夏の思い出 総決算 -3-

もうひとつの夏の思い出、と言っても、ただひとつ“外回り鉄”で行った首都圏の数日間のみだった。この時は、準特急さん、F本さんにも案内していただき、郊外も回ることができた。その前に、都内での用件が意外と早く終了した。暗くなるまで2時間はある。遠くへは行けない。こんな時に、すぐ行けるのが都電だ。

傾きかけた陽に急がされるように、終点の三ノ輪橋まで来た。以前、来た時には陽が落ちた黄昏時の光景が良かったので来たものの、期待の夕陽ギラリは、周囲の建物に阻まれて、完全にアテ外れ、陽の差し込む余地のないことが分かった。あわてて地図を取り出し、夕陽の差し込む西方向へ線路が伸び、カーブのある地点を探すと、4停留所先の「荒川七丁目」しかないことが分かった。

都電には乗らず、ただ一目散に歩いて、「荒川七丁目」まで向かうが、陽はどんどん落ちてきて、現地に着いた頃には沈み始めた。ギラリは諦めて、逆方向の夕陽バックに切り替えて、停留所から町屋方面を狙う。カーブして輝いたレールの向こうから次つぎ都電がやって来た。

 

 

陽が落ちてから隣の町屋駅前へ向かう。京成線、メトロが交差する、乗降の活発なところで、次つぎと来る都電から多くが降り、多くが乗って行く。都電が通り過ぎると、踏切を多くの人が横断する。東京のパワーを感じる一断面だった。

何気ない街並みに都電がうまく溶け込んでいる。沿線の住民も、さり気なく、日常の生活の中に都電が生きている。路面電車の魅力を感じる2時間だった。都内で思い立ったら行けるのが都電の魅力でもある。

宮崎交通チハ101~103

敗戦後1ドル360円の超円安レート設定による外貨絶対不足で、石油燃料輸入は厳しく制限され、産業復興のトラックや壊滅状態のバス等に限っての配給が長らく続き、電化あるいは石炭でしのげる鉄道には、配分がなかった時代の、それも最末期に出現した車両である。何度も記したが江若鉄道のみ、米軍の虎の威を借りて独自に燃料を確保し、1948年4月以降他鉄道より2~3年早いディーゼル化を成し遂げたが、常総筑波鉄道をはじめとする諸鉄道は指をくわえて見るだけで、その後も闇ルートで確保した燃料を、代燃と偽って使用するしかなかった。多くの鉄道がこの時期電化に走ったのは周知の通りだし、蓄電池バス、タクシーも少なくなかった。TAMAなる電池自動車も発売されていた。 

宮崎交通の鉄道線では、1950年3月蓄電池動車を3両作り上げた。それというのも、同社には既に電気自動車を扱い、バッテリーに関し技術経験を積んでいた宮崎電気自動車サービスという子会社があり、ノウハウを持っていたのである。国鉄のキハ40000を3両購入し、エンジン、トランスミッション、冷却装置、ガソリンタンク等を撤去。代りに150V50kW電動機を1個装着し、駆動システムは従前のものをそのまま使用=ギヤ比も4.056のままだが、逆転メカニズムは殺していた筈である。

宮崎交通チハ101 1958年3月13日南宮崎 湯口 徹撮影 

車体全長に渡って屋根上に逆L型アンテナ(歳が分るが)が張ってあり、走行中ずっとラジオが流され放しだったのは、当時として大サービスなのだが、勿論真空管式ラジオ受信機である

電池は湯浅80V(40個直列)、252Ahを2組床下に装着し、80V/160V切替及び抵抗制御で、電池直列/並列各4ノッチ、計8ノッチであった。車両の改造は広瀬車両、電気部分は中島製作所と神戸電機鳥羽工場。50kWとは67馬力だから、ガソリンカー時代のGMF13=100馬力に比せば2/3だが、幸いこの線の南宮崎―青島間はさしたる勾配がない。竣功図記載の自重は19.78トンで、キハ40000の18.09~18.35トンに比し、1.5~2トン重くなったのは、ひとえに鉛電池のためである。詳しくは田尻弘之『宮崎交通鉄道部』RM LIBRARY69を参照されたい。

電気車の科学1950年10、11月号、宮崎交通鉄道部長の「蓄電池車の採用について」によれば、車両1両の払下と改造、充電所が200万円、計800万円の予算でスタートしたが、地上設備も含め総額1,153万3,516円、内訳は車両払下3両が214万8,197円、電装とも改造費同216万円、蓄電池予備1組共216万円、充電所費252万4,319円、輸送費30万円とのことである。

走行1km当り消費電力1.48kWh、石炭に比せば動力経費が半減した由。しかし現実にはこの直後ディーゼル化が可能になり、蓄電池化は設備投資と人手が馬鹿にならず、結果論としてはもう少し待ってディーゼル化すればよかったことは間違いない。宮崎交通は追いかけて蓄電池機関車2両も増備し、それでいて蒸気動力も残存するという、二重投資を余儀なくされ、ディーゼル化することはなく、国鉄日南線に土地を譲って1962年7月1日廃止したのであった。

なお電池動力は米手作市氏ご指摘の通り、かつて国鉄にAB10なる蓄電池機関車があったのは、火薬工場での引火を恐れたためである。他には鉱山等の産業用に電池機関車はかなり存在し、敗戦後では本郷軌道が蓄電池動力を併用している。旅客運輸動力に蓄電池を採用したのは、範多商会が輸入したエジソン・ビーチ電車を、神戸電気鉄道(現在の神戸電鉄ではなく、神戸市電の前身)が、1906年に試用した例しかない。結局このエジソン・ビーチ電車はどこにも売れず、小樽の石炭埠頭で使用する計画もあったようだが、軌間が1435mmでもあり、実現せず。

現在に至って、新鋭電池によるテストは少なからず行われているが、さて、商業ペースでの実用となると話は別である。なおドイツではかなり古くから、電池動車が実用化されていたが、結局はディーゼルに敵わなかった。

60年前のエコ・カーバッテリーカー

宮崎交通のチハ101型、今はやりのバッテリーカーの走りです。そういえば昭和の初めに国鉄が非電化区間用に蓄電池機関車AB10型、後に電装されてEB10型になった事もありましたね。

ほかにも“電池式自走客車”があったかもしれません。

DRFCなにわ船場鉄道フェスティバルに再登場!

先に「大津の86」特派員から速報された来る10月12~14日に、【船場まつり】で再び「まつり」の盛り上げ役としてDRFCは活躍する。次回は関西大学、大阪市立大の鉄研との合同参加で、今回好評を呼んだNゲージ京阪電車オンパレードに加え、新機軸が計画されている。【船場まつり】は大阪・中央大通の階下の船場センタービル中心に北は本町通、南は南宝寺商店街、東は堺筋、西は御堂筋を中心に広い範囲で開催される。開催は10時から16時まで、衣服をはじめ掘り出しもの雑貨などの「のみ市」がうりであるお買い得の祭りである。親父一人で訪れるのはもったいない。家族お揃いで、友達誘い合わせ、財布を緩めるつもりででご参加ください。DRFOは御堂筋の西、10号館1階で展開します。

尚、老頭児特派員は13日午後、「船場鉄道フェスティバル」コーナー周辺をウロウロしようと思っています。三条京阪では折りたたみ椅子があり、90分間休息させて頂きました。そこへ会長さんのみならず多くの方と言葉を交わすことが出来ました。15時30分、片づけに入った時、京阪電鉄鉄道企画部の方が挨拶に来られ、来年以降も今回の企画を継続させるので協力要請がありました。「こちらこそよろしく、ご要望あれば現役にお話し下さい、OB会としてバックアップさせていただきます。」との返事をさせていただきました。

9月22日午後は三条京阪地下1階に集合!

先日【23496】で、どですか電氏から紹介されたDRFC現役が「サークルステーションIN三条」に参加する件ですが、クローバー会メンバーはもとより、DRFC・OBで時間の許す諸氏はぜひ京阪電車三条駅地下1階までお越しください。折角の京阪電車のお誘いに、我々も乗せてもらおうではありませんか。Nゲージでどんなパフォーマンスを展開してくれるか、やさしい目で見守ってやろうではありませんか。OB諸兄は現役たちに「何年度のなにがし」と名乗り上げ、8月25日のようにならないように、こちらから彼らを励ましてやろうではありませんか!

老人は午前中、佐竹先輩宅で打ち合わせがありますから、それを済ませた上で三条京阪に参ります。申し訳ないのですが12時開会に間に合いません。遅くなっても13時30分ぐらいには到着するようにします。老人は遅れて参加すると先着のクローバー会の方、伝言願います、15時30分閉会後、対岸に「王将」があります。希望者は餃子定食で生数杯如何でしょうか。ただし、割り勘ですからそのつもりでお付き合い下さい。

 

大垣の朝

9月8日【23326】でINUBUSE氏が養老線に転属した正統派ラビットカーの夜景等の投稿をされたが、1週間前の8月29日のこと、名古屋に行った時、昼前まで時間が空いたので、これ幸いと養老線を訪れた。

東京駅6時発「のぞみ1号」で出発、名古屋から東海道本線快速に乗継ぎ、大垣発8時43分桑名行に乗車して次の西大垣駅で撮影した。
乗車した桑名行は(←大垣)モ611+サ571+ク511で、旧車号はモ1801+サ6109+ク1901の元名古屋線と元南大阪線の混合編成であった。中間のサ571はク6109として新製され、後日運転台を撤去したため大垣寄りの妻面に丸味があり窓配置が変則になっている車両であるが、この車両に乗ったため撮影はできなかった。
以下、撮影順に紹介する。

西大垣9時発大垣行→9時16分発桑名行/モ612+ク512
旧車号はモ1802+ク1902で平成5年3月に転入している。モ1800形とク1900形は昭和41年に新製された名古屋線の通勤型車で各4両作られた。

9時29分大垣行→9時45分回送入庫/ク524+サ564+モ624
旧車号はク6114+モ6018+モ6017で平成5年6月に転入している。モ6000形は昭和38年に新製された南大阪線の通勤型車で新製時はラビット塗装であった。サ564はパンタが付いているため「M」に見えるが電装解除されている。

9時40分揖斐線運用車の回送入庫/モ602+サ552+ク502
旧車号はモ1657+サ6153+ク1752で平成5年3月に転入している。元名古屋線と元南大阪線の混合編成である。モ1650形は昭和38年(1651~1655)と41年(1656~1659)、ク1750形は40年に1751・1752がモ1600+ク1700形の増結用として作られた。モ1651~1654の4両は57年6月京都線急行新田辺~京都間5連化の時、新田辺区に転属して連結面に簡易運転台を取付け、京都寄りの先頭に連結されていたためご存知の方も多いと思う。
中間のサ552は養老鉄道唯一のトイレ付車両であるが、普段は施錠されており、団臨に使用時のみ使用される。サ6151形は、モ6000形のT車として43年にサ6151~6153の3両新製されている。

9時56分大垣行→10時14分桑名行/ク523+サ563+モ623
旧車号はク6108+モ6016+モ6015で平成5年12月に転入している。前歴等は前述のク524他3連と同じである。

10時27分発大垣行/ク521+サ561+モ621
旧車号はク6101+モ6012+モ6011で平成4年6月に転入している。そろそろ切り上げないと間に合わなくなるため、この電車で戻ったため、大垣駅で先頭のク521の撮影のみに終わった。(以前は全車両撮影できたが、線路際にホテルが建設されたため<大垣寄りの先頭車のみとなった)もう少し頑張ると、この電車と揖斐線の回送入庫が撮影できるが、そこは止むを得ないところである。

留置車/モ604+ク504
旧車号はモ1659+ク1952で平成6年7月に転入している。モ1659は昭和61年、ク1952は62年製で異系列同志の連結である。桑名寄りのク504のみ撮影可能であった。

INUBUSE氏が撮影された元正統派ラビットカーモ6858+モ6857のク506+モ606はあいにく車庫の中で、出庫は18時30分とのことで、帰りにリベンジしようとも思ったが、かなり暗くなるので今回はパスした。

養老線を初めて訪れたのは、現役時代昭和42年7月23日のことで、改造されていたとはいえ旧養老鉄道や伊勢電の車両を見て、近鉄にもこんな車両があったのかと驚いたものである。その後何回となく訪れ、そのたびに車両のバリエーションが増え、志摩線改軌で不要になった元三重交通の車両も転入した。その後元名古屋線のモ6301系列、モ6441形にほぼ統一されたが、新性能化、冷房化が推進され現在の車両になった。

現在の車両も昭和40年代に作られており、車齢を考えるといつ廃車になってもおかしくない。加えて近鉄では少子高齢化による乗客減により運転本数が減少傾向にあるため、今後南大阪線、名古屋線の比較的新しい車両に置き換えられる可能性もあり、引き続き注目していきたいと思っている。

ちなみに42年7月23日は、ロギング太郎さんと行動を共にし、養老線の後、岐阜の行くと市内線の単車の最終日、午後は名鉄金山橋で流電モ3400形、名古屋駅でキハ90を撮影した。

キハ44000→キハユニ15

「昭和の電車」シリーズの次回の予想を立てるが最近は全く当たらない。国鉄モハ63形から始まった「63シリーズ」が長く続き、次は「改造連接車シリーズ」が始まったが僅か2回で終わった。次は大阪市電の改造連結車、終戦直後の南海と続いたので「終戦直後シリーズ」が始まるのかと思いきや、予想に反して今回はキハ44000形が登場した。

兵庫ふるさと通信員様よりキハ44005→キハユニ156をカラーでUPしていただきましたので、気動車に詳しい諸先輩方を差し置いて解説を試みた。

キハ44000形は、昭和27年から28年にかけて新製された電気式気動車で、DMH17Aエンジンに直結した300Ⅴ100KWの直流発電機を駆動し、発生した電力で後部台車に架装した45KW×2の主電動機を駆動した。
27年8月44000、44001が日本車輌(支店)で44002、44003が汽車会社で作られ千葉気動車区木更津支区に配置された。翌28年3月44004~44007が日本車輌、44008~44011が新潟鐵工所で、44012~44014が東急車両で作られ、44004~44008が木更津支区、44009~44014が大原区に配置された。木更津支区は主に房総西線(現内房線)、大原区は主に房総東線(現外房線)で使用されたが、土気~大網間の勾配区間でのパワー不足のため、程なく成田区に転属した。27年製と28年製では側面のスタイルが異なり、27年製はクハ86の初期車を3扉にしたようなスタイルに対し、28年製は窓が2段化され、上窓はHゴム支持(通称バス窓)になった。関 三平さんのイラストは先頭車が27年製、2両目は28年製で描かれている。

昭和32年4月の称号改正でキハ09形(1~15)となったが、同年度中に液体式とキハユニ15形(1~15)に改造され、全車千葉を離れて北海道を除く全国に分散した。

昭和50年3月末の配置表では、それ以前に廃車になった5、7、15以外の12両が健在で、山形区に4、水戸区に8、10、13、加古川区に3、6、9、浜田区に14、岡山区に1、11、徳島区に12、人吉区に2が配置されていた。

キハユニ151
キハ44000→キハ091、昭和33年3月大宮工場で改造されキハユニ151となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山に転属して55年8月廃車になるまで在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/上:岡山駅 (44-10-19) 下:正面貫通化改造後/岡山駅 (49-11-23)

キハユニ153
キハ44002→キハ093、昭和32年12月大宮工場で改造されキハユニ153となった。当初鳥取区に配置されたが37年に岡山区に転属、更に48年9月に加古川区に転属して55年7月廃車になるまで在籍した。フロントガラスを小さなものに交換したため不細工な顔になった。/加古川区 (49-5-12)

 キハユニ154
キハ44003→キハ094、昭和32年12月小倉工場で改造されてキハユニ154となった。改造後から52年7月廃車になるまで一貫して山形区に在籍した。47年頃正面に貫通扉を設置した。/余目駅 (41-9-5)

 キハユニ156
キハ44005→キハ096、昭和33年3月大宮工場で改造されてキハユニ156となった。改造後から56年5月廃車になるまで一貫して加古川区に在籍した。/加古川駅 (49-5-12)

 キハユニ1514(連結面)
キハ44013→キハ0914、昭和32年12月大宮工場で改造されてキハユニ1514となった。当初加古川区に配置されたが、49年9月岡山区に転属、更に50年3月浜田区に転属して54年11月廃車になった。/加古川区 (41-3-6)

 【参考】
キハ44500→キハ15→キハユニ15
キハ44003~44014の新製と同時期、液体式気動車の試作車としてキハ44500~44503の4両が日本車輌で新製された。キハ44003~44014と同一スタイルで大宮区に配置され川越線で試用された。

昭和32年4月の称号改正でキハ15形(1~4)となり、34年度中にキハユニ15形(16~19)に改造された。改造後16、18は豊岡区、17、19は小郡区に配置され、昭和50年度廃車になるまで転属することなく在籍した。

キハユニ1517
キハ44501→キハ152、昭和35年3月大宮工場で改造されてキハユニ1517となった。50年11月廃車になった。/広島駅 (40-3-27)

 【その他】
キハユニ154と同じ日に撮影した「行先板」と「愛称板」を紹介する。
盛岡~秋田間を花輪線経由で結んでいた急行「よねしろ」の行先板で、夏の期間中は船川(昭和43年4月男鹿に改称)まで延長運転されていた。追分から直接船川に行かず、一旦秋田まで行き、船川線の定期の普通列車に併結され船川まで運転された。

 急行「月山2号」の愛称板。「月山」は上り2本、下り1本という不思議な列車で、上りの「月山1号」は酒田~山形間、「月山2号」は酒田・鶴岡~山形~仙台間の運転であった。
下りは、仙台~山形~鶴岡・酒田間1本のみの運転で、愛称は「月山」であった。従って「月山2号」の愛称板を表示する列車は上りのみであるが、専用の愛称板が存在した。

大垣の夜

9月5日の夜 岐阜あたりで急遽宿泊することになり、ネットで検索し大垣駅の横のホテルを予約しました。またとない機会なので 荷物を置き養老鉄道の西大垣駅へ向かいました。

西大垣駅です。本社や車庫が併設されており、乗務員交代も行われ 養老線の業務の中核的存在です。
中線もあり車両撮影しやすい所です。
次の電車を写したい旨 駅員に断わり 反対側のホームで待っていると なんと一編成しかないラビットカー色の電車がやってきました。

モ606とク506の編成です。もと南大阪線のモ6857とモ6858です。(昭和38年5月製造)
昔 河内松原在住の時 よく乗った正統派ラビットカーモ6800形32両、モ6850形8両のうち生き残っている2両です。当初この色でしたが徐々にマルーンに塗り替えられていき この2両は2009年9月にこの色に復活しています。
本日9月8日、「~ラビットカーのリバイバル塗装車に初めて乗れる~吉野線開業100周年記念列車ツアー」が運転されるようで この車両のふるさと南大阪、吉野線でも4両編成がリバイバル塗装車となるようです。車番は6051-6052-6171-6136のようです。元ラインデリア車の冷房改造車で、過去ラビットカー色の経験のない車両ですね。
ふるさとから遠く離れたところで 毎日頑張っているこの2両のラビットカー、末永く活躍してほしいと思っています。

次の電車は標準色 といっても近鉄本体の車両はツートンカラーとなっていますので単色塗装は養老鉄道の標準色ですね。

同じ場所での モ613とク513です。(元名古屋線のモ1803とク1903)
暗い中での手持ち撮影でしたが ライトの光の印象的な写真となりました。


大垣駅まで乗って来た ク524-サ564-モ624 の3両編成です。
もと南大阪線の ク6114-モ6018-モ6017 です。(昭和41年10月製)
42年3月末に名古屋から大阪に引っ越したころの最新鋭車で きれいなラビットカー塗装でした。
現在 養老鉄道は3両編成7本、2両編成6本 計33両 全車両近畿日本鉄道が所有しているとのことです。

次はおまけの樽見鉄道です。

専用ホームで発車を待つ ハイモ295-315 池田満寿夫デザインの特別塗色だそうです。
貨物列車が無くなり、客車も無く、今は気動車6両のみで 頑張っています。

大垣駅の北口は再開発され 商業施設などでにぎわっていますが、南側は以前からの雰囲気が少し残っており その一角にヨ8000が2両置かれていました。貨物駅とのことです。

ヨを見たところで食事に行きにホテルに戻りました。
犬伏

国鉄キハ44000その後の一つ、キハユニ156

キハ44000、第二次増備型の内の一両です。第一次と異なり、窓がバス
窓です。その後キハ09になり、液体化式に、さらに改造でキハユニ15と
なりました。兵庫県の加古川線には、湘南型正面の車が3両在籍したそう
でそのうちの一両、キハユニ156です。

1965年8月29日、719D 加古川線野村駅、現在の西脇市駅で撮影。
写真左は728D。ちなみにフィルムは、Agfa color でした。

富士フィルムが500年もつ?

読売新聞9月5日の学芸欄に「フイルムは残る」というコラムがあった。目下全盛を誇るデジタルも、遠からぬ将来再生できなくなる虞がある。記憶媒体の劣化や規格変更が理由である。アナログの録音テープ、8mm映画は完全に、VTRですら過去のものになている。しかしカラー映画を3色に分解し、白黒フィルムに記録すれば、「500年もつ」と富士フイルムが言っているそうな。

他のフイルムメーカーがいうのならともかく、事もあろうに富士とは。勿論引用原文が分らないから、軽率な批判はできないが、富士フイルムがヴィネガー・シンドロームで社会の膨大な文化を損ね、しかもメーカー自体は謝るどころか、一言の警告すら発せず、そ知らぬ顔の半兵衛を決め込み続け何十年。その富士が「500年もつ」とは、一体どんな顔でいっているのだろうか。厚顔無恥とはこういうものであろう。

恐らく富士フイルムは、かような自社の古い過去の(と自分では思っているのだろうが、富士ヴィネガー・シンドロームは現在でも脈々として進行中である)恥部など、職員に一切教育していないのであろう。日本を代表する企業の一員で、しかも現在細々ではあってもでも銀塩フイルムを造り続けている希少なメーカーだが、その富士フイルムの職員に、「500年もつ」ためには、一体どこのフイルムに記録したらいいのか聞きたい。へー、そんなことがあったんですか。でも今のウチのフイルムなら大丈夫ですよ、とのたまうのか。恐らく読売の記者も、そんな経緯を全く知らないでこのコラムを執筆したに違いなかろうが。

国鉄キハ44000型

珍しく、国鉄の車両です。

キハ44000型、この当時の気動車は湘南型を気取っていましたね。このあとキハ10系へと変化しますが、エンジンは懐かしのDMH17シリーズのA型です。おもえば気動車と言えばこのエンジンで、湯口先輩の講義で聴いた「このエンジンからの進歩がなかったことが我が国の気動車にとっての不幸だった」を痛感します。

115系三昧の夏の一日

8月中旬、JR東日本のホームページを見ていると、湘南色の115系の臨時快速「むさしの奥多摩号」が大宮~奥多摩間運転されると書かれていました。115系が青梅線に入線することは珍しいことです。

インターネットで検索すると、運転日は、7月28・29日、8月4・5・11・12・18・19日で、ヘッドマーク付で運転されているようです。ただ、115系の調子が悪く、運転が中止になったり、E233系の代走になったりで、あまりうまく走らない臨時のようです。

そろそろ引退も囁かれている115系ですので、一念発起して、18日土曜日に青梅線に出かけることにしました。いろいろ行程を検討すると、当日南越谷~鎌倉間運転されるスカ色の115系M40編成を使用した「ホリデー快速鎌倉号」の回送も撮影できるようなので、準特急さん・新所沢都民さんに、「宜しければ、いかがですか?」とお声をお掛けしたところ、前日にも関わらず、参加するとのことでした。

当日、始発電車で最寄の北総線印西牧の原駅を出発、浅草・神田経由で新宿へ。前日に購入した新宿6:38発の183系全車指定臨時快速「みたけ・おくたま探訪号」に乗車、一路御嶽を目指します。車両は、前後に特急のシンボルマークが付いたOM103編成ですが、幕がないため、「臨時」表示です。乗車率は、新宿出発時点では、10%も満たない状況でした。

所沢新都民さんは、この列車を途中で撮影するとのことでしたが、拝島での乗り換えに失敗し、結局のところ撮影できず、御嶽で三人集合となりました。

この面子が揃うと、過去の経験から雨の確率が高いのですが、やはり期待通り小雨がポツポツ降るような状況の下、川井で下車。川井から御嶽方面に戻った旧東川井信号所跡で、115系湘南色の快速「むさしの奥多摩号」を撮影。

川井駅に戻り、新宿から乗車してきた快速「みたけ・おくたま探訪号」の回送を撮影しました。

川井駅から古里駅に行き、中線に長時間停車の快速「むさしの奥多摩号」の回送を撮影したころには、日が差してきました。

その後、今度は、スカ色115系の「ホリデー快速鎌倉号」を撮影するため、武蔵野線へ。当初は、駅間でとも思ってましたが、再び雲行きが怪しくなり、結局、屋根のある西国分寺駅で、1時間ほど、回送を待ちました。

やって来た「ホリデー快速鎌倉号」の正面幕は、快速のままでラッキーです。

そのあと、元お召し機のEF8181もやってきました。

東所沢に回送後、再び、鎌倉に回送される列車まで、二時間弱。昼食ということで、西国分寺駅周辺を探しましたがお店がなかなか見つからず、やっと見つけたお店で、生ビールと刺身定食で、前半の反省会と相成りました。

再び、ホームに上がると夏の日ざしが差しており、順光で回送を撮影できました。残念ながら、今回は、幕が回送となっていました。(本来の姿ですが・・・)

ここで、新所沢都民さんと別れ、再び準特急さんと青梅線へ。この頃には、夏の日差しが照りつけて、腕が痛いほどです。雨の原因は???

青梅駅で下車し、奥多摩よりに歩いて、快速「むさしの奥多摩号」の回送と快速「みたけ・おくたま探訪号」の回送を撮影した後、朝撮影した旧東川井信号所に舞い戻り、快速「むさしの奥多摩号」撮影した後、青梅で解散となりました。

115系三昧の夏の一日でした。

なお、「ホリデー快速鎌倉」は、豊田区の115系M40編成で運転されてきましたが、先日発表されたJR東日本の秋の臨時列車運転計画では、183系となっていました。115系の引退の日が近づいてきたようです。

南海戦前の冷房電車

南海鉄道戦前の冷房電車に関しては、鉄道史料55号に西 敏夫/小野田 滋両氏により詳述されている。これから要約すれば、1936年6月12日申請、7月11日設計変更認可及び車両定規突破により特別設計許可、7月21日竣功届。クハ2802の床下にガス圧縮機等一式を2基搭載、屋根上の冷却機から冷房をするもので、モハ2002との連結だが、冷房はクハのみ、モハはファンデリアとあって、当然ながら乗客は皆クハに集中したそうな。7月18日~9月10日まで、定期検査で2日、モーター冷房故障で2、3回冷房を中止した以外無事乗り切ったが、温度は予定通り下がったものの、湿気は十分取リ切れなかtっとのことである。

翌1937年にはMTユニットで冷房するように改良し、屋根上に何とも雄大?なダクト、連結面は専用幌を設置している。前年の湿気除去不足に換気回数を1時間13回から25回に増加させ、空気吹き出し口も増加させている。冷房主機はやはりクハ(和歌山方)に搭載し、モハ(難波方)は屋根上風道によりクハから冷気を供給。2両一組でモハ2001~2004/クハ2801~2804の計8両で、7月1日から冷房使用開始した由だが、この年だけに終わったのは、7月7日日華事変(日中戦争)ガぼっ発し、戦時体制が強化されたからである。

下図は上が1936年のクハ2802改造図、下が1937年モハ+クハのユニット図(いずれも鉄道史料55号より転載)

なお上図のクハは32.52トンから35トンに、下図ではモハが45.72トンが46トンに、クハは32.52トンが45.72トンというヘビーウエイトになった由。

謎の南海電車・クハ2001系

文の冒頭にあるCMソングは聞き覚えがあるよな気がしますが、この電車は全く知りません。

説明を読んで疑問がいくつもわいてきます。

まず、冷房のシステムについてです。クハ2801で冷気を起こしてフードで2001へ送るとか、勾配を使って冷気を分配するとか、全く想像がつきません。さらに難波―和歌山を蒸気機関車で運行したとか、どうなっているのでしょうか?南海本線は完全電化でしょう?

どなたか、戦後生まれの若輩者にわかりやすく教えて下さい。

日本鐵樂者写真展/「炭鉱(やま)の機関車」

都電荒川線、鬼子母神前電停、メトロ副都心線、雑司ヶ谷駅近く都内豊島区鬼子母神参道の直ぐ近くにある「三愚舎ギャラリー」で「炭鉱(やま)の機関車」をテーマにした写真展が開催されている。

主催者は「日本鐵樂者撮影家集団」金澤 忠、蔵重信隆、杉 行夫、野口信夫の各氏で、メインは昭和40年代に撮影された台湾の瑞三炭鉱、インドのティポン炭鉱で、デジ青でぶんしゅう氏が発表された中国のグース、昭和50年の夕張線、52年の釧路太平洋炭鉱の電機の生き生きした姿が展示されている。台湾国鉄のオハフ33を18m級に短くした客車を牽くDL等も見逃せない。

会期は9月2日(日曜日)まで、時間は12時~18時30分(最終日は17時まで)、木曜日のみ休廊となっている。土曜、日曜は開廊されているので関東地区の方で興味のある方は是非見に行っていただきたい。私が行った日には時々コメントをいただいている村樫四郎氏が観覧に来ておられた。

大阪市電751型

昭和20年3月14日、B29の大編隊が大阪を襲いました。今は亡き両親から何回となく聞かされた話の出だしです。

当時、両親は千日前にあった大劇のまえで写真館を開いていました。昼頃から始まった空襲は悲惨を極め、大劇の地下に逃げ込んだ両親は逃げ遅れて最後に地上に出たときは、すでに難波と千日前を結ぶ通りは炎のトンネルとなっていたそうです。何分かに一回、風が起きてトンネルの炎が上へ開くときがあるのに気づき、日本一(日本橋一丁目)の交差点へ出たときにはこの世のものとは思えない光景だったそうです。高島屋の前の石畳には亀の甲に似た焼夷弾が不発のまま突き刺さり、市電が何台も堺筋に並んで止まっていて、そのほとんどが骨組みだけになり、まだ燃えているものもたくさんあったそうです。父は、そこに落ちていた自転車を拾って母を後ろに乗せて祖母のいる八尾を目指したと言っていました。

今日の画を拝見して、両親からの話を改めて思い出しました。

※今回は、投稿者の手落ちで、保存に不備があり色が悪いことをお詫び申し上げます。

新規機能のお知らせ

先日の掲示板システムの更新により、画像投稿機能に関して、変更と新規機能の追加がありました。

一つは、画像追加の画面(下画像)においてドラック&ドロップでの追加が可能になりました。複数画像の一括追加にも対応しています。

また、2つ目として、これまでの画像投稿では下記のように記事の間に”一枚ずつ写真を挿入する”形となっていますが、

ギャラリー機能を使用することで、投稿記事に含まれる画像の一覧(ギャラリー)が追加できるうようになりました。
ただし現時点では、ギャラリー機能はレイアウトが崩れます。近日中に修正予定です。

少し前の天理駅他


天理駅を発車するモ802-ク711-サ701-モ801の京都行急行/(50-8-6)

モ800系は昭和30年奈良線特急用として新製された車両で、奈良線の車両限界拡大後は、京都線、橿原線、天理線で使用された。

8月9日【22285】で、どですかでんさんが天理駅の画像を貼られたが、昭和50年に撮影した写真が出てきたので紹介する。

近鉄天理線は橿原線の支線のように見えるが、橿原線の西大寺~平端間の開業が大正11年4月(平端~橿原神宮前間の開業は大正12年3月)に対し、天理線は「どですかでんさん」が書いておられる通り、大正4年2月7日天理軽便鉄道として新法隆寺~天理間を軌間762mm、蒸気動力で開業している。大正10年1月大阪電気軌道に買収、大正11年4月平端~天理間を標準軌に改軌の上、架線電圧600Vで電化。762mmで残った法隆寺~平端間は、戦時中の昭和20年2月11日営業休止を経て27年4月1日廃止された。
平端~天理間は44年9月2日架線電圧を1500Vに昇圧。63年6月27日全線複線化。48年9月20日建築限界拡大工事が完成して大型車が入線可能になり、天理教大祭時等には標準軌区間各所から団体臨時、臨時特急等が直通するようになった。

モ8068他4連/(50-8-6)

モ822-ク722-ク714-モ807/(50-8-6)
820系と800系の混結編成。820系は昭和36年奈良線特急増発用としてM-T8編成が新製された。奈良線の車両限界拡大後は800系と同様であるが、2両固定編成で小回りが効くため、生駒線、田原本線、京阪電鉄乗入れ等にも使用された。昭和59年から南大阪線6800系の足回りを組み合わせて伊賀線に転属した。後2両は800系である。


【参考】天理発京都行急行/(41-2-16) 丹波橋

国鉄天理駅留置線(49年6月16日撮影)
天理教の大祭時には、全国各地から団体臨時列車が運転され、奈良線でもD51の牽く客車列車が見られた。国鉄天理駅には団臨用の留置線があり、一時期阪和線新性能化により役目を終えた旧形国電が留置されていた。その中で珍しいと思われる車両を紹介する。

クモハ61002/昭和7年10月日本車輌でモハ40002として誕生、27年主電動機を128Kwに取替え、28年6月の改番でモハ61002となった。49年8月廃車。
正面窓は、非パンタ側は運行窓を含めてHゴム化されたが、パンタ側は最後まで木枠であった。
下は現役時代/(48-9-15) 堺市

クハ55151/昭和12年7月日本車輌でクロハ69006として新製。昭和18年戦時改造で2等室廃止ロングシート化でクハ55104に。28年6月2等室復活でクロハ69010。昭和36年5月2等室廃止ロングシート化でクハ55104(2代目)。昭和37年12月改番でクハ55151に。昭和45年2月明石から鳳に転属。49年10月廃車。
下は現役時代/(48-3-21) 鳳

サハ57056/昭和8年12月大宮工場でサロハ56009として新製、京浜東北線等で使用。昭和18年3月大井工場で戦時改造2等室廃止でサハ57056に。東京地区で使用後、42年5月津田沼から鳳に転属。49年10月廃車。

奈良交通のボンネットバス
どですかでんさんが法隆寺駅前で撮影された結崎行を貼っておられるが、狭隘区間が存在するため比較的遅くまでボンネットバスによるツーマン運行であった。
奈あ1917/(50-1-12) 法隆寺駅

奈2あ1916/(50-1-15) 法隆寺駅

奈あ1915/(50-8-6) 高田営業所
方向幕の「三輪明神前」は撮影時に「幕回し」で出したもの。横の幕は「平端駅~高田市駅」を表示している。車両はいずれも41年式BXD30・帝国車体である。

十津川・新宮特急について
十津川・新宮特急は国道168号線の改良に伴い、昭和38年3月1日より運行され、奈良側の起点は奈良大仏前であったが、59年に八木駅に変更されている。
当初は奈良交通が新宮駅~奈良大仏前間2往復、国鉄バスが新宮駅~五条駅間1往復、熊野交通が新宮駅~橋本駅間2往復運行され、新宮~五条間に限ると5往復運行されていた。
どですかでんさんが貼られているのは2代目の車両で、現在の使用車両は5代目である。
奈2あ1750/ (50-1-15) 法隆寺前
38年式いすゞBA743P(車体は川崎航空機製)で、初代の十津川・新宮特急用車両。「奈良交通50年史」(多分)に同形の近い登録番号の車両の走行中の写真が掲載されている。写真は最晩年で法隆寺駅周辺のローカル運用に使用されていた頃である。

奈22あ 179/(50-8-6) 五条バスセンター
50年式いすゞBU04P(車体は川崎重工製)で、十津川・新宮特急、湯ノ峰急行用として新製された車両である。写真は奈良大仏前9時20分発湯ノ峰温泉行急行で、湯ノ峰温泉には16時4分に到着した。湯ノ峰温泉行急行はあと1本、奈良大仏前発11時25分→湯ノ峰温泉着17時39分があった。

奈22あ 180/(54-4-27) 奈良営業所

奈22あ 181/(54-1-15) 奈良営業所
湯ノ峰温泉行きは川湯温泉まで延長されたが、現在では新宮行特急が湯ノ峰温泉、川湯温泉を経由するルートに変更され廃止された。

奈22あ 423/(54-4-27) 奈良営業所
52年式いすゞBU04P(車体は川崎重工製)で、北山峡経由新宮行特急用として新製車両である。奈良大仏前から八木駅、大和上市駅、杉の湯(川上村)、池原(下北山村)、熊野市を経由して新宮まで2往復運行されていた。開業は十津川・新宮特急より1日早く昭和38年2月28日である。初代の車両はボンネットバスで、後の車両も座席こそよかったものの通常の路線バスと同じ2段窓であった。

十津川・新宮線と比較すると沿線に観光資源が乏しく、生活路線的な性格が強かったため、マイカーの普及と沿線の過疎化の進行により、下桑原以遠が廃止され、自治体のバスに代替されてしまった。現在は八木駅~池原間1往復、下桑原間1往復、いずれも途中の杉の湯乗り換えで運行されている。
下桑原以遠は自治体バスにより一応路線は繋がっているものの接続が悪く1日で熊野市まで到着することが不可能であったが、最近下北山村営バスが路線延長により終点の桃﨑大橋で、熊野市営バスと接続するようになったため4本乗り継ぎで辛うじて熊野市まで到達できるようになった。
新宮駅まで行く場合は更に1本乗り継ぐ必要がある。下北山村営バスは土日祝日、年末年始は運休のため注意が必要である。また八木から行く場合、下北山村営バスが桃﨑大橋に到着5分前に熊野市営バスが発車してしまい、次のバスまで2時間待ち時間がある。
逆方向の場合は熊野市駅12時22分発に乗れば、乗り継ぎがスムーズで17時54分に八木駅に到着する。
リタイヤ後、行きは十津川・新宮特急、帰りはこちらで新宮まで往復したいと思っている。

新盆墓参のコメントに代えて

犬伏です。
コメントに写真が入りませんので22399 KAWANAKAさんの記事のコメントの代わりに新規投稿とさせていただきます。

二ノ瀬での KAWANAKAさんの写真に不思議な影が写っていますが 私の写真には写っていません。不思議です。

市原で写した写真は 鞍馬へ向かう「きらら」で、本日は一編成のみの運用でした。
秋の紅葉でもないこの季節はなかなか絵になりません。

折り返しの出町柳行に乗車しました。

その後 出町柳で京阪特急8000系に乗り京橋から土居駅へ旧3000系の特急を写しに行きましたが、その少し前から雨が降り始めそのうち雷とともにどしゃ降りになり、その中を8081(旧3055)を先頭とした8連特急 淀屋橋行が走ってきました。土居15時20分通過、京橋到着予定15時23分 複々線直線区間の快走です。KAWANAKAさんのきれいな晴れた写真と対象的な大雨の旧3000系特急車をご覧ください。縦樋から流れ落ちる雨のしぶきもすごかったです。

澤村氏が宮内庁へ行き許可をいただいたというダブルデッカーの「時代祭のイラスト」もこの8831号(旧3805)が最後となりこの車両とともにもうすぐ消えようとしています。残念ですね。

この突然の雨、お二人のカメラトラブル 影のある写真 不思議な一日でした。
やっと果たせたお墓参り 少し肩の荷が下りましたが、わしも一緒に来ているぞと何か主張されているような感じがしました。