日本鐵樂者写真展/「炭鉱(やま)の機関車」

都電荒川線、鬼子母神前電停、メトロ副都心線、雑司ヶ谷駅近く都内豊島区鬼子母神参道の直ぐ近くにある「三愚舎ギャラリー」で「炭鉱(やま)の機関車」をテーマにした写真展が開催されている。

主催者は「日本鐵樂者撮影家集団」金澤 忠、蔵重信隆、杉 行夫、野口信夫の各氏で、メインは昭和40年代に撮影された台湾の瑞三炭鉱、インドのティポン炭鉱で、デジ青でぶんしゅう氏が発表された中国のグース、昭和50年の夕張線、52年の釧路太平洋炭鉱の電機の生き生きした姿が展示されている。台湾国鉄のオハフ33を18m級に短くした客車を牽くDL等も見逃せない。

会期は9月2日(日曜日)まで、時間は12時~18時30分(最終日は17時まで)、木曜日のみ休廊となっている。土曜、日曜は開廊されているので関東地区の方で興味のある方は是非見に行っていただきたい。私が行った日には時々コメントをいただいている村樫四郎氏が観覧に来ておられた。

大阪市電751型

昭和20年3月14日、B29の大編隊が大阪を襲いました。今は亡き両親から何回となく聞かされた話の出だしです。

当時、両親は千日前にあった大劇のまえで写真館を開いていました。昼頃から始まった空襲は悲惨を極め、大劇の地下に逃げ込んだ両親は逃げ遅れて最後に地上に出たときは、すでに難波と千日前を結ぶ通りは炎のトンネルとなっていたそうです。何分かに一回、風が起きてトンネルの炎が上へ開くときがあるのに気づき、日本一(日本橋一丁目)の交差点へ出たときにはこの世のものとは思えない光景だったそうです。高島屋の前の石畳には亀の甲に似た焼夷弾が不発のまま突き刺さり、市電が何台も堺筋に並んで止まっていて、そのほとんどが骨組みだけになり、まだ燃えているものもたくさんあったそうです。父は、そこに落ちていた自転車を拾って母を後ろに乗せて祖母のいる八尾を目指したと言っていました。

今日の画を拝見して、両親からの話を改めて思い出しました。

※今回は、投稿者の手落ちで、保存に不備があり色が悪いことをお詫び申し上げます。

新規機能のお知らせ

先日の掲示板システムの更新により、画像投稿機能に関して、変更と新規機能の追加がありました。

一つは、画像追加の画面(下画像)においてドラック&ドロップでの追加が可能になりました。複数画像の一括追加にも対応しています。

また、2つ目として、これまでの画像投稿では下記のように記事の間に”一枚ずつ写真を挿入する”形となっていますが、

ギャラリー機能を使用することで、投稿記事に含まれる画像の一覧(ギャラリー)が追加できるうようになりました。
ただし現時点では、ギャラリー機能はレイアウトが崩れます。近日中に修正予定です。

少し前の天理駅他


天理駅を発車するモ802-ク711-サ701-モ801の京都行急行/(50-8-6)

モ800系は昭和30年奈良線特急用として新製された車両で、奈良線の車両限界拡大後は、京都線、橿原線、天理線で使用された。

8月9日【22285】で、どですかでんさんが天理駅の画像を貼られたが、昭和50年に撮影した写真が出てきたので紹介する。

近鉄天理線は橿原線の支線のように見えるが、橿原線の西大寺~平端間の開業が大正11年4月(平端~橿原神宮前間の開業は大正12年3月)に対し、天理線は「どですかでんさん」が書いておられる通り、大正4年2月7日天理軽便鉄道として新法隆寺~天理間を軌間762mm、蒸気動力で開業している。大正10年1月大阪電気軌道に買収、大正11年4月平端~天理間を標準軌に改軌の上、架線電圧600Vで電化。762mmで残った法隆寺~平端間は、戦時中の昭和20年2月11日営業休止を経て27年4月1日廃止された。
平端~天理間は44年9月2日架線電圧を1500Vに昇圧。63年6月27日全線複線化。48年9月20日建築限界拡大工事が完成して大型車が入線可能になり、天理教大祭時等には標準軌区間各所から団体臨時、臨時特急等が直通するようになった。

モ8068他4連/(50-8-6)

モ822-ク722-ク714-モ807/(50-8-6)
820系と800系の混結編成。820系は昭和36年奈良線特急増発用としてM-T8編成が新製された。奈良線の車両限界拡大後は800系と同様であるが、2両固定編成で小回りが効くため、生駒線、田原本線、京阪電鉄乗入れ等にも使用された。昭和59年から南大阪線6800系の足回りを組み合わせて伊賀線に転属した。後2両は800系である。


【参考】天理発京都行急行/(41-2-16) 丹波橋

国鉄天理駅留置線(49年6月16日撮影)
天理教の大祭時には、全国各地から団体臨時列車が運転され、奈良線でもD51の牽く客車列車が見られた。国鉄天理駅には団臨用の留置線があり、一時期阪和線新性能化により役目を終えた旧形国電が留置されていた。その中で珍しいと思われる車両を紹介する。

クモハ61002/昭和7年10月日本車輌でモハ40002として誕生、27年主電動機を128Kwに取替え、28年6月の改番でモハ61002となった。49年8月廃車。
正面窓は、非パンタ側は運行窓を含めてHゴム化されたが、パンタ側は最後まで木枠であった。
下は現役時代/(48-9-15) 堺市

クハ55151/昭和12年7月日本車輌でクロハ69006として新製。昭和18年戦時改造で2等室廃止ロングシート化でクハ55104に。28年6月2等室復活でクロハ69010。昭和36年5月2等室廃止ロングシート化でクハ55104(2代目)。昭和37年12月改番でクハ55151に。昭和45年2月明石から鳳に転属。49年10月廃車。
下は現役時代/(48-3-21) 鳳

サハ57056/昭和8年12月大宮工場でサロハ56009として新製、京浜東北線等で使用。昭和18年3月大井工場で戦時改造2等室廃止でサハ57056に。東京地区で使用後、42年5月津田沼から鳳に転属。49年10月廃車。

奈良交通のボンネットバス
どですかでんさんが法隆寺駅前で撮影された結崎行を貼っておられるが、狭隘区間が存在するため比較的遅くまでボンネットバスによるツーマン運行であった。
奈あ1917/(50-1-12) 法隆寺駅

奈2あ1916/(50-1-15) 法隆寺駅

奈あ1915/(50-8-6) 高田営業所
方向幕の「三輪明神前」は撮影時に「幕回し」で出したもの。横の幕は「平端駅~高田市駅」を表示している。車両はいずれも41年式BXD30・帝国車体である。

十津川・新宮特急について
十津川・新宮特急は国道168号線の改良に伴い、昭和38年3月1日より運行され、奈良側の起点は奈良大仏前であったが、59年に八木駅に変更されている。
当初は奈良交通が新宮駅~奈良大仏前間2往復、国鉄バスが新宮駅~五条駅間1往復、熊野交通が新宮駅~橋本駅間2往復運行され、新宮~五条間に限ると5往復運行されていた。
どですかでんさんが貼られているのは2代目の車両で、現在の使用車両は5代目である。
奈2あ1750/ (50-1-15) 法隆寺前
38年式いすゞBA743P(車体は川崎航空機製)で、初代の十津川・新宮特急用車両。「奈良交通50年史」(多分)に同形の近い登録番号の車両の走行中の写真が掲載されている。写真は最晩年で法隆寺駅周辺のローカル運用に使用されていた頃である。

奈22あ 179/(50-8-6) 五条バスセンター
50年式いすゞBU04P(車体は川崎重工製)で、十津川・新宮特急、湯ノ峰急行用として新製された車両である。写真は奈良大仏前9時20分発湯ノ峰温泉行急行で、湯ノ峰温泉には16時4分に到着した。湯ノ峰温泉行急行はあと1本、奈良大仏前発11時25分→湯ノ峰温泉着17時39分があった。

奈22あ 180/(54-4-27) 奈良営業所

奈22あ 181/(54-1-15) 奈良営業所
湯ノ峰温泉行きは川湯温泉まで延長されたが、現在では新宮行特急が湯ノ峰温泉、川湯温泉を経由するルートに変更され廃止された。

奈22あ 423/(54-4-27) 奈良営業所
52年式いすゞBU04P(車体は川崎重工製)で、北山峡経由新宮行特急用として新製車両である。奈良大仏前から八木駅、大和上市駅、杉の湯(川上村)、池原(下北山村)、熊野市を経由して新宮まで2往復運行されていた。開業は十津川・新宮特急より1日早く昭和38年2月28日である。初代の車両はボンネットバスで、後の車両も座席こそよかったものの通常の路線バスと同じ2段窓であった。

十津川・新宮線と比較すると沿線に観光資源が乏しく、生活路線的な性格が強かったため、マイカーの普及と沿線の過疎化の進行により、下桑原以遠が廃止され、自治体のバスに代替されてしまった。現在は八木駅~池原間1往復、下桑原間1往復、いずれも途中の杉の湯乗り換えで運行されている。
下桑原以遠は自治体バスにより一応路線は繋がっているものの接続が悪く1日で熊野市まで到着することが不可能であったが、最近下北山村営バスが路線延長により終点の桃﨑大橋で、熊野市営バスと接続するようになったため4本乗り継ぎで辛うじて熊野市まで到達できるようになった。
新宮駅まで行く場合は更に1本乗り継ぐ必要がある。下北山村営バスは土日祝日、年末年始は運休のため注意が必要である。また八木から行く場合、下北山村営バスが桃﨑大橋に到着5分前に熊野市営バスが発車してしまい、次のバスまで2時間待ち時間がある。
逆方向の場合は熊野市駅12時22分発に乗れば、乗り継ぎがスムーズで17時54分に八木駅に到着する。
リタイヤ後、行きは十津川・新宮特急、帰りはこちらで新宮まで往復したいと思っている。

新盆墓参のコメントに代えて

犬伏です。
コメントに写真が入りませんので22399 KAWANAKAさんの記事のコメントの代わりに新規投稿とさせていただきます。

二ノ瀬での KAWANAKAさんの写真に不思議な影が写っていますが 私の写真には写っていません。不思議です。

市原で写した写真は 鞍馬へ向かう「きらら」で、本日は一編成のみの運用でした。
秋の紅葉でもないこの季節はなかなか絵になりません。

折り返しの出町柳行に乗車しました。

その後 出町柳で京阪特急8000系に乗り京橋から土居駅へ旧3000系の特急を写しに行きましたが、その少し前から雨が降り始めそのうち雷とともにどしゃ降りになり、その中を8081(旧3055)を先頭とした8連特急 淀屋橋行が走ってきました。土居15時20分通過、京橋到着予定15時23分 複々線直線区間の快走です。KAWANAKAさんのきれいな晴れた写真と対象的な大雨の旧3000系特急車をご覧ください。縦樋から流れ落ちる雨のしぶきもすごかったです。

澤村氏が宮内庁へ行き許可をいただいたというダブルデッカーの「時代祭のイラスト」もこの8831号(旧3805)が最後となりこの車両とともにもうすぐ消えようとしています。残念ですね。

この突然の雨、お二人のカメラトラブル 影のある写真 不思議な一日でした。
やっと果たせたお墓参り 少し肩の荷が下りましたが、わしも一緒に来ているぞと何か主張されているような感じがしました。

澤村君の新盆墓参

KAWANAKAです。

本隊に遅れること約2週間。仕事でお参りが出来なかった3名(Inubuse、Wakuta各氏、小生)がお参りをさせて頂きました。我々が殿(しんがり)を勤めたと思いますので報告をします。

10:00に出町柳に集合し、墓参。華と線香を手向けました。折角来たので澤村君も一緒に行きたかったであろう叡電を撮影して帰ることにしました。

鞍馬まで一旦上り、二ノ瀬で下車してロケしたときのこと、Wakuta氏の様子がおかしい。バッテリーが電源喪失。カメラが動かない。今朝ぱんぱんに充電し動作を確認したのに、という。あ~ら不思議!

このとき撮った小生の写真。写らんでも良い影が写っており、何でしょうね。

更に、市原。さすがにWakuta氏、転んでも唯では起きない、携帯で撮影するという。写真は構えるInubuse氏と何とかならんのかと苦闘するWakuta氏。結局、どうもなりませんわで退散することになるのだが、今度は小生のカメラの設定が動かず同じ設定でしか撮影することしかできなくなり、ついにメシのあと京阪で退散することにしたのでした。

Inubuse氏は関東に戻る前に旧3000特急を撮って帰るという。すると俄かに掻き曇り猛烈な雷雨。澤村氏の因縁か?Inubuse氏は雨のええ写真が撮れたと言っていたが・・・。

おかげで京阪のシールラリーは満印。やっと墓参が出来て肩の荷が下りた3人でした。折角なので前日に撮った3000とシールの表紙を載せます。

*この投稿は、帰ったらすぐにせよ、車中決定によりおこなったもので3人の報告とするものです。

夏の外回り鉄ー早起きは3本の得

暑い毎日が続いております。

暑がりなので藤本氏やINUBUSE氏のようには取材ができていません。先日もINUBUSE氏の紫陽花に触発されて藤本氏の南海/阪堺も出かけようとしたら、花は萎れているし暑いし、上手くはいきません。やっぱり夏は外回り鉄に限ると腹を括りました。18切符もさらっぴんのまま、京阪旧3000シールラリーもさらっぴんのままで残っています。

小生は原則外回りは仕事にそんなにないのでもっぱら通勤を利用しての範囲です。盆前後は定期から外されたきたぐに、日本海が申し訳程度に復活するので、それを外回りで狙います。

さて、この時期、夜が明けるのが早く少し頑張れば佐川EXPが撮れます。拙宅前あたりで05:00目安です。今日は頑張って起きます。休み時期でなければこの時間先ず誰も出会いません。さらにここはフェンスが出来てから誰も撮らないでしょうから当然1人です。新聞配達のお兄さんとすれ違いました。フェンスの上に片手でカメラをいっぱい持ち上げて、1発決めうちです。貨物にあるまじき速度でアッと言う間に通過して行きました。

急いで自宅に戻り、出勤の身支度。

普通は07:20に自宅を出ますが、今日はきたぐにを狙うので少し早く出ます。きたぐには06:30に高槻を通過しますので場所を変えて今日は高槻駅から大阪よりの芥川鉄橋にしました。ここでも早朝のランニングかワンコの散歩しか出会いません。川床にいるので、いつ飛び出してくるか分かりませんので、しばらくシャッターに指を当てて待ちます。

架線柱の位置が良くないのですが、まあ良いか(暫くは色々撮れるから)と腹を括りこれも1発。いまいちですが、とにかく撮れました。

これと、日本海を合わせて朝は3本の得となります。今日は日本海を撮ると遅刻なのでまたの機会とします。

通常は朝に183こうのとりの回送を駅までの途中で1発撮れます。国鉄色なので見逃せません。駅に着くと丁度の時間でホームの男子トイレから回送の381くろしおが撮れます。撮り終わると急いでホームに下りて普通で次の摂津富田に行き、ホームの大阪よりの先端からきたぐにを捕捉、すぐ後にくる普通で茨木まで行き、ちょうど併走してくる快速に乗り換えて始業時間に滑り込むというわけです。きたぐにが走るときだけ3本の得となります。摂津富田のきたぐにはちょくちょく同業サラリーマンがいますが、こうのとり回送、トイレのくろしおは会ったことがありません。男子小用の横からの撮影でかなり度胸が要りますが昔、祇園階段下の万歳三唱で鍛えてあるのでどうということはありません。これが3本の得です。なお下の写真は183だけ撮影日が違います。

さて、勤務が終わると18:50少しまえに大阪駅にたどり着けます。適当に残業をしての時間です。

大阪で振り子こうのとりを撮るか、新大阪まで出るか迷うのですが、新大阪に出ると381くろしお(新大阪止)、それが向日町へ回送で出た後に入れ替わりに始発283くろしおが入線します。更に30秒後にこうのとり(新大阪止)が着きます。くろしおのドア扱いとこうのとりの到着と殆ど時間差がありません。撮影後、上り新快速ホームに走れば反対ホームから編成写真が取れ、直後に入ってくる新快速で高槻に戻れます。先ほどのトイレで待機すれば、先ほどのこうのとりの回送がすぐ新快速の後を追ってきます。さらに2分後、だれも取らない281はるかがこうのとりを通過追い抜きます。トイレに入らずにホームで1枚、その後急いでトイレに駆け込むという手もあります。これは3本の得以上です。撮影終了が19:15。これで安心して帰れるというものです。今日もちゃんと撮れたので折角なので用を足して帰宅します。良い写真ではありませんが、今や貴重な列車なのでまあ良いでしょう。

まずは新大阪での写真。新大阪に到着時に既に回送とされており、詰まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に高槻。左はホームからですが、はるかの通過追い抜きがあるので、回送こうのとりはゆっくり側線に入る。この写真以外に後追いも撮れる。右はトイレからの写真。

まだまだ、外回り鉄は続きます。

 

「鉄道絵葉書の世界」と「天理軽便鉄道法隆寺線代行バス?」

クローバー会員の皆様 残暑お見舞い申し上げます。

ところでこの炎天下の中、さる7月26日に天理参考館で行っている「鉄道絵葉書の世界」を見てきました。天理までのルートは私のところからですと、信貴山下駅から王寺で田原本線に乗り換えて西田原本まで行き、橿原線、天理線で行くのが運賃も安く、時間が早く行けます。田原本線の電車に乗って景色を眺めていると、これが大阪市内から1時間もかからない所かといつも思ってしまいます。しかし、西田原本駅から橿原線田原本駅の乗り換えは便利になっていました。今までは橿原線の踏切を渡らないと田原本駅の改札口に行けなかったのですが西田原本駅と田原本駅の間がロータリーになっていて踏み切りを渡らずに改札口に行くことが出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平端駅で天理線の電車に乗って発車を待っていると子供を引率した団体が乗ってきました。子供はどうも幼稚園児のようで、よく観察してみると東京から来たようで、しかも親は付き添っていないようです。あとでわかったのですが、夏休み恒例の「こどもおぢばがえり」に参加するために天理に来たようです。天理駅に降りると、まもなく貸切列車が出発していきました。乙訓の老人が言われていた客車が駅の南側の公園に保存されていました。写真は帰りに撮ることにして天理参考館に急ぎました。天理参考館に行く商店街は全国から来た天理教の信者さんでにぎわっていました。 続きを読む

外回り鉄の南海電車


初めて撮影した「ラビート」。奇抜なデザインはどこにもパクられていない

7月の初め、外回り鉄で南海電鉄を訪れた。いつもは京都で途中下車して103、113、117系を撮影するが、たまには変わったところと思い、南海電車に行くことにした。阪堺線は京都にいた頃からしばしば訪れているが、南海本線は40年近く撮影したことがない。

大阪駅から関空快速に乗り、新今宮で下車。取りあえず堺までの切符を買い、改札を通ると目に前に高野線の各駅停車金剛行が来たので乗車して次の「萩の茶屋」で下車。駅の周辺は風流の駅名とは裏腹であるが、通過する南海本線の電車が綺麗に撮影できる。
ラビートを初めて撮影したが、よくこんなスタイルを考えたものだと思う。
40年前の新車7000系が、座席指定車と併結で和歌山市行特急「サザン」で快走しており感激する。座席指定車は気の毒なほどガラガラで、自由席車は立ち客がチラホラ程度の乗車率である。
40分程撮影後、場所を天下茶屋駅に移して高野線の電車を撮影していると、6000形のトップナンバーが来てまた感激した。
30分程撮影後、特急サザン(勿論自由席)に堺まで乗車。7000系はロングシートでもゆったりしているし、昼間は指定席料金を300円位にしないと乗ってくれないと思う。
堺駅から阪堺線の大小路まで歩き、ド派手なパチンコ屋の広告電車に住吉鳥居前まで乗車。東京都であれば許可されないであろう。次の住吉の交差点と合わせて40分程撮影したが、都電カラーの502、筋肉マン電車の505を撮影した。
上町線で天王寺か阪堺線で南霞町に出て地下鉄で梅田に行く予定であったが、時間切れのため、南海本線住吉大社から難波に出て地下鉄に乗った。

モハ7033他8連の特急「サザン」/7000系は昭和38年から43年にかけて新製された。新製時から今日まで特急から普通まで幅広く使用されているが、近年廃車が出ている。

モハ7173他4連の普通/7100系は7000系のモデルチェンジ車として昭和44年から48年にかけて新製された。

モハ10909他8連の特急「サザン」

モハ2152他4連の普通和歌山市行/高野線の山岳区間直通用車両であったが、線路改良により橋本まで20m車が入るようになり余剰となったため本線に転属した。主に難波~和歌山市間と難波~関空間の普通に使用されている。

モハ6001他8連/昭和37年製で半世紀以上使用されている。7000系や7100系は廃車が出ているが、全車両健在で「良いものは長持ちする」見本のような電車である。

 クハ6521他6連/昭和50年1編成のみ新製された電機子チョッパ制御の試作車で当初は8000系と呼ばれていた。平成3年機器を交換して6200系に編入された。

 泉北高速鉄道5506他8連/平成2年に新製されたVVVFインバータ制御車。

 モハ706/パチンコ屋のラッピング車であるが、東京では間違いなくボツになるだろう。

都電カラーのモハ502

モハ504

キン肉マン電車のモハ505

昭和47年3月26日の外回り鉄
この日は、七道と泉北ニュータウン光明池近くの用務先に行った。
新今宮から南海本線に乗らずに阪堺線南霞町から綾ノ町まで乗車。
用件終了後七道から乗車して、時間調整のため堺で途中下車、再度乗車して羽衣で下車。
高師浜線と羽衣支線を撮影後、鳳まで乗車。ここから光明池行のバスで次の用務先に向かった。

モハ11021他6連特急「四国号」/堺

 モハ1560他5連の特急「南紀号」/堺

「南紀号」のラスト「サハ4801」/堺


モハ7025他6連の急行
/堺

 モハ7116他4連の普通/堺

 クハ7852他6連の急行/堺

高師浜線のモハ1560/羽衣

 鳳~東羽衣間のクハ79306他3連/東羽衣~鳳

広島電鉄の改造連接車

「昭和の電車」に広電宮島線の改造連接車が登場した。イラストは西広島行の電車が広電廿日市~宮内間の宮内トンネルに進入するところを後追いで描かれていると思われる。
ラッシュ時や多客時を中心に活躍したが、昭和55年12月に廃車になった。

1041+1042/(52-1-2) 荒手車庫

広電にはもう1形式改造連接車が2編成在籍した。大阪市電1600形改造の2511+2512と2513+2514で、旧車号は順に1617、1630、1636、1640である。昭和41年3月大阪車輌で改造され、車体内外ともに大阪市電時代の面影をよく残していた。市内線から宮島線の直通運用に使用されたが、2511+2512は55年12月、2513+2514は54年12月に廃車になった。

2511+2512/(52-1-2) 荒手車庫

2513+2514/(44-3-24) 広島駅前~猿猴橋町

広電連接車1040型

しばらく新聞休刊日や休稿日のためお休みが続きましたが、久しぶりの掲載です。

今回は広電の郊外型連接車4010型です。解説に「京都市電と大阪市電をモデルに・・」とありますが、なるほど京都市電600型にそっくりですね。

車石 それから

あの溝のある石(車石?)は何か?

あの溝のある石が気になり、気分的にもやもやしていたので再び訪れることにした。通りがかりに偶然見つけたものだからどのあたりかよくわからず、適当に歩いていると、気がついたら問題のところに来ていた。

左の写真でわかるように古い旧家の門の前にある階段に設置されているものである。とにかく、この家の人に聞いてみることにしたが、この家には人が住んでいなかった。近くに人がいないかと周辺を歩いていると80歳ぐらいのおばあさんがいたので聞いてみることにした。 

 「ちょっとお尋ねしますが、この先にある家の門の前にある階段に溝が付いた石はなんのためにあるのですか。」と聞くと、その場所まで一緒に行ってくださり「ああ、これは人力車を通すためのものですわ。ここの家はお医者さんでした。」と言われた。どうやら家から出かける時に人力車を使っていたため、玄関先まで人力車が行くのに階段部分を車が通りやすくしたものとわかった。

最初に考えていた荷車でなく人力車であったが、車を通りやすくするためのものであったことには間違いなかった。「いつ頃に出来たものですか。」と聞くと「よう、わかりませんわ。」ということだった。また、別の人が通りかかったので、尋ねてみると、同じように人力車を通すためで、ここで使っていた人力車は文化センターの民俗資料として寄贈されて展示していると言われた。これは大変参考になる情報であった。とにかく、主要部の寸法測定と詳しく写真を撮っておくことにした。

写真の数字はそれぞれの溝石の長さで、左右をずらして設置されている。適当な長さの石がないためなのか、わざとずらしているのか本当のところはわからない。しかし、継ぎ目をずらすことで車輪がうまく通るようにしたのかも知れない。なお、これから記入されている数字の単位はmmである。

溝の間隔は全体の写真から見ると870mmと850mmと違っているが、最上段には車が登り易いように切り欠きがある。その間隔が850mmであることから、本来は850mmで870mmは施工時か使用中にずれたものではなかろうか。

 

最上段は右の写真にあるように切り欠きがあり、その中心線での間隔は850mmであった。文化センターに展示されている人力車の車輪中心線間隔を測定すると850mmで同じであった。これよりこの溝にある石は人力車が登り易いようにしたものという聞き取りの情報は十分に理解できる。

 左の写真は道につながる部分でこれも登り易いように傾斜がつけてある。展示してある人力車は1人乗車用で車輪の幅は70mmで、車輪直径は1020mmであった。この様に車輪径が大きいので通るには問題はなかったのであろう。

 

 

あの溝のある石は人力車を通し易くするためのものだった!

この一連の調査で偶然見つけた溝ある石造品は人力車を通し易いように設置されたものとわかった。ただし、設置された時期についてはわからなかった。そして、人力車について調べてみた。最近は観光地でよく見られるのであまり気にしていなかったが、調べてみると以下のことがわかった。

1. 人力車のはじまりはいろいろな説がある。一般的には1869年(明治2年)泉要助、鈴木徳三郎、高山幸助の3名が考案し、翌年の1870年(明治3年)東京府から製造と営業の許可を得て、人力車の営業を開始したと言われている。

2. 全盛の頃は1896年(明治29年)で、全国で21万台があったといわれている。そして、都市交通だけでなく、組織化され乗り継ぎにより東海道、奥州街道などの長距離営業も行われていた。

3. 人力車の輸出もされており、明治後期では中国、インド、東南アジアなどに輸出していた。数は少ないがヨーロッパ、北アメリカなどにも輸出していた。

                 参考文献 日本史小百科 交通 東京堂出版

同志社のホームページにある「新島襄ディスコグラフィー」によると同志社の創立者である新島先生が1874年に帰国され、東京から故郷の安中へ帰る時に人力車を3台借り切って向かい、そして、安中に着いたのは深夜であったという。また、新島先生が全国を伝道のために旅行をされているが、鉄道網が整備されていない頃であるので、航路を利用し陸路は人力車、馬そして徒歩で移動されたとある。この様に当時は人力車が重要な移動手段の一つであったのであろう。そして、鉄道網の整備などによりしだいに衰退し、地方で自家用などとして残ったという。今回見た溝のある石はその自家用人力車を通すため作られたものであると思う。そして、寄贈された人力車を調べるために文化センターに行った時、教育委員会でこの民家を調査した報告書があると言われたので資料をコピーしていただいた。そこには「道路に至る階段には、診察に使用した人力車のための溝を切った石が残っており興味深い。」とあった。

 ということで大津と京都間で見られる「車石」と同じものではないが、軌間850mmに敷設した「石のレール」といえるのではないだろうか?しかし、「車石」が気になるのでさらに調べてみると京津間の交通事情が・・・ ではまたいずれ!

静岡鉄道秋葉線の思い出

この付随車3(丸屋根化改造)を除き1955年3月の撮影

小生が好きな電車のうちでも、特に好きなのが田舎電気軌道で、具体的に名を挙げれば、北から花巻電鉄鉛線、秋保電鉄、駿豆鉄道三島軌道線、松本電鉄浅間線、それに今回の静岡鉄道秋葉線である。しばらく投稿ブランクが続いたが、秋葉線のクラシックな車両をご覧頂きたい。車歴云々は小生の出る幕ではなく、当然に乙訓老人の役割であろう。遅滞なく義務を果たされんことを。静岡市内線からの転属車もある。

歴史は古く、1902年12月28日秋葉馬車鉄道として、森町-袋井駅間7哩41鎖開業。軌間は2尺5寸ともされるが、2フィート6インチであろう。1909年12月31日現在では客車10、貨車7、馬匹17頭、御者10、車掌6人と、第19回(内務省)「土木局統計年報」(1911年刊行)にある。1911年12月28日には可睡口-可睡間1哩余の支線も開業。1923年6月23日駿遠電気に併合され、1925年1067mm改軌及び電化。

サブロクになっても国鉄線と全く繋がっておらず、当然貨車が直通しなかったのは、秋保電鉄とも共通する。線路が規格とも著しく貧弱で、到底国鉄側の貨車は入れないし、静鉄側の貨車は国鉄線に直通できる代物ではない。だから最後まで連結器は連環式(螺旋による緊締装置を欠く3連環)で遊間は広く、当然バッファーを備えていた。

それらの車体から何までが、まあ時代がかっていたこと。末期こそポールもYゲル化に、電動車は秋保同様車体をそのままボギー化もされ、付随車では屋根がダブルから丸屋根化されたものもあったとはいえ、それ以上の近代化投資はなく、1962年9月20日廃止された。可睡支線は1945年1月1日以来休止し続け、そのまま同日付廃止。

初めて見参に及んだのは、高校を卒業し即浪人と化した1955年3月、九州から東北を駆け足で一回りした、行程では最終に近い3月31日。駿遠線は悪天候でロクに写真が撮れなかったが、秋葉線では皮肉にも天気が回復し、何枚かを撮影した。

その後2回ほど行き、奥まで乗車して尋常ならざる見聞をした。一つは雨上がりだったが、線路班の爺さまが一人添乗してきた。お定まりの巻脚絆(ゲートル)姿だが、通常の地下足袋ではなく、ゴム長を穿ち、ビーター(線路バラス搗固め専用鶴嘴)ならぬ、竹箒を逆手に持っているのは謡曲「高砂」の翁なみ?。それも「昔は確かに竹箒だった」という、とことんちびて、あたかもササラに柄をつけたような超古い代物である。


このあたりも新設軌道ではあるが狭いこと

2軸単車をボギー化したモハ7 秋保電鉄と同様である 橋はコンクリート製

電車はのんびりと奥へ向う。とある停留場で、運転手がノッチを入れても、電車はビクとも動かない。と、件の爺さまに声がかかり、オウッと箒を持って近くの水路に行き、ざぶんと竹箒の先端を突っ込み、電車に戻り、やおら車輪とレールの間に突っ込んでゴソゴソと。

さて読者諸兄、ここでクエスチョンです。この線路班の爺さまは、一体何をしたのでしょうか。

実は道路の片側に併用した線路なのだが、舗装してない路面は穴ぼこだらけ。そこに先ほど降った雨でいたるところ泥水溜まりだらけ。時折通るバスやトラックがたっぷりと泥水を撥ね、それがレールの上で乾き―が重なってレール踏面に泥が積もり、いわば絶縁状態になってエレキテルが通じなかったのである。

止まる前は惰行だから停留場にまでは到達できる。ところが発進ができないため、かの爺さまが添乗していた次第であった。こんな事情が飲み込めるのには、正直しばらく時間を要した。ちびた=ささら同然の箒の方が泥を払うのに都合がよく、また濡らしているから、ともかくは通電し、目出度く電車は発進できた。動き出してしまうと電車の重みで、何とかエレキは通うらしいことも、線路班員が場違いなゴム長だった事情も理解に到達できた。ただこの一件をカメラに収めていないのが心残りである。

続行運行列車との離合 先頭電車妻の向って左側窓下部の円盤は「続行車あり」の標識 スタフは後尾の電車が保持 


これは単行同士の離合

ここだけでしか経験しなかった話をもう一つ。
離合場所に先着した小生乗車の電車の運転手は、停車し降車客扱いが終わると、やおらスタフを手にして下車。交換する電車はまだ現れていないのに、と訝しく思っていると、線路脇にある、あたかも米国郊外住宅の郵便受けをスパルタンにしたような鉄箱を鍵で開け、スタフを納めてまた施錠。この時には到着していた離合電車の運転手からスタフを受け取って、そのまま発車。反対側の運転手は、やはり鍵で鉄箱を開け、スタフを取り出して施錠し、乗務に戻った。

要は先着した電車が交換すべきスタフを鉄箱に納め、遅れて到着した方の運転手はスタフを前者に手渡したのち、自分が携帯すべきスタフを鉄箱から取り出すという、他線では見たことのないシステムであった。わざと手間をかけることで安全を確保していた次第で、恐らくは以前に事故―不都合があって、かように改めたものと思われる。

スタフは単線での最も簡単な保安方式で、この線では陸上競技リレーでのバトンを少し太くしたような木棒の先端に、真鍮の丸や三角などの、閉塞区間を示す標識がついたオーソドックスなもの。先般アップした松本電鉄浅間線では、通常のタブレット玉をキャリアと共にスタフとして使っていたが。


終点遠州森町に近く ここは新設軌道である

遠州森町 付随客車の付け替えは南に向っての下り勾配を利用してブレーキを緩め自然移動(降下)させる

袋井市街だけは流石に舗装されているが片側に寄せた敷設なのは、道幅が中央敷設に不足するからで、本来かような市街地=「家屋連たん地域」では道路を拡幅て中央に敷設すべきなのだが。この時点目抜き通りには、地方都市としての活気が満ちていた。


電柱には日本中いたるところに見られた「銀座通」のサインが

なお和久田康雄『私鉄史ハンドブック』114頁を見ると、この線の掲載誌として「急電101号」とあるではないか。すっかり忘却の彼方と化していたが、これは故奥野利夫氏主宰京都鉄道同好会誌「急電」の1960年夏季別冊で、DRFCメンバーが執筆し、若かりし日の乙訓老人と小生がほとんど全部筆耕(ガリ版=謄写印刷)した「私鉄リポート集」である。

その中で「地方軌道短信」として、北海道簡易軌道(歌登、浜中、鶴居の各村営軌道)と、この秋葉線をちょっぴり触れたもの。秋葉線に関してはモハ7、8のボギー化日付(1958年2月/6月、山梨工場施工)、Yゲル化は1958年10月、ハの丸屋根化が進行中と記している。半世紀以上昔の話であった。

デジタル青信号 運転再開のお知らせ

ご迷惑、ご心配をおかけしましたデジタル青信号につきまして、運転再開の目処が立ちましたので、只今より新規投稿の受け付けを始めさせていただきます。再開試運転と、ご認識ください。

何分大幅なソフトのバージョンアップを行いましたばかりですので、運行中に何らかの不具合が生じることも予測できます。その際は、お手数ですが、管理者までご連絡ください。また以前の原稿につきましても、投稿・コメント件数が膨大で完全確認ができていません。不具合が発生している恐れもあろうかと思いますので、発見次第にご連絡ください。すでに投稿記事が消滅してしまっているとの報告も受けております。対応についてはケースバイケースとなりますので、その都度に、ご連絡をさせていただきます。

今回の再開に伴い新規投稿画面に変更があります。ツールバーの配置が変りましたが、基本的な機能は、ほぼ同様です。慣れていただくしかないと思います。
また最新バージョンアップにより、閲覧画面のデザイン変更が可能となりました。要望されていました①投稿記事スペースの横幅拡大②紀行記等の長文連載記事の別途取扱いを基本に近々、素案を作成いたしたいと思っております。デザイン変更には新たなプログラムを作成する必要がありますので、頻繁にできるものではありません。ホームページ開設以来12年間で、初めての車体更新になります。今までに、①②の他に「こういった閲覧画面にして欲しい。」、「こういった事ができたら良いなあ。」等々の要望をお持ちでしたら、この機会に具体的にお聞かせください。要望は、7月27日までに、この投稿のコメント蘭にご記入していただければ幸いです。

尚、今回のトラブルにつきましては、一般の Internet Explorer等では発生しておりませんのでお分かり難いかと思いますが、Web ブラウザー を立ち上げてアクセスしますと下の画像の表示となり、ホームページ閲覧が不可能となりました。Googleのマルウェアフィルタによる誤検知が原因と判明して解決しましたが、今後も新たな予測不能な問題が発生するかと思われます。その都度の対応になりますのでご迷惑をおかけするかと思いますが、ご理解いただけますよう、よろしくお願い申しあげます。

週末の障害発生について

7/12より7/15にかけてGoogleのマルウェアフィルタによる誤検知が発生しました。

それに伴い、GoogleChromeブラウザやウィルスバスターなどをインストールしたPCから本サイトへのアクセスができなくなっておりました。7/15早朝にGoogleからの再承認を受けて、誤検知については障害復帰しました。

その後、セキュリティーレベル向上と、昨今多発しているコメントが投稿できない等の動作不安定の改善のために、掲示板の内部バージョンを2.8.2から3.4.1に上げる等の大幅なバージョンアップを行いました。しかし、作業中にインポートエラーが多発、通常の作業では復帰できない事態になったため、sqldumpからの復帰を行いました。

7/16 2:00現在、過去の投稿記事とコメントの修復と復帰がほぼ終わりました。173万行のsqldump(サーバの生データ)からの手作業での復帰を行ったため、数件の記事とコメントの消失が予想されます。また、かなり掲示板のバージョンが上がったため、投稿画面などのデザインが若干変わっています。

操作の不明な点、怪しい挙動、見過ごせない記事の消失がみられましたら、こちらの記事か、以下のアドレスに一報をください。最後になりましたが、今回は自分の不始末によりdrfc-obの方々に御迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。

管理人 小西

富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線

乙訓の長老より【21767】「富山の63スタイル2台で2題」で富山地鉄のクハ145、146の紹介と写真の公開があった。長老の解説の通り、昭和19年新潟鐵工所製でノーシル、ノーヘッダーの軽快な車体は外観からは戦時形には見えないが、昭和21年入線時の車内は、天井内張り無し、無座席、無燈で戦時形そのものである。
もう1題のクハ91と92は稲荷町で撮影した筈と思い、ネガ探しをしたところ、46年3月21日にクハ91を撮影していた。

【クハ91】
昭和37年富士重工で新製、台車は近鉄名古屋線改軌時に発生したD16を履いていた。富山地鉄で3扉両開の完全な通勤型スタイルの車両は、後にも先にもこの2両のみであった。42年から44年にかけて名鉄からモ3800-ク2800→モ14710-クハ10が7編成入線すると余剰になり、46年僅か9年の在籍で廃車になった。

 【万葉線】
INUBUSE氏より【21511】「万葉線紀行 連節車と除雪車」で同線の近況をレポートしていただいたが、昭和40年代の様子をご覧に入れたい。万葉線の歴史は少々複雑で、昭和23年4月富山地方鉄道高伏線として地鉄高岡(現高岡駅前)~米島口~伏木港間を開業。26年4月米島口~新湊(現六渡寺)間を開業して新富山~新湊間の射水線と結ばれ、地鉄高岡~新湊~新富山~富山市内線西町間の直通運転を開始した。

北陸本線と比較すると大きく迂回するため富山~高岡間を直通する乗客は少なかったが、新湊市と富山、高岡を結ぶ都市間連絡路線としての役割を果たしていた。後述の堀岡~越ノ潟間分断後、射水線が廃止されてしまったのは都市間連絡機能を失ったことが原因と考えられる。

余談であるが、富山~高岡間は昭和60年代までバスが昼間10分間隔で運行されていたが、JRの本数の増加、交通量の増加により定時性の喪失による乗客減で昼間1時間間隔にまで減便されている。

昭和34年4月地鉄高岡~米島口~伏木港、米島口~新湊間を加越能鉄道に譲渡して、地鉄高岡は新高岡に改称された。射水線は大正13年10月、越中電気軌道として富山北口~四方間を開業、部分開業を繰り返し8年12月新富山~新湊間を開業、昭和18年1月富山地方鉄道に合併され、同社の射水線となった。

41年4月、富山新港建設のため、堀岡~越ノ潟間が廃止となり、高岡側の越ノ潟~新湊間が加越能鉄道に譲渡され同社の新湊港線となった。
46年9月米島口~伏木港間が廃止され、現在の路線になった。

 平成13年加越能鉄道が乗客減により廃止を表明したため、高岡市と新湊市が中心となり「第3セクター」で「万葉線株式会社」を設立し、14年4月1日より新会社として営業を開始した。
現在は新車の導入、運賃値下げ、中新湊~越ノ潟間の増発、イベント開催による集客等により、乗客減が止まり増加傾向にあるとのことで喜ばしい限りである。

 デ5021/25年日立製作所製。最終的にデ5021~5026の6両が加越能鉄道の所属であった。(46-3-20 米島口)


デ5022
/25年日立製作所製。
(46-3-20 米島口)
現在も機器扱いで除雪車として残っているが、今年新製車と交代する。詳細はINUBUSE氏の21511】「万葉線紀行 連節車と除雪車」をお読みいただきたい。このまま動態保存できないものだろうか。

  デ5025/25年日立製作所製。(42-3-21 新高岡)

 デ5039/26年愛知富士産業製。(42-3-21 新高岡)
この時期は7021~7030、7037~7040の14両が加越能鉄道所属であった。写真の7039は富山地鉄笹津線に転属した。横のボンネットバスは白川郷西赤尾発のバスである。
デ5000形については、長老のご友人服部重敬様著「RM LIBRARY107/富山地鉄笹津・射水線 デ5000系物語」に詳しく書かれているのでお読みいただきたい。

 デ7051/昭和36年日本車輌製。(42-3-21 新高岡)
富山地鉄デ7000形を前後扉にしたスタイルで、設計図を流用して中扉のみ移設したためこのような奇妙なスタイルになった。7051~7053の3両が新製され、新高岡~伏木港間に投入しところ、明るい蛍光灯の輝く軽快な車体は、従来のデ5010形との格差が大きく、新湊方面の乗客から苦情がきたとのことである。

 デ7053/昭和36年日本車輌製。(46-3-20 米島口)
この時代の全面広告車は比較的珍しい。まだラッピング技術は開発されていなかったため、車体に直接ペイントされていた。

 デ7075/昭和42年日本車輌製。(46-3-20 米島口)
デ7071~7076の6両新製され、現在も健在である。

デ7076/昭和42年日本車輌製。(45-10-10 新高岡)


ボ1/大正13年大阪鐵工所製。(46-3-20 米島口)
富山ライトレール←国鉄富山港線の前身、富岩鉄道ボ1として新製された木製車で、僚車ボ2と2両新製された。正面はタマゴ形5枚窓、客室窓上に半月形の優雅な飾り窓があり、鉄道車両もここまでくると芸術作品である。
富岩鉄道は大正12年3月設立、翌年7月富山口~岩瀬浜間7.3㎞を開業、昭和2年12月富山口~富山間0.7㎞を開業した。12年12月富山地方鉄道の母体となった富山電気鉄道の傘下に入り昭和16年12月に合併されたが、昭和18年6月国家要請により鉄道省に買収された。
昭和23年4月廃車後、25年12月に富山地鉄に譲渡、ボ1は高岡軌道線、ボ2は笹津線で使用された。ボ1は41年射水線分断時に加越能鉄道所属となり、46年4月に廃車になった。

 
【参考】
ボ2(52-9-24 南富山)
富山地鉄に残ったボ2は車体改装により正面は3窓に、更に車体が鋼板張りとなり客窓上の半月形飾り窓もなくなった。50年10月射水線に転属後、55年4月廃車になった。

 セミボ21(43-4-6 岳南江尾)
富岩鉄道には、セミボ20と21の2両の半鋼製車が在籍し、セミボ20は昭和2年大阪鐵工所、21は3年日本車輌で新製された。両車とも買収後の26年8月クハに改造、28年3月廃車になった。廃車後、20は昭和30年静岡鉄道に譲渡されクハ7に、21は28年岳南鉄道に譲渡されクハ21として再起した。いずれも近隣私鉄でなく静岡県下の私鉄に譲渡されたことは興味深く、この時期は大手、中小を問わず車両不足であったことが伺える。

久しぶりの京阪守口車庫 その2

別件でモノクロプリント収納箱をかき混ぜていたら、誰に貰ったものか不明の、しかもカラーネガDPE用機器からプリントされたものと思えるものが2枚出てきた。1枚はそれなりに判別できる8人の姿が、もう1枚は19人の姿がぼんやり見えるものである。19人の中で断定できるのは前列の大西顧問、その左の眼鏡男は清水孝一郎君?。後列に移り右から2人目は老人、鈴木アキちゃん、津川君、2人飛ばして旦那、次の眼鏡はtrukame?そして磯谷のオッサン、2人飛ばして高橋の御大、残る2人?となる。

さて何時見学に行ったものか、さっぱり分らない。老人は1958年秋から頻繁に守口車庫に出入していたから思い出深さがない。多分、当時車両課長であった伊藤さんにOK貰って皆さんを守衛小屋の前で待ち受けたのであろう。大西さんに顧問になって頂いたのは高橋御大卒業後であり、19604月以降となる。服装からして195912月か、19601月であろう。3000系の話など未だ聞けない時期で、1800系特急マークを背景にしている。

この頃の最新特急車1810系をバックにしてピンボケ写真の撮影者は不明

新京成モハ100形

乙訓の老人 様、皆様
藤本先輩が多忙につき、本日電話で打ち合わせの上 新京成モハ100形の写真を紹介させていただくこととなりました。よろしくお願いします。
昭和52年2月6日夕方 くぬぎ山車庫の柵の外からの写真です。


ロクサンスタイルのモハ109号車の更新後の姿です。

後期更新車で15両がこのスタイルになっています。
全金車で側面通風器、窓枠は木製で出場し新京成転属後にアルミサッシ化、ドアも交換されています。
その後昭和48年から始まった特別修繕で この後期更新車は先頭車12両、中間車3両となり この109号はパンタなしの中間電動車になっています。
当日の編成は前から109-131-104-107-1112-108です。


2両目のクハ131です。


3両目のモハ104です。
モハ104号車はモハ100形の最初の更新車(昭和28年)でシル、ヘッダ-付き、モハ101,118,123はノーシルノーヘッダーで 共に半鋼製車体の初期更新車4両グループの1両です。
このグループ4両は後の特別修繕からはずれ昭和54年に廃車されています。


4両目のモハ107です。
モハ109と同じ 後期更新車ですが、扉は交換されていません。パンタグラフは撤去され こちら側の運転台は方向板がありませんので使用されていないようです。特修後は片運転台車になっています。


5両目のサハ1112です。


6両目のモハ108です。
モハ109、モハ107と同じ後期更新車25両の仲間です。モハ107同様 扉は交換されていません。
特修後は片運転台車になっています。


モハ108号 からの6連です。右の編成はモハ122先頭の6連、左はモハ102です。
モハ102の左にモハ103、クハ2015、モハ118が続いています。6連です。

モハ122です。
柵の間から何とか写した1枚です。敷地外からの撮影で、後ろの5両は写せていません。
モハ122は昭和31年から始まった中期更新車6両(102,103,112,117,121,122)の1両で、初期更新車とほぼ同じスタイルの全金車です。モハ100形は新京成へ昭和38年から譲渡され、このモハ122はその第一陣の1両です。特修後はモハ112,121が片運車、このモハ122を含めた4両はパンタなしの中間電動車になっています。

モハ116です。
後期更新車の特修後のスタイルですが扉は窓の大きい旧式です。


2両目のクハ2015です。
後にサハ2015となっています。元国電モハ30161とのことです。


モハ103です。
中期更新車 先ほどのモハ122と同じグループの特修後の姿です。扉取り替え、パンタなしの中間電動車となっています。右も同じスタイルのモハ102です。
大正15年製の京成モハ100形25両全車が昭和54年(半鋼製車)、61年、62年(全金属車)まで活躍したのは時代が時代だったといえ長寿であったと思われます。
新京成の電車はあまり写した記憶がなく、今回の写真が唯一かもしれません。通りがかりに車庫の裏に車を止めて写したかと記憶しています。ちょうど特修の始まったころで様々な形態の姿が写っています。ご笑覧ください。犬伏

「久しぶりの京阪3000」によせて(46年6月6日の思い出)


我々の到着直後で「はとマーク」に蓋がされ、パンタが降りている状態。

昭和46年6月6日の京阪3000見学会の記念写真を見て非常に懐かしく思った。OBは、私、
KAWANAKA氏、KOBOYASHI氏の他にもSIKATAISODAKURODAの各氏のお姿も見える。模型をされていた方は前日の運転会で今日のことを知らされたのだろう。私は恐らく特派員氏から連絡をいただいたものと思われるが、噂の京阪特急の新車が営業運転の前に見学できるとあれば、皆さん万難を排して参加されたのであろう。
当日のネガには3000系の他、元京津線の72改造の構内入換車が写っており、こちらも見学、撮影できたことはラッキーであった。

来春、3000系の引退が報じられているが、私も来年3月末で雇用契約期間が満了する。引継ぎの関係で5月頃まではパートタイマーで不定期運行をするかも知れないが、「JR、メトロ、ゆりかもめ」通勤もカウントダウンになってきた。

中間車3102/方向幕は「普通・天満橋」を表示

 元京津線72の構内入換車/ポールがパンタに取替えられ連結器が取り付けられた位で、車体は72時代と変わらない。

2306/工場ならではの写真。

 112

見学会は午前中で終了し、午後はINUBUSE氏と近鉄南大阪線に行き、河内松原、道明寺、古市で撮影した。当時としてはごく普通の車両ばかりであるが、今見ると結構貴重と思われるので参考までに掲載した。

ク6682他5連の御所発あべの行準急/河内松原~恵我ノ荘

 荷電代用のモ5612+モ5613/道明寺

モ5656+モ5655の道明寺線ローカル/道明寺

ク6521他4連の吉野行急行/道明寺


 モ6017他4連の吉野行急行/道明寺~古市

 モ6852他4連の吉野行急行/道明寺~古市

東京スカイツリーから見る鉄道

毎日、通勤で東京スカイツリーの足元を通っていますので、折角ならば、早めに上りたいと思い、東京スカイツリーの事前予約にインターネットでチャレンジしたところ、第八希望の6月30日土曜日午前8時30分に当選したので、東京スカイツリーに上ってきました。

通勤で、毎日見れるはずですが、着席通勤なので、押上あたりは、夢見心地で通過しています。建設途上も、できてからもじっくり見たことありませんでした。

今から、25年前、何の因果か浅草支店に勤務を命じられ、ここらあたりは、セールステリトリーでした。自転車でよく営業に廻ったものです。

当時は、コンクリート工場があり、東武鉄道のED5000形が出入りしていました。よく仕事をサボって眺めたものです。

当時は、まさかここにこんなものができるとは、思いもよりませんでした。

当日、地上350メートルの天望デッキまでは、ほとんど待たずに昇れました。ここまで、2500円です。(通常は、2000円)

さらに、先の地上450メートルの天望回廊を目指します。天望回廊の切符を買うのに約10分。追加で1000円かかります。

合計3500円かけて到達した地上450メートルからの鉄道です。


浅草~東京スカイツリー間 300系と通勤電車(東武の車両に詳しくないので、形式がわかりません。)

 

東京スカイツリー~曳舟間  スペーシア100系と6050系快速

字左が東武鉄道。右が京成電鉄です。京成電鉄の下を東武鉄道 亀戸線が走っています。

京成線は、京成曳舟付近高架工事中です。

 

業平橋(東京スカイツリー)の電留線 200系と300系と6050系快速

一度は、昇る価値はありますが、何度もは・・・

天望回廊へは、天望デッキでチケットを買う必要がありますので、待ち時間を気にされる方は、早めの時間に昇られたほうが良いと思います。