2012鉄道記念日・DRFCはあついぜ!

今年の10月14日は1872年に日本の鉄道が新橋ー横浜間で開通して140年の節目の日です。

図らずもこの日、同志社大学鉄道同好会は3ケ所で活動をすることになりました。一つは青森で、同志社大学校友会からの声懸かりで、校祖新島襄先生と縁ある青森で「青森を走った汽車・電車」をタイトルとして写真展を、10月12~17日間で、開催することになりました。会場は青森駅から徒歩5分、ギャラリーNOVITAです。詳しくは次の電話でお問い合わせください。017-773-3746です。クローバー会会員も会場に日替わりで詰める予定です。

二つ目は大阪のど真ん中、船場センタービル中心に開催される「船場まつり」です。立命館大学、関西大学の鉄道研究部と共に、大学現役生が、御堂筋寄りの10号館1階で鉄道模型を走らせます。こちらの会期は10月12日~14日で、午前10時~午後4時間の催しです。

そしてしんがりは10月14日、JR琵琶湖線南草津駅前・フェリエ南草津5階、市民交流プラザ大会議室で、鉄道ファンならご存知のSLおじいちゃん「佐竹保男さん」の講演会があります。日本の蒸気機関車全盛時代の写真を通してのお話です。午後1時30分から午後3時まで、草津市立 南図書館の催しです。

 

「イルカ」がいる

9月12日木曜日のこと、「ゆりかもめ」がレインボーブリッジ手前のループを通過中に、INUBUSE氏から「尾久にイルカがいる」とのメールをいただいた。引き返して見に行きたいのはヤマヤマだが、仕事の関係上諦めざるを得ない。翌日の夜「今日もいた」との電話をいただいたので、もしかすると明日もいるかも知れないと思い、14日土曜日の朝、尾久に出向いたところ、下りホームから2線隔てた留置線に「どうぞ撮って」と言わんばかりの位置に停まっていた。時折雲の切れ目から太陽が顔を出す変な光線状態であったが上野寄りの先頭車クハ481-1504から最後尾のクロハ481-1501まで順番に撮影した。

午前中時間が空いており、東十条の環七下で近く姿を消す211系でも撮影しようと思って行ったが、天気が怪しいのでパスして赤羽で185系「草津1号」撮影した。帰りに乗車した上野行が尾久に停車すると、パンタが上がっており慌てて降りて撮影後、都電荒川車庫前まで歩き、町屋経由で帰宅した。

(1)「イルカ」とは
勝田車両センターに配置されている485系の波動用車両のK60(6両編成)とK40(4両編成)2編成のことで、先頭車に「イルカ」のイラストが描かれているため「イルカ編成」とか単に「イルカ」と呼ばれている。

日常的な定期運用はなく、K60編成が行楽シーズンの土休日にいわき~鎌倉間で運転される「ぶらり鎌倉号」に使用される他は主に団臨に使用されている。この日はK60+K40の10両フル編成で、恐らく常磐線沿線の学校の修学旅行臨で上野に来て、帰りまで尾久で待機していたものと思われる。

車号は次の通りである。
K60編成、←上野クハ481-1504+モハ484-1013+モハ485-1013+モハ484-1011+モハ485-1011+クハ481-1505
K40編成、←上野クハ481-345+モハ484-1053+モハ485-1053+クロハ481-1501

(2)K60編成
クハ481-1504/上:尾久 下:勝田 (21-9-8)
函館本線の特急「いしかり」用として昭和49年4月日立製作所で新製された車両。北海道での使用が遅れたため、約1年間暫定的に青森区に配置され、特急「白鳥」に使用され大阪に顔を出していた。昭和55年新型特急車781系と置換えで再度青森区に転属、その後新潟区に転属後、平成11年車体更新時に窓を上方向に拡大した。

モハ484-1013+モハ485-1013
昭和51年4月日本車輌製で、奥羽本線秋田~羽前千歳間の電化対応用として寒冷地仕様で新製され、秋田区に配置された。その後新潟区に転属して平成11年車体更新時に窓を上方向に拡大した。

 モハ484-1011+モハ485-1011
昭和51年4月東急車輌製、前述のモハ484-1013+モハ485-1013とはメーカーが異なるだけで、あとは同じである。

 クハ481-1505/上:尾久 下:勝田 (21-9-8)
経歴等はクハ481-1504と同じ。

(3)K40編成
磐越西線郡山~会津若松間の特急「ビバあいづ」に運用していた車両で、平成14年12月7日運用終了後6両編成の内、中間のモハ484-1008+モハ485-1008を抜き、波動用として勝田区に転属した。
クハ481-345
昭和51年2月日立製作所製で当初の配置は青森区であった。

モハ484-1053+モハ485-1053
昭和53年8月日川崎重工製で当初の配置は秋田区であった。窓は原形のままである。

クロハ481-1501
経歴は極めて複雑で、昭和53年上越線特急「とき」用のサロ181-1101として日本車輌で新製、この時、既に上越新幹線の開業が迫っていたため481系への改造が考慮されていた。58年1月予定通り盛岡工場でサロ481-1501に改造。62年には「ひたち」号のクハ不足のため、運転台の取付けと普通車への改造が行われクハ481-1104となった。平成5年「ビバあいづ」用として車体前方部分をグリーン室(定員16名)に改造して現車号になった。



(4)その他
常磐線の特急は新型車両E657系への置換えが進行中であるが、現時点ではE651系、E653系も使用され、特に「フレッシュひたち」はE653系が多い。E657系に統一される日は未だ発表されていないが、刻一刻と近づいていることは事実である。E651、E653は共に7両編成と4両編成があり、乗客数に応じて7両、11両、14両(E653系のみ)編成で運転されているが、E657系は10両固定編成のため弾力性に欠ける。
「イルカ」も置換えの対象になっており、まもなく見納めになるだろう。運用のない時は勝田駅ホーム横の電留線に停車していることが多い。
目撃情報によると10月1日も尾久に停まっていたとのことである。

サハ78(Ⅱ)

5月14日【20382】関 三平さんの「ロクサン型」を受けて、5月21日【20523】「モハ63→クモハ73」、7月4日【21668】「サハ78」と進めてきたが、前回はサハ78300番代で終わったため、引き続き400、450番代と500番代に話を進めたい。

(1) サハ78400、450番代
昭和43年4月27日、御殿場線沼津~国府津間の電化時、線内の普通列車に首都圏で余剰になった旧形国電を転用することになり、クモハ60、クモハ73、モハ72、クハ79、サハ78が配置された。非電化時代の気動車、客車にトイレが設置されていたため、サハ78の一部にトイレを設置して4両基本編成中に必ず1両連結された。
戦前形4扉改造車は400番代(400、401)、63形グループ車は450番代450~457)が付番された。

呉線電化時にもサハ78とクハ79の一部にトイレが設置されたが、改番されたのはクハ79の1両のみであった。後日呉線から改番されていないトイレ付のサハ78111,113、119、120の4両が御殿場線に転入したため、改番された車両とされていない車両が混在する結果になった。

サハ78401/(52-2-11) 沼津
昭和6年4月田中車輌でサロ45003として新製。19年9月大井工場で4扉化(戦時改造)してサハ78024に改番。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年10月11日付で廃車。

 サハ78450/(49-4-2) 沼津
昭和21年6月近畿車輌でサハ78101として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年9月14日付で廃車。

サハ78451/(49-4-2) 沼津
昭和21年6月近畿車輌でサハ78103として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年9月15日付で廃車。

 サハ78453/(49-2-17) 沼津
昭和21年8月近畿車輌でサハ78110として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年11月9日付で廃車。

 サハ78454/(49-4-2) 沼津
昭和21年12月近畿車輌でサハ78128として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。55年10月13日付で廃車。

 サハ78455/(49-2-17) 沼津
昭和21年12月近畿車輌でサハ78129として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。55年4月22日付で廃車。

 サハ78456/(48-5-13) 沼津
昭和19年10月川崎車輌でサモハ63005として新製。26年12月大井工場でサハ78304に改造。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。52年2月18日付で廃車。元サモハ63→サハ78300番台のため、78450~78455とは戸袋の位置が異なる。

 サハ78457/(49-2-17) 沼津
昭和21年9月川崎車輌でサモハ63376として新製。27年2月大井工場でサハ78378に改造。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。51年10月18日付で廃車。

 画像の無いサハ78400とサハ78452の経歴は下記の通りである。
サハ78400
昭和6年6月川崎車輌でサロハ46010として新製。12年1月トイレを設置してサロハ66010に改番。20年3月大井工場で4扉化(戦時改造)してサハ78018に改番。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年10月11日付で廃車。

サハ78452
昭和21年7月近畿車輌でサハ78108として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年11月19日付で廃車。

(2) サハ78500番代(501~515)
昭和44年10月から45年3月にかけて元モハ63形改造のモハ72を大井工場で電装解除した車両で78501~78515の15両在籍した。鳳区に配置された78506以外は関東地区の配置で、50年代の前半に廃車されたため、撮影できたのは、502、506、509の3両のみである。
尚、トップナンバーのサハ78500は三河島事故で大破したモハ72549(28年11月東急車両製)を電装解除して復旧した車両で、モハ63形とは直接関係ない。

サハ78502/ (49-5-1) 拝島
昭和21年10月日本車輌でモハ63161として新製。27年3月日本車輌でモハ72051に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年12月21日付で廃車。

 サハ78506/(49-6-16) 天理
昭和21年6月日本車輌でモハ63023として新製。27年5月東急車両でモハ72163に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年2月1日付で廃車。
関西に配置された唯一の車両で、阪和線で活躍した。

 サハ78509/ (48-2-25) 拝島
昭和22年9月近畿車輌でモハ63518として新製。27年8月大井工場でモハ72201に改造。45年3月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年12月17日付で廃車。

 画像の無い車両の経歴は下記の通りである。
サハ78501
昭和21年9月日本車輌でモハ63111として新製。26年12月大井工場でモハ72033に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。46年12月8日付で廃車。

サハ78503
昭和21年9月近畿車輌でモハ63364として新製。26年12月大井工場でモハ72096に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年3月22日付で廃車。

サハ78504
昭和22年8月川崎車輌でモハ63194として新製。27年2月日立製作所でモハ72118に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月17日付で廃車。

サハ78505
昭和22年11月川崎車輌でモハ63637として新製。27年2月日立製作所でモハ72153に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年10月29日付で廃車。

サハ78507
昭和21年10月日本車輌でモハ63145として新製。27年5月汽車会社でモハ72167に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月10日付で廃車。

サハ78508
昭和21年11月日本車輌でモハ63257として新製。27年5月東急車両でモハ72171に改造。45年3月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年12月21日付で廃車。

サハ78510
昭和22年10月近畿車輌でモハ63522として新製。27年10月大井工場でモハ72212に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年10月24日付で廃車。

サハ78511
昭和23年2月日本車輌でモハ63772として新製。27年6月日本車両でモハ72252に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月17日付で廃車。

サハ78512
昭和23年8月汽車会社でモハ63685として新製。28年1月日本車両でモハ72265に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。53年5月8日付で廃車。

サハ78513
昭和23年1月汽車会社でモハ63749として新製。28年1月汽車会社でモハ72287に改造。44年12月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年1月23日付で廃車。

サハ78514
昭和23年1月汽車会社でモハ63747として新製。27年12月東急車両でモハ72306に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年2月5日付で廃車。

サハ78515
昭和22年12月汽車会社でモハ63731として新製。28年1月東急車両でモハ72309に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。53年9月16日付で廃車。

【参考】サハ78516、78517について
モハ72522と72523(いずれも昭和28年10月日立製作所製)を昭和45年6月と7月に浜松工場で電装解除した車両で63形とは直接関係ない。片町線で使用され、78516は52年3月16日付、78517は51年9月1日付で廃車になった、

取り外された電装品は、身延線の準急増発用として計画されたサハ87108、87111の電動車化に利用され、パンタ部分を低屋根化してモハ80850、80851となった。座席幅が狭く内装が木製のため、全金製のモハ80800番代と比較すると見劣りし、予備車となっていることが多かった。

サハ78516/ (47-2-20) 放出


 サハ78517/ (48-7-1) 住道

63形について、クモハ73、サハ78と話を進めてきたので、時期を見て残るクハ79、モハ72についてもまとめてみたい。

相模鉄道キハ1001~1004

我国電気式内燃動車は、国鉄に米国ガス・エレキトリック車のイミテーション・キハニ36450形式、ディーゼル・エレキトリックのキハ43000系、敗戦後のキハ44000、44100系、私鉄ではこの相模鉄道キハ1001~1004しかない。電気式は機械式に比し相当に高価が常識だが、相模の重役に電気の専門家がおり、電磁弁による総括制御を狙ったのであった。価格は随分調べたが資料が得られない。


相模鉄道キハ1001汽車会社竣功写真 台車は端梁つき菱枠 コロ軸受 日車新案特許の簡易連結器を装着

製造は汽車会社東京支店1935年10月、電機部分は東洋電機。機関は対向ピストン4気筒(8ピストン)のユンカー5-4TV82馬力/1,500、発電機は定格連続70kW300V(最大600V)205A、電動機は300V54kW×2、制御方式は自動ワードレオナード式で出力を一定に保つ。65km/h以下では発電ブレーキを常用し、冬期は抵抗器消費で発生する熱を車内に送って暖房にする=制動状態以外での暖房は利かない。停車直前には空気制動になるが、通常のシュー式ではなくバンドブレーキである。力行速度は平坦線65km/h、12.5‰勾配で45km/h、燃料消費は1km当り0.5立とある。


キハ1001茅ヶ崎 1939年黒岩保美撮影 2眼レフの見上げ撮影のため 上すぼまりの車体が余計すぼまって見える

車体はご覧のように日本離れし強いて言えば欧州風だろうが、関センセがおっしゃるハシゴ形とは、脚立形と云う意味だろう。梯形車体と称されることも多いが、妻台枠部分は垂直で、腰と窓部分にも角度があり、屋根両端を辺と看做せば、10角形という、実に不思議な代物である。内燃動車に限ったとしても、汽車会社のデザイン能力=センスは日車本店に劣ること数等である。

塗色は腰が海老茶色、上半分が黄色で、鉄道趣味誌の紹介記事は「東海道線の乗客にして茅ヶ崎を通る時、必ず誰かは気が付かずにはゐないであろう。事程左様に美しい車両なのである」「兎に角この車が、日本一の高原鉄道小海線にでも運転されるとして、八ヶ岳の麓を走ったら一幅の絵となるであらうと思う」とベタほめ。「只惜しむらくは平面に於ても流線型にしたかった」ともある。

キハ1001~1004形式図 鉄道趣味30号より 右端座席に注意

平面図で分るとおり、左側妻部座席はあたかも90度捻ったクロスシートで、窓際に座った人は、窓が開いていれば普通に座ったままで窓の外に首が出せると揶揄され、窓が閉まっていれば、絶えず首を内側に曲げ続けを強要される。敗戦後日立電鉄での車内写真をご覧あれ。図左側妻部運転席以外は手荷物室である。妻面は3枚窓だが、等幅ではなく運転席窓が900mm、他の2枚が650mmと狭いのも変わっている。

乗務員/手荷物扉は片側に集中し、それも引戸だから、扉の妻側上部は斜めになっている。反対側運転席サイド妻寄り窓はタブレット授受のため、下段の前寄りが細長い台形引戸になっている。その反対側客席側窓は嵌め殺しだが、暑いとの苦情があったとみえ、後年の写真では運転席と同様に改造されている。


キハ1004 社家 1939年11月20日 荻原二郎撮影 運転席の小さな台形窓に注意 風入れとタブレット授受用 妻運転席と中央窓は嵌め殺し

ところで導入時3両重連の不鮮明な写真が社史にあるが、結局総括制御は成功せず、高価な電気式にした効果はなかった。1938年5月サハ1101が同型(手荷物室なし)で新製されたが、総括制御が可能なら、当然キサハになっていたはずである。

相模鉄道は1943年4月1日厚木で接続する神中鉄道を吸収合併したが、本来の相模鉄道部分が1944年6月1日買収され、相模線となる。残った旧神中鉄道部分が相模鉄道を名乗ったまま現在に到っているのである。キハ1001~1004はこの旧神中鉄道に移り、1944年6月18日設計変更認可で電車化。機関と発電機を撤去し、パンタをつけさえすれば直ちに電車になったのだが、モーターは300V用のはずだから、永久直列にしたのか、600V用に交換あるいは巻き換えたのか。どなたかお教えくだされ。

現実に認可時点では1001、1002が竣功済、1003、1004は敗戦後になり、番号そのままで記号のみキハからモハに変更された。その後日立電鉄に移りモハ13~16になっていたのは周知の通り。ここでは1両ごとに細部が異なり、両側に乗務員扉が設けられたものもある。


日立電鉄モハ13 湯口 徹撮影 乗務員扉がなかった側にも律儀に同一仕様で設けられ 妻面中央窓も開けられる

サハ1101は買収で運輸通信省コハ2370になったことになっており、1951年3月廃車が記録されているが、これは書類上だけで、現実に現車は相模鉄道に残存=国鉄には引き渡されていなかった(取り込み横領?)。かような事例は敗戦前後のドサクサに少なからずあって、強盗慶太辣腕の一端かもしれない。1955年両妻を平妻に改造しサハ2801に、1959年10月日立入りしてサハ2801になって、モハもサハ同様平妻化されて、一族5両はかなり長命した。


日立電鉄サハ2801 湯口 徹撮影 両端をフラットに改造 軸受はプレーン

日立電鉄モハ15旧手荷物室部分 手荷物扉は埋め殺されている 湯口 徹撮影

 

はしご型流線形ディーゼル電動車??

今回は、説明文を読んでもよくわからない乗り物です。パンタがない電車シリーズなので電気動車なのでしょうが、相模鉄道に新旧があったとか、電装されて日立電鉄にいったとか、関西在住にはよくわかりません。わずかに日立電鉄といわれて、ああ見たことがある、と思う程度です。

夏の思い出 総決算 -3-

もうひとつの夏の思い出、と言っても、ただひとつ“外回り鉄”で行った首都圏の数日間のみだった。この時は、準特急さん、F本さんにも案内していただき、郊外も回ることができた。その前に、都内での用件が意外と早く終了した。暗くなるまで2時間はある。遠くへは行けない。こんな時に、すぐ行けるのが都電だ。

傾きかけた陽に急がされるように、終点の三ノ輪橋まで来た。以前、来た時には陽が落ちた黄昏時の光景が良かったので来たものの、期待の夕陽ギラリは、周囲の建物に阻まれて、完全にアテ外れ、陽の差し込む余地のないことが分かった。あわてて地図を取り出し、夕陽の差し込む西方向へ線路が伸び、カーブのある地点を探すと、4停留所先の「荒川七丁目」しかないことが分かった。

都電には乗らず、ただ一目散に歩いて、「荒川七丁目」まで向かうが、陽はどんどん落ちてきて、現地に着いた頃には沈み始めた。ギラリは諦めて、逆方向の夕陽バックに切り替えて、停留所から町屋方面を狙う。カーブして輝いたレールの向こうから次つぎ都電がやって来た。

 

 

陽が落ちてから隣の町屋駅前へ向かう。京成線、メトロが交差する、乗降の活発なところで、次つぎと来る都電から多くが降り、多くが乗って行く。都電が通り過ぎると、踏切を多くの人が横断する。東京のパワーを感じる一断面だった。

何気ない街並みに都電がうまく溶け込んでいる。沿線の住民も、さり気なく、日常の生活の中に都電が生きている。路面電車の魅力を感じる2時間だった。都内で思い立ったら行けるのが都電の魅力でもある。

宮崎交通チハ101~103

敗戦後1ドル360円の超円安レート設定による外貨絶対不足で、石油燃料輸入は厳しく制限され、産業復興のトラックや壊滅状態のバス等に限っての配給が長らく続き、電化あるいは石炭でしのげる鉄道には、配分がなかった時代の、それも最末期に出現した車両である。何度も記したが江若鉄道のみ、米軍の虎の威を借りて独自に燃料を確保し、1948年4月以降他鉄道より2~3年早いディーゼル化を成し遂げたが、常総筑波鉄道をはじめとする諸鉄道は指をくわえて見るだけで、その後も闇ルートで確保した燃料を、代燃と偽って使用するしかなかった。多くの鉄道がこの時期電化に走ったのは周知の通りだし、蓄電池バス、タクシーも少なくなかった。TAMAなる電池自動車も発売されていた。 

宮崎交通の鉄道線では、1950年3月蓄電池動車を3両作り上げた。それというのも、同社には既に電気自動車を扱い、バッテリーに関し技術経験を積んでいた宮崎電気自動車サービスという子会社があり、ノウハウを持っていたのである。国鉄のキハ40000を3両購入し、エンジン、トランスミッション、冷却装置、ガソリンタンク等を撤去。代りに150V50kW電動機を1個装着し、駆動システムは従前のものをそのまま使用=ギヤ比も4.056のままだが、逆転メカニズムは殺していた筈である。

宮崎交通チハ101 1958年3月13日南宮崎 湯口 徹撮影 

車体全長に渡って屋根上に逆L型アンテナ(歳が分るが)が張ってあり、走行中ずっとラジオが流され放しだったのは、当時として大サービスなのだが、勿論真空管式ラジオ受信機である

電池は湯浅80V(40個直列)、252Ahを2組床下に装着し、80V/160V切替及び抵抗制御で、電池直列/並列各4ノッチ、計8ノッチであった。車両の改造は広瀬車両、電気部分は中島製作所と神戸電機鳥羽工場。50kWとは67馬力だから、ガソリンカー時代のGMF13=100馬力に比せば2/3だが、幸いこの線の南宮崎―青島間はさしたる勾配がない。竣功図記載の自重は19.78トンで、キハ40000の18.09~18.35トンに比し、1.5~2トン重くなったのは、ひとえに鉛電池のためである。詳しくは田尻弘之『宮崎交通鉄道部』RM LIBRARY69を参照されたい。

電気車の科学1950年10、11月号、宮崎交通鉄道部長の「蓄電池車の採用について」によれば、車両1両の払下と改造、充電所が200万円、計800万円の予算でスタートしたが、地上設備も含め総額1,153万3,516円、内訳は車両払下3両が214万8,197円、電装とも改造費同216万円、蓄電池予備1組共216万円、充電所費252万4,319円、輸送費30万円とのことである。

走行1km当り消費電力1.48kWh、石炭に比せば動力経費が半減した由。しかし現実にはこの直後ディーゼル化が可能になり、蓄電池化は設備投資と人手が馬鹿にならず、結果論としてはもう少し待ってディーゼル化すればよかったことは間違いない。宮崎交通は追いかけて蓄電池機関車2両も増備し、それでいて蒸気動力も残存するという、二重投資を余儀なくされ、ディーゼル化することはなく、国鉄日南線に土地を譲って1962年7月1日廃止したのであった。

なお電池動力は米手作市氏ご指摘の通り、かつて国鉄にAB10なる蓄電池機関車があったのは、火薬工場での引火を恐れたためである。他には鉱山等の産業用に電池機関車はかなり存在し、敗戦後では本郷軌道が蓄電池動力を併用している。旅客運輸動力に蓄電池を採用したのは、範多商会が輸入したエジソン・ビーチ電車を、神戸電気鉄道(現在の神戸電鉄ではなく、神戸市電の前身)が、1906年に試用した例しかない。結局このエジソン・ビーチ電車はどこにも売れず、小樽の石炭埠頭で使用する計画もあったようだが、軌間が1435mmでもあり、実現せず。

現在に至って、新鋭電池によるテストは少なからず行われているが、さて、商業ペースでの実用となると話は別である。なおドイツではかなり古くから、電池動車が実用化されていたが、結局はディーゼルに敵わなかった。

60年前のエコ・カーバッテリーカー

宮崎交通のチハ101型、今はやりのバッテリーカーの走りです。そういえば昭和の初めに国鉄が非電化区間用に蓄電池機関車AB10型、後に電装されてEB10型になった事もありましたね。

ほかにも“電池式自走客車”があったかもしれません。

DRFCなにわ船場鉄道フェスティバルに再登場!

先に「大津の86」特派員から速報された来る10月12~14日に、【船場まつり】で再び「まつり」の盛り上げ役としてDRFCは活躍する。次回は関西大学、大阪市立大の鉄研との合同参加で、今回好評を呼んだNゲージ京阪電車オンパレードに加え、新機軸が計画されている。【船場まつり】は大阪・中央大通の階下の船場センタービル中心に北は本町通、南は南宝寺商店街、東は堺筋、西は御堂筋を中心に広い範囲で開催される。開催は10時から16時まで、衣服をはじめ掘り出しもの雑貨などの「のみ市」がうりであるお買い得の祭りである。親父一人で訪れるのはもったいない。家族お揃いで、友達誘い合わせ、財布を緩めるつもりででご参加ください。DRFOは御堂筋の西、10号館1階で展開します。

尚、老頭児特派員は13日午後、「船場鉄道フェスティバル」コーナー周辺をウロウロしようと思っています。三条京阪では折りたたみ椅子があり、90分間休息させて頂きました。そこへ会長さんのみならず多くの方と言葉を交わすことが出来ました。15時30分、片づけに入った時、京阪電鉄鉄道企画部の方が挨拶に来られ、来年以降も今回の企画を継続させるので協力要請がありました。「こちらこそよろしく、ご要望あれば現役にお話し下さい、OB会としてバックアップさせていただきます。」との返事をさせていただきました。

9月22日午後は三条京阪地下1階に集合!

先日【23496】で、どですか電氏から紹介されたDRFC現役が「サークルステーションIN三条」に参加する件ですが、クローバー会メンバーはもとより、DRFC・OBで時間の許す諸氏はぜひ京阪電車三条駅地下1階までお越しください。折角の京阪電車のお誘いに、我々も乗せてもらおうではありませんか。Nゲージでどんなパフォーマンスを展開してくれるか、やさしい目で見守ってやろうではありませんか。OB諸兄は現役たちに「何年度のなにがし」と名乗り上げ、8月25日のようにならないように、こちらから彼らを励ましてやろうではありませんか!

老人は午前中、佐竹先輩宅で打ち合わせがありますから、それを済ませた上で三条京阪に参ります。申し訳ないのですが12時開会に間に合いません。遅くなっても13時30分ぐらいには到着するようにします。老人は遅れて参加すると先着のクローバー会の方、伝言願います、15時30分閉会後、対岸に「王将」があります。希望者は餃子定食で生数杯如何でしょうか。ただし、割り勘ですからそのつもりでお付き合い下さい。

 

大垣の朝

9月8日【23326】でINUBUSE氏が養老線に転属した正統派ラビットカーの夜景等の投稿をされたが、1週間前の8月29日のこと、名古屋に行った時、昼前まで時間が空いたので、これ幸いと養老線を訪れた。

東京駅6時発「のぞみ1号」で出発、名古屋から東海道本線快速に乗継ぎ、大垣発8時43分桑名行に乗車して次の西大垣駅で撮影した。
乗車した桑名行は(←大垣)モ611+サ571+ク511で、旧車号はモ1801+サ6109+ク1901の元名古屋線と元南大阪線の混合編成であった。中間のサ571はク6109として新製され、後日運転台を撤去したため大垣寄りの妻面に丸味があり窓配置が変則になっている車両であるが、この車両に乗ったため撮影はできなかった。
以下、撮影順に紹介する。

西大垣9時発大垣行→9時16分発桑名行/モ612+ク512
旧車号はモ1802+ク1902で平成5年3月に転入している。モ1800形とク1900形は昭和41年に新製された名古屋線の通勤型車で各4両作られた。

9時29分大垣行→9時45分回送入庫/ク524+サ564+モ624
旧車号はク6114+モ6018+モ6017で平成5年6月に転入している。モ6000形は昭和38年に新製された南大阪線の通勤型車で新製時はラビット塗装であった。サ564はパンタが付いているため「M」に見えるが電装解除されている。

9時40分揖斐線運用車の回送入庫/モ602+サ552+ク502
旧車号はモ1657+サ6153+ク1752で平成5年3月に転入している。元名古屋線と元南大阪線の混合編成である。モ1650形は昭和38年(1651~1655)と41年(1656~1659)、ク1750形は40年に1751・1752がモ1600+ク1700形の増結用として作られた。モ1651~1654の4両は57年6月京都線急行新田辺~京都間5連化の時、新田辺区に転属して連結面に簡易運転台を取付け、京都寄りの先頭に連結されていたためご存知の方も多いと思う。
中間のサ552は養老鉄道唯一のトイレ付車両であるが、普段は施錠されており、団臨に使用時のみ使用される。サ6151形は、モ6000形のT車として43年にサ6151~6153の3両新製されている。

9時56分大垣行→10時14分桑名行/ク523+サ563+モ623
旧車号はク6108+モ6016+モ6015で平成5年12月に転入している。前歴等は前述のク524他3連と同じである。

10時27分発大垣行/ク521+サ561+モ621
旧車号はク6101+モ6012+モ6011で平成4年6月に転入している。そろそろ切り上げないと間に合わなくなるため、この電車で戻ったため、大垣駅で先頭のク521の撮影のみに終わった。(以前は全車両撮影できたが、線路際にホテルが建設されたため<大垣寄りの先頭車のみとなった)もう少し頑張ると、この電車と揖斐線の回送入庫が撮影できるが、そこは止むを得ないところである。

留置車/モ604+ク504
旧車号はモ1659+ク1952で平成6年7月に転入している。モ1659は昭和61年、ク1952は62年製で異系列同志の連結である。桑名寄りのク504のみ撮影可能であった。

INUBUSE氏が撮影された元正統派ラビットカーモ6858+モ6857のク506+モ606はあいにく車庫の中で、出庫は18時30分とのことで、帰りにリベンジしようとも思ったが、かなり暗くなるので今回はパスした。

養老線を初めて訪れたのは、現役時代昭和42年7月23日のことで、改造されていたとはいえ旧養老鉄道や伊勢電の車両を見て、近鉄にもこんな車両があったのかと驚いたものである。その後何回となく訪れ、そのたびに車両のバリエーションが増え、志摩線改軌で不要になった元三重交通の車両も転入した。その後元名古屋線のモ6301系列、モ6441形にほぼ統一されたが、新性能化、冷房化が推進され現在の車両になった。

現在の車両も昭和40年代に作られており、車齢を考えるといつ廃車になってもおかしくない。加えて近鉄では少子高齢化による乗客減により運転本数が減少傾向にあるため、今後南大阪線、名古屋線の比較的新しい車両に置き換えられる可能性もあり、引き続き注目していきたいと思っている。

ちなみに42年7月23日は、ロギング太郎さんと行動を共にし、養老線の後、岐阜の行くと市内線の単車の最終日、午後は名鉄金山橋で流電モ3400形、名古屋駅でキハ90を撮影した。

キハ44000→キハユニ15

「昭和の電車」シリーズの次回の予想を立てるが最近は全く当たらない。国鉄モハ63形から始まった「63シリーズ」が長く続き、次は「改造連接車シリーズ」が始まったが僅か2回で終わった。次は大阪市電の改造連結車、終戦直後の南海と続いたので「終戦直後シリーズ」が始まるのかと思いきや、予想に反して今回はキハ44000形が登場した。

兵庫ふるさと通信員様よりキハ44005→キハユニ156をカラーでUPしていただきましたので、気動車に詳しい諸先輩方を差し置いて解説を試みた。

キハ44000形は、昭和27年から28年にかけて新製された電気式気動車で、DMH17Aエンジンに直結した300Ⅴ100KWの直流発電機を駆動し、発生した電力で後部台車に架装した45KW×2の主電動機を駆動した。
27年8月44000、44001が日本車輌(支店)で44002、44003が汽車会社で作られ千葉気動車区木更津支区に配置された。翌28年3月44004~44007が日本車輌、44008~44011が新潟鐵工所で、44012~44014が東急車両で作られ、44004~44008が木更津支区、44009~44014が大原区に配置された。木更津支区は主に房総西線(現内房線)、大原区は主に房総東線(現外房線)で使用されたが、土気~大網間の勾配区間でのパワー不足のため、程なく成田区に転属した。27年製と28年製では側面のスタイルが異なり、27年製はクハ86の初期車を3扉にしたようなスタイルに対し、28年製は窓が2段化され、上窓はHゴム支持(通称バス窓)になった。関 三平さんのイラストは先頭車が27年製、2両目は28年製で描かれている。

昭和32年4月の称号改正でキハ09形(1~15)となったが、同年度中に液体式とキハユニ15形(1~15)に改造され、全車千葉を離れて北海道を除く全国に分散した。

昭和50年3月末の配置表では、それ以前に廃車になった5、7、15以外の12両が健在で、山形区に4、水戸区に8、10、13、加古川区に3、6、9、浜田区に14、岡山区に1、11、徳島区に12、人吉区に2が配置されていた。

キハユニ151
キハ44000→キハ091、昭和33年3月大宮工場で改造されキハユニ151となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山に転属して55年8月廃車になるまで在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/上:岡山駅 (44-10-19) 下:正面貫通化改造後/岡山駅 (49-11-23)

キハユニ153
キハ44002→キハ093、昭和32年12月大宮工場で改造されキハユニ153となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山区に転属、更に48年9月に加古川区に転属して55年7月廃車になるまで在籍した。フロントガラスを小さなものに交換したため不細工な顔になった。/加古川区 (49-5-12)

 キハユニ154
キハ44003→キハ094、昭和32年12月小倉工場で改造されてキハユニ154となった。改造後から52年7月廃車になるまで一貫して山形区に在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/余目駅 (41-9-5)

 キハユニ156
キハ44005→キハ096、昭和33年3月大宮工場で改造されてキハユニ156となった。改造後から56年5月廃車になるまで一貫して加古川区に在籍した。/加古川駅 (49-5-12)

 キハユニ1514(連結面)
キハ44013→キハ0914、昭和32年12月大宮工場で改造されてキハユニ1514となった。当初加古川区に配置されたが、49年9月岡山区に転属、更に50年3月浜田区に転属して54年11月廃車になった。/加古川区 (41-3-6)

 【参考】
キハ44500→キハ15→キハユニ15
キハ44003~44014の新製と同時期、液体式気動車の試作車としてキハ44500~44503の4両が日本車輌で新製された。キハ44003~44014と同一スタイルで大宮区に配置され川越線で試用された。

昭和32年4月の称号改正でキハ15形(1~4)となり、34年度中にキハユニ15形(16~19)に改造された。改造後16、18は豊岡区、17、19は小郡区に配置され、昭和50年度廃車になるまで転属することなく在籍した。

キハユニ1517
キハ44501→キハ152、昭和35年3月大宮工場で改造されてキハユニ1517となった。50年11月廃車になった。/広島駅 (40-3-27)

 【その他】
キハユニ154と同じ日に撮影した「行先板」と「愛称板」を紹介する。
盛岡~秋田間を花輪線経由で結んでいた急行「よねしろ」の行先板で、夏の期間中は船川(昭和43年4月男鹿に改称)まで延長運転されていた。追分から直接船川に行かず、一旦秋田まで行き、船川線の定期の普通列車に併結され船川まで運転された。

 急行「月山2号」の愛称板。「月山」は上り2本、下り1本という不思議な列車で、上りの「月山1号」は酒田~山形間、「月山2号」は酒田・鶴岡~山形~仙台間の運転であった。
下りは、仙台~山形~鶴岡・酒田間1本のみの運転で、愛称は「月山」であった。従って「月山2号」の愛称板を表示する列車は上りのみであるが、専用の愛称板が存在した。

大垣の夜

9月5日の夜 岐阜あたりで急遽宿泊することになり、ネットで検索し大垣駅の横のホテルを予約しました。またとない機会なので 荷物を置き養老鉄道の西大垣駅へ向かいました。

西大垣駅です。本社や車庫が併設されており、乗務員交代も行われ 養老線の業務の中核的存在です。
中線もあり車両撮影しやすい所です。
次の電車を写したい旨 駅員に断わり 反対側のホームで待っていると なんと一編成しかないラビットカー色の電車がやってきました。

モ606とク506の編成です。もと南大阪線のモ6857とモ6858です。(昭和38年5月製造)
昔 河内松原在住の時 よく乗った正統派ラビットカーモ6800形32両、モ6850形8両のうち生き残っている2両です。当初この色でしたが徐々にマルーンに塗り替えられていき この2両は2009年9月にこの色に復活しています。
本日9月8日、「~ラビットカーのリバイバル塗装車に初めて乗れる~吉野線開業100周年記念列車ツアー」が運転されるようで この車両のふるさと南大阪、吉野線でも4両編成がリバイバル塗装車となるようです。車番は6051-6052-6171-6136のようです。元ラインデリア車の冷房改造車で、過去ラビットカー色の経験のない車両ですね。
ふるさとから遠く離れたところで 毎日頑張っているこの2両のラビットカー、末永く活躍してほしいと思っています。

次の電車は標準色 といっても近鉄本体の車両はツートンカラーとなっていますので単色塗装は養老鉄道の標準色ですね。

同じ場所での モ613とク513です。(元名古屋線のモ1803とク1903)
暗い中での手持ち撮影でしたが ライトの光の印象的な写真となりました。


大垣駅まで乗って来た ク524-サ564-モ624 の3両編成です。
もと南大阪線の ク6114-モ6018-モ6017 です。(昭和41年10月製)
42年3月末に名古屋から大阪に引っ越したころの最新鋭車で きれいなラビットカー塗装でした。
現在 養老鉄道は3両編成7本、2両編成6本 計33両 全車両近畿日本鉄道が所有しているとのことです。

次はおまけの樽見鉄道です。

専用ホームで発車を待つ ハイモ295-315 池田満寿夫デザインの特別塗色だそうです。
貨物列車が無くなり、客車も無く、今は気動車6両のみで 頑張っています。

大垣駅の北口は再開発され 商業施設などでにぎわっていますが、南側は以前からの雰囲気が少し残っており その一角にヨ8000が2両置かれていました。貨物駅とのことです。

ヨを見たところで食事に行きにホテルに戻りました。
犬伏

国鉄キハ44000その後の一つ、キハユニ156

キハ44000、第二次増備型の内の一両です。第一次と異なり、窓がバス
窓です。その後キハ09になり、液体化式に、さらに改造でキハユニ15と
なりました。兵庫県の加古川線には、湘南型正面の車が3両在籍したそう
でそのうちの一両、キハユニ156です。

1965年8月29日、719D 加古川線野村駅、現在の西脇市駅で撮影。
写真左は728D。ちなみにフィルムは、Agfa color でした。

富士フィルムが500年もつ?

読売新聞9月5日の学芸欄に「フイルムは残る」というコラムがあった。目下全盛を誇るデジタルも、遠からぬ将来再生できなくなる虞がある。記憶媒体の劣化や規格変更が理由である。アナログの録音テープ、8mm映画は完全に、VTRですら過去のものになている。しかしカラー映画を3色に分解し、白黒フィルムに記録すれば、「500年もつ」と富士フイルムが言っているそうな。

他のフイルムメーカーがいうのならともかく、事もあろうに富士とは。勿論引用原文が分らないから、軽率な批判はできないが、富士フイルムがヴィネガー・シンドロームで社会の膨大な文化を損ね、しかもメーカー自体は謝るどころか、一言の警告すら発せず、そ知らぬ顔の半兵衛を決め込み続け何十年。その富士が「500年もつ」とは、一体どんな顔でいっているのだろうか。厚顔無恥とはこういうものであろう。

恐らく富士フイルムは、かような自社の古い過去の(と自分では思っているのだろうが、富士ヴィネガー・シンドロームは現在でも脈々として進行中である)恥部など、職員に一切教育していないのであろう。日本を代表する企業の一員で、しかも現在細々ではあってもでも銀塩フイルムを造り続けている希少なメーカーだが、その富士フイルムの職員に、「500年もつ」ためには、一体どこのフイルムに記録したらいいのか聞きたい。へー、そんなことがあったんですか。でも今のウチのフイルムなら大丈夫ですよ、とのたまうのか。恐らく読売の記者も、そんな経緯を全く知らないでこのコラムを執筆したに違いなかろうが。

国鉄キハ44000型

珍しく、国鉄の車両です。

キハ44000型、この当時の気動車は湘南型を気取っていましたね。このあとキハ10系へと変化しますが、エンジンは懐かしのDMH17シリーズのA型です。おもえば気動車と言えばこのエンジンで、湯口先輩の講義で聴いた「このエンジンからの進歩がなかったことが我が国の気動車にとっての不幸だった」を痛感します。

115系三昧の夏の一日

8月中旬、JR東日本のホームページを見ていると、湘南色の115系の臨時快速「むさしの奥多摩号」が大宮~奥多摩間運転されると書かれていました。115系が青梅線に入線することは珍しいことです。

インターネットで検索すると、運転日は、7月28・29日、8月4・5・11・12・18・19日で、ヘッドマーク付で運転されているようです。ただ、115系の調子が悪く、運転が中止になったり、E233系の代走になったりで、あまりうまく走らない臨時のようです。

そろそろ引退も囁かれている115系ですので、一念発起して、18日土曜日に青梅線に出かけることにしました。いろいろ行程を検討すると、当日南越谷~鎌倉間運転されるスカ色の115系M40編成を使用した「ホリデー快速鎌倉号」の回送も撮影できるようなので、準特急さん・新所沢都民さんに、「宜しければ、いかがですか?」とお声をお掛けしたところ、前日にも関わらず、参加するとのことでした。

当日、始発電車で最寄の北総線印西牧の原駅を出発、浅草・神田経由で新宿へ。前日に購入した新宿6:38発の183系全車指定臨時快速「みたけ・おくたま探訪号」に乗車、一路御嶽を目指します。車両は、前後に特急のシンボルマークが付いたOM103編成ですが、幕がないため、「臨時」表示です。乗車率は、新宿出発時点では、10%も満たない状況でした。

所沢新都民さんは、この列車を途中で撮影するとのことでしたが、拝島での乗り換えに失敗し、結局のところ撮影できず、御嶽で三人集合となりました。

この面子が揃うと、過去の経験から雨の確率が高いのですが、やはり期待通り小雨がポツポツ降るような状況の下、川井で下車。川井から御嶽方面に戻った旧東川井信号所跡で、115系湘南色の快速「むさしの奥多摩号」を撮影。

川井駅に戻り、新宿から乗車してきた快速「みたけ・おくたま探訪号」の回送を撮影しました。

川井駅から古里駅に行き、中線に長時間停車の快速「むさしの奥多摩号」の回送を撮影したころには、日が差してきました。

その後、今度は、スカ色115系の「ホリデー快速鎌倉号」を撮影するため、武蔵野線へ。当初は、駅間でとも思ってましたが、再び雲行きが怪しくなり、結局、屋根のある西国分寺駅で、1時間ほど、回送を待ちました。

やって来た「ホリデー快速鎌倉号」の正面幕は、快速のままでラッキーです。

そのあと、元お召し機のEF8181もやってきました。

東所沢に回送後、再び、鎌倉に回送される列車まで、二時間弱。昼食ということで、西国分寺駅周辺を探しましたがお店がなかなか見つからず、やっと見つけたお店で、生ビールと刺身定食で、前半の反省会と相成りました。

再び、ホームに上がると夏の日ざしが差しており、順光で回送を撮影できました。残念ながら、今回は、幕が回送となっていました。(本来の姿ですが・・・)

ここで、新所沢都民さんと別れ、再び準特急さんと青梅線へ。この頃には、夏の日差しが照りつけて、腕が痛いほどです。雨の原因は???

青梅駅で下車し、奥多摩よりに歩いて、快速「むさしの奥多摩号」の回送と快速「みたけ・おくたま探訪号」の回送を撮影した後、朝撮影した旧東川井信号所に舞い戻り、快速「むさしの奥多摩号」撮影した後、青梅で解散となりました。

115系三昧の夏の一日でした。

なお、「ホリデー快速鎌倉」は、豊田区の115系M40編成で運転されてきましたが、先日発表されたJR東日本の秋の臨時列車運転計画では、183系となっていました。115系の引退の日が近づいてきたようです。

南海戦前の冷房電車

南海鉄道戦前の冷房電車に関しては、鉄道史料55号に西 敏夫/小野田 滋両氏により詳述されている。これから要約すれば、1936年6月12日申請、7月11日設計変更認可及び車両定規突破により特別設計許可、7月21日竣功届。クハ2802の床下にガス圧縮機等一式を2基搭載、屋根上の冷却機から冷房をするもので、モハ2002との連結だが、冷房はクハのみ、モハはファンデリアとあって、当然ながら乗客は皆クハに集中したそうな。7月18日~9月10日まで、定期検査で2日、モーター冷房故障で2、3回冷房を中止した以外無事乗り切ったが、温度は予定通り下がったものの、湿気は十分取リ切れなかtっとのことである。

翌1937年にはMTユニットで冷房するように改良し、屋根上に何とも雄大?なダクト、連結面は専用幌を設置している。前年の湿気除去不足に換気回数を1時間13回から25回に増加させ、空気吹き出し口も増加させている。冷房主機はやはりクハ(和歌山方)に搭載し、モハ(難波方)は屋根上風道によりクハから冷気を供給。2両一組でモハ2001~2004/クハ2801~2804の計8両で、7月1日から冷房使用開始した由だが、この年だけに終わったのは、7月7日日華事変(日中戦争)ガぼっ発し、戦時体制が強化されたからである。

下図は上が1936年のクハ2802改造図、下が1937年モハ+クハのユニット図(いずれも鉄道史料55号より転載)

なお上図のクハは32.52トンから35トンに、下図ではモハが45.72トンが46トンに、クハは32.52トンが45.72トンというヘビーウエイトになった由。

謎の南海電車・クハ2001系

文の冒頭にあるCMソングは聞き覚えがあるよな気がしますが、この電車は全く知りません。

説明を読んで疑問がいくつもわいてきます。

まず、冷房のシステムについてです。クハ2801で冷気を起こしてフードで2001へ送るとか、勾配を使って冷気を分配するとか、全く想像がつきません。さらに難波―和歌山を蒸気機関車で運行したとか、どうなっているのでしょうか?南海本線は完全電化でしょう?

どなたか、戦後生まれの若輩者にわかりやすく教えて下さい。