南海電鉄1556号

そういえば昔、テレビのコマーシャルで「深日港から淡路島へ・・・」という言葉を聞いた気がします。深日港を「ふけこう」と読むこともその時知りました。
この電車、乗ったことはないけど、なんか懐かしい気がします。どなたか内装の写真があれば見せて下さい。

梅田の外回り鐵

KAWANAKAです。

HCDでJRFの志水氏から、梅田の貨物駅は3月にオシマイになりますで、ほいで貨物線も地下にするか検討してるので梅田の貨物駅の福島寄りの踏切がなくなるかも知れまへん、という。梅田の貨物駅跡はものすごい変貌で、4~5億の億ションが完売になったり(うっかり買い忘れた??)で、この光景は今しか撮れないということや。

以前から少しづつ時間を作って外回り鐵をしていたが、あと、4ヶ月程と聞けば、ピッチを上げるしかない。というわけで先日撮った写真と併せてUPしましょう。

先ず、市内を訪問した時にチョイと回り道。先ほど言った福島寄りの踏切から東海道線の下を潜って環状線の外回り線の外に至る貨物線。ここを安治川口から梅田駅に入る貨物を撮るのは注目の写真であるけれど、ここでは余命少ない381くろしおを載せましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

安治川口は貨物はまだ扱うそうなので、しばらく撮れるが、環状線野田駅では安直に捉えることができるので、場所の移動に制約がある外回り族にはありがたい。これです。

 

 

 

 

 

 

 

 

環状線の電車をすり抜けて貨物がやってくる。

次に、遠隔地からやってくる人が梅田貨物駅を見渡せる場所があります。有名な空中庭園からでも良いが、ヒルトンホテルが特等です。この写真はエグゼクティブフロア(滅多に泊まれないが)からの写真で、併せて大阪駅を発着する列車も見ることができます。ちょうど特急はるかが通過中。夜は夜で素晴らしい夜景が見れるので懐に余裕がある人や出張旅費で賄える人は泊まってみると良いと思いますが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、梅田貨物には入れ替えのDE10が張り切っていて、運がよければ走り回っている姿を目の当たりに見ることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが夜になると、梅田貨物ならではの風景を堪能できます。貨物駅の脇には道路があってフェンスになっているので、この上にカメラを上げると写真が撮れるという訳です。時々同業者に会うけれど数は多くないので、撮り放題。ちょうど381くろしおが来た。コンテナ貨物に光が当たって綺麗です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何といっても、梅田貨物駅の主人公は貨物機。ここから出発する列車は丁度撮影に好都合な場所にいることが多いので、存分撮ることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今週の週は丁度、撮影に適した天候でありました。梅田の光が雲に反射していい雰囲気です。

この列車を反対側から撮ろうとしていたら旨い具合に、283くろしおが来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

段々、寒くなってくるのでキツイが機会があれば通っていく積もりである。みなさんも如何でしょう。なお、三脚は使えませんので重い目をして持っていかないよう。

ついでですので、このあとは環状線に回って紀勢特急と環状線を纏めて撮ることがあります。小生は鉄橋がある大正が好きで良く帰りに依る。付録で申し訳ないが、ここも貨物はないけれど捨て難い。丁度283が通過したのでその一コマを。丁度お月さんも出てきて何とも言えない雰囲気を醸し出した。撮りようによっては、天王寺からきた列車を止めることができるのでやってみては?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信貴電の不思議 改訂版

デジ青掲示板のトラブルにより「信貴電の不思議」が消えてしまいましたが、原稿が残っていましたので復活することにいたしました。ただ、そのままでは芸がないので追加して「信貴電の不思議 改訂版」としました。

 信貴山下駅から先の第2期工事でも複線化工事を行ったことを示すもの以外に、天理参考館で購入した絵葉書に信貴山下駅で撮影された51形53号電車の写真があり、これがどのような電車か調べてみました。そして、平群駅にある信貴電の名残、東ケーブルの写真などを追加しました。

彼岸花の咲く頃
彼岸花の咲く頃 平隆寺前を行く

 それでは消えてしまった部分から。

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保存されているEB10

米手作市様より、9月24日【23961】「60年前のエコカー・バッテリーカー」のタイトルで、関 三平様の「昭和の電車」シリーズ「宮崎交通チハ100形」を紹介されているが、その中で「そういえば昭和の初めに国鉄が非電化区間用に蓄電池機関車AB10型、後に電装されてEB10型になった事もありましたね。」と記されている。そのEB10の1号機が廃車後解体を免れ東京都内で保存されているので紹介したい。

(1)EB101
AB10形→EB10形は、蓄電池機関車として昭和2年2両新製され、車体と機械部分は汽車製造、電気部分は芝浦製作所が製作して非電化の須賀貨物線(王子~須賀、王子~下十条)で使用された。6年に電化されたため、芝浦製作所で電気機関車に改造され、46年3月廃止になるまで使用され47年2月廃車になったが、EB101のみ解体を免れ、東京都府中市の「郷土の森交通遊園」で保存されている。
車体は比較的良好な状態を保っているが、運転室の機器類は無残にも破壊されている。

【参考】現役時代のEB101/ (40-3-17) 田端


「汽車製造」の銘板

「芝浦製作所」の銘板

(2)その他の保存車両
EB101の他に、D51296、都電6191、京王バスが保存されているので紹介する。
①D51296
EB101と同じレールの上に保存されている。昭和14年川崎重工兵庫工場製で、秋田、坂町、直江津、長岡と日本海側で使用され、その後新鶴見に転属、最後は青森で47年3月27日付で廃車になった。EB101共々屋根の下で保存されているため、保存状態は比較的良好である。

②都電6191
昭和25年日本車輌製で、説明板によると当初南千住車庫に配置され、45年8月荒川車庫に転属、53年4月に廃車になり、54年7月から当地で保存されている。現在補修工事中であるが、こちらも比較的良好な状態である。



③京王バス
比較的新しい車両で、11年式KC‐JP250NTN、元の登録番号「練馬200か26」で、中野営業所に配置されていた。方向幕は当地で保存時に取り替えられている。
JP型バスは、平成4年10月西鉄北九州線砂津~黒崎駅前間廃止時の代替バスを新製する際に日産ディーゼル、西鉄、西日本車体工業の3社が共同開発した車両で、JM系中型車の車体を延伸して大型車並にしたものである。

「郷土の森交通遊園」の行き方は、京王電鉄府中駅または分倍河原駅から「郷土の森体育館行」の京王バスに乗り、終点で降りれば目の前である。(バスは昼間30分間隔)行った日は分倍河原駅をバスが発車した直後で、バス待ちをしていたおばさんから「歩いても25分位で次のバスを待つより早いよ」と言われて歩いたが30分以上かかった。
裏ワザは分倍河原駅からサントリービール工場の見学者送迎バス(無料)に乗り工場見学、プレミアムモルツの試飲後、歩いて行けば10分位で到着する。工場見学は予約者優先であるが、飛び込みでも空きがあれば可能である。事前に電話予約する方が確実で当日予約も可能である。工場休業日は見学が中止となり、バスも運行されないので注意が必要である。また、府中本町駅からは徒歩25分位で到着する。

(3)周辺の保存車両
小金井公園に保存されているC57と隣接する江戸東京たてもの園の都電7514も同じ日に見学したので報告する。

①C57186+スハフ322146
柵の中にあり屋根は無いが状態は良い。柵の中に入って間近で見学できるのは3月から10月の日祝日の10時~16時までで、それ以外は柵外からの見学となる。
C57186の経歴は昭和21年9月三菱重工業三原工場で新製され新潟区に配置、日本海側で戦後の復興輸送に活躍して40年代に九州に転属、人吉、宮崎から49年6月旭川に転属して50年2月28日付で廃車になった。現役時代に九州、北海道で撮影された方もおられるのではなかろうか。

スハフ32146は昭和10年3月梅鉢鐵工所で新製。最終配置は飯田町客車区で49年10月12日で廃車になった。貫通路は雨水侵入防止のため閉鎖されている。車内には立ち入れないが損傷はなく状態は良い。



  「梅鉢鉄工場」の銘板が健在

②都電7514
昭和37年新潟鉄工所製。7500形は都電最盛期の最後の新車として20両新製された。7514は当初他の7500形と共に青山車庫に配置され、6(渋谷駅~六本木~新橋~汐留)、9(渋谷駅~赤坂見附~銀座4丁目~浜町中ノ橋)、10(渋谷駅~九段下~須田町)で使用。43年9月系統及び青山車庫廃止により江東区の柳島車庫に転属。57年11月、23(柳島~江東区役所前~月島通8丁目)、24(柳島~浅草~上野駅~須田町)及び柳島車庫廃止により荒川車庫に転属した。荒川線ワンマン化の際、7509と共に改造対象から外され53年4月27日付けで廃車となった。7514のみ解体されずに荒川車庫内に保存されていたが、平成11年に当地に移された。7500形の原形車として貴重な存在で車内立入りも可能である。



③ボンネットバス
昭和44年式いすゞTSD43、車体は北村製作所製のバスで全輪駆動車である。航空自衛隊境港気象観測班で使用され、廃車後福山自動車時計博物館で整備された。映画撮影のため昭和26年~34年までの都バスの塗装になっており、イベント時に園内で運転されている。

小金井公園と江戸東京たてもの園の行き方は、武蔵小金井駅または東小金井駅から小金井市のコミュニティバス(COCOバス)に乗り、「たてもの園入口」下車、徒歩10分である。
「江戸東京たてもの園」は現地保存が不可能な歴史的建造物を当地に移設し、復元、保存、展示を目的としており、その方面に興味のある方にとっては1日では見学しきれないと思われる。
写真右は丸二商店(荒物屋)、左は花市生花店で、いずれも昭和初期の建造物である。入園料400円(満65歳以上は200円)が必要である。

 

「都電荒川線の日」2012


10月21日(日曜日)荒川車庫で「都電荒川線の日」のイベントが実施された。今年は、昨年「7510」を改造して作られた「花100」にハロウィンの装飾をして展示された。
車庫内で展示されたのみで営業線での運転はなかった。

ハロウィン号
9月29日~10月31日の間、「9002」の車内にハロウィンの装飾をして「ハロウィン」号として運転された。

荒川車庫前 (24-10-21)  ハロウィンの小さな看板が取り付けられている。
      ハローウィン風に装飾された車内で子供には大人気とか。


車内の電光掲示板(電気式紙芝居とも言う)

荒川線の近況等について
7000形20両(7001~7003、7005、7007、7008、7010、7013、7015、7016、7018、7019、7022~7026、7029~7031)、8500形5両(8501~8505)、9000形2両(9001、9002)、8800形10両(8801~8810)、花100形1両(花101)の38両が在籍している。昼間の運転間隔は5~6分間隔で約20両が稼働している。土休日は特に乗客が多い大塚駅前~町屋駅前間を中心に増発されるので25~30両程度稼働する。ほぼ中間地点の飛鳥山、王子駅前で約1時間立っていると稼働車を全車撮影することが可能である。
ダイヤは7000形に合わせて引いてあり、8500、9000、8800形は性能を持て余している。信号待ちのロスが多いため、電車優先信号にすることにより全線で7~10分程度のスピードアップは可能と思われるので是非実行していただきたい。

荒川区役所前 (24-10-18)

町屋駅前~町屋2丁目 (24-10-8)

町屋駅前~町屋2丁目 (24-10-8)

町屋駅前 (24-10-8)

荒川営業所の横断幕

8800形のラッピング車
今年の4月頃から8800にラッピング車が登場した。現在8802、8803、8804、8806、8808の5両に実施されている。


クハ79


仙石線 陸前富山~陸前大塚 (49-4-29) クハ79230

関 三平さんの「昭和の電車」は、長く続いた「モハ63形シリーズ」が6月25日の京成電鉄モハ109号で終了となり、改造連接車も終わって、今回から戦前の古豪シリーズが始まり、第1回目として近鉄南大阪線のモ6601形が紹介された。一方小生の超鈍足「モハ63形シリーズ」は第4回目の「クハ79」を解説する。

(Ⅰ)鋼体化改造グループ
昭和9年から17年にかけて、17mの木製車の車体を新製の半鋼製車体に乗せ換える、いわゆる鋼体化改造が施行され、モハ50形(後のクモハ11形400番代)132両、クハ65形(後のクハ16形400番代)221両、サハ75形(サハ17形300番代)21両が誕生した。翌18年には身延線用の2扉セミクロスのモハ62形(後のクモハ14形100番代)、クハ77形(後のクハ18形0番代)が各3両作られた。
戦時中の輸送力の増強のため、鋼体化改造車を17m3扉車から20m4扉車とすることになり、昭和19年に25両計画(当初の計画では33両)されたが、終戦までに完成したのは2、4、5、9、12、16、24、25の8両に留まり以降の改造は中止となった。また、5と9は戦災で焼失したため戦後まで残った車両は6両であった。
時節柄、造作は大幅に簡略化され、2、4、9以外は天井板がなくタル木がむき出し、ラストナンバーの25は最低で座席は12名分しかなく、内張りは戸袋部以外窓から下は省略されていた。沢柳健一氏が撮影された写真がよく趣味誌に掲載されているのでご覧になられた方も多いのではなかろうか。
台枠は最初の2、4、9は木製車のものを延長して使用したが、それ以降は新製された。台車は木製車時代のTR10、TR11を流用したが、戦後24以外はTR23に履き替えた。
当初は東京地区で使用されたが、昭和39年9月、何を勘違いしたのか4、12、16、24、25の5両がなんと明石区に転属して本線緩行に使用された。当時ピク誌の「車両の動き」欄でこの驚愕の事実を知り「何考えてんねん」と思った。
以下、写真と共に解説する。

79002/ (46-9-16)  放出
大正9年天野工場製のクハ15006を昭和19年5月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、26年11月淀川区に転属、29年3月宮原、32年9月高槻、35年10月淀川区と転属して、36年11月環状線101系化で東京に戻り下十条へ、45年12月再度関西入りして淀川区で片町線に使用。一度だけ乗ったが、とにかくボロボロであった。オレンジ色に塗り替えられることなく47年1月24日付で廃車になった。

79004/ 上(43-4-20)  大阪 下(50-2-2)  広島/呉線使用時
大正9年天野工場製のクハ15009を昭和19年6月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、44年10月東京に戻り中原区から12月に青梅区へ、翌年の45年6月呉線電化時に幡生工場でトイレを設置して広島区へ、47年1月には窓の2段アルミサッシ化が実施された。呉線新性能化後可部線で使用され、59年10月3日付で廃車になった。

79012/ (39-10-24) 京都
大正10年日本車輌製のクハ15039を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、48年9月18日付で廃車になった。

79016/ 画像なし
明治45年新橋工場製のクハ19043を昭和19年11月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、その後阪和線に転属して48年1月23日付で廃車になった。

 79024/ 上(42-1-6)  下(41-8-25) 京都
大正14年日本車輌製のサハ17019を昭和20年9月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、42年6月15日付で廃車になった。
この車のみ台車がTR11のままで、フワフワした感じの乗り心地であった。吹田工場で運転台窓のHゴム化、球形通風器の取付けが行われたが、グループでは最も早く廃車になった。

79025/ (44-5-30) 京都
大正3年大宮工場製のモユニ2003を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。国電史上接客設備が最悪の車両であったが当初横須賀線で使用された。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ。44年12月に東京に舞い戻り、武蔵中原から房総地区電化により津田沼に移動。50年4月14日付で廃車になった。
房総地区電化時、東京、関西から掻き集めた4扉車が使用され、乗客からヒンシュクを買ったが、113系に置換えられて面目を一新した。ところが近年113系老朽化により元京浜東北線の209系に置換えられ、また4扉車になった。唯、今回は両端がセミクロス車で編成中に必ずトイレ付車が連結されているので、73系の時よりいくらかマシである。

(2)63形グループ
モハ63形には、運転台機器はあるがモーターの無いクモハ63形(クハ代用)、運転台機器、モーターもなくサハ状態のサモハ63形(サハ代用)が存在したが、これらを整備の上、昭和27年から28年にかけて76両を正式にクハ79形として100~250(偶数のみ)を付番した。当然車両の向きはすべて偶数向きである。
両数が多いので代表的な車両のみ紹介する。

79100  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和19年8月川崎車輌でサモハ63002として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して51年5月20日付で廃車。

79104  (48-7-1)  鳳
昭和19年11月川崎車輌でサモハ63006として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、42年9月阪和線に転属して49年10月1日付で廃車。

79132  (47-1-9)  鳳
昭和21年10月汽車会社でサモハ63234として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、43年3月阪和線に転属して47年4月28日付で廃車。

79136  (49-5-27)  大阪
昭和21年4月近畿車両でサモハ63296として新製。28年3月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、46年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後51年1月29日付で廃車。大阪緩行としては比較的遅くまで残った。(最終運行日は51年2月26日)

79152  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63314として新製。28年1月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して54年10月22日付で廃車。

79154  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63316として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年11月15日付で廃車。

79160  (50-3-23)  南武線稲城長沼
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63330として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は南武線中原区で53年1月17日付で廃車。

79166  (48-2-2)  青梅
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63336として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用後、最後は青梅区で51年12月21日付で廃車。

79172  (51-2-25)  上越線群馬総社
昭和21年8月近畿車輌でサモハ63344として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、新前橋区に転属して高崎~水上間、高崎~桐生簡で使用後51年3月15日付で廃車。

79190  (43-9-7)  東神奈川
昭和21年9月川崎車輌でサモハ63378として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は横浜線で52年11月30日付で廃車。

79202  (47-2-17)  鶴見線浅野
昭和21年10月川崎車輌でサモハ63438として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で51年1月29日付で廃車。

79204  (48-4-30) 仙石線下馬
昭和21年11月川崎車輌でサモハ63442として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年3月11日付で廃車。

79216  (50-1-6)  京都
昭和19年11月田中車輛でサモハ63009として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、40年2月明石に転属、44年12月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年7月25日付で廃車。

79222  (48-7-14)  大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63075として新製。28年5月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、41年4月明石に転属、45年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年6月20日付で廃車。

79224  (47-2-17)  鶴見線浅野~新芝浦
昭和21年8月日本車輛でサモハ63071として新製。28年6月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年6月20日付で廃車。

79238  (47-2-20)  大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63083として新製。28年7月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年3月22日付で廃車。
写真は関西地区から東京地区に転属する車両の受け取りに来た時のものである。撮影時の所属は南浦和区であった。

引続きモハ72形についても時期を見て解説する。

2ちゃんねるの記事から

悪評高い、2ちゃんねるですが、時々おもしろい投稿があります。これに対する書き込みにも傑作なのがありますのでご紹介します。

まず、元になった読売の記事
>青森県深浦町で昨年11月、JR五能線の線路上に敷かれたアルミ板に列車が衝突して停止した 事故で、鰺ヶ沢署は2日、アルミ板を敷いた男2人を過失往来危険の疑いで地検弘前支部に 書類送検した。
2人は「車で線路を越えるために板を敷いた」と容疑を認めている。JR側とは示談が成立して いるという。
発表によると、書類送検されたのは同町の農業の男(77)と、知人で中泊町の農業の男(71)。
現場周辺には踏切がなく、男らは「線路裏の山に向かう近道として、以前から板を敷くことが
あった。列車が来るとは思わなかった」と話している。
▽読売新聞

これに対する書き込み
●これって、アルミ板がレール2本に 触れた時点で通電して 保安機が電車が居ると認識するから 後続は止まるんじゃないの?
●豆知識 青森では、電車、列車という単語は使わず、汽車と言う
●そもそもアルミ板敷いた時点で軌道短絡するだろ
●既に電車が当該閉塞の信号機内方に入ってたら意味ないね。 田舎線区だから一閉塞も長いだろうし。 そもそも自動閉塞なのかも分からんが。
●五能線は特殊自動閉塞 停車場以外に軌道回路はない
●アルミは電気を通さないんだが。 そもそもレールは電圧0ボルトで触っても問題なし。
●鉄道会社側も勝手に横断されるくらいなら踏切作りたいわけだが、 国交省が踏切の新設を禁止しているんだよ

などと申しております。

11月11日(日)ホームカミングデーは現役生も熱い!

 11月11日(日)に行われるホームカミングデー(HCDと略されることもある)にて我々現役鉄道同好会が出展いたします。尚、当会はファミリー・子ども向けイベントを担当します。ぜひご覧にお越しくださいませ。

 11月11日(日) 10:00~16:15 至誠館23教室(S23)にて

展示内容
・鉄道模型走行展示(体験運転あり)
・Bトレ展示
・PV(プロモーションビデオ)放映(未定)
・青信号69号、バックナンバーの販売
・アルバムフォト写真展示(未定)
・ぬりえコーナー
・鉄道クイズ

諸事情により、当会は教室半分のスペースを使用することとなりました。展示スペースが狭いこと、ご了承願います。

企画責任者:奈良の駅名研究家

大阪通信員だより 井笠鉄道バスの巻

突然の発表であったが、井笠鉄道バスが10月末をもって会社破綻により廃業する。通信員宅のそば千日前通を日に三往復してきた神辺・笠岡~大阪(上本町)間の井笠鉄道バス「カブトガニ号」も見られなくなる。鉄道の名前がついたバスで、いつも懐かしく眺めていた。いっとき近鉄グループに入っていたので、井笠の高速バスや観光バスも色遣いに近鉄観光バスの面影を残している。旧新山駅跡にある井笠鉄道記念館(カブトガニ号新山下車すぐ)を訪ねたいと思っていたが、引き継ぐ中国バス(両備グループ)で行かねばならない。記念館はどうなるのだろう。
話のついでに45年ほど前と数年前の千日前通の同じ場所での画像をご覧いただく。地下鉄千日前線と近鉄難波乗り入れで道路が拡幅される前の活気ある風景と、天皇皇后両陛下がすぐ近くの国立文楽劇場に行幸されたときの通行規制状況です。11月25日には大阪マラソンも走ります。クローバー会員で参加される方はありますか。投炭や給水の応援いたします。


 

大阪通信員だより 浜大津の巻

日本晴れの10月27日、浜大津スカイプラザへと向かう。一年ぶりの再訪である。京阪電鉄京津線開業百周年の写真展と模型運転会が行われているのだ。訪れた目的は、クローバー会西村雅幸氏の新作による江若鉄道・京阪電鉄京津線の浜大津駅の精巧なジオラマを見学するためと会場警備である。

昨年は、江若鉄道三井寺下駅構内の忠実な再現と今津駅にいたるジオラマであったが、多数の要望に応えて今年は浜大津駅が主役となった。昭和中期の複雑な浜大津の駅と線路はもとより周辺の街並みを細かく再現したものである。江若線・京津線の車輌も在籍車をほぼ全て揃えてある。江若の車輌は狭い窓が多くならび、それも二段窓だ。カッター片手に奮闘される老眼を寄せ付けない西村氏の姿とあきれを通り越した奥様の様子が浮かぶ。
十人近い江若OBの古老やご家族も見えられ、回転する転車台や開閉とともに警手が飛び出してくるカラクリ踏切を見て、警手は?ちゃんやったなあ!このあたりで大ケガをした仲間がいたんや!など話の花が咲いていた。この後でOB昼食会があるとのこと、これも昨年の催しが種をまいたのだらう。もちろん通信社の取材もあり、京都新聞社をはじめとして数社の小姐記者が西村氏をアタックしていた。当クローバー会会員もヒマのある方が随時来場され、感心している様子だった。

通信員も、警備をお手伝いすることで、西村氏の楽屋裏をのぞくことができ、ジオラマ製作途上の走り書きから経費明細まで雑多な資料を几帳面に保存されたファイルを拝見した。エンジニア気性がほとばしるものであった。
なお、昨年の江若展をご覧になった「レイル」誌の前里孝編集長が、是非とも江若特集をと企画されクローバー会福田静二氏の暗躍を得て、「レイル84号」として今月発刊されている。江若鉄道の記録の集大成として、クローバー会会員の記事や写真の実力をめでるものとして、是非一家に一冊購入いただき書架のこやしとしていただきたい。

催しは11月3日4日にもおこなわれるので、詳細は掲示板25486号を精読ください。
「そうだ浜大津いこう!」

 

青森余話

「クローバー会写真展in青森」も無事終了した。この写真展で嫌な顔一つせずに頑張った総本家青信号特派員さんはその後「ダイレクトに行って帰っただけでは鉄道ファンの名が廃る」と「東日本被災地の鉄道は今」を発表されている。私も写真展の前後に少しばかり撮影してきたので発表したい。

かつて青森駅は数々の優等列車が発着し、賑わいをみせていたが、今は津軽海峡方向を除けば寂しい限りである。そのような中、昭和の面影を残す唯一の本州内定期ブルートレイン「あけぼの」の発車待ちの姿を夜間撮影した。18時22分発で写真展終了後の宴会前の丁度よい撮影時間帯でこのためわざわざ三脚を持参した。2012年10月12日2022列車EF81139[青森車両センター]↓

青森から二つ先の奥羽本線津軽新城は手頃な撮影地。と言っても30分ほど歩く。このお立ち台は2度目でみちのく一人旅 のぶんしゅう旅日記さんをご案内する。二人以上で撮影すると気が散っていい写真が撮れないことがある。この日も「あけぼの」登場前にクラブのこと、海外旅行の話、はたまた神足会の話題などを喋くりまくっているうちに列車がサーと現れる。このあたり2~4両編成が多い中で寝台特急は長編成である。急いで望遠から広角に戻すもピンボケ。地元の人に声をかけられたり、あまり喋っていると失敗が多いが、プロでもないので、私は気の置けない仲間との撮影の方が好きだ。2012年10月12日津軽新城~鶴ケ坂2021列車EF81139[青森車両センター]↓

青森から上りの「あけぼの」は上越線経由で上野着は6時58分のラッシュ前。都心に近い家の建て込んだ所を避けるには初夏の日の出の早いころ高崎近くが望ましい。私は2年前の朝3時に車を出して、これもお立ち台のオカホンこと、岡部~本庄間で撮影した。2010年7月20日AM5:35 2022列車EF641031[長岡車両センター]↓

青森駅構内では連絡船に貨車を詰め込んだり、引っ張り出したりするキューロクの姿があった。写真展開催中に元国鉄の方からT先輩の 写真を見て、「キューロクは後ろに無蓋貨車をつないでいたが、これはキューロクが誤って連絡船の中まで入って行って船が沈んでレールに段差ができて戻ってこれないと困るので緩衝役としてつないでいた」とおっしゃられた。これは何という形式の貨車であったのであろうか。宇高連絡船にも同じものがあったのであろうか。戦前の稚泊航路(稚内~樺太大泊)はどうであったか。関釜連絡船は両岸ではゲージが異なるのでなかったのではないか。台湾は遠過ぎて連絡船の制度はなかったのではないか。何れにしてもよくわからないのでどなたか教えていただきたい。私の撮影は1965年8月31日早朝の9665で後ろの貨車は緩衝役なのか普通の無蓋車なのかよくわからない。T先輩には今回の写真展PRにも使われた雪のキューロクを拝借した。↓

最後の締め括りは青森駅で撮影中の総本家青信号特派員さんの勇姿。勇姿というよりも連日の準備作業等でお疲れ気味の撮影姿かもしれない。いろいろとご苦労様でした。2012年10月12日青森駅の青い森鉄道クハ700-4↓

 

 

 

左メニュー撤去のお知らせ

こちら管理人小西です。
掲示板改修後より、Firefox、ChromeではなくInternetExplorerを利用しているユーザーでは、正常に掲示板が表示されていないことが判明しました。
以前から左に表示されていたメニュー(左フレーム)と改修後の掲示板との相性が悪いのが原因でしたので、フレーム構造は時代に合わないなどその他の理由もあり、左メニューはこの際撤去しました。会則や沿革、活動記録、青信号へのリンクは、掲示板上部のメニュー「クローバー会」に移動しました。

また、現在コメントを投稿するには登録ユーザである必要がありましたが、FacebookやTwitterアカウントを持っていれば、未登録ユーザでもコメント投稿できるようにしました。

小湊・いすみ余話

このところDRFCイベントで盛り上がっている。このような時期に拙稿はどうかといささか躊躇していたが、意を決してデジタル元祖青信号[24168]ぶんしゅう旅日記さんの久留里線、いすみ・小湊鉄道撮影日記の追加を余話として報告したい。ぶんしゅうさんは中国、台湾、アフリカに続き、最近は赤道直下インドネシアの砂糖キビ輸送の蒸機を独特のカメラ・アイ、文章で発表されており、この調子で行くと日本の鉄道への興味はどんどん薄れていくのではないかと懸念していた。しかし、9月30日の房総3非電化鉄道撮影ではそのような心配は全くなく、内外ともに鉄道撮影への意欲倍増中とお察しした。

この日お約束した小湊の春・夏の風景やいすみの国鉄木原線時代を発表させていただく。

世の中便利になり過ぎてその弊害も指摘される昨今である。どなたか名前を忘れたが、その方が総理大臣になられた時のキャッチフレーズが「美しい日本」であった。私は簡易トイレはあるが、自販機もない不便この上ない上総大久保駅に何か忘れかけた「美しい日本」を感じた。 美しいとは勿論「風景」だけではなく「心」のこともいっていると思うが。

2011年4月10日 小湊鉄道上総大久保駅 養老渓谷行きキハ210 ↓

昔の日本の夏は朝晩涼しく、朝顔を眺めたり、午前中に夏休みの宿題をしたり、ほたるをとってきて蚊帳の中に放したり、それなりの風情があった。今は、特に都会では終日暑苦しくインドネシアの方がずっとしのぎやすいとのこと。上総大久保駅から五井方向に5分も歩けば大カーブが見えてくるが、夏の時期ご老人の撮影は熱中症予防に水や塩の用意はお忘れなく。

2011年7月16日 上総大久保~月崎 上総中野行きキハ211 ↓

小湊からいすみへの乗換駅上総中野。読者諸兄にもお馴染みのポイントであろう。

2012年9月30日 上総中野駅 左いすみキハ202、右小湊キハ204 ↓

1982年晩秋の同じ風景。大原からのキハ3557から小湊キハ212への乗り換えが終わった頃。左側の大きな木は少し育った感じだが小湊のキハはあまり変化はない。

1982年11月28日 上総中野駅 ↓

いすみの新車キハ300形クロスシート車。来年にはキハ350形ロングシート車が登場するという。

2012年8月19日 国吉~上総中川 大原行きキハ301+キハ302 ↓

新車より興味を引くのは、同社がキハ52125に続いてJR西日本よりキハ282346を導入し、10月21日には大多喜駅でボンネットバスとともに顔見世興行が行われることである。キハ52+キハ28はもう一つどうかなと思うが、またまた行かなくてはならない。続いて国鉄木原線時代の国吉駅でのキハ351、確かこのトップナンバーは総本家さんがどこかに発表されたと思うが、同社ではキハ30の導入の噂もありどうせならゆかりの車両を再現してもらいたい。

1982年11月28日 国吉駅 大原行きキハ351 ↓

最後に9月30日、国吉~上総中川間で大原行きキハ52125を迎撃するぶんしゅう旅日記さんの激写スタイルで締めくくりとさせていただく。↓

掲示板更新

管理人小西です。以前の掲示板システムの更新に加えて、本日テーマファイルの更新を行いました。

  • コメントにアイコンが表示できるようになりました。

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  • スマートフォンからの閲覧に対応しました。
  • デザイン変更が行いやすくなりました。
  • 機能追加が行いやすくなりました。
  • その他、追加機能多数。

以前使用していたテーマファイルは2002年度版”Kubrickカスタム”のため、今回適用した2011年度版”Twenty Eleven”では細部で見た目が異なります。できる限り以前の見た目・使用感に近づけるよう努力中ですが、気になる箇所などありましたら、こちらの記事にコメントをお願いします。

広電三昧(撮影編-完)

KAWANAKAです。

広電撮影の完です。メモも取らずに只管撮り続けていたので橋を間違えた??申し訳ないです。

さて、広島駅を出た電車は半分以上、原爆ドームを経由しています。ここでの写真はもはや定番ですが車が被って中々思うように撮れません。ロケ中でも三脚を据えたお兄さんがいましたが、ここは機動力を発揮した方が楽です。また、歩道の端には潅木が植え込んでありますのでガツガツ撮るのではなしに無機質な舗装を和らげてはどうでしょうか。ドームを入れた写真はおもい切って橋の渡り切るくらいまで引いて撮りました。では、どうぞ。京都市電は景色にマッチするのは当然と思いましたが、新型の連接車もよく合いますね。

 

 
その先は十日市町です。江波・西広島へのルートと横川へのルートが分岐します。本数・車種が多いのでいっぱい撮るにはぴったりです。ただ、今回の掲示板の趣旨に合いませんので写真は割愛します。

江波方面は次は土橋。ここで西広島行と分岐。ここも本数が多くまた十日町方面も遠望できます。ちょうど101が来ましたので乗って江波へ向かいます。

独特の前後が上下に揺れるのり心地を味わって江波に。通常のダイヤに割込むのですから江波-横川がピッタリなのでしょう。しかし乗客はまばら。これで2人乗務員がつき、贅沢な乗り物となっています。

101号車は市民にも珍しい。携帯でパチリ。
車庫風景。ひまわりが夏の名残?ちょいと花をあしらってみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうこうしているうちに、700が出てきました。この続行でさっきの101が出来てます。西村氏の写真を参照ください。

こんどは戻って、広電本社千田を訪問。

そ、そのまえに、鷹野橋でのカーブが一興であるので駄賃にとっておきました。ご覧ください。橋の階段から撮影したもので、2枚は互いに反対方向である。

        

車庫での様子です。既に西村氏がUPしていますので少し補完しておきましょう。

そのあとは、広島港です。3線あるホームは広大です。ただし周囲の雰囲気は海が見えるわけでなし、平々凡々。色々試みましたがあかんものはあかん。

 

左は駅ナカ。右は駅に入線する連接車。このあと一旦停止し、大きく右に曲がって駅に到着します。

ここから駅に戻るには皆見町六丁目から的場までバイパスするルートがあります。ショートカットであるが本数は少ない。1カットあるのでUPします。

あまり良い場所はなさそうですが、それなりの雰囲気は、まあこんなものでしょう。

さて、土橋から西広島に行く途上に間違った天満があります。その前の電停は道路にフレームを印しただけのもので、何か阪堺線の雰囲気がある。こんどこそ天満の橋を通ります。

 

このつぎは白島と行きたいのですが、わずか1.2km。投稿の夜も遅いのでUPしないことにしました(スミマセン)。

さて、何といっても市内電車の魅力は人です。広電は(大体、地方鉄道は親切な乗務員が多いのですが)親切です。それと意外と言っては失礼ですが美人が多いのです。

土橋で車窓越しにであった人はハッとする美形でした。プライバシーに関わるので、画像処理をしました。これで。

 

←画像処理をしています

 

 

 

次の写真は横川駅頭です。京女が京都市電に乗ってたびに出ますといったのがピッタリ?します。

 

 

 

やはり、白島線も載せておきましょう。ただし車両ではなく、そこの風景です。親子3代、幸せそうな雰囲気で下車してきました。八丁堀は街の中心、ショッピングでもお楽しみください。いや、ご老人と若い家族かも知れませんが・・・。

最後に幸せそうな家庭の雰囲気で締めくくりたいと思います。

如何でしょう。広電はしばらくすると旧車は淘汰されていきます。今がまさに色んな車種を見ることができる最後のときと思います。これを見て行かれる気になれば幸甚です。

広島には中国支部長?がガイドしてくれると思います。

緊急報!「船場まつり」12日は午前中のみ開場

船場まつりは主催者側の都合で、10月12日(金)は午前中のみの開場となりました。13,14日は午前10時より午後5時まで開場となります。DRFC参加内容は模型運転展示のみで、参加内容の変更はありません。

以上、現役渉外担当から緊急報として連絡ありましたので、「デジ青」愛用者の皆さんにお知らせします。

広電三昧-続き(撮影編)

KAWANAKAです。
1日遅れになりましたが大人しくしておく筈が西村氏の投稿で出さない訳には行かなくなりました。何をどう巡ったかは大体検討がつくと思われるので、読者の方を広島へ誘うために3日(といっても初日は夜に到着、2日めは時間があると決め込んで日和り、最終日に西村氏と合流した)の成果というものでもないが、開陳しましょう。それにしても600円のフリー切符で初回日の乗車回数12回(単価は市内で150円、宮島線は別途)、歩いた距離は3日めの西村氏万歩計でお昼過ぎで既に1万歩だったのですから、この歳で還暦を過ぎた重車体の小生はかなりばてました。

広電のMapを掲載しますので、撮影場所の参考になるかと。

宮島線

鈴楽女子前から歩いて1分のところに広電鉄橋と並行して山陽線鉄橋がある。この写真は並行する道路橋からのものでグリーンムーバーを撮ったもの。宮島線は移籍組の車両は輸送力の関係から見ることはできないけれど、その代わり、休日にはマリンビューも見れるし、JR山陽の色の変更過程にある国電、貨物が平行して撮れる。広電ホームからでも撮り放題。    こんな具合です。

   

続いては、有名な阿品の瀬戸内海を入れた駅の陸橋からの写真、と言いたいのですが溢れているので割愛して、広電の中では季節感のある風景を紹介。高須辺りと思います。気が向いたら降りて撮るのを信条にした旅なので記録をしていませんが、夏の風景と秋の始まりの風景がいっぺんに取れました。ただし花にフォーカスしていますので、それは好みに合わんイヤやという人がいるかもしれません。ただ、ひまわりはしょぼいですねえ。

さて、市内線と宮島線の接続口である西広島に戻ります。広電では数少ないトイレがある(八丁堀の交差点にもあります)ので、ほっとする駅でもあり、整然としたとは言えない線の配置は写欲をそそられます。ここでは移設組の単車車両も来るので、乗り降りする人と共に絵になります。飽きません。古き良き時代を彷彿させる駅頭風景をどうぞ。
ここから、土橋を通って横川に戻ります。そのついでに日本離れした街路樹の茂った欧州風の場所があります。小生が勝手に思っているのでそうではないかも知れませんが。

その広島工大前の西観音町で、雰囲気がよろしいのでここで、数カットを撮ることにしましょう。
連接車を撮っても絵になりますが、ここは余命短い車両にするべきでしょう。

西広島で会った旧大阪市電762が電停を離れていきます。旧京都市電1905が西観音町の左L字カーブを曲がります。   

ところで横川駅はJRと連絡していますが、大屋根のある2線の駅頭は風情があります。昼と夜とそして西村氏の待ち合わせで朝とよ~け撮影しましたが風情のある夜景をUPします。この写真の1分後、京都市電が入ってきて2ショット!!となるはずでしたが、入線する直前に発車してしまい、粘るもついに2ショットは取れませんでした(大阪+京都の2ショットは撮れましたが・・・)。どなたかチャレンジしてみては如何でしょう。この写真は35mm換算400mmでの望遠で交差点の対面からです。車に被るかどうかは運次第。
横川駅を少し下ったところに天満橋(だったかな。大阪と違いまっせ)があり、並行している橋から走行写真が取れます。はしは上に凸なので車さえなかったら橋の上を向かってくる電車が撮れます。写真はそのサイドの昼と夜です。雰囲気が違っていて面白いですね。
なお、その先、別院前には電車は橋の坂を下っていきますが、線路のカーブがきれいにはいる場所で旧車が来るのはここです。橋は車が通ると揺れるので被られることと横を大型のバスなどが通らないことが条件です(小生は重い三脚を持って行きませんので振動は関係ないですが・・・)。

ここは単車のオンパレードなので面白い写真が撮れるかも・・。夜は雪景色と同じように見苦しいものが映らないので好きですが、皆様はどうでしょうか。

カーブを強調するためにうんと長いタマを慎重にブレないよう使いました。
JRとの主要な接続ターミナルは勿論、広島駅です。駅から的場町までが経路廃止になるので撮っておいたほうが良いのでしょうとは西村氏の言。ただし、旧車は来ないし連接車の西鉄3000は昼は来ないようです。

ターミナル風景2枚とタクシー乗り場からタクシーの頭越しに超望遠で狙った風景、途中電停の風景をUPしました。

     

      

と、ここまで写真を拾い上げてきましたが、ファイルも大きくなり、明日の仕事に差し支えるので、続きは追って。

車庫の様子と沿線の風景、乗客、お目当てだった100系や車内をUPしてオシマイとします。

なお、車両の解説はタイトルの趣旨からありません。クローバー会のメンバーには不要でしょうが、
http://www.hiroden.co.jp/train/sharyo/index.html
を見て頂くとわかります。
では次回に続きます。