澤村君の新盆墓参

KAWANAKAです。

本隊に遅れること約2週間。仕事でお参りが出来なかった3名(Inubuse、Wakuta各氏、小生)がお参りをさせて頂きました。我々が殿(しんがり)を勤めたと思いますので報告をします。

10:00に出町柳に集合し、墓参。華と線香を手向けました。折角来たので澤村君も一緒に行きたかったであろう叡電を撮影して帰ることにしました。

鞍馬まで一旦上り、二ノ瀬で下車してロケしたときのこと、Wakuta氏の様子がおかしい。バッテリーが電源喪失。カメラが動かない。今朝ぱんぱんに充電し動作を確認したのに、という。あ~ら不思議!

このとき撮った小生の写真。写らんでも良い影が写っており、何でしょうね。

更に、市原。さすがにWakuta氏、転んでも唯では起きない、携帯で撮影するという。写真は構えるInubuse氏と何とかならんのかと苦闘するWakuta氏。結局、どうもなりませんわで退散することになるのだが、今度は小生のカメラの設定が動かず同じ設定でしか撮影することしかできなくなり、ついにメシのあと京阪で退散することにしたのでした。

Inubuse氏は関東に戻る前に旧3000特急を撮って帰るという。すると俄かに掻き曇り猛烈な雷雨。澤村氏の因縁か?Inubuse氏は雨のええ写真が撮れたと言っていたが・・・。

おかげで京阪のシールラリーは満印。やっと墓参が出来て肩の荷が下りた3人でした。折角なので前日に撮った3000とシールの表紙を載せます。

*この投稿は、帰ったらすぐにせよ、車中決定によりおこなったもので3人の報告とするものです。

夏の外回り鉄ー早起きは3本の得

暑い毎日が続いております。

暑がりなので藤本氏やINUBUSE氏のようには取材ができていません。先日もINUBUSE氏の紫陽花に触発されて藤本氏の南海/阪堺も出かけようとしたら、花は萎れているし暑いし、上手くはいきません。やっぱり夏は外回り鉄に限ると腹を括りました。18切符もさらっぴんのまま、京阪旧3000シールラリーもさらっぴんのままで残っています。

小生は原則外回りは仕事にそんなにないのでもっぱら通勤を利用しての範囲です。盆前後は定期から外されたきたぐに、日本海が申し訳程度に復活するので、それを外回りで狙います。

さて、この時期、夜が明けるのが早く少し頑張れば佐川EXPが撮れます。拙宅前あたりで05:00目安です。今日は頑張って起きます。休み時期でなければこの時間先ず誰も出会いません。さらにここはフェンスが出来てから誰も撮らないでしょうから当然1人です。新聞配達のお兄さんとすれ違いました。フェンスの上に片手でカメラをいっぱい持ち上げて、1発決めうちです。貨物にあるまじき速度でアッと言う間に通過して行きました。

急いで自宅に戻り、出勤の身支度。

普通は07:20に自宅を出ますが、今日はきたぐにを狙うので少し早く出ます。きたぐには06:30に高槻を通過しますので場所を変えて今日は高槻駅から大阪よりの芥川鉄橋にしました。ここでも早朝のランニングかワンコの散歩しか出会いません。川床にいるので、いつ飛び出してくるか分かりませんので、しばらくシャッターに指を当てて待ちます。

架線柱の位置が良くないのですが、まあ良いか(暫くは色々撮れるから)と腹を括りこれも1発。いまいちですが、とにかく撮れました。

これと、日本海を合わせて朝は3本の得となります。今日は日本海を撮ると遅刻なのでまたの機会とします。

通常は朝に183こうのとりの回送を駅までの途中で1発撮れます。国鉄色なので見逃せません。駅に着くと丁度の時間でホームの男子トイレから回送の381くろしおが撮れます。撮り終わると急いでホームに下りて普通で次の摂津富田に行き、ホームの大阪よりの先端からきたぐにを捕捉、すぐ後にくる普通で茨木まで行き、ちょうど併走してくる快速に乗り換えて始業時間に滑り込むというわけです。きたぐにが走るときだけ3本の得となります。摂津富田のきたぐにはちょくちょく同業サラリーマンがいますが、こうのとり回送、トイレのくろしおは会ったことがありません。男子小用の横からの撮影でかなり度胸が要りますが昔、祇園階段下の万歳三唱で鍛えてあるのでどうということはありません。これが3本の得です。なお下の写真は183だけ撮影日が違います。

さて、勤務が終わると18:50少しまえに大阪駅にたどり着けます。適当に残業をしての時間です。

大阪で振り子こうのとりを撮るか、新大阪まで出るか迷うのですが、新大阪に出ると381くろしお(新大阪止)、それが向日町へ回送で出た後に入れ替わりに始発283くろしおが入線します。更に30秒後にこうのとり(新大阪止)が着きます。くろしおのドア扱いとこうのとりの到着と殆ど時間差がありません。撮影後、上り新快速ホームに走れば反対ホームから編成写真が取れ、直後に入ってくる新快速で高槻に戻れます。先ほどのトイレで待機すれば、先ほどのこうのとりの回送がすぐ新快速の後を追ってきます。さらに2分後、だれも取らない281はるかがこうのとりを通過追い抜きます。トイレに入らずにホームで1枚、その後急いでトイレに駆け込むという手もあります。これは3本の得以上です。撮影終了が19:15。これで安心して帰れるというものです。今日もちゃんと撮れたので折角なので用を足して帰宅します。良い写真ではありませんが、今や貴重な列車なのでまあ良いでしょう。

まずは新大阪での写真。新大阪に到着時に既に回送とされており、詰まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に高槻。左はホームからですが、はるかの通過追い抜きがあるので、回送こうのとりはゆっくり側線に入る。この写真以外に後追いも撮れる。右はトイレからの写真。

まだまだ、外回り鉄は続きます。

 

「鉄道絵葉書の世界」と「天理軽便鉄道法隆寺線代行バス?」

クローバー会員の皆様 残暑お見舞い申し上げます。

ところでこの炎天下の中、さる7月26日に天理参考館で行っている「鉄道絵葉書の世界」を見てきました。天理までのルートは私のところからですと、信貴山下駅から王寺で田原本線に乗り換えて西田原本まで行き、橿原線、天理線で行くのが運賃も安く、時間が早く行けます。田原本線の電車に乗って景色を眺めていると、これが大阪市内から1時間もかからない所かといつも思ってしまいます。しかし、西田原本駅から橿原線田原本駅の乗り換えは便利になっていました。今までは橿原線の踏切を渡らないと田原本駅の改札口に行けなかったのですが西田原本駅と田原本駅の間がロータリーになっていて踏み切りを渡らずに改札口に行くことが出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平端駅で天理線の電車に乗って発車を待っていると子供を引率した団体が乗ってきました。子供はどうも幼稚園児のようで、よく観察してみると東京から来たようで、しかも親は付き添っていないようです。あとでわかったのですが、夏休み恒例の「こどもおぢばがえり」に参加するために天理に来たようです。天理駅に降りると、まもなく貸切列車が出発していきました。乙訓の老人が言われていた客車が駅の南側の公園に保存されていました。写真は帰りに撮ることにして天理参考館に急ぎました。天理参考館に行く商店街は全国から来た天理教の信者さんでにぎわっていました。 続きを読む

外回り鉄の南海電車


初めて撮影した「ラビート」。奇抜なデザインはどこにもパクられていない

7月の初め、外回り鉄で南海電鉄を訪れた。いつもは京都で途中下車して103、113、117系を撮影するが、たまには変わったところと思い、南海電車に行くことにした。阪堺線は京都にいた頃からしばしば訪れているが、南海本線は40年近く撮影したことがない。

大阪駅から関空快速に乗り、新今宮で下車。取りあえず堺までの切符を買い、改札を通ると目に前に高野線の各駅停車金剛行が来たので乗車して次の「萩の茶屋」で下車。駅の周辺は風流の駅名とは裏腹であるが、通過する南海本線の電車が綺麗に撮影できる。
ラビートを初めて撮影したが、よくこんなスタイルを考えたものだと思う。
40年前の新車7000系が、座席指定車と併結で和歌山市行特急「サザン」で快走しており感激する。座席指定車は気の毒なほどガラガラで、自由席車は立ち客がチラホラ程度の乗車率である。
40分程撮影後、場所を天下茶屋駅に移して高野線の電車を撮影していると、6000形のトップナンバーが来てまた感激した。
30分程撮影後、特急サザン(勿論自由席)に堺まで乗車。7000系はロングシートでもゆったりしているし、昼間は指定席料金を300円位にしないと乗ってくれないと思う。
堺駅から阪堺線の大小路まで歩き、ド派手なパチンコ屋の広告電車に住吉鳥居前まで乗車。東京都であれば許可されないであろう。次の住吉の交差点と合わせて40分程撮影したが、都電カラーの502、筋肉マン電車の505を撮影した。
上町線で天王寺か阪堺線で南霞町に出て地下鉄で梅田に行く予定であったが、時間切れのため、南海本線住吉大社から難波に出て地下鉄に乗った。

モハ7033他8連の特急「サザン」/7000系は昭和38年から43年にかけて新製された。新製時から今日まで特急から普通まで幅広く使用されているが、近年廃車が出ている。

モハ7173他4連の普通/7100系は7000系のモデルチェンジ車として昭和44年から48年にかけて新製された。

モハ10909他8連の特急「サザン」

モハ2152他4連の普通和歌山市行/高野線の山岳区間直通用車両であったが、線路改良により橋本まで20m車が入るようになり余剰となったため本線に転属した。主に難波~和歌山市間と難波~関空間の普通に使用されている。

モハ6001他8連/昭和37年製で半世紀以上使用されている。7000系や7100系は廃車が出ているが、全車両健在で「良いものは長持ちする」見本のような電車である。

 クハ6521他6連/昭和50年1編成のみ新製された電機子チョッパ制御の試作車で当初は8000系と呼ばれていた。平成3年機器を交換して6200系に編入された。

 泉北高速鉄道5506他8連/平成2年に新製されたVVVFインバータ制御車。

 モハ706/パチンコ屋のラッピング車であるが、東京では間違いなくボツになるだろう。

都電カラーのモハ502

モハ504

キン肉マン電車のモハ505

昭和47年3月26日の外回り鉄
この日は、七道と泉北ニュータウン光明池近くの用務先に行った。
新今宮から南海本線に乗らずに阪堺線南霞町から綾ノ町まで乗車。
用件終了後七道から乗車して、時間調整のため堺で途中下車、再度乗車して羽衣で下車。
高師浜線と羽衣支線を撮影後、鳳まで乗車。ここから光明池行のバスで次の用務先に向かった。

モハ11021他6連特急「四国号」/堺

 モハ1560他5連の特急「南紀号」/堺

「南紀号」のラスト「サハ4801」/堺


モハ7025他6連の急行
/堺

 モハ7116他4連の普通/堺

 クハ7852他6連の急行/堺

高師浜線のモハ1560/羽衣

 鳳~東羽衣間のクハ79306他3連/東羽衣~鳳

広島電鉄の改造連接車

「昭和の電車」に広電宮島線の改造連接車が登場した。イラストは西広島行の電車が広電廿日市~宮内間の宮内トンネルに進入するところを後追いで描かれていると思われる。
ラッシュ時や多客時を中心に活躍したが、昭和55年12月に廃車になった。

1041+1042/(52-1-2) 荒手車庫

広電にはもう1形式改造連接車が2編成在籍した。大阪市電1600形改造の2511+2512と2513+2514で、旧車号は順に1617、1630、1636、1640である。昭和41年3月大阪車輌で改造され、車体内外ともに大阪市電時代の面影をよく残していた。市内線から宮島線の直通運用に使用されたが、2511+2512は55年12月、2513+2514は54年12月に廃車になった。

2511+2512/(52-1-2) 荒手車庫

2513+2514/(44-3-24) 広島駅前~猿猴橋町

車石 それから

あの溝のある石(車石?)は何か?

あの溝のある石が気になり、気分的にもやもやしていたので再び訪れることにした。通りがかりに偶然見つけたものだからどのあたりかよくわからず、適当に歩いていると、気がついたら問題のところに来ていた。

左の写真でわかるように古い旧家の門の前にある階段に設置されているものである。とにかく、この家の人に聞いてみることにしたが、この家には人が住んでいなかった。近くに人がいないかと周辺を歩いていると80歳ぐらいのおばあさんがいたので聞いてみることにした。 

 「ちょっとお尋ねしますが、この先にある家の門の前にある階段に溝が付いた石はなんのためにあるのですか。」と聞くと、その場所まで一緒に行ってくださり「ああ、これは人力車を通すためのものですわ。ここの家はお医者さんでした。」と言われた。どうやら家から出かける時に人力車を使っていたため、玄関先まで人力車が行くのに階段部分を車が通りやすくしたものとわかった。

最初に考えていた荷車でなく人力車であったが、車を通りやすくするためのものであったことには間違いなかった。「いつ頃に出来たものですか。」と聞くと「よう、わかりませんわ。」ということだった。また、別の人が通りかかったので、尋ねてみると、同じように人力車を通すためで、ここで使っていた人力車は文化センターの民俗資料として寄贈されて展示していると言われた。これは大変参考になる情報であった。とにかく、主要部の寸法測定と詳しく写真を撮っておくことにした。

写真の数字はそれぞれの溝石の長さで、左右をずらして設置されている。適当な長さの石がないためなのか、わざとずらしているのか本当のところはわからない。しかし、継ぎ目をずらすことで車輪がうまく通るようにしたのかも知れない。なお、これから記入されている数字の単位はmmである。

溝の間隔は全体の写真から見ると870mmと850mmと違っているが、最上段には車が登り易いように切り欠きがある。その間隔が850mmであることから、本来は850mmで870mmは施工時か使用中にずれたものではなかろうか。

 

最上段は右の写真にあるように切り欠きがあり、その中心線での間隔は850mmであった。文化センターに展示されている人力車の車輪中心線間隔を測定すると850mmで同じであった。これよりこの溝にある石は人力車が登り易いようにしたものという聞き取りの情報は十分に理解できる。

 左の写真は道につながる部分でこれも登り易いように傾斜がつけてある。展示してある人力車は1人乗車用で車輪の幅は70mmで、車輪直径は1020mmであった。この様に車輪径が大きいので通るには問題はなかったのであろう。

 

 

あの溝のある石は人力車を通し易くするためのものだった!

この一連の調査で偶然見つけた溝ある石造品は人力車を通し易いように設置されたものとわかった。ただし、設置された時期についてはわからなかった。そして、人力車について調べてみた。最近は観光地でよく見られるのであまり気にしていなかったが、調べてみると以下のことがわかった。

1. 人力車のはじまりはいろいろな説がある。一般的には1869年(明治2年)泉要助、鈴木徳三郎、高山幸助の3名が考案し、翌年の1870年(明治3年)東京府から製造と営業の許可を得て、人力車の営業を開始したと言われている。

2. 全盛の頃は1896年(明治29年)で、全国で21万台があったといわれている。そして、都市交通だけでなく、組織化され乗り継ぎにより東海道、奥州街道などの長距離営業も行われていた。

3. 人力車の輸出もされており、明治後期では中国、インド、東南アジアなどに輸出していた。数は少ないがヨーロッパ、北アメリカなどにも輸出していた。

                 参考文献 日本史小百科 交通 東京堂出版

同志社のホームページにある「新島襄ディスコグラフィー」によると同志社の創立者である新島先生が1874年に帰国され、東京から故郷の安中へ帰る時に人力車を3台借り切って向かい、そして、安中に着いたのは深夜であったという。また、新島先生が全国を伝道のために旅行をされているが、鉄道網が整備されていない頃であるので、航路を利用し陸路は人力車、馬そして徒歩で移動されたとある。この様に当時は人力車が重要な移動手段の一つであったのであろう。そして、鉄道網の整備などによりしだいに衰退し、地方で自家用などとして残ったという。今回見た溝のある石はその自家用人力車を通すため作られたものであると思う。そして、寄贈された人力車を調べるために文化センターに行った時、教育委員会でこの民家を調査した報告書があると言われたので資料をコピーしていただいた。そこには「道路に至る階段には、診察に使用した人力車のための溝を切った石が残っており興味深い。」とあった。

 ということで大津と京都間で見られる「車石」と同じものではないが、軌間850mmに敷設した「石のレール」といえるのではないだろうか?しかし、「車石」が気になるのでさらに調べてみると京津間の交通事情が・・・ ではまたいずれ!

静岡鉄道秋葉線の思い出

この付随車3(丸屋根化改造)を除き1955年3月の撮影

小生が好きな電車のうちでも、特に好きなのが田舎電気軌道で、具体的に名を挙げれば、北から花巻電鉄鉛線、秋保電鉄、駿豆鉄道三島軌道線、松本電鉄浅間線、それに今回の静岡鉄道秋葉線である。しばらく投稿ブランクが続いたが、秋葉線のクラシックな車両をご覧頂きたい。車歴云々は小生の出る幕ではなく、当然に乙訓老人の役割であろう。遅滞なく義務を果たされんことを。静岡市内線からの転属車もある。

歴史は古く、1902年12月28日秋葉馬車鉄道として、森町-袋井駅間7哩41鎖開業。軌間は2尺5寸ともされるが、2フィート6インチであろう。1909年12月31日現在では客車10、貨車7、馬匹17頭、御者10、車掌6人と、第19回(内務省)「土木局統計年報」(1911年刊行)にある。1911年12月28日には可睡口-可睡間1哩余の支線も開業。1923年6月23日駿遠電気に併合され、1925年1067mm改軌及び電化。

サブロクになっても国鉄線と全く繋がっておらず、当然貨車が直通しなかったのは、秋保電鉄とも共通する。線路が規格とも著しく貧弱で、到底国鉄側の貨車は入れないし、静鉄側の貨車は国鉄線に直通できる代物ではない。だから最後まで連結器は連環式(螺旋による緊締装置を欠く3連環)で遊間は広く、当然バッファーを備えていた。

それらの車体から何までが、まあ時代がかっていたこと。末期こそポールもYゲル化に、電動車は秋保同様車体をそのままボギー化もされ、付随車では屋根がダブルから丸屋根化されたものもあったとはいえ、それ以上の近代化投資はなく、1962年9月20日廃止された。可睡支線は1945年1月1日以来休止し続け、そのまま同日付廃止。

初めて見参に及んだのは、高校を卒業し即浪人と化した1955年3月、九州から東北を駆け足で一回りした、行程では最終に近い3月31日。駿遠線は悪天候でロクに写真が撮れなかったが、秋葉線では皮肉にも天気が回復し、何枚かを撮影した。

その後2回ほど行き、奥まで乗車して尋常ならざる見聞をした。一つは雨上がりだったが、線路班の爺さまが一人添乗してきた。お定まりの巻脚絆(ゲートル)姿だが、通常の地下足袋ではなく、ゴム長を穿ち、ビーター(線路バラス搗固め専用鶴嘴)ならぬ、竹箒を逆手に持っているのは謡曲「高砂」の翁なみ?。それも「昔は確かに竹箒だった」という、とことんちびて、あたかもササラに柄をつけたような超古い代物である。


このあたりも新設軌道ではあるが狭いこと

2軸単車をボギー化したモハ7 秋保電鉄と同様である 橋はコンクリート製

電車はのんびりと奥へ向う。とある停留場で、運転手がノッチを入れても、電車はビクとも動かない。と、件の爺さまに声がかかり、オウッと箒を持って近くの水路に行き、ざぶんと竹箒の先端を突っ込み、電車に戻り、やおら車輪とレールの間に突っ込んでゴソゴソと。

さて読者諸兄、ここでクエスチョンです。この線路班の爺さまは、一体何をしたのでしょうか。

実は道路の片側に併用した線路なのだが、舗装してない路面は穴ぼこだらけ。そこに先ほど降った雨でいたるところ泥水溜まりだらけ。時折通るバスやトラックがたっぷりと泥水を撥ね、それがレールの上で乾き―が重なってレール踏面に泥が積もり、いわば絶縁状態になってエレキテルが通じなかったのである。

止まる前は惰行だから停留場にまでは到達できる。ところが発進ができないため、かの爺さまが添乗していた次第であった。こんな事情が飲み込めるのには、正直しばらく時間を要した。ちびた=ささら同然の箒の方が泥を払うのに都合がよく、また濡らしているから、ともかくは通電し、目出度く電車は発進できた。動き出してしまうと電車の重みで、何とかエレキは通うらしいことも、線路班員が場違いなゴム長だった事情も理解に到達できた。ただこの一件をカメラに収めていないのが心残りである。

続行運行列車との離合 先頭電車妻の向って左側窓下部の円盤は「続行車あり」の標識 スタフは後尾の電車が保持 


これは単行同士の離合

ここだけでしか経験しなかった話をもう一つ。
離合場所に先着した小生乗車の電車の運転手は、停車し降車客扱いが終わると、やおらスタフを手にして下車。交換する電車はまだ現れていないのに、と訝しく思っていると、線路脇にある、あたかも米国郊外住宅の郵便受けをスパルタンにしたような鉄箱を鍵で開け、スタフを納めてまた施錠。この時には到着していた離合電車の運転手からスタフを受け取って、そのまま発車。反対側の運転手は、やはり鍵で鉄箱を開け、スタフを取り出して施錠し、乗務に戻った。

要は先着した電車が交換すべきスタフを鉄箱に納め、遅れて到着した方の運転手はスタフを前者に手渡したのち、自分が携帯すべきスタフを鉄箱から取り出すという、他線では見たことのないシステムであった。わざと手間をかけることで安全を確保していた次第で、恐らくは以前に事故―不都合があって、かように改めたものと思われる。

スタフは単線での最も簡単な保安方式で、この線では陸上競技リレーでのバトンを少し太くしたような木棒の先端に、真鍮の丸や三角などの、閉塞区間を示す標識がついたオーソドックスなもの。先般アップした松本電鉄浅間線では、通常のタブレット玉をキャリアと共にスタフとして使っていたが。


終点遠州森町に近く ここは新設軌道である

遠州森町 付随客車の付け替えは南に向っての下り勾配を利用してブレーキを緩め自然移動(降下)させる

袋井市街だけは流石に舗装されているが片側に寄せた敷設なのは、道幅が中央敷設に不足するからで、本来かような市街地=「家屋連たん地域」では道路を拡幅て中央に敷設すべきなのだが。この時点目抜き通りには、地方都市としての活気が満ちていた。


電柱には日本中いたるところに見られた「銀座通」のサインが

なお和久田康雄『私鉄史ハンドブック』114頁を見ると、この線の掲載誌として「急電101号」とあるではないか。すっかり忘却の彼方と化していたが、これは故奥野利夫氏主宰京都鉄道同好会誌「急電」の1960年夏季別冊で、DRFCメンバーが執筆し、若かりし日の乙訓老人と小生がほとんど全部筆耕(ガリ版=謄写印刷)した「私鉄リポート集」である。

その中で「地方軌道短信」として、北海道簡易軌道(歌登、浜中、鶴居の各村営軌道)と、この秋葉線をちょっぴり触れたもの。秋葉線に関してはモハ7、8のボギー化日付(1958年2月/6月、山梨工場施工)、Yゲル化は1958年10月、ハの丸屋根化が進行中と記している。半世紀以上昔の話であった。

デジタル青信号 運転再開のお知らせ

ご迷惑、ご心配をおかけしましたデジタル青信号につきまして、運転再開の目処が立ちましたので、只今より新規投稿の受け付けを始めさせていただきます。再開試運転と、ご認識ください。

何分大幅なソフトのバージョンアップを行いましたばかりですので、運行中に何らかの不具合が生じることも予測できます。その際は、お手数ですが、管理者までご連絡ください。また以前の原稿につきましても、投稿・コメント件数が膨大で完全確認ができていません。不具合が発生している恐れもあろうかと思いますので、発見次第にご連絡ください。すでに投稿記事が消滅してしまっているとの報告も受けております。対応についてはケースバイケースとなりますので、その都度に、ご連絡をさせていただきます。

今回の再開に伴い新規投稿画面に変更があります。ツールバーの配置が変りましたが、基本的な機能は、ほぼ同様です。慣れていただくしかないと思います。
また最新バージョンアップにより、閲覧画面のデザイン変更が可能となりました。要望されていました①投稿記事スペースの横幅拡大②紀行記等の長文連載記事の別途取扱いを基本に近々、素案を作成いたしたいと思っております。デザイン変更には新たなプログラムを作成する必要がありますので、頻繁にできるものではありません。ホームページ開設以来12年間で、初めての車体更新になります。今までに、①②の他に「こういった閲覧画面にして欲しい。」、「こういった事ができたら良いなあ。」等々の要望をお持ちでしたら、この機会に具体的にお聞かせください。要望は、7月27日までに、この投稿のコメント蘭にご記入していただければ幸いです。

尚、今回のトラブルにつきましては、一般の Internet Explorer等では発生しておりませんのでお分かり難いかと思いますが、Web ブラウザー を立ち上げてアクセスしますと下の画像の表示となり、ホームページ閲覧が不可能となりました。Googleのマルウェアフィルタによる誤検知が原因と判明して解決しましたが、今後も新たな予測不能な問題が発生するかと思われます。その都度の対応になりますのでご迷惑をおかけするかと思いますが、ご理解いただけますよう、よろしくお願い申しあげます。

週末の障害発生について

7/12より7/15にかけてGoogleのマルウェアフィルタによる誤検知が発生しました。

それに伴い、GoogleChromeブラウザやウィルスバスターなどをインストールしたPCから本サイトへのアクセスができなくなっておりました。7/15早朝にGoogleからの再承認を受けて、誤検知については障害復帰しました。

その後、セキュリティーレベル向上と、昨今多発しているコメントが投稿できない等の動作不安定の改善のために、掲示板の内部バージョンを2.8.2から3.4.1に上げる等の大幅なバージョンアップを行いました。しかし、作業中にインポートエラーが多発、通常の作業では復帰できない事態になったため、sqldumpからの復帰を行いました。

7/16 2:00現在、過去の投稿記事とコメントの修復と復帰がほぼ終わりました。173万行のsqldump(サーバの生データ)からの手作業での復帰を行ったため、数件の記事とコメントの消失が予想されます。また、かなり掲示板のバージョンが上がったため、投稿画面などのデザインが若干変わっています。

操作の不明な点、怪しい挙動、見過ごせない記事の消失がみられましたら、こちらの記事か、以下のアドレスに一報をください。最後になりましたが、今回は自分の不始末によりdrfc-obの方々に御迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。

管理人 小西

富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線

乙訓の長老より【21767】「富山の63スタイル2台で2題」で富山地鉄のクハ145、146の紹介と写真の公開があった。長老の解説の通り、昭和19年新潟鐵工所製でノーシル、ノーヘッダーの軽快な車体は外観からは戦時形には見えないが、昭和21年入線時の車内は、天井内張り無し、無座席、無燈で戦時形そのものである。
もう1題のクハ91と92は稲荷町で撮影した筈と思い、ネガ探しをしたところ、46年3月21日にクハ91を撮影していた。

【クハ91】
昭和37年富士重工で新製、台車は近鉄名古屋線改軌時に発生したD16を履いていた。富山地鉄で3扉両開の完全な通勤型スタイルの車両は、後にも先にもこの2両のみであった。42年から44年にかけて名鉄からモ3800-ク2800→モ14710-クハ10が7編成入線すると余剰になり、46年僅か9年の在籍で廃車になった。

 【万葉線】
INUBUSE氏より【21511】「万葉線紀行 連節車と除雪車」で同線の近況をレポートしていただいたが、昭和40年代の様子をご覧に入れたい。万葉線の歴史は少々複雑で、昭和23年4月富山地方鉄道高伏線として地鉄高岡(現高岡駅前)~米島口~伏木港間を開業。26年4月米島口~新湊(現六渡寺)間を開業して新富山~新湊間の射水線と結ばれ、地鉄高岡~新湊~新富山~富山市内線西町間の直通運転を開始した。

北陸本線と比較すると大きく迂回するため富山~高岡間を直通する乗客は少なかったが、新湊市と富山、高岡を結ぶ都市間連絡路線としての役割を果たしていた。後述の堀岡~越ノ潟間分断後、射水線が廃止されてしまったのは都市間連絡機能を失ったことが原因と考えられる。

余談であるが、富山~高岡間は昭和60年代までバスが昼間10分間隔で運行されていたが、JRの本数の増加、交通量の増加により定時性の喪失による乗客減で昼間1時間間隔にまで減便されている。

昭和34年4月地鉄高岡~米島口~伏木港、米島口~新湊間を加越能鉄道に譲渡して、地鉄高岡は新高岡に改称された。射水線は大正13年10月、越中電気軌道として富山北口~四方間を開業、部分開業を繰り返し8年12月新富山~新湊間を開業、昭和18年1月富山地方鉄道に合併され、同社の射水線となった。

41年4月、富山新港建設のため、堀岡~越ノ潟間が廃止となり、高岡側の越ノ潟~新湊間が加越能鉄道に譲渡され同社の新湊港線となった。
46年9月米島口~伏木港間が廃止され、現在の路線になった。

 平成13年加越能鉄道が乗客減により廃止を表明したため、高岡市と新湊市が中心となり「第3セクター」で「万葉線株式会社」を設立し、14年4月1日より新会社として営業を開始した。
現在は新車の導入、運賃値下げ、中新湊~越ノ潟間の増発、イベント開催による集客等により、乗客減が止まり増加傾向にあるとのことで喜ばしい限りである。

 デ5021/25年日立製作所製。最終的にデ5021~5026の6両が加越能鉄道の所属であった。(46-3-20 米島口)


デ5022
/25年日立製作所製。
(46-3-20 米島口)
現在も機器扱いで除雪車として残っているが、今年新製車と交代する。詳細はINUBUSE氏の21511】「万葉線紀行 連節車と除雪車」をお読みいただきたい。このまま動態保存できないものだろうか。

  デ5025/25年日立製作所製。(42-3-21 新高岡)

 デ5039/26年愛知富士産業製。(42-3-21 新高岡)
この時期は7021~7030、7037~7040の14両が加越能鉄道所属であった。写真の7039は富山地鉄笹津線に転属した。横のボンネットバスは白川郷西赤尾発のバスである。
デ5000形については、長老のご友人服部重敬様著「RM LIBRARY107/富山地鉄笹津・射水線 デ5000系物語」に詳しく書かれているのでお読みいただきたい。

 デ7051/昭和36年日本車輌製。(42-3-21 新高岡)
富山地鉄デ7000形を前後扉にしたスタイルで、設計図を流用して中扉のみ移設したためこのような奇妙なスタイルになった。7051~7053の3両が新製され、新高岡~伏木港間に投入しところ、明るい蛍光灯の輝く軽快な車体は、従来のデ5010形との格差が大きく、新湊方面の乗客から苦情がきたとのことである。

 デ7053/昭和36年日本車輌製。(46-3-20 米島口)
この時代の全面広告車は比較的珍しい。まだラッピング技術は開発されていなかったため、車体に直接ペイントされていた。

 デ7075/昭和42年日本車輌製。(46-3-20 米島口)
デ7071~7076の6両新製され、現在も健在である。

デ7076/昭和42年日本車輌製。(45-10-10 新高岡)


ボ1/大正13年大阪鐵工所製。(46-3-20 米島口)
富山ライトレール←国鉄富山港線の前身、富岩鉄道ボ1として新製された木製車で、僚車ボ2と2両新製された。正面はタマゴ形5枚窓、客室窓上に半月形の優雅な飾り窓があり、鉄道車両もここまでくると芸術作品である。
富岩鉄道は大正12年3月設立、翌年7月富山口~岩瀬浜間7.3㎞を開業、昭和2年12月富山口~富山間0.7㎞を開業した。12年12月富山地方鉄道の母体となった富山電気鉄道の傘下に入り昭和16年12月に合併されたが、昭和18年6月国家要請により鉄道省に買収された。
昭和23年4月廃車後、25年12月に富山地鉄に譲渡、ボ1は高岡軌道線、ボ2は笹津線で使用された。ボ1は41年射水線分断時に加越能鉄道所属となり、46年4月に廃車になった。

 
【参考】
ボ2(52-9-24 南富山)
富山地鉄に残ったボ2は車体改装により正面は3窓に、更に車体が鋼板張りとなり客窓上の半月形飾り窓もなくなった。50年10月射水線に転属後、55年4月廃車になった。

 セミボ21(43-4-6 岳南江尾)
富岩鉄道には、セミボ20と21の2両の半鋼製車が在籍し、セミボ20は昭和2年大阪鐵工所、21は3年日本車輌で新製された。両車とも買収後の26年8月クハに改造、28年3月廃車になった。廃車後、20は昭和30年静岡鉄道に譲渡されクハ7に、21は28年岳南鉄道に譲渡されクハ21として再起した。いずれも近隣私鉄でなく静岡県下の私鉄に譲渡されたことは興味深く、この時期は大手、中小を問わず車両不足であったことが伺える。

久しぶりの京阪守口車庫 その2

別件でモノクロプリント収納箱をかき混ぜていたら、誰に貰ったものか不明の、しかもカラーネガDPE用機器からプリントされたものと思えるものが2枚出てきた。1枚はそれなりに判別できる8人の姿が、もう1枚は19人の姿がぼんやり見えるものである。19人の中で断定できるのは前列の大西顧問、その左の眼鏡男は清水孝一郎君?。後列に移り右から2人目は老人、鈴木アキちゃん、津川君、2人飛ばして旦那、次の眼鏡はtrukame?そして磯谷のオッサン、2人飛ばして高橋の御大、残る2人?となる。

さて何時見学に行ったものか、さっぱり分らない。老人は1958年秋から頻繁に守口車庫に出入していたから思い出深さがない。多分、当時車両課長であった伊藤さんにOK貰って皆さんを守衛小屋の前で待ち受けたのであろう。大西さんに顧問になって頂いたのは高橋御大卒業後であり、19604月以降となる。服装からして195912月か、19601月であろう。3000系の話など未だ聞けない時期で、1800系特急マークを背景にしている。

この頃の最新特急車1810系をバックにしてピンボケ写真の撮影者は不明

新京成モハ100形

乙訓の老人 様、皆様
藤本先輩が多忙につき、本日電話で打ち合わせの上 新京成モハ100形の写真を紹介させていただくこととなりました。よろしくお願いします。
昭和52年2月6日夕方 くぬぎ山車庫の柵の外からの写真です。


ロクサンスタイルのモハ109号車の更新後の姿です。

後期更新車で15両がこのスタイルになっています。
全金車で側面通風器、窓枠は木製で出場し新京成転属後にアルミサッシ化、ドアも交換されています。
その後昭和48年から始まった特別修繕で この後期更新車は先頭車12両、中間車3両となり この109号はパンタなしの中間電動車になっています。
当日の編成は前から109-131-104-107-1112-108です。


2両目のクハ131です。


3両目のモハ104です。
モハ104号車はモハ100形の最初の更新車(昭和28年)でシル、ヘッダ-付き、モハ101,118,123はノーシルノーヘッダーで 共に半鋼製車体の初期更新車4両グループの1両です。
このグループ4両は後の特別修繕からはずれ昭和54年に廃車されています。


4両目のモハ107です。
モハ109と同じ 後期更新車ですが、扉は交換されていません。パンタグラフは撤去され こちら側の運転台は方向板がありませんので使用されていないようです。特修後は片運転台車になっています。


5両目のサハ1112です。


6両目のモハ108です。
モハ109、モハ107と同じ後期更新車25両の仲間です。モハ107同様 扉は交換されていません。
特修後は片運転台車になっています。


モハ108号 からの6連です。右の編成はモハ122先頭の6連、左はモハ102です。
モハ102の左にモハ103、クハ2015、モハ118が続いています。6連です。

モハ122です。
柵の間から何とか写した1枚です。敷地外からの撮影で、後ろの5両は写せていません。
モハ122は昭和31年から始まった中期更新車6両(102,103,112,117,121,122)の1両で、初期更新車とほぼ同じスタイルの全金車です。モハ100形は新京成へ昭和38年から譲渡され、このモハ122はその第一陣の1両です。特修後はモハ112,121が片運車、このモハ122を含めた4両はパンタなしの中間電動車になっています。

モハ116です。
後期更新車の特修後のスタイルですが扉は窓の大きい旧式です。


2両目のクハ2015です。
後にサハ2015となっています。元国電モハ30161とのことです。


モハ103です。
中期更新車 先ほどのモハ122と同じグループの特修後の姿です。扉取り替え、パンタなしの中間電動車となっています。右も同じスタイルのモハ102です。
大正15年製の京成モハ100形25両全車が昭和54年(半鋼製車)、61年、62年(全金属車)まで活躍したのは時代が時代だったといえ長寿であったと思われます。
新京成の電車はあまり写した記憶がなく、今回の写真が唯一かもしれません。通りがかりに車庫の裏に車を止めて写したかと記憶しています。ちょうど特修の始まったころで様々な形態の姿が写っています。ご笑覧ください。犬伏

「久しぶりの京阪3000」によせて(46年6月6日の思い出)


我々の到着直後で「はとマーク」に蓋がされ、パンタが降りている状態。

昭和46年6月6日の京阪3000見学会の記念写真を見て非常に懐かしく思った。OBは、私、
KAWANAKA氏、KOBOYASHI氏の他にもSIKATAISODAKURODAの各氏のお姿も見える。模型をされていた方は前日の運転会で今日のことを知らされたのだろう。私は恐らく特派員氏から連絡をいただいたものと思われるが、噂の京阪特急の新車が営業運転の前に見学できるとあれば、皆さん万難を排して参加されたのであろう。
当日のネガには3000系の他、元京津線の72改造の構内入換車が写っており、こちらも見学、撮影できたことはラッキーであった。

来春、3000系の引退が報じられているが、私も来年3月末で雇用契約期間が満了する。引継ぎの関係で5月頃まではパートタイマーで不定期運行をするかも知れないが、「JR、メトロ、ゆりかもめ」通勤もカウントダウンになってきた。

中間車3102/方向幕は「普通・天満橋」を表示

 元京津線72の構内入換車/ポールがパンタに取替えられ連結器が取り付けられた位で、車体は72時代と変わらない。

2306/工場ならではの写真。

 112

見学会は午前中で終了し、午後はINUBUSE氏と近鉄南大阪線に行き、河内松原、道明寺、古市で撮影した。当時としてはごく普通の車両ばかりであるが、今見ると結構貴重と思われるので参考までに掲載した。

ク6682他5連の御所発あべの行準急/河内松原~恵我ノ荘

 荷電代用のモ5612+モ5613/道明寺

モ5656+モ5655の道明寺線ローカル/道明寺

ク6521他4連の吉野行急行/道明寺


 モ6017他4連の吉野行急行/道明寺~古市

 モ6852他4連の吉野行急行/道明寺~古市

東京スカイツリーから見る鉄道

毎日、通勤で東京スカイツリーの足元を通っていますので、折角ならば、早めに上りたいと思い、東京スカイツリーの事前予約にインターネットでチャレンジしたところ、第八希望の6月30日土曜日午前8時30分に当選したので、東京スカイツリーに上ってきました。

通勤で、毎日見れるはずですが、着席通勤なので、押上あたりは、夢見心地で通過しています。建設途上も、できてからもじっくり見たことありませんでした。

今から、25年前、何の因果か浅草支店に勤務を命じられ、ここらあたりは、セールステリトリーでした。自転車でよく営業に廻ったものです。

当時は、コンクリート工場があり、東武鉄道のED5000形が出入りしていました。よく仕事をサボって眺めたものです。

当時は、まさかここにこんなものができるとは、思いもよりませんでした。

当日、地上350メートルの天望デッキまでは、ほとんど待たずに昇れました。ここまで、2500円です。(通常は、2000円)

さらに、先の地上450メートルの天望回廊を目指します。天望回廊の切符を買うのに約10分。追加で1000円かかります。

合計3500円かけて到達した地上450メートルからの鉄道です。


浅草~東京スカイツリー間 300系と通勤電車(東武の車両に詳しくないので、形式がわかりません。)

 

東京スカイツリー~曳舟間  スペーシア100系と6050系快速

字左が東武鉄道。右が京成電鉄です。京成電鉄の下を東武鉄道 亀戸線が走っています。

京成線は、京成曳舟付近高架工事中です。

 

業平橋(東京スカイツリー)の電留線 200系と300系と6050系快速

一度は、昇る価値はありますが、何度もは・・・

天望回廊へは、天望デッキでチケットを買う必要がありますので、待ち時間を気にされる方は、早めの時間に昇られたほうが良いと思います。

アメリカ鉄道のたび(その5)デュランゴシルバートン鉄道

デュランゴシルバートン鉄道はアニマス川沿いの渓谷を走る景色が人気で標高1984mのデュランゴから標高2836mのシルバートンまでの72.6kmの区間を3時間半かけて走ります。デュランゴはデンバーと同じコロラド州にあり、デンバー、フェニックス、ダラスからの飛行機便があって、比較的行きやすい場所にあります。このため、この鉄道の乗車をコースに入れている日本の一般ツアーもあり、恐らく日本でも一番知られた保存観光鉄道ではないでしょうか。この鉄道はシルバートンで発見された銀鉱のためのもので、1882年にデンバーまでの鉄道が開通しました。その後、鉱山の閉鎖とともに鉄道も一時期廃止されましたが、1940年代に銀に変わってウラン鉱石の精錬のために再開され、1960年代には国の歴史遺産に登録されたこともあって、観光鉄道に姿を変えて運行が続けられました。ある時期にはハリウッドがこの鉄道に目をつけ、いくつかの映画がここを舞台に作られました。「80日間世界一周」の映画も一部のシーンがここで撮られたそうです。

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久しぶりの京阪3000

例の車石を実際に見てみようと大津の86さんに案内をお願いして、今日大津に行ってきました。京橋から浜大津まで京阪電車のルートで行くことにして、京橋から乗る特急を事前に調べるとと、これが3000でした。そして、京橋駅にてパチリ。先頭車で一番前で運転士のすぐ後の席で三条まで乗車しました。京阪特急として乗るのは何年ぶりでしょうか?

そして、40年ほど前の守口車庫での3000見学会の記念写真です。なつかしい顔ぶれがそろっています。その3000も来年の春に定年をむかえます。

富山で63スタイル2台で2題

大津の86さんのアメリカ土産話に圧倒されています。63スタイル話も意外な展開を見せ本来、戦時中の「ないない」づくしの中、如何に節約してものを作りだすかに英知を集約した話、これが標準型となっ事など現代人には信じられない話であろう。かく言う老人も気付いたのは終戦の翌年であり、これが国鉄→JRの標準スタイルになるとは夢にも思わなかった。

老人は196143日から1963914日まで生活の基盤を富山県西砺波郡福岡町(現高岡市)に置いた。最初の半年、隔週毎に富山に出るのが楽しみであった。もちろん富山地方鉄道訪問で当時、立山線と言っていた現上滝線で145146号と名付けられた2台の63スタイルの制御車が走っていた。さっそく南富山車庫にお邪魔して来歴をお尋ねしたところ、北陸本線直江津駅から浜辺に至る専用線で戦時中使用されていたもので、終戦と共に当線に「配給」を受けたものだとの返事が返って来た。恐らく信越化学の工場引き込み線だったのであろう。19579月、熊本電鉄で63スタイルの木造車を見ており、国電より一早く木造で食パンスタイルが「ないないづくし時代」に作られたことに衝撃を受けた。また京阪電車守口車庫のお邪魔虫であった1959年秋、戦時下の車両統制会から、京津線206両の車両鋼体化を木造車体とするなら許可する、との簡単な図面を見付け出していた。

こうした下地があったので、昭和19年新潟鉄工所製造だと言うので、木造車体で製作されたものを鋼体化したのかと尋ねたら、以外や鋼製車体で当社に廻送されて来たとの返事だった。ただし台車が貨車用TR26でした、との話には当車が製作された当時、人を人間扱いしなかった一部の階層がいた事に憤りを覚えた。転入当時、附随客車ハフ11,12として立山線に配置され、その後に電気配線と天井整備の上、蓄電池による電灯を設け、更に座席を新たに整備して走らせたとの話であった。これがクハ140145146号になったのは1951年のことで、乗務員扉を付け内装も当社の標準並みとしたとの事。その後台車は国鉄中古品の払い下げを受けたが、2両同型ではない。19615月撮影の姿を紹介しよう。

以上がクハ1401451462台で1題目。次は話だけの2題目。1962年初夏、電鉄富山駅で客用扉が両開き3か所の片運制御車が目に入った。両端切妻で窓配置から言えば京阪20003期車(2025~)同系である。さっそく何物ぞと、南富山車庫に聞きに行った。越中鉄道の戦前増備車は5001系に取り替えられた後、立山線配置となった。その11.5m級のクハ101,102号を当時、本線クハ120形の車体延長工事を発注していた富士重工に送り込み、部材一部流用で18.5m級の制御車に仕立て上げたものだと教えられた。理由は高度経済成長時代を迎え、朝ラッシュ時の上市→稲荷町間救済のために145,146号の3扉に眼を付け、両開き扉にしたのが新車91,92号なのだ、とのお話であった。稲荷町から一駅南、立山線不二越間の朝ラッシュ時は、不二越工業を始め工場地帯で、稲荷町-不二越間には本線接続の出勤日のみ運転の臨時列車が、モニ6570形単行で運転されていた。座席は取り外されていた。クハ90形の写真は38豪雪で焼失、従って2題目は尻切れトンボで御免。

クハ140形145号はTR-23系を装備していた

クハ140形145号はTR-23系を装備していた

クハ140形146号はTR-10系の台車で走る
クハ140形146号はTR-10系の台車で走る

サハ78

5月21日【20523】「モハ63形→クモハ73形」に引き続き、同一グループの「サハ78形」について解説する。

サハ78形はモハ63形の付随車として作られた車両である。戦争末期の昭和19年に14両のモハ63形(63001~014)と共に8両(78001~008)新製された。モハ63形は電装品不足のため全車両「サモハ63形」で落成し、その後も電装されず、最終的にサハ78形3両(78304、306、310)とクハ79形11両(79100、102、104、106、108、110、112、216、242、244、246)になった。
折角新製したサハ78形であるが、翌年4月に001、003、004の3両が戦災で焼失してしまい復旧されることなく廃車になった。

昭和19年から20年にかけて、横須賀線のサロハ66形とサロ45形を、4扉に改造してサハ78形に編入する工事が実施され、サロハ66形は15両全車改造され、78009~023となったが、サロ45形は11両全車改造されて024~034となる予定が、5両が2等車として残されることになったため、025、026、028、029、033が欠番となった。改造車グループも戦災で013、014、019、022、031、032、034の7両が焼失した。

戦後の混乱期を乗り切るため、モハ63形と共にサハ78形も新製されることになり、昭和20年から23年にかけて133両作られ、100番台に番号区分され78100~239(203~209欠番)となった。200~202の3両はジュラルミン製(通称ジュラ電)であった。

桜木町事件後、緊急に車体整備が実施されたが、モハ63形のような改番はされず、戦災廃車による欠番もそのままであった。その際、未電装のサモハ63形96両を正式にサハ78形に編入し、300番台に番号区分して78300~395とする予定であったが、大部分の車両が運転台を取り付けてクハ79100番台に編入された。サハ78となったのは20両に留り、欠番が多数発生した。サハ78形編入車の車号は304、306、310、324、330、335、337、338、339、352、358、363、368、372、375、378、380、385、389、395の20両である。

モハ63形→クモハ73形の時と同様、代表的な車両についてのみ写真で紹介する。後年トイレ取り付けにより車号が変更された車両、モハ72の電装解除によりサハ78形に編入された車両については後日報告する。

サハ78008/昭和19年10月田中車輌製、新製時東神奈川に配置、24年8月宮原、26,年11月下十条、その後仙石線に行き47年2月盛岡工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化、ベンチレータをグロベンから押込形への取り換えが行われた。49年10月廃車。(48-4-30 仙石線下馬)

サハ78010/昭和6年2月川崎車輌でサロハ66002として新製。20年1月大井工場で4扉化の上、現車号になり東神奈川へ、24年8月宮原、同年9月津田沼、40年4月淀川、同年9月明石、43年10月鳳、49年3月房総電化で津田沼、50年2月廃車。 (上:42-12-7尼崎 下:48-11-3 杉本町)

サハ78012/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66004として新製。20年4月大井工場で4扉化の上、現車号になり津田沼へ、40年4月淀川、49年8月廃車。(48-6-17 住道)

サハ78015/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66007として新製。19年12月大井工場で4扉化の上、現車号になり蒲田へ、25年1月宮原、26年11月蒲田、東京地区内を転属後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、52年4月廃車。(47-5-1 沼津)
 

サハ78016/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66008として新製。20年2月大井工場で4扉化の上、現車号になり下十条へ、40年10月鳳、49年4月房総電化で津田沼へ、50年2月廃車。(49-1-5 杉本町)
 

サハ78017/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66009として新製。20年2月大井工場で4扉化の上、現車号になり下十条へ、24年8月明石、25年9月淀川、29年3月宮原、32年9月高槻、35年8月淀川、35年9月岡山、38年11月明石、39年9月岡山、41年8月明石、44年9月松戸、48年2月廃車。(上:40-8-18宇野 下:41-10-11京都)

岡山区在籍時は、17mのサハ17も混じった2.3.4扉、クロス、ロングシートの凄まじい混合編成で、山陽本線の三石~三原間と宇野線のローカルに使用されていた。

サハ78021/昭和7年3月川崎車輌でサロハ66013として新製。20年1月大井工場で4扉化の上、現車号になり下十条へ、40年12月鳳、49年3月房総電化で津田沼へ、50年4月廃車。(48-11-3 杉本町)

サハ78023/昭和6年3月田中車輌でサロ45002として新製。12年3月大井工場でサロハ66015に改造、19年10月大井工場で4扉化の上、現車号になり三鷹へ、東京地区内を転属後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、54年10月廃車。(49-4-27 沼津)

サハ78030/昭和6年5月田中車輌でサロ45009として新製。19年7月大井工場で4扉化の上、現車号になり三鷹へ、24年8月明石、25年9月淀川、26年11月蒲田、東京地区内を転属後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、54年9月廃車。(上:43-4-6 沼津 下:49-4-27 沼津)

 サハ78106/昭和21年6月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、54年10月廃車。(49-4-27 沼津)


サハ78109/昭和21年8月近畿車輌で新製。南浦和に配置、46年1月淀川へ、51年10月廃車。
(48-7-1 住道)

 サハ78113/昭和22年8月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、45年7月呉線電化で松戸から広島へ、転属時に幡生工場でトイレ設置、46年9月広島工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化、51年4月御殿場線用として沼津へ転属、55年1月廃車。沼津配置の63系サハ78のトイレ設置車は450番台に改番されていたが、広島では改番はされず統一性はなかった。(上:48-1-28 広島 下:52-2-11 沼津)

 

サハ78119/昭和22年4月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、45年7月呉線電化で松戸から広島へ、47年1月広島工場でアコモ改善工事で窓の2段サッシ化とトイレ設置、51年4月御殿場線用として沼津へ転属、55年3月廃車。
(48-1-28 広島)


サハ78126/昭和21年12月近畿車輌で新製。南浦和に配置、45年12月淀川へ、51年11月廃車。
(48-3-21 住道)


サハ78156/昭和22年7月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、45年4月仙石線へ、46年5月盛岡工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化とベンチレーターの取り換え。55年5月廃車。
(48-4-30 仙石線下馬)


サハ78163/昭和22年8月近畿車輌で新製。蒲田に配置、41年8月高槻へ、50年1月廃車。
(49-2-1 大阪)


サハ78167/昭和22年9月近畿車輌で新製。東京地区配置、54年10月東神奈川で廃車。
(47-5-1 東神奈川)


サハ78180/昭和22年11月近畿車輌で新製。蒲田に配置、41年9月高槻へ、50年6月廃車。
(47-1-20 大阪)


サハ78216/昭和24年2月近畿車輌で新製。東京地区配置、46年12月大井工場でも改善工事で窓の2段アルミサッシ化、青梅線、五日市線で使用後、52年11月豊田で廃車。
(50-3-23 拝島)


サハ78237/昭和24年5月川崎車輌で新製。南浦和配置、46年1月淀川へ、51年4月廃車。
(47-11-19 住道)

 サハ78310/昭和19年12月田中車輌でサモハ63011として新製。昭和26年12月大井工場で乗務員室を撤去して現車号に、東京地区配置後、45年12月松戸から淀川へ、51年4月廃車。サモハからの改造車は扉の開き方が異なる。オリジナル車は← ← → →と開くのに対し、4枚とも同一方向に開く。(49-3-23 住道)

 サハ78368/昭和21年12月近畿車輌でサモハ63346として新製。昭和26年12月大井工場で現車号に、東京地区配置後、仙石線へ、46年12月盛岡工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化ベンチレーターの取り換え、54年8月廃車。(48-4-30 仙石線下馬)


サハ78375/昭和21年9月川崎車輌でサモハ63370として新製。昭和26年12月大井工場で現車号に、東京地区配置後、46年2月南浦和から淀川へ、52年2月廃車。(49-3-23 住道)

サハ78380/昭和21年10月川崎車輌でサモハ63380として新製。昭和26年12月大井工場で現車号に、東京地区配置、青梅線、五日市線で使用後、51年12月豊田で廃車。(50-3-23拝島)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名鉄モ400

今日から“連接車”です。以前連載された連接車は戦前型、これからは戦後型だそうです。しかし、戦後の、まだ物資が潤沢ではなかった時代にこれだけの写真を撮られたことは、我が人間国宝やtsurukame、須磨の大人などの諸先輩方も驚きではないですか?記事の最後のところで「車体は二つあるのに1両と数えるか2両とかぞえるか・・・」とありますがなるほど、と感じました。