清掃後乗車券所持者のみ入室が許された。


関西本線準急C5780 亀山

翌日は関西線、片町線を経由して帰宅。この日はいい天気だった。関西本線の準急が気動車に置き換わるのにはまだ時日を要する。この時点亀山-柘植間は各停10往復、準急3往復、急行「大和」1往復だった。現在は19往復だが、昼間5往復は第2土曜日運休で、10~15時の間列車がない。

片町線貨物列車C11159 木津

片町線キハ41561 木津 片町線は長尾までが電化され、長尾-木津間はキハ41500が10往復だった。その後なぜかまっさらのキハ42601=鹿カコ(西鹿児島区)が一時ここで働いていた。

湯口さん受賞・祝賀会

タイトルへの参加者を募集しておりましたが、7月22日に募集定員となりました。これで受付終了とします。

どうしても参加したいとおっしゃる方は、7月25日午後9時までに沖中の携帯090-3654-8224へ連絡願います。今後、参加OKとした場合には立席承知券を発行する場合もございます。

以上、お知らせまで。   乙訓の老人

1953年高校生東京へ その8


ロクサン→ナナサン東武版

東京の最後は東武鉄道。荒川鉄橋での撮影である。皆様慰めては下さるが、こんな写真を撮るぐらいなら、杉戸か浅草橋に行き、当時山ほどいた蒸機を撮った方がどれだけよかったことか。


準急

5700系特急

俗称「ネコヒゲ」特急。湘南クハ86の2枚窓妻模倣は私鉄でも早い例だが、ひょっとすると西大寺鉄道キハ8、キハ10に若干遅れをとっているかもしれない

やはりはこうした列車を撮るべきだった
ED451 足元が切れているのは、6×6 15枚撮り手製改造で、次のコマが重なったためである

大連の市電

戦前鉄道省に勤めていた明治30年生まれの祖父が満州に出張した際の

土産のパンフレットが昭和2年生まれの母を経由して私の手元にいま

あります。

イラスト画に書かれている路面電車のことが少し気になりました。

この電車などについてご存知の方はおられませんでしょうか。

多少の知識でも知りたく思います。

台湾鉄道全線乗車の旅 Part9 高雄→花蓮

第7日目 5月26日

① 技撃館7:12-(MTR)→7:22大寮
② 大寮7:28-(MTR)→7:46美麗島
③ 美麗島7:52-(MTR)→8:08小港
④ 小港8:40-(MTR)→8:42高雄國際機場
⑤ 高雄國際機場9:16-(MTR)→9:36高雄車站
⑥ 高雄車站9:52-(MTR)→美麗島9:54
⑦ 美麗島10:04-(MTR)→10:12技撃館
⑧ 技撃館10:50-(MTR)→10:58美麗島
⑨ 美麗島11:10-(MTR)→11:22左營
⑩ 左營12:00-(台湾高鐡434)→14:00台北
⑪ 台北14:30-(台鐡自強號『太魯閣號』1063)→16:45花蓮

今日は、台湾新幹線太魯閣號に初乗車です。切符は、20日台北駅で、すでに買い求めていましたので、乗車までの間は、昨日に全線乗車できなかったMTRと、保存されている高雄旧駅舎見学です。

早起きして、シャワー後、荷物をホテルに預けて、まずは、橘線の終点大寮駅を目指しました。終点手前で、地上に出ると、車庫がありました。それからは、高架線を走り、大寮駅到着です。駅前を見渡しましたが、まだ開発中のようで、遠方に町並みが見える程度です。

続きを読む

201系「四季彩」引退

【3343】「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」でも書き込みした通り、6月28日(日曜日)をもって201系「四季彩」が通常の営業運転を終了し、7月に実施される「お別れ運転」を残すのみとなった。【3343】と一部重複する部分があるが概略を簡単に述べると、車号は 青梅←クハ201-134+モハ201-263+モハ200-263+クハ200-134→奥多摩 で、昭和59年10月近畿車輛で中央線用として新製、武蔵小金井区に配置、中央線用としては最終増備車であった。平成13年7月大井工場で青梅線用の展望電車に改造(車号は変化なし)土、休日に青梅線を中心に定期運行、一般公募により「四季彩」と命名された。現在のラッピングに変更されたのは平成17年6月である。

車内は大きく改造され、奥多摩に向かって進行方向左側の座席を撤去し、奥多摩寄りの先頭車クハ200-134は窓側に向いた折畳み座席を、後ろの3両はクロスシートを設置して、窓は開閉不能の1枚窓に改造された。一方、右側の座席は通常のロングシートで、窓はそのままであるが、シートはパケットタイプのものに取り替えられた。

6月20日、27日と2週連続で出かけたが、撮影者が沿線に分散したのと27日は横須賀線に旧形客車が走り、そちらに行った人が多かったためか、青梅~宮ノ平間の踏切、軍畑の鉄橋等一部の有名撮影地を除けば、人出はさほどでもなかった。

このあと7月11日、12日に立川~青梅間、18日~20日に立川~奥多摩間で「さよなら運転」が実施されるが、「募集型企画旅行商品」として運転されるため一般乗車は不可能である。

クハ201-134/立川寄りの先頭車で春の吉野梅郷と梅の花が描かれている。

 

モハ201-263/2両目で夏の御嶽山と「れんげしょうま」の花が描かれている。

 

モハ200-263/3両目で秋の鳩ノ巣渓谷と紅葉が描かれている。

 

 

 

左側は4人掛けクロスシートになっている。元の座席下に設置された扉開閉機と暖房器を生かしたため、側板と座席の間にデットスペースが生じた

クハ200-134/奥多摩寄りの先頭車で、雪の舞う奥多摩湖と冬に黄色の実を付ける柚子が描かれている

 

 

左側の座席は多摩川の渓谷を見学できるように外側に向いている。座席は跳上式で使用しない時はバネで折畳まれる。

 

日向和田~石神前間を走行する奥多摩行

 

日向和田~石神前間を走行する青梅行

 

二俣尾駅に停車中の青梅行(左側はホリデー快速の回送列車)

 

軍畑~二俣尾間を走行する青梅行

 

軍畑~二俣尾間の軍畑鉄橋を渡る青梅行(鉄橋の二俣尾側、駅から徒歩2分のお立ち台は人が多かったのと逆光のため、一旦谷へ下りて登り返した対岸に行った。同業者はゼロであったが場所は今一つ)

 

[参考]軍畑鉄橋を渡るE233系(駅から徒歩2分のお立ち台)

 

[参考]軍畑鉄橋を渡る73系(昭和49年5月1日撮影)

 

軍畑駅に進入する奥多摩行

 

沢井~御嶽間を走行する青梅行

 

鳩ノ巣駅に進入する青梅行

 

奥多摩駅を発車する青梅行

湯口徹さん受賞祝賀会・開催のお知らせ

今もデジタル元祖青信号で大活躍の「湯口徹さん」、昨年出版された「日本の蒸気動車」が、鉄道友の会選定の2009年「島秀雄記念 優秀著作賞」に、単行本部門で選出されました。

湯口さんは先年、「内燃動車発達史」を上梓され、鉄道趣味界を驚嘆させました。この時はまだ今回の受賞制度がなく、設定2年目の本年に受賞が実現しました。

DRFC設立時からのメンバーであり、クローバー会の推進役でもある湯口さんの今回の受賞を祝う集いを、次の様に企画いたしました。皆さんの参加を待っています。

1.日時:200989日(日曜日)午後530分~午後730

2.会場:大阪梅田・お初天神通り、ニューミュンヘン本店3

  Tel 0663113381

3.会費:御一人5,000円(当日徴収)

4.申込:電話 09036548224FAX  0752118231

  E –mail : dsxhg 814 @ ybb.ne.jp  乙訓の老人コト沖中忠順

5.締切:8月1日(土)厳守。定員20人(先着順)。

呼びかけ人:DRFCクローバー会有志

京成電鉄 創立100周年記念列車

京成電鉄は1909年(明治42年)6月30日創立以来、本年で100周年を迎えた。今年は創立100周年を記念して様々なイベントが計画されているが、その一環として3300形4両1編成(←上野、3356+3355+3354+3353)を往年の青電塗装に変更した。

6月30日(火曜日)「創立100周年記念列車」として、この編成を使用した上野~金町間の臨時特急が運転され、停車駅及び時刻は、上野(1419)、日暮里(1423)、青砥(1439)、高砂(1441)、柴又(1444)、金町(1446)であった。金町に住んで20年以上になるが、京成金町線に特急列車が走るのは前代未聞のことで、是非乗車、撮影をしたいと思っていたが、あいにく多忙な平日の月末であったため諦めていたところ、急遽午後から外出する仕事が入り、辛うじて撮影のみ間に合った。外出先での業務終了後、大急ぎで京成金町駅に行き14時40分の高砂行に乗車、柴又駅到着が14時42分、間一髪で臨時特急と折返しの回送列車を撮影することができた。平日にも拘らず金町には15名、柴又には20名位の同業者がおり、臨時特急は立ち客が出る程満員であった。ポスターに記載されている通り、8月下旬には赤電塗装車が、9月中旬にはファイヤーオレンジ塗装車が運行される予定となっている。余談であるが、高砂、町屋経由で会社に戻ったが、町屋で降りると都電の新車「8801」が三ノ輪橋行で到着、撮影後千代田線への階段を降りかけたところで「8802」が次の三ノ輪橋行で到着した。

3300形は、昭和43年から47年にかけて54両新製され、4、6、8両編成で普通から特急まで各種列車に使用され、京成線のみならず、都営浅草線、京浜急行にも乗り入れて活躍したが、新3000形の増備により、平成19年度から本格的に廃車が始まり、現在は4両編成8本の32両が在籍し、本線、金町線、千葉線で普通列車を中心に使用されている。その他に、北総鉄道に8両がリースされ、印旛日本医大~羽田空港間等で使用されている。

 

柴又駅に到着した上野発金町行臨時特急(3353-3354-3355-3356

 

中間車の3354

 

「特急・金町」の方向幕

 

折り返しの回送列車

 

創立100周年のポスター