クハ79


仙石線 陸前富山~陸前大塚 (49-4-29) クハ79230

関 三平さんの「昭和の電車」は、長く続いた「モハ63形シリーズ」が6月25日の京成電鉄モハ109号で終了となり、改造連接車も終わって、今回から戦前の古豪シリーズが始まり、第1回目として近鉄南大阪線のモ6601形が紹介された。一方小生の超鈍足「モハ63形シリーズ」は第4回目の「クハ79」を解説する。

(Ⅰ)鋼体化改造グループ
昭和9年から17年にかけて、17mの木製車の車体を新製の半鋼製車体に乗せ換える、いわゆる鋼体化改造が施行され、モハ50形(後のクモハ11形400番代)132両、クハ65形(後のクハ16形400番代)221両、サハ75形(サハ17形300番代)21両が誕生した。翌18年には身延線用の2扉セミクロスのモハ62形(後のクモハ14形100番代)、クハ77形(後のクハ18形0番代)が各3両作られた。
戦時中の輸送力の増強のため、鋼体化改造車を17m3扉車から20m4扉車とすることになり、昭和19年に25両計画(当初の計画では33両)されたが、終戦までに完成したのは2、4、5、9、12、16、24、25の8両に留まり以降の改造は中止となった。また、5と9は戦災で焼失したため戦後まで残った車両は6両であった。
時節柄、造作は大幅に簡略化され、2、4、9以外は天井板がなくタル木がむき出し、ラストナンバーの25は最低で座席は12名分しかなく、内張りは戸袋部以外窓から下は省略されていた。沢柳健一氏が撮影された写真がよく趣味誌に掲載されているのでご覧になられた方も多いのではなかろうか。
台枠は最初の2、4、9は木製車のものを延長して使用したが、それ以降は新製された。台車は木製車時代のTR10、TR11を流用したが、戦後24以外はTR23に履き替えた。
当初は東京地区で使用されたが、昭和39年9月、何を勘違いしたのか4、12、16、24、25の5両がなんと明石区に転属して本線緩行に使用された。当時ピク誌の「車両の動き」欄でこの驚愕の事実を知り「何考えてんねん」と思った。
以下、写真と共に解説する。

79002/ (46-9-16)  放出
大正9年天野工場製のクハ15006を昭和19年5月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、26年11月淀川区に転属、29年3月宮原、32年9月高槻、35年10月淀川区と転属して、36年11月環状線101系化で東京に戻り下十条へ、45年12月再度関西入りして淀川区で片町線に使用。一度だけ乗ったが、とにかくボロボロであった。オレンジ色に塗り替えられることなく47年1月24日付で廃車になった。

79004/ 上(43-4-20)  大阪 下(50-2-2)  広島/呉線使用時
大正9年天野工場製のクハ15009を昭和19年6月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、44年10月東京に戻り中原区から12月に青梅区へ、翌年の45年6月呉線電化時に幡生工場でトイレを設置して広島区へ、47年1月には窓の2段アルミサッシ化が実施された。呉線新性能化後可部線で使用され、59年10月3日付で廃車になった。

79012/ (39-10-24) 京都
大正10年日本車輌製のクハ15039を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、48年9月18日付で廃車になった。

79016/ 画像なし
明治45年新橋工場製のクハ19043を昭和19年11月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、その後阪和線に転属して48年1月23日付で廃車になった。

 79024/ 上(42-1-6)  下(41-8-25) 京都
大正14年日本車輌製のサハ17019を昭和20年9月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、42年6月15日付で廃車になった。
この車のみ台車がTR11のままで、フワフワした感じの乗り心地であった。吹田工場で運転台窓のHゴム化、球形通風器の取付けが行われたが、グループでは最も早く廃車になった。

79025/ (44-5-30) 京都
大正3年大宮工場製のモユニ2003を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。国電史上接客設備が最悪の車両であったが当初横須賀線で使用された。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ。44年12月に東京に舞い戻り、武蔵中原から房総地区電化により津田沼に移動。50年4月14日付で廃車になった。
房総地区電化時、東京、関西から掻き集めた4扉車が使用され、乗客からヒンシュクを買ったが、113系に置換えられて面目を一新した。ところが近年113系老朽化により元京浜東北線の209系に置換えられ、また4扉車になった。唯、今回は両端がセミクロス車で編成中に必ずトイレ付車が連結されているので、73系の時よりいくらかマシである。

(2)63形グループ
モハ63形には、運転台機器はあるがモーターの無いクモハ63形(クハ代用)、運転台機器、モーターもなくサハ状態のサモハ63形(サハ代用)が存在したが、これらを整備の上、昭和27年から28年にかけて76両を正式にクハ79形として100~250(偶数のみ)を付番した。当然車両の向きはすべて偶数向きである。
両数が多いので代表的な車両のみ紹介する。

79100  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和19年8月川崎車輌でサモハ63002として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して51年5月20日付で廃車。

79104  (48-7-1)  鳳
昭和19年11月川崎車輌でサモハ63006として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、42年9月阪和線に転属して49年10月1日付で廃車。

79132  (47-1-9)  鳳
昭和21年10月汽車会社でサモハ63234として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、43年3月阪和線に転属して47年4月28日付で廃車。

79136  (49-5-27)  大阪
昭和21年4月近畿車両でサモハ63296として新製。28年3月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、46年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後51年1月29日付で廃車。大阪緩行としては比較的遅くまで残った。(最終運行日は51年2月26日)

79152  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63314として新製。28年1月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して54年10月22日付で廃車。

79154  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63316として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年11月15日付で廃車。

79160  (50-3-23)  南武線稲城長沼
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63330として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は南武線中原区で53年1月17日付で廃車。

79166  (48-2-2)  青梅
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63336として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用後、最後は青梅区で51年12月21日付で廃車。

79172  (51-2-25)  上越線群馬総社
昭和21年8月近畿車輌でサモハ63344として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、新前橋区に転属して高崎~水上間、高崎~桐生簡で使用後51年3月15日付で廃車。

79190  (43-9-7)  東神奈川
昭和21年9月川崎車輌でサモハ63378として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は横浜線で52年11月30日付で廃車。

79202  (47-2-17)  鶴見線浅野
昭和21年10月川崎車輌でサモハ63438として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で51年1月29日付で廃車。

79204  (48-4-30) 仙石線下馬
昭和21年11月川崎車輌でサモハ63442として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年3月11日付で廃車。

79216  (50-1-6)  京都
昭和19年11月田中車輛でサモハ63009として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、40年2月明石に転属、44年12月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年7月25日付で廃車。

79222  (48-7-14)  大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63075として新製。28年5月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、41年4月明石に転属、45年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年6月20日付で廃車。

79224  (47-2-17)  鶴見線浅野~新芝浦
昭和21年8月日本車輛でサモハ63071として新製。28年6月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年6月20日付で廃車。

79238  (47-2-20)  大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63083として新製。28年7月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年3月22日付で廃車。
写真は関西地区から東京地区に転属する車両の受け取りに来た時のものである。撮影時の所属は南浦和区であった。

引続きモハ72形についても時期を見て解説する。

2ちゃんねるの記事から

悪評高い、2ちゃんねるですが、時々おもしろい投稿があります。これに対する書き込みにも傑作なのがありますのでご紹介します。

まず、元になった読売の記事
>青森県深浦町で昨年11月、JR五能線の線路上に敷かれたアルミ板に列車が衝突して停止した 事故で、鰺ヶ沢署は2日、アルミ板を敷いた男2人を過失往来危険の疑いで地検弘前支部に 書類送検した。
2人は「車で線路を越えるために板を敷いた」と容疑を認めている。JR側とは示談が成立して いるという。
発表によると、書類送検されたのは同町の農業の男(77)と、知人で中泊町の農業の男(71)。
現場周辺には踏切がなく、男らは「線路裏の山に向かう近道として、以前から板を敷くことが
あった。列車が来るとは思わなかった」と話している。
▽読売新聞

これに対する書き込み
●これって、アルミ板がレール2本に 触れた時点で通電して 保安機が電車が居ると認識するから 後続は止まるんじゃないの?
●豆知識 青森では、電車、列車という単語は使わず、汽車と言う
●そもそもアルミ板敷いた時点で軌道短絡するだろ
●既に電車が当該閉塞の信号機内方に入ってたら意味ないね。 田舎線区だから一閉塞も長いだろうし。 そもそも自動閉塞なのかも分からんが。
●五能線は特殊自動閉塞 停車場以外に軌道回路はない
●アルミは電気を通さないんだが。 そもそもレールは電圧0ボルトで触っても問題なし。
●鉄道会社側も勝手に横断されるくらいなら踏切作りたいわけだが、 国交省が踏切の新設を禁止しているんだよ

などと申しております。

11月11日(日)ホームカミングデーは現役生も熱い!

 11月11日(日)に行われるホームカミングデー(HCDと略されることもある)にて我々現役鉄道同好会が出展いたします。尚、当会はファミリー・子ども向けイベントを担当します。ぜひご覧にお越しくださいませ。

 11月11日(日) 10:00~16:15 至誠館23教室(S23)にて

展示内容
・鉄道模型走行展示(体験運転あり)
・Bトレ展示
・PV(プロモーションビデオ)放映(未定)
・青信号69号、バックナンバーの販売
・アルバムフォト写真展示(未定)
・ぬりえコーナー
・鉄道クイズ

諸事情により、当会は教室半分のスペースを使用することとなりました。展示スペースが狭いこと、ご了承願います。

企画責任者:奈良の駅名研究家

大阪通信員だより 井笠鉄道バスの巻

突然の発表であったが、井笠鉄道バスが10月末をもって会社破綻により廃業する。通信員宅のそば千日前通を日に三往復してきた神辺・笠岡~大阪(上本町)間の井笠鉄道バス「カブトガニ号」も見られなくなる。鉄道の名前がついたバスで、いつも懐かしく眺めていた。いっとき近鉄グループに入っていたので、井笠の高速バスや観光バスも色遣いに近鉄観光バスの面影を残している。旧新山駅跡にある井笠鉄道記念館(カブトガニ号新山下車すぐ)を訪ねたいと思っていたが、引き継ぐ中国バス(両備グループ)で行かねばならない。記念館はどうなるのだろう。
話のついでに45年ほど前と数年前の千日前通の同じ場所での画像をご覧いただく。地下鉄千日前線と近鉄難波乗り入れで道路が拡幅される前の活気ある風景と、天皇皇后両陛下がすぐ近くの国立文楽劇場に行幸されたときの通行規制状況です。11月25日には大阪マラソンも走ります。クローバー会員で参加される方はありますか。投炭や給水の応援いたします。


 

大阪通信員だより 浜大津の巻

日本晴れの10月27日、浜大津スカイプラザへと向かう。一年ぶりの再訪である。京阪電鉄京津線開業百周年の写真展と模型運転会が行われているのだ。訪れた目的は、クローバー会西村雅幸氏の新作による江若鉄道・京阪電鉄京津線の浜大津駅の精巧なジオラマを見学するためと会場警備である。

昨年は、江若鉄道三井寺下駅構内の忠実な再現と今津駅にいたるジオラマであったが、多数の要望に応えて今年は浜大津駅が主役となった。昭和中期の複雑な浜大津の駅と線路はもとより周辺の街並みを細かく再現したものである。江若線・京津線の車輌も在籍車をほぼ全て揃えてある。江若の車輌は狭い窓が多くならび、それも二段窓だ。カッター片手に奮闘される老眼を寄せ付けない西村氏の姿とあきれを通り越した奥様の様子が浮かぶ。
十人近い江若OBの古老やご家族も見えられ、回転する転車台や開閉とともに警手が飛び出してくるカラクリ踏切を見て、警手は?ちゃんやったなあ!このあたりで大ケガをした仲間がいたんや!など話の花が咲いていた。この後でOB昼食会があるとのこと、これも昨年の催しが種をまいたのだらう。もちろん通信社の取材もあり、京都新聞社をはじめとして数社の小姐記者が西村氏をアタックしていた。当クローバー会会員もヒマのある方が随時来場され、感心している様子だった。

通信員も、警備をお手伝いすることで、西村氏の楽屋裏をのぞくことができ、ジオラマ製作途上の走り書きから経費明細まで雑多な資料を几帳面に保存されたファイルを拝見した。エンジニア気性がほとばしるものであった。
なお、昨年の江若展をご覧になった「レイル」誌の前里孝編集長が、是非とも江若特集をと企画されクローバー会福田静二氏の暗躍を得て、「レイル84号」として今月発刊されている。江若鉄道の記録の集大成として、クローバー会会員の記事や写真の実力をめでるものとして、是非一家に一冊購入いただき書架のこやしとしていただきたい。

催しは11月3日4日にもおこなわれるので、詳細は掲示板25486号を精読ください。
「そうだ浜大津いこう!」

 

青森余話

「クローバー会写真展in青森」も無事終了した。この写真展で嫌な顔一つせずに頑張った総本家青信号特派員さんはその後「ダイレクトに行って帰っただけでは鉄道ファンの名が廃る」と「東日本被災地の鉄道は今」を発表されている。私も写真展の前後に少しばかり撮影してきたので発表したい。

かつて青森駅は数々の優等列車が発着し、賑わいをみせていたが、今は津軽海峡方向を除けば寂しい限りである。そのような中、昭和の面影を残す唯一の本州内定期ブルートレイン「あけぼの」の発車待ちの姿を夜間撮影した。18時22分発で写真展終了後の宴会前の丁度よい撮影時間帯でこのためわざわざ三脚を持参した。2012年10月12日2022列車EF81139[青森車両センター]↓

青森から二つ先の奥羽本線津軽新城は手頃な撮影地。と言っても30分ほど歩く。このお立ち台は2度目でみちのく一人旅 のぶんしゅう旅日記さんをご案内する。二人以上で撮影すると気が散っていい写真が撮れないことがある。この日も「あけぼの」登場前にクラブのこと、海外旅行の話、はたまた神足会の話題などを喋くりまくっているうちに列車がサーと現れる。このあたり2~4両編成が多い中で寝台特急は長編成である。急いで望遠から広角に戻すもピンボケ。地元の人に声をかけられたり、あまり喋っていると失敗が多いが、プロでもないので、私は気の置けない仲間との撮影の方が好きだ。2012年10月12日津軽新城~鶴ケ坂2021列車EF81139[青森車両センター]↓

青森から上りの「あけぼの」は上越線経由で上野着は6時58分のラッシュ前。都心に近い家の建て込んだ所を避けるには初夏の日の出の早いころ高崎近くが望ましい。私は2年前の朝3時に車を出して、これもお立ち台のオカホンこと、岡部~本庄間で撮影した。2010年7月20日AM5:35 2022列車EF641031[長岡車両センター]↓

青森駅構内では連絡船に貨車を詰め込んだり、引っ張り出したりするキューロクの姿があった。写真展開催中に元国鉄の方からT先輩の 写真を見て、「キューロクは後ろに無蓋貨車をつないでいたが、これはキューロクが誤って連絡船の中まで入って行って船が沈んでレールに段差ができて戻ってこれないと困るので緩衝役としてつないでいた」とおっしゃられた。これは何という形式の貨車であったのであろうか。宇高連絡船にも同じものがあったのであろうか。戦前の稚泊航路(稚内~樺太大泊)はどうであったか。関釜連絡船は両岸ではゲージが異なるのでなかったのではないか。台湾は遠過ぎて連絡船の制度はなかったのではないか。何れにしてもよくわからないのでどなたか教えていただきたい。私の撮影は1965年8月31日早朝の9665で後ろの貨車は緩衝役なのか普通の無蓋車なのかよくわからない。T先輩には今回の写真展PRにも使われた雪のキューロクを拝借した。↓

最後の締め括りは青森駅で撮影中の総本家青信号特派員さんの勇姿。勇姿というよりも連日の準備作業等でお疲れ気味の撮影姿かもしれない。いろいろとご苦労様でした。2012年10月12日青森駅の青い森鉄道クハ700-4↓

 

 

 

左メニュー撤去のお知らせ

こちら管理人小西です。
掲示板改修後より、Firefox、ChromeではなくInternetExplorerを利用しているユーザーでは、正常に掲示板が表示されていないことが判明しました。
以前から左に表示されていたメニュー(左フレーム)と改修後の掲示板との相性が悪いのが原因でしたので、フレーム構造は時代に合わないなどその他の理由もあり、左メニューはこの際撤去しました。会則や沿革、活動記録、青信号へのリンクは、掲示板上部のメニュー「クローバー会」に移動しました。

また、現在コメントを投稿するには登録ユーザである必要がありましたが、FacebookやTwitterアカウントを持っていれば、未登録ユーザでもコメント投稿できるようにしました。

小湊・いすみ余話

このところDRFCイベントで盛り上がっている。このような時期に拙稿はどうかといささか躊躇していたが、意を決してデジタル元祖青信号[24168]ぶんしゅう旅日記さんの久留里線、いすみ・小湊鉄道撮影日記の追加を余話として報告したい。ぶんしゅうさんは中国、台湾、アフリカに続き、最近は赤道直下インドネシアの砂糖キビ輸送の蒸機を独特のカメラ・アイ、文章で発表されており、この調子で行くと日本の鉄道への興味はどんどん薄れていくのではないかと懸念していた。しかし、9月30日の房総3非電化鉄道撮影ではそのような心配は全くなく、内外ともに鉄道撮影への意欲倍増中とお察しした。

この日お約束した小湊の春・夏の風景やいすみの国鉄木原線時代を発表させていただく。

世の中便利になり過ぎてその弊害も指摘される昨今である。どなたか名前を忘れたが、その方が総理大臣になられた時のキャッチフレーズが「美しい日本」であった。私は簡易トイレはあるが、自販機もない不便この上ない上総大久保駅に何か忘れかけた「美しい日本」を感じた。 美しいとは勿論「風景」だけではなく「心」のこともいっていると思うが。

2011年4月10日 小湊鉄道上総大久保駅 養老渓谷行きキハ210 ↓

昔の日本の夏は朝晩涼しく、朝顔を眺めたり、午前中に夏休みの宿題をしたり、ほたるをとってきて蚊帳の中に放したり、それなりの風情があった。今は、特に都会では終日暑苦しくインドネシアの方がずっとしのぎやすいとのこと。上総大久保駅から五井方向に5分も歩けば大カーブが見えてくるが、夏の時期ご老人の撮影は熱中症予防に水や塩の用意はお忘れなく。

2011年7月16日 上総大久保~月崎 上総中野行きキハ211 ↓

小湊からいすみへの乗換駅上総中野。読者諸兄にもお馴染みのポイントであろう。

2012年9月30日 上総中野駅 左いすみキハ202、右小湊キハ204 ↓

1982年晩秋の同じ風景。大原からのキハ3557から小湊キハ212への乗り換えが終わった頃。左側の大きな木は少し育った感じだが小湊のキハはあまり変化はない。

1982年11月28日 上総中野駅 ↓

いすみの新車キハ300形クロスシート車。来年にはキハ350形ロングシート車が登場するという。

2012年8月19日 国吉~上総中川 大原行きキハ301+キハ302 ↓

新車より興味を引くのは、同社がキハ52125に続いてJR西日本よりキハ282346を導入し、10月21日には大多喜駅でボンネットバスとともに顔見世興行が行われることである。キハ52+キハ28はもう一つどうかなと思うが、またまた行かなくてはならない。続いて国鉄木原線時代の国吉駅でのキハ351、確かこのトップナンバーは総本家さんがどこかに発表されたと思うが、同社ではキハ30の導入の噂もありどうせならゆかりの車両を再現してもらいたい。

1982年11月28日 国吉駅 大原行きキハ351 ↓

最後に9月30日、国吉~上総中川間で大原行きキハ52125を迎撃するぶんしゅう旅日記さんの激写スタイルで締めくくりとさせていただく。↓

掲示板更新

管理人小西です。以前の掲示板システムの更新に加えて、本日テーマファイルの更新を行いました。

  • コメントにアイコンが表示できるようになりました。

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  • スマートフォンからの閲覧に対応しました。
  • デザイン変更が行いやすくなりました。
  • 機能追加が行いやすくなりました。
  • その他、追加機能多数。

以前使用していたテーマファイルは2002年度版”Kubrickカスタム”のため、今回適用した2011年度版”Twenty Eleven”では細部で見た目が異なります。できる限り以前の見た目・使用感に近づけるよう努力中ですが、気になる箇所などありましたら、こちらの記事にコメントをお願いします。

広電三昧(撮影編-完)

KAWANAKAです。

広電撮影の完です。メモも取らずに只管撮り続けていたので橋を間違えた??申し訳ないです。

さて、広島駅を出た電車は半分以上、原爆ドームを経由しています。ここでの写真はもはや定番ですが車が被って中々思うように撮れません。ロケ中でも三脚を据えたお兄さんがいましたが、ここは機動力を発揮した方が楽です。また、歩道の端には潅木が植え込んでありますのでガツガツ撮るのではなしに無機質な舗装を和らげてはどうでしょうか。ドームを入れた写真はおもい切って橋の渡り切るくらいまで引いて撮りました。では、どうぞ。京都市電は景色にマッチするのは当然と思いましたが、新型の連接車もよく合いますね。

 

 
その先は十日市町です。江波・西広島へのルートと横川へのルートが分岐します。本数・車種が多いのでいっぱい撮るにはぴったりです。ただ、今回の掲示板の趣旨に合いませんので写真は割愛します。

江波方面は次は土橋。ここで西広島行と分岐。ここも本数が多くまた十日町方面も遠望できます。ちょうど101が来ましたので乗って江波へ向かいます。

独特の前後が上下に揺れるのり心地を味わって江波に。通常のダイヤに割込むのですから江波-横川がピッタリなのでしょう。しかし乗客はまばら。これで2人乗務員がつき、贅沢な乗り物となっています。

101号車は市民にも珍しい。携帯でパチリ。
車庫風景。ひまわりが夏の名残?ちょいと花をあしらってみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうこうしているうちに、700が出てきました。この続行でさっきの101が出来てます。西村氏の写真を参照ください。

こんどは戻って、広電本社千田を訪問。

そ、そのまえに、鷹野橋でのカーブが一興であるので駄賃にとっておきました。ご覧ください。橋の階段から撮影したもので、2枚は互いに反対方向である。

        

車庫での様子です。既に西村氏がUPしていますので少し補完しておきましょう。

そのあとは、広島港です。3線あるホームは広大です。ただし周囲の雰囲気は海が見えるわけでなし、平々凡々。色々試みましたがあかんものはあかん。

 

左は駅ナカ。右は駅に入線する連接車。このあと一旦停止し、大きく右に曲がって駅に到着します。

ここから駅に戻るには皆見町六丁目から的場までバイパスするルートがあります。ショートカットであるが本数は少ない。1カットあるのでUPします。

あまり良い場所はなさそうですが、それなりの雰囲気は、まあこんなものでしょう。

さて、土橋から西広島に行く途上に間違った天満があります。その前の電停は道路にフレームを印しただけのもので、何か阪堺線の雰囲気がある。こんどこそ天満の橋を通ります。

 

このつぎは白島と行きたいのですが、わずか1.2km。投稿の夜も遅いのでUPしないことにしました(スミマセン)。

さて、何といっても市内電車の魅力は人です。広電は(大体、地方鉄道は親切な乗務員が多いのですが)親切です。それと意外と言っては失礼ですが美人が多いのです。

土橋で車窓越しにであった人はハッとする美形でした。プライバシーに関わるので、画像処理をしました。これで。

 

←画像処理をしています

 

 

 

次の写真は横川駅頭です。京女が京都市電に乗ってたびに出ますといったのがピッタリ?します。

 

 

 

やはり、白島線も載せておきましょう。ただし車両ではなく、そこの風景です。親子3代、幸せそうな雰囲気で下車してきました。八丁堀は街の中心、ショッピングでもお楽しみください。いや、ご老人と若い家族かも知れませんが・・・。

最後に幸せそうな家庭の雰囲気で締めくくりたいと思います。

如何でしょう。広電はしばらくすると旧車は淘汰されていきます。今がまさに色んな車種を見ることができる最後のときと思います。これを見て行かれる気になれば幸甚です。

広島には中国支部長?がガイドしてくれると思います。

緊急報!「船場まつり」12日は午前中のみ開場

船場まつりは主催者側の都合で、10月12日(金)は午前中のみの開場となりました。13,14日は午前10時より午後5時まで開場となります。DRFC参加内容は模型運転展示のみで、参加内容の変更はありません。

以上、現役渉外担当から緊急報として連絡ありましたので、「デジ青」愛用者の皆さんにお知らせします。

広電三昧-続き(撮影編)

KAWANAKAです。
1日遅れになりましたが大人しくしておく筈が西村氏の投稿で出さない訳には行かなくなりました。何をどう巡ったかは大体検討がつくと思われるので、読者の方を広島へ誘うために3日(といっても初日は夜に到着、2日めは時間があると決め込んで日和り、最終日に西村氏と合流した)の成果というものでもないが、開陳しましょう。それにしても600円のフリー切符で初回日の乗車回数12回(単価は市内で150円、宮島線は別途)、歩いた距離は3日めの西村氏万歩計でお昼過ぎで既に1万歩だったのですから、この歳で還暦を過ぎた重車体の小生はかなりばてました。

広電のMapを掲載しますので、撮影場所の参考になるかと。

宮島線

鈴楽女子前から歩いて1分のところに広電鉄橋と並行して山陽線鉄橋がある。この写真は並行する道路橋からのものでグリーンムーバーを撮ったもの。宮島線は移籍組の車両は輸送力の関係から見ることはできないけれど、その代わり、休日にはマリンビューも見れるし、JR山陽の色の変更過程にある国電、貨物が平行して撮れる。広電ホームからでも撮り放題。    こんな具合です。

   

続いては、有名な阿品の瀬戸内海を入れた駅の陸橋からの写真、と言いたいのですが溢れているので割愛して、広電の中では季節感のある風景を紹介。高須辺りと思います。気が向いたら降りて撮るのを信条にした旅なので記録をしていませんが、夏の風景と秋の始まりの風景がいっぺんに取れました。ただし花にフォーカスしていますので、それは好みに合わんイヤやという人がいるかもしれません。ただ、ひまわりはしょぼいですねえ。

さて、市内線と宮島線の接続口である西広島に戻ります。広電では数少ないトイレがある(八丁堀の交差点にもあります)ので、ほっとする駅でもあり、整然としたとは言えない線の配置は写欲をそそられます。ここでは移設組の単車車両も来るので、乗り降りする人と共に絵になります。飽きません。古き良き時代を彷彿させる駅頭風景をどうぞ。
ここから、土橋を通って横川に戻ります。そのついでに日本離れした街路樹の茂った欧州風の場所があります。小生が勝手に思っているのでそうではないかも知れませんが。

その広島工大前の西観音町で、雰囲気がよろしいのでここで、数カットを撮ることにしましょう。
連接車を撮っても絵になりますが、ここは余命短い車両にするべきでしょう。

西広島で会った旧大阪市電762が電停を離れていきます。旧京都市電1905が西観音町の左L字カーブを曲がります。   

ところで横川駅はJRと連絡していますが、大屋根のある2線の駅頭は風情があります。昼と夜とそして西村氏の待ち合わせで朝とよ~け撮影しましたが風情のある夜景をUPします。この写真の1分後、京都市電が入ってきて2ショット!!となるはずでしたが、入線する直前に発車してしまい、粘るもついに2ショットは取れませんでした(大阪+京都の2ショットは撮れましたが・・・)。どなたかチャレンジしてみては如何でしょう。この写真は35mm換算400mmでの望遠で交差点の対面からです。車に被るかどうかは運次第。
横川駅を少し下ったところに天満橋(だったかな。大阪と違いまっせ)があり、並行している橋から走行写真が取れます。はしは上に凸なので車さえなかったら橋の上を向かってくる電車が撮れます。写真はそのサイドの昼と夜です。雰囲気が違っていて面白いですね。
なお、その先、別院前には電車は橋の坂を下っていきますが、線路のカーブがきれいにはいる場所で旧車が来るのはここです。橋は車が通ると揺れるので被られることと横を大型のバスなどが通らないことが条件です(小生は重い三脚を持って行きませんので振動は関係ないですが・・・)。

ここは単車のオンパレードなので面白い写真が撮れるかも・・。夜は雪景色と同じように見苦しいものが映らないので好きですが、皆様はどうでしょうか。

カーブを強調するためにうんと長いタマを慎重にブレないよう使いました。
JRとの主要な接続ターミナルは勿論、広島駅です。駅から的場町までが経路廃止になるので撮っておいたほうが良いのでしょうとは西村氏の言。ただし、旧車は来ないし連接車の西鉄3000は昼は来ないようです。

ターミナル風景2枚とタクシー乗り場からタクシーの頭越しに超望遠で狙った風景、途中電停の風景をUPしました。

     

      

と、ここまで写真を拾い上げてきましたが、ファイルも大きくなり、明日の仕事に差し支えるので、続きは追って。

車庫の様子と沿線の風景、乗客、お目当てだった100系や車内をUPしてオシマイとします。

なお、車両の解説はタイトルの趣旨からありません。クローバー会のメンバーには不要でしょうが、
http://www.hiroden.co.jp/train/sharyo/index.html
を見て頂くとわかります。
では次回に続きます。

2012鉄道記念日・DRFCはあついぜ!

今年の10月14日は1872年に日本の鉄道が新橋ー横浜間で開通して140年の節目の日です。

図らずもこの日、同志社大学鉄道同好会は3ケ所で活動をすることになりました。一つは青森で、同志社大学校友会からの声懸かりで、校祖新島襄先生と縁ある青森で「青森を走った汽車・電車」をタイトルとして写真展を、10月12~17日間で、開催することになりました。会場は青森駅から徒歩5分、ギャラリーNOVITAです。詳しくは次の電話でお問い合わせください。017-773-3746です。クローバー会会員も会場に日替わりで詰める予定です。

二つ目は大阪のど真ん中、船場センタービル中心に開催される「船場まつり」です。立命館大学、関西大学の鉄道研究部と共に、大学現役生が、御堂筋寄りの10号館1階で鉄道模型を走らせます。こちらの会期は10月12日~14日で、午前10時~午後4時間の催しです。

そしてしんがりは10月14日、JR琵琶湖線南草津駅前・フェリエ南草津5階、市民交流プラザ大会議室で、鉄道ファンならご存知のSLおじいちゃん「佐竹保男さん」の講演会があります。日本の蒸気機関車全盛時代の写真を通してのお話です。午後1時30分から午後3時まで、草津市立 南図書館の催しです。

 

「イルカ」がいる

9月12日木曜日のこと、「ゆりかもめ」がレインボーブリッジ手前のループを通過中に、INUBUSE氏から「尾久にイルカがいる」とのメールをいただいた。引き返して見に行きたいのはヤマヤマだが、仕事の関係上諦めざるを得ない。翌日の夜「今日もいた」との電話をいただいたので、もしかすると明日もいるかも知れないと思い、14日土曜日の朝、尾久に出向いたところ、下りホームから2線隔てた留置線に「どうぞ撮って」と言わんばかりの位置に停まっていた。時折雲の切れ目から太陽が顔を出す変な光線状態であったが上野寄りの先頭車クハ481-1504から最後尾のクロハ481-1501まで順番に撮影した。

午前中時間が空いており、東十条の環七下で近く姿を消す211系でも撮影しようと思って行ったが、天気が怪しいのでパスして赤羽で185系「草津1号」撮影した。帰りに乗車した上野行が尾久に停車すると、パンタが上がっており慌てて降りて撮影後、都電荒川車庫前まで歩き、町屋経由で帰宅した。

(1)「イルカ」とは
勝田車両センターに配置されている485系の波動用車両のK60(6両編成)とK40(4両編成)2編成のことで、先頭車に「イルカ」のイラストが描かれているため「イルカ編成」とか単に「イルカ」と呼ばれている。

日常的な定期運用はなく、K60編成が行楽シーズンの土休日にいわき~鎌倉間で運転される「ぶらり鎌倉号」に使用される他は主に団臨に使用されている。この日はK60+K40の10両フル編成で、恐らく常磐線沿線の学校の修学旅行臨で上野に来て、帰りまで尾久で待機していたものと思われる。

車号は次の通りである。
K60編成、←上野クハ481-1504+モハ484-1013+モハ485-1013+モハ484-1011+モハ485-1011+クハ481-1505
K40編成、←上野クハ481-345+モハ484-1053+モハ485-1053+クロハ481-1501

(2)K60編成
クハ481-1504/上:尾久 下:勝田 (21-9-8)
函館本線の特急「いしかり」用として昭和49年4月日立製作所で新製された車両。北海道での使用が遅れたため、約1年間暫定的に青森区に配置され、特急「白鳥」に使用され大阪に顔を出していた。昭和55年新型特急車781系と置換えで再度青森区に転属、その後新潟区に転属後、平成11年車体更新時に窓を上方向に拡大した。

モハ484-1013+モハ485-1013
昭和51年4月日本車輌製で、奥羽本線秋田~羽前千歳間の電化対応用として寒冷地仕様で新製され、秋田区に配置された。その後新潟区に転属して平成11年車体更新時に窓を上方向に拡大した。

 モハ484-1011+モハ485-1011
昭和51年4月東急車輌製、前述のモハ484-1013+モハ485-1013とはメーカーが異なるだけで、あとは同じである。

 クハ481-1505/上:尾久 下:勝田 (21-9-8)
経歴等はクハ481-1504と同じ。

(3)K40編成
磐越西線郡山~会津若松間の特急「ビバあいづ」に運用していた車両で、平成14年12月7日運用終了後6両編成の内、中間のモハ484-1008+モハ485-1008を抜き、波動用として勝田区に転属した。
クハ481-345
昭和51年2月日立製作所製で当初の配置は青森区であった。

モハ484-1053+モハ485-1053
昭和53年8月日川崎重工製で当初の配置は秋田区であった。窓は原形のままである。

クロハ481-1501
経歴は極めて複雑で、昭和53年上越線特急「とき」用のサロ181-1101として日本車輌で新製、この時、既に上越新幹線の開業が迫っていたため481系への改造が考慮されていた。58年1月予定通り盛岡工場でサロ481-1501に改造。62年には「ひたち」号のクハ不足のため、運転台の取付けと普通車への改造が行われクハ481-1104となった。平成5年「ビバあいづ」用として車体前方部分をグリーン室(定員16名)に改造して現車号になった。



(4)その他
常磐線の特急は新型車両E657系への置換えが進行中であるが、現時点ではE651系、E653系も使用され、特に「フレッシュひたち」はE653系が多い。E657系に統一される日は未だ発表されていないが、刻一刻と近づいていることは事実である。E651、E653は共に7両編成と4両編成があり、乗客数に応じて7両、11両、14両(E653系のみ)編成で運転されているが、E657系は10両固定編成のため弾力性に欠ける。
「イルカ」も置換えの対象になっており、まもなく見納めになるだろう。運用のない時は勝田駅ホーム横の電留線に停車していることが多い。
目撃情報によると10月1日も尾久に停まっていたとのことである。

サハ78(Ⅱ)

5月14日【20382】関 三平さんの「ロクサン型」を受けて、5月21日【20523】「モハ63→クモハ73」、7月4日【21668】「サハ78」と進めてきたが、前回はサハ78300番代で終わったため、引き続き400、450番代と500番代に話を進めたい。

(1) サハ78400、450番代
昭和43年4月27日、御殿場線沼津~国府津間の電化時、線内の普通列車に首都圏で余剰になった旧形国電を転用することになり、クモハ60、クモハ73、モハ72、クハ79、サハ78が配置された。非電化時代の気動車、客車にトイレが設置されていたため、サハ78の一部にトイレを設置して4両基本編成中に必ず1両連結された。
戦前形4扉改造車は400番代(400、401)、63形グループ車は450番代450~457)が付番された。

呉線電化時にもサハ78とクハ79の一部にトイレが設置されたが、改番されたのはクハ79の1両のみであった。後日呉線から改番されていないトイレ付のサハ78111,113、119、120の4両が御殿場線に転入したため、改番された車両とされていない車両が混在する結果になった。

サハ78401/(52-2-11) 沼津
昭和6年4月田中車輌でサロ45003として新製。19年9月大井工場で4扉化(戦時改造)してサハ78024に改番。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年10月11日付で廃車。

 サハ78450/(49-4-2) 沼津
昭和21年6月近畿車輌でサハ78101として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年9月14日付で廃車。

サハ78451/(49-4-2) 沼津
昭和21年6月近畿車輌でサハ78103として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年9月15日付で廃車。

 サハ78453/(49-2-17) 沼津
昭和21年8月近畿車輌でサハ78110として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年11月9日付で廃車。

 サハ78454/(49-4-2) 沼津
昭和21年12月近畿車輌でサハ78128として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。55年10月13日付で廃車。

 サハ78455/(49-2-17) 沼津
昭和21年12月近畿車輌でサハ78129として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。55年4月22日付で廃車。

 サハ78456/(48-5-13) 沼津
昭和19年10月川崎車輌でサモハ63005として新製。26年12月大井工場でサハ78304に改造。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。52年2月18日付で廃車。元サモハ63→サハ78300番台のため、78450~78455とは戸袋の位置が異なる。

 サハ78457/(49-2-17) 沼津
昭和21年9月川崎車輌でサモハ63376として新製。27年2月大井工場でサハ78378に改造。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。51年10月18日付で廃車。

 画像の無いサハ78400とサハ78452の経歴は下記の通りである。
サハ78400
昭和6年6月川崎車輌でサロハ46010として新製。12年1月トイレを設置してサロハ66010に改番。20年3月大井工場で4扉化(戦時改造)してサハ78018に改番。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年10月11日付で廃車。

サハ78452
昭和21年7月近畿車輌でサハ78108として新製。43年12月浜松工場でトイレを設置して現車号に改番。54年11月19日付で廃車。

(2) サハ78500番代(501~515)
昭和44年10月から45年3月にかけて元モハ63形改造のモハ72を大井工場で電装解除した車両で78501~78515の15両在籍した。鳳区に配置された78506以外は関東地区の配置で、50年代の前半に廃車されたため、撮影できたのは、502、506、509の3両のみである。
尚、トップナンバーのサハ78500は三河島事故で大破したモハ72549(28年11月東急車両製)を電装解除して復旧した車両で、モハ63形とは直接関係ない。

サハ78502/ (49-5-1) 拝島
昭和21年10月日本車輌でモハ63161として新製。27年3月日本車輌でモハ72051に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年12月21日付で廃車。

 サハ78506/(49-6-16) 天理
昭和21年6月日本車輌でモハ63023として新製。27年5月東急車両でモハ72163に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年2月1日付で廃車。
関西に配置された唯一の車両で、阪和線で活躍した。

 サハ78509/ (48-2-25) 拝島
昭和22年9月近畿車輌でモハ63518として新製。27年8月大井工場でモハ72201に改造。45年3月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年12月17日付で廃車。

 画像の無い車両の経歴は下記の通りである。
サハ78501
昭和21年9月日本車輌でモハ63111として新製。26年12月大井工場でモハ72033に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。46年12月8日付で廃車。

サハ78503
昭和21年9月近畿車輌でモハ63364として新製。26年12月大井工場でモハ72096に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年3月22日付で廃車。

サハ78504
昭和22年8月川崎車輌でモハ63194として新製。27年2月日立製作所でモハ72118に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月17日付で廃車。

サハ78505
昭和22年11月川崎車輌でモハ63637として新製。27年2月日立製作所でモハ72153に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年10月29日付で廃車。

サハ78507
昭和21年10月日本車輌でモハ63145として新製。27年5月汽車会社でモハ72167に改造。45年2月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月10日付で廃車。

サハ78508
昭和21年11月日本車輌でモハ63257として新製。27年5月東急車両でモハ72171に改造。45年3月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年12月21日付で廃車。

サハ78510
昭和22年10月近畿車輌でモハ63522として新製。27年10月大井工場でモハ72212に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。50年10月24日付で廃車。

サハ78511
昭和23年2月日本車輌でモハ63772として新製。27年6月日本車両でモハ72252に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年2月17日付で廃車。

サハ78512
昭和23年8月汽車会社でモハ63685として新製。28年1月日本車両でモハ72265に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。53年5月8日付で廃車。

サハ78513
昭和23年1月汽車会社でモハ63749として新製。28年1月汽車会社でモハ72287に改造。44年12月大井工場で電装解除して現車号に改番。48年1月23日付で廃車。

サハ78514
昭和23年1月汽車会社でモハ63747として新製。27年12月東急車両でモハ72306に改造。45年1月大井工場で電装解除して現車号に改番。51年2月5日付で廃車。

サハ78515
昭和22年12月汽車会社でモハ63731として新製。28年1月東急車両でモハ72309に改造。44年10月大井工場で電装解除して現車号に改番。53年9月16日付で廃車。

【参考】サハ78516、78517について
モハ72522と72523(いずれも昭和28年10月日立製作所製)を昭和45年6月と7月に浜松工場で電装解除した車両で63形とは直接関係ない。片町線で使用され、78516は52年3月16日付、78517は51年9月1日付で廃車になった、

取り外された電装品は、身延線の準急増発用として計画されたサハ87108、87111の電動車化に利用され、パンタ部分を低屋根化してモハ80850、80851となった。座席幅が狭く内装が木製のため、全金製のモハ80800番代と比較すると見劣りし、予備車となっていることが多かった。

サハ78516/ (47-2-20) 放出


 サハ78517/ (48-7-1) 住道

63形について、クモハ73、サハ78と話を進めてきたので、時期を見て残るクハ79、モハ72についてもまとめてみたい。

相模鉄道キハ1001~1004

我国電気式内燃動車は、国鉄に米国ガス・エレキトリック車のイミテーション・キハニ36450形式、ディーゼル・エレキトリックのキハ43000系、敗戦後のキハ44000、44100系、私鉄ではこの相模鉄道キハ1001~1004しかない。電気式は機械式に比し相当に高価が常識だが、相模の重役に電気の専門家がおり、電磁弁による総括制御を狙ったのであった。価格は随分調べたが資料が得られない。


相模鉄道キハ1001汽車会社竣功写真 台車は端梁つき菱枠 コロ軸受 日車新案特許の簡易連結器を装着

製造は汽車会社東京支店1935年10月、電機部分は東洋電機。機関は対向ピストン4気筒(8ピストン)のユンカー5-4TV82馬力/1,500、発電機は定格連続70kW300V(最大600V)205A、電動機は300V54kW×2、制御方式は自動ワードレオナード式で出力を一定に保つ。65km/h以下では発電ブレーキを常用し、冬期は抵抗器消費で発生する熱を車内に送って暖房にする=制動状態以外での暖房は利かない。停車直前には空気制動になるが、通常のシュー式ではなくバンドブレーキである。力行速度は平坦線65km/h、12.5‰勾配で45km/h、燃料消費は1km当り0.5立とある。


キハ1001茅ヶ崎 1939年黒岩保美撮影 2眼レフの見上げ撮影のため 上すぼまりの車体が余計すぼまって見える

車体はご覧のように日本離れし強いて言えば欧州風だろうが、関センセがおっしゃるハシゴ形とは、脚立形と云う意味だろう。梯形車体と称されることも多いが、妻台枠部分は垂直で、腰と窓部分にも角度があり、屋根両端を辺と看做せば、10角形という、実に不思議な代物である。内燃動車に限ったとしても、汽車会社のデザイン能力=センスは日車本店に劣ること数等である。

塗色は腰が海老茶色、上半分が黄色で、鉄道趣味誌の紹介記事は「東海道線の乗客にして茅ヶ崎を通る時、必ず誰かは気が付かずにはゐないであろう。事程左様に美しい車両なのである」「兎に角この車が、日本一の高原鉄道小海線にでも運転されるとして、八ヶ岳の麓を走ったら一幅の絵となるであらうと思う」とベタほめ。「只惜しむらくは平面に於ても流線型にしたかった」ともある。

キハ1001~1004形式図 鉄道趣味30号より 右端座席に注意

平面図で分るとおり、左側妻部座席はあたかも90度捻ったクロスシートで、窓際に座った人は、窓が開いていれば普通に座ったままで窓の外に首が出せると揶揄され、窓が閉まっていれば、絶えず首を内側に曲げ続けを強要される。敗戦後日立電鉄での車内写真をご覧あれ。図左側妻部運転席以外は手荷物室である。妻面は3枚窓だが、等幅ではなく運転席窓が900mm、他の2枚が650mmと狭いのも変わっている。

乗務員/手荷物扉は片側に集中し、それも引戸だから、扉の妻側上部は斜めになっている。反対側運転席サイド妻寄り窓はタブレット授受のため、下段の前寄りが細長い台形引戸になっている。その反対側客席側窓は嵌め殺しだが、暑いとの苦情があったとみえ、後年の写真では運転席と同様に改造されている。


キハ1004 社家 1939年11月20日 荻原二郎撮影 運転席の小さな台形窓に注意 風入れとタブレット授受用 妻運転席と中央窓は嵌め殺し

ところで導入時3両重連の不鮮明な写真が社史にあるが、結局総括制御は成功せず、高価な電気式にした効果はなかった。1938年5月サハ1101が同型(手荷物室なし)で新製されたが、総括制御が可能なら、当然キサハになっていたはずである。

相模鉄道は1943年4月1日厚木で接続する神中鉄道を吸収合併したが、本来の相模鉄道部分が1944年6月1日買収され、相模線となる。残った旧神中鉄道部分が相模鉄道を名乗ったまま現在に到っているのである。キハ1001~1004はこの旧神中鉄道に移り、1944年6月18日設計変更認可で電車化。機関と発電機を撤去し、パンタをつけさえすれば直ちに電車になったのだが、モーターは300V用のはずだから、永久直列にしたのか、600V用に交換あるいは巻き換えたのか。どなたかお教えくだされ。

現実に認可時点では1001、1002が竣功済、1003、1004は敗戦後になり、番号そのままで記号のみキハからモハに変更された。その後日立電鉄に移りモハ13~16になっていたのは周知の通り。ここでは1両ごとに細部が異なり、両側に乗務員扉が設けられたものもある。


日立電鉄モハ13 湯口 徹撮影 乗務員扉がなかった側にも律儀に同一仕様で設けられ 妻面中央窓も開けられる

サハ1101は買収で運輸通信省コハ2370になったことになっており、1951年3月廃車が記録されているが、これは書類上だけで、現実に現車は相模鉄道に残存=国鉄には引き渡されていなかった(取り込み横領?)。かような事例は敗戦前後のドサクサに少なからずあって、強盗慶太辣腕の一端かもしれない。1955年両妻を平妻に改造しサハ2801に、1959年10月日立入りしてサハ2801になって、モハもサハ同様平妻化されて、一族5両はかなり長命した。


日立電鉄サハ2801 湯口 徹撮影 両端をフラットに改造 軸受はプレーン

日立電鉄モハ15旧手荷物室部分 手荷物扉は埋め殺されている 湯口 徹撮影

 

はしご型流線形ディーゼル電動車??

今回は、説明文を読んでもよくわからない乗り物です。パンタがない電車シリーズなので電気動車なのでしょうが、相模鉄道に新旧があったとか、電装されて日立電鉄にいったとか、関西在住にはよくわかりません。わずかに日立電鉄といわれて、ああ見たことがある、と思う程度です。