岳南鉄道の機関車


                                 デキ1+デキ2       (
43-4-6)   岳南江尾

HPを開けると飯田線119系に変わって、3月16日で運行を終了した岳南鉄道の電気機関車と貨物列車の名場面が表示されるようになった。
最後まで残った機関車は、元松本電鉄のED402、403、元上田温泉電軌→三河鉄道→名鉄のED501、休車の元豊川鉄道→国鉄のED291の4両である。製造年の新しいED402、403は工事用に残るかも知れないが、古いED501とED291は稼働する機会は少ないと思われるが、由緒ある機関車であり是非残していただきたい。
岳南鉄道に足跡を残した機関車を入線順に紹介する。但し、昭和24年11月、開業時に駿豆鉄道から譲り受けた元国鉄アプト式電機のED4012、ED4013と26年5月駿豆鉄道から譲り受けた木製電機デキ3は廃車時期が早く写真が無いため割愛した。

デキ1・2(形式デキ1)
昭和27年3月、国鉄から譲り受けた、昭和2年ドイツA..G社製のB型機。当初は宇部電気鉄道のデキ1、2として誕生し、宇部鉄道との合併により同社のデキ1、2、18年5月鉄道省に買収されたが車号は変わらなかった。44年9月架線電圧1500Ⅴ昇圧時に廃車となった。/上:(43-4-6) 岳南江尾、下:(44-8-30) 岳南富士岡

ED301(形式ED3000
昭和28年帝国車両製の唯一の自社発注の新製機である。屋根の庇がデッキまで伸びた独特のスタイルであったが、出力が80KW×4と弱かったため、48年に廃車となった。当初はED3011を名乗っていたが、後日ED301に改番された。/(49-2-17) 岳南富士岡


ED291(形式ED29)
昭和34年、国鉄から譲り受けた。昭和2年日本車輌製(電気機器は東洋電機)で、飯田線豊橋~大海間の前身豊川鉄道デキ52として誕生。鉄道省買収後、27年の改番でED291となり、34年3月廃車となった。かなり以前から休車中であったが、昨年再塗装され、外観は綺麗になった。/上:(43-4-6) 比奈、下/(49-2-17 比奈)


ED321(形式ED32)
昭和35年国鉄から譲り受けた。昭和2年三菱電機製で、飯田線辰野~天竜峡間の前身伊那電気鉄道デキ10として誕生。鉄道省買収後、27年の改番でED321となり、35年廃車となった。昭和51年水害で岳南江尾に取り残されて以来、留置されたままであったが、63年10月廃車になり解体された。/(44-8-30) 比奈


ED311(形式ED31)
昭和42年3月、伊豆箱根鉄道から譲り受けた。書類上は昭和28年西武鉄道所沢工場製であるが、前歴を遡ると旧国鉄アプト式電機ED4011に辿り着く。22年伊豆箱根鉄道の前身の駿豆鉄道が譲り受け、28年西武鉄道所沢工場で大改造して、機器、台車を取り替え、普通のB-B型になり、アプト式時代の面影は僅かに車体に残るのみとなった。42年3月に入線したが、5年後の47年廃車になった。 /(43-4-6) 吉原

ED281(形式ED28)
昭和44年8月、小田急から譲り受けた。昭和5年川崎造船所製で元小田急101として作られ、東急合併後デキ1021に改番された。側面の丸窓が特徴で、戦前では吉野鉄道→近鉄デ51、52以外に例は無い。63年まで在籍したが、60年頃からは休車中であった。/上: (45-9-14) 西武鉄道所沢駅/西武所沢工場入場時、下:(60-8-11) 岳南富士岡




ED271(形式ED27)
昭和44年9月、国鉄から譲り受けた。昭和3年日立製作所製で元南武鉄道1000形(1001~1004)の1002号機として新製、昭和19年8月1日戦時買収により鉄道省になったが、車号はそのままであった。27年の改番でED34形(ED341~4)のED342となり、昭和31年の再改番でED27形(ED2711~14)のED2712となった。私鉄時代から引き続き南武線、青梅線で使用されていたが、昭和43年に11と12が廃車され、翌年12が岳南鉄道に譲渡された。国鉄時代に側面の乗務員室扉が埋め込まれ、正面の扉から出入りするようになっていたが再度復活した。48年に廃車となり、僅か4年の在籍であった。/上: (44-8-30) 国鉄から入線直後のED2712→ED271、下: (45-3-11) 吉原


ED501(形式ED50)
昭和45年3月名鉄から譲り受けた。昭和3年川崎造船所製で、貨物営業最終日まで現役で稼働していた。経歴は複雑で上田温泉電軌デロ301として新製。予想外に貨物が少なかったため15年三河鉄道に売却して同社のデキ501となり、昭和18年名鉄との合併により同社のデキ501となった。主に比奈駅の入れ替え、小運転に使用されていた。/上:パンタグラフ1個時代 (45-3-11) 、下:比奈 (49-2-17 比奈

ED103(形式ED10)
昭和45年9月大井川鉄道から譲り受けた。昭和24年日立製作所製で、大井川鉄道電化時にE103として新製した。同時期のE101、E102が作られたが、こちらは三菱電機製であった。貨物量の減少により、岳南鉄道が譲り受け、本線貨物列車を牽いて活躍した。貨物量の減少により61年2月廃車になり、元の大井川鉄道に譲渡した。/上:大井川鉄道 E103 (43-4-6) 新金谷、下:
 (49-2-17) 岳南富士岡


 

ED402、ED403
昭和47年1月に入線した元松本電鉄のED402、403で、東京電力の梓川3ダム(奈川渡、水殿、稲核の各ダム)建設工事の資材輸送用として、402が40年10月、403が41年5月日本車両で作られた。ダム建設の主体となるセメントは、八高線高麗川駅の日本セメント埼玉工場から出荷され、D51の重連で八王子まで行き、EF64の重連で南松本へ、南松本からは再度D51で南松本~松本~渚まで行き、ここで松本電鉄ED40にバトンタッチされ赤松(現在の新島々)行き、トラックに積み替えられ建設工事現場に運ばれた。ダム建設工事が終了すると、仕事がなくなり岳南入りして貨物列車の主力として活躍した。上: 松本電鉄時代 (45-3-18) 森口、下: (60-8-11) 比奈
 



【借入車】
44年8月30日に訪れた時、名鉄デキ401が入線していた。架線電圧1500V昇圧時に改造工事で一時的に機関車不足になるため、名鉄から借り入れたものと思われる。
名鉄デキ401は昭和5年日本車輌製(機器はウェスチングハウス)で現在も健在でバラスト輸送に使用されている。/ (44-8-30) 岳南富士岡


岳南鉄道は営業収入の中に占める貨物輸送により収入のウエイトが高かったため、地元富士市では早くも廃止問題が話題に上がってきたようである。営業距離が9.2㎞と短く、沿線に目ぼしい観光地があるわけでもないが、今後とも地元の足として頑張っていただき、最悪の事態にならないように祈る次第である。
                          

アメリカ鉄道のたび(その2)アムトラック

 アムトラックの予約は時刻表の検索とともにインターネットで簡単にできます。チケットは駅員のいるところ、またはQuik-Trakと呼ぶ発券機のある駅から乗車する場合は予約票をプリントアウトすれば発券できるのですが、駅員も機械もない駅からの乗車の場合はチケットが郵送または、宅配便のようなもので送られます。ところが、これはアメリカ国内とカナダにしか対応しておらず、海外からは購入できないので注意が必要です。私もグランドキャニオンからロスアンゼルスまでの切符を購入しようとしたところ、グランドキャニオンの連絡バス、グランドキャニオン鉄道の駅の両方共駅員も機械もないため購入できず、駅員のいるフラッグスタッフからの乗車にして何とか購入できました。プリントアウトした予約票のバーコード部分を、駅においてあるQuik-Trakの読み取り機部にかざすとチケットが印刷されて出てきます。

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鳩マークについて

鳩マークに拘ってみる。千垣の鉄橋中心に「鉄」をやった後、稲荷町の車庫へ寄ってみたら3組の車体が新たに届けられ改造工事の真っ最中であった。3013、3513、3014、3514、3017、3517の6両の車体であった。そのうち前4両については「電照式鳩マーク」つきであった後の3017、3517は鳩マーク無しで、どの時点で外されたのか、帰ってから「ぷるぷる」さんに聞こうと思っていたが忘れたのか、車両部を離れていた時か?のままである。
この3年後だったと思うが、「ぷるぷる」さんから大井川にも2両1セット行くことになった。白井昭さんと打合せで連絡取り合っていますと言っていた。その数ヵ月後、先日準特急氏に紹介してもらった名古屋市電3001型の連接部の台車を撮影していたら、背後から大声で「沖中さーん、お宅の3000型、近くうちに到着しますよォー」と言っている人がいた。誰かと思って振り向いたら白井昭さんであった。後日、梅雨前だったと思うが、東上する際に新金谷に寄って電照マーク入りを取っておいた。それから3年前まで毎年1、2回、東海道上り下りの度に「大井川」に寄るようになった。DRFC40年は大井川にいらっしゃいと、白井さんに誘われ、澤村君に引き継ぐ事が出来た。今はtsurukame氏が通っている。
構内けん引車は各社まちまちだが、阪神電車尼崎車庫には怪物がいた。来歴は忘れてしまった。
左端のイケメンは山科から参加の京阪特急メイト

左端のイケメンは山科から参加の京阪特急メイト

新金谷到着2ケ月後、鳩マークあり
新金谷到着2ケ月後、鳩マークあり
阪神尼崎車庫の怪物
阪神尼崎車庫の怪物

富山の京阪特急

1991年春、東京から転勤で帰京した旦那(DRFC2代目会長)と京阪特急が富山で走る日を待ちわびていた。その日は立山のドライブウェイ開通の日だろうと決めつけ、旦那は富地鉄に電話をかけて確認していた。ところが走行に支障ありで延期になったと連絡があった。2人はGWにスバルでいくつもりであったが、中止とした。この年の盆休み、泊り込みで富山に行こう、と言っていたが旦那は家庭の事情で駄目になった。老人は路面電車同好会の仲間に呼びかけたら、山科、豊中、都民の3人が指に停まってくれた。18キップで行こうとなり、富山着は15時頃、電鉄富山でこの日の京阪特急の筋を聞きだし、
先ず向ったのが「寺田」であった。立山帰り満載でやってきたのが最初の一景である。折り返し再度、立山行きとなるのでそれを待って乗車した。車内はテレビが点いており高校野球の実況中であったが、岩峅寺あたりから受信不能となった。
この日は旦那が手配してくれた有峰口駅から徒歩20分の亀谷(カメガヤ)温泉の旅館へ向った。翌朝5時に起き出し、千垣の鉄橋に向った。朝1番は北陸線夜行普通列車の接続となり3連で富地鉄単行車先頭でやってきた。2番列車、これは富地鉄MM編成先頭の4連でやってきた。この列車は北陸線夜行急行接続であると言う。7時半まで橋の上、その周辺でウロウロして旅館に戻り朝食とした。この時2泊3日、寺田以西で京阪特急中心でとっぷり富地鉄に浸かったのであった。
初対面は寺田駅で夕方であった

初対面は寺田駅で夕方であった

赤は電鉄富山初発で立山に向け登って来た
赤は電鉄富山初発で立山に向け登って来た
緑は富地鉄の先輩より早く新標準色で登場
緑は富地鉄の先輩より早く新標準色で登場

まだあるロクサン!京成電鉄モハ109

これだけ続くとロクサンの影響力の大きさがわかります。しかし、京成電鉄もあまり系統や伝統には興味が無いのでしょうか。

同じ形式でこれだけ形が違うのが珍しいのでは?でも昭和62年まであったとはたいしたものです。

熊本電気鉄道 モハ51など

湯口徹先輩の撮影に遅れること8年、筆者も訪問し撮影していました。関三平先生の撮影からもずっと後年のようです。その明瞭な相違は車番の表記方法です。湯口先輩、関先生の写真にある、大きな書体で前面2か所の表記が後年、普通の書体で1か所に、側面前方と後方の2カ所表記がやはり1カ所に変更されています。書体の変化は著しく、PCのフォントに例えれば、Century や Times New Roman が、MS明朝に変わったようなものです。ただ車体に大きな変化はなかったようです。詳細な説明はできませんので、写真をのみご覧ください。

湯口徹先輩の記事はこちらです。
https://drfc-ob.com/wp/?p=9650


モハ51の写真は、フィルムの痛みが相当激しく、時間を掛けて修復しました。ご了承ください。

日本セメント上磯工場


10号機の牽く万太郎沢発の列車

6月9日【21120】で西村雅幸氏より「佐渡金山」、続いて6月11日【21205】でINUBUSE氏より「串木野金山」の訪問記が掲載されているが、昭和50年5月1日に日本セメント上磯工場を訪れた時の様子を紹介したい。

沿革は、明治23年4月函館市の有力者により設立された北海道セメントにより工場建設。大正4年7月アサノセメントに合併。アサノセメントは昭和22年5月日本セメントに社名変更。平成10年10月秩父小野田セメントと合併して太平洋セメントとなり、現在は同社の上磯工場となっている。

工場~峩朗鉱山間 (6.6)、同~万太郎鉱業所間 (3.4)の直流600Vで電化された専用鉄道が敷設され、峩朗鉱山からは石灰石を、万太郎沢鉱業所からは粘土が運搬されていたが、昭和48年に峩朗鉱山~工場間に長距離ベルトコンベアが完成して鉄道と併用となった。平成元年(月日不明)全面的にベルトコンベアによる輸送に切替えられ、鉄道は廃止となった。

〔電気機関車〕
1号機~10号機(4号機は欠)まで9両在籍し、2両が保存されている。連結器は1~5号機がピンリンク式、6~10号機は、自連とピンリンク式の両方を装備していた。

1~3号機/大正11年東洋電機(車体は汽車会社)で作られた。自重16tの2軸の小型電機で、ブレーキは手ブレーキと電磁吸着ブレーキであった。
2号機が生まれ故郷の東洋電機横浜工場で保存されている。

 5号機/1~3号機の増備車として大正12年に作られた。メーカー、仕様等は1~3号機と同じである。
こちらは上磯工場近くの北斗市運動公園に保存されている。

7号機/昭和23年日立製作所製の自重25tD型機で、京福福井支社→えちぜん鉄道のデキ521、522と同形機である。

9号機/昭和59年東洋電機(車体は東洋工機)製の自重35tD型機である。

10号機/昭和61年東洋電機(車体は東洋工機)製の自重35tD型機で、9号機とほぼ同じスタイルである。
 

6号機(昭和10年東洋電機、車体は日本車輌製の自重25tD型機)は庫内で修理中、8号機は(昭和27年東洋電機、車体は日本車輌製の自重25tD型機)は万太郎沢鉱業所に行っていたため撮影していない。

〔客 車〕
201~204の4両在籍し、峩朗鉱山、万太郎沢鉱業所の従業員輸送に使用されていた。連結器はピンリンク式であった。メーカー、製造年等は不明のため写真のみとする。

201号車/客車の中では一番大型で、リベットの目立つ車体は鋼製のようである。2軸車ながらウィングバネがあり乗り心地は悪くなさそうである。扉は片側のみ中央に設置されていた。

202号車/中1扉の小型車で、この車のみ両側に扉があり、吊革が設置されていた。

203号車/物置小屋に車輪をつけたような、いかにも鉱山の人車というスタイルである。車体は木製鉄板貼りのようである。

204号車/203号車と同様の車両であるが車体は木製。

〔貨 車〕
撮影した車両のみ紹介する。

ヲキ1/国鉄のセキ3000と同型で国鉄から購入したのかも知れない。元秩父鉄道にも「ヲキ」が存在するが「ヲ」が何を意味するのか未だに判らない。鉱石の「コオセキ」とか鉱石の英語「ore」からきているとか云われているが、どちらも違うような気がする。石灰石運搬用貨車の形式を「ヲ」にしただけと思っている。

3号車、5号車
片方に自連、もう片方にピンリンク式連結器を持ち、自連付の車両とピンリンク式車両の併結時の控車である。
かつて山陽本線の153系急行電車が瀬野~八本松間の勾配区間を自力で越えることができないため、EF61の補機連結時に使用されていたオヤ35と同様の役割を果たしている。
余談であるがJR東日本の「リゾートエクスプレスゆう」が非電化区間乗入れ時に機関車と間に控車として連結されるマニ502186(ゆうマニ)は両側共に双頭連結器を装備している。

薬剤散布車

架線点検修理車

車石と中国少数民族イ族のこと

 先日、「佐竹さんを囲む会」に参加して新たに興味深い話をお聞きしました。まず、乙訓の老人さまと例の勢和鉄道についてワイワイガヤガヤとやって、形見分けとして「新日本鉄道史 下 」をいただきました。その後、総本家青信号特派員さまからOB会員ではありませんが今回参加された南草津図書館におられるN氏を紹介していただきました。勢和鉄道やら信貴電やらその他関西周辺の鉄道建設計画などについて面白い話を伺いました。その中で鉄道ではありませんが「車石」の話が出て来ました。これについては私はまったく知りませんでした.

 勢野北口駅近くにある飛鳥時代に聖徳太子が創建した平隆寺が生駒線のすぐ横にあります。このお寺の近くを走る生駒線の電車を以前から撮ってみたいと思っていました。下の写真がそれです。右の電車のうしろの木があるところが平隆寺です。左のお寺は勢谷寺です。地名は「野」ですが寺は「谷」となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真を撮ってから家に帰る途中で不思議なものを見つけました。それが下の写真にあるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初は何じゃこれはと思いながら通り過ぎましたが、気になったので戻ってきて写真を撮った次第です。荷車を屋敷の中に入れるため、登りやすくしたものではないかと考えました。間隔がちょうど荷車の車輪間みたいで、溝がある石のレールの様でした。このときはまだ車石のことは知りませんでした。ひょっとしたらこれは車石ではないでしょうか。N氏のお話やインターネットで調べたら旧東海道で京の町へ荷物を運ぶために敷設?されていたようで、大津周辺でその遺物 が多くあるようです。私が見つけたのは奈良県で大津周辺から遠く離れています。そうすると、この車石方法は一部の地域だけ知られていたのではなく、他のところでもこの方法が伝わって使われていたのでしょうか。もしかしたら他のところでも見つかるかも知れません。

 さて、「佐竹さんを囲む会」がお開きになったので佐竹さんにあいさつして帰ろうとしましたが、写真展初日にお会いしたとき伺った少数民族イ族の話で再び盛り上がってしまいました。この話に興味があるのは日本文化の基盤のひとつとして考えられている照葉樹林文化がイ族が暮らしている地域から西日本にまで分布しているとされているからです。これについては多く本がでているし、国立民族学博物館にいけば知ることができると思います。大阪モノレールに乗って行きましょう。そして、すでに半分は読みましたが最近ご無沙汰している司馬遼太郎の「街道をゆく 中国・蜀と雲南のみち」を買いました。しばらく時空の旅をしようと思います。(NHKの街道をゆくというシリーズで”時空の旅人 ”といっていました。なかなかいい言葉だと思います。)昔の鉄道を探るのも時空の旅になるのでしょう。

信貴電の不思議によせて

京阪交野線の前身は信貴生駒電鉄であったため京阪本線とは異なる部分があった。最大の相違点は、京阪本線は軌道法が適用されていたことに対し、交野線は地方鉄道法が適用されていた。駅の構造が明らかに京阪とは異なっていた。京阪本線の駅は駅舎には切符売場と改札口があるだけで、乗客はホームのベンチで電車の到着を待つが、交野線のすべてに当てはまるかどうかは不明であるが、比較的大きい村野、交野は駅舎内にもベンチがあり、電車到着まで駅舎内で待つような構造であった。

未開業区間の私市~生駒間は、昭和50年代は奈良交通のバスが4往復運行されていたが、阪奈県境の田原地区までは京阪バスも運行され、大阪府内は京阪バスの免許路線で奈良交通が乗入れる形であった。昭和50年代前半頃まではボンネットバスで私市~八ノ坪・八ノ坪~大和田間各3往復、リヤエンジン車に変わってからは交野市~私市~山口川~大和田間直通運転で4往復となった。勤務場所が京阪大和田駅近くの頃、気が向いた時に大和田駅を18時30分頃発車する交野市行の最終バスに乗り、交野線経由で帰宅した。

現在奈良交通は田原台1丁目~私市駅は廃止、京阪バスは交野市~大和田間の直通運転は取り止め、交野市~田原台1丁目間土休日のみ2往復と路線免許維持路線のような運行になっている。奈良交通の生駒~田原台1丁目間は頻繁に運行されているが、未開業区間を走破できるのは土休日のみである。

話がバスにそれてしまったが、もし戦前に予定通り生駒~私市間が開業し、かつ順調に経営されていれば、枚方~生駒間は京阪の準幹線となっていた筈で、更に枚方~高槻間が開業されていれば、東武野田線のような感じになっていただろう。

初めて生駒線を訪れたのは、近鉄合併直後の昭和39年12月21日(合併は同年10月1日)で、目的は木製車モ200形の撮影と乗車であったが、生駒駅に停まっていたのはモ660形であった。モ200形は同年10月1日の合併時に引退したようであった。

昭和44年9月21日、奈良線、京都線、橿原線、生駒線等の600Ⅴ区間が1500Ⅴに昇圧されると、旧大和鉄道→信貴生駒電鉄(大和鉄道は昭和36年10月1日信貴生駒電鉄と合併)の田原本線と共通で、モ400形+ク300形の2連に変わり、モ400形+ク300形が廃車になると元奈良線の特急車モ820+ク720が主力となり、ラッシュ時にはモ800+サ700+ク710+モ800の4連が加わった。
その頃の生駒線を写真で振り返ってみた。

信貴生駒電鉄デハ3→玉川工場入換車(50-1-15)
昭和元年、信貴山下~生駒間の開業時に田中車輌で新製された半鋼製車で4両(デハ1~4)在籍した。半鋼製車としては初期の製品である。
近鉄と合併時に継承されず廃車になったが、デハ3のみ機器扱いで玉川工場の入換車として再記した。正面の貫通扉は改造時に設置されたもので、オリジナルは非貫通の正面3枚窓であった。

近鉄モ665→玉川工場入換車(50-1-15)
昭和16年参急デニ2000形を名古屋線転出時に元の足回りを流用して作られた車両で、モ661~665の5両在籍した。ラストのモ665は昭和39年に荷電代用車となり、廃車後玉川工場の入換車になった。生駒線、田原本線でよく使用され、1500Ⅴ昇圧時にモ661→ク516、モ662→モ410、モ663→モ411、モ664→ク518となり、モ410、411は引き続き生駒線、田原本線で、ク516、518は京都線、橿原線で使用された。

モ409+ク309/南生駒~一分 (53-12-9)
元奈良電のデハポ1300形で、昭和32年に日本車両で新製された全金属製車であるが、電装品、台車は電動貨車デワポ501とデトボ351のものを流用している。
近鉄合併後モ455形455、456となり、更に昭和39年にモ455の電装品と台車の交換とモ456を電装解除してク355とする工事が実施された。昭和44年9月の昇圧時にモ400形とク300形に編入され、モ409+ク309となった。車体が比較的新しかったため、他のモ400形は昭和52年までに廃車されたが、その後も使用され、昭和62年に廃車になった。晩年は生駒線にこの車両専用のダイヤが引かれていた。

モ404+ク304/西田原本 (49-6-16)
モ404は元モ672で、昭和23年近畿車両で奈良電鉄デハポ1102として作られた車両。ク304は元ク574で昭和23年近畿車両で奈良電鉄デハポ1101として新製。昭和32年に電装解除してクハポ704となった。

モ405+ク305/新王寺~大輪田 (50-1-15)
モ405は元モ641で、昭和24年近畿車両製。前述のモ604と似ているが、こちらは近鉄のオリジナル車両である。ク305は元ク591で昭和17年木南車両で奈良電鉄クハポ651として作られた車両である。

モ824+ク724/南生駒~一分 (53-12-9)

モ822+ク722/池部~箸尾  (53-12-9)


昭和36年近畿車両で奈良線の特急用として新製された車両である。新生駒トンネル開通により大型車が奈良までは入れるようになると京都線、橿原線に回り、京阪三条乗入れにも使用された。奈良線、橿原線の車両限界拡大後は生駒線、田原本線で使用されたが、昭和59年から南大阪線6800形ラビットカーの台車、主電動機を利用して狭軌化し、伊賀線に転属した。

函館の連接車と単車とバス

先日機会があり函館へ行ってきました。連接車(連節車)は2組在籍し当日(2012年6月14日)は2007年製9601号が車庫待機、2010年製9602号が営業運転中でした。アルナ車両リトルダンサーシリーズ初の2車体型で函館初の全面超低床車です。台車部分が少し傾斜し高くなっていますが、いい乗り心地でした。


らっくる号 9602号です 市役所 函館駅前間にて


函館駅前にある幼女の像「函館の妖精 夏」と9002号です。


駒場車庫で待機中の9601号と機器調整中の39号です。

30型39号は火曜水曜日を除き4月中旬から10月末まで毎日昼間運転しています。当日は朝1往復ののち一旦車庫で調整のうえ午後出庫しました。
「元は1910年製造 成田市の成宗電気軌道車両で1918年に函館へ移り、1936年まで客車として運行、1937年にササラ電車に改造、1992年函館市制70周年記念事業のひとつとして、当時の姿に復元、台車は、製造当初の米国ブリル社製をそのまま使用し、車体は当時の図面を基に製造され1993年より「箱館ハイカラ號」の愛称で、函館の街を走っています。 2010年に箱館ハイカラ號は,生誕100周年を迎えました。」とのことです。


定番の撮影地 (十字街 末広町間) 午後も運休かと思っていましたが 摩周丸をバックに走ってきました。
運転手、車掌の2名が乗務しています。もう少し天気が良ければと悔やまれます。駒場車庫発どっく前行きです。


折り返しの駒場車庫行きに乗りました、9600形とはまるで違う非バリアフリー車の社内では車掌さんがお年寄りに一生懸命説明して切符を販売していました。この4月からの新人車掌さんとのことでした。乗車するたびに一人ずつ行先を聞き切符を売っていましたが、この電車を見かけて行き先も決めず乗った人も数人いました。私もそうでしたが。
パンフレットを見ていると五稜郭公園前で降りるとボンネットバスに接続しているようですので降りることにしました。

五稜郭公園前を発車した39号のサイドビューです。
乗り心地は柔らかいバネが良く効いてみごとなピッチングで、線路状態の悪いところやポイント通過時には徐行していました。
線路状態のいいところは快適です。


車掌さんに教えていただいたバス停で待っていると ボンネットバスがやってきました。五稜郭行きですが、そのまま乗っていると函館駅まで行くことができます。


車内です。函館浪漫号はエンジンや駆動系も昔のものと同じでレストアされていまして、運転出来ない運転手もいるようです。結構力もあり50km/hほど出ていました。路線の運転手ではなく観光バスの運転手とガイドさんでの運用とのことでした。函館バスの社長の趣味で買ってきたようなものだそうです。車内で車掌さんからのお話でした。
藤本先輩に素性を調べていただきました。
以下は藤本先輩からのコメントです。
ボンネットバスに詳しい知人に聞いたところ、次のような回答がきました。
元々高松の五色台の上にあった廃車体。福山の時計と自動車博物館でレストアの上、金毘羅宮の裏手にあった「四国お祭り広場」の送迎に使用。「お祭り広場」廃業後、岡山の宗教団体で使用。その後岡山の中古車業者「リマニットモーター」に売却。「リマニットモーター」が再整備の上売り出していたものを函館バスが購入したということでした。
五色台の前が不明で、琴電か琴参ではないかと言っておりました。
営業ナンバーを取得しているバスの中では日本一古いです。」

函館駅前で一休み。
函館では今までいろいろな使われ方をしていたようですが、今年は「函館はいから号」に接続して五稜郭への足として、また五稜郭と函館駅のシャトルとして活躍しています。

五稜郭へと走っていきました。
再び「函館はいから号」を谷地頭で待ちました。

少し遅れて坂を下りもうすぐ終点です。


谷地頭停車中です。ここから 湯の川へ行き折り返して駒場車庫入庫です。


運転台です。
この電車に再び乗車して函館駅まで行きました。

函館駅前です。

湯の川へ向けて走り去りました。
函館は青函連絡船のあって頃、北海道の玄関口として栄えていましたが、飛行機の時代となって、函館山や五稜郭、トラピスト修道院、洋館、朝市 いろいろと観光資源はありますが高速道路にも恵まれず、いまひとつというところでしょうか。 路面電車の路線も縮小してきましたが現在の路線で安定しそれなりの乗客もあるようです。当日は修学旅行の小学生が5,6人のグループで何組も路面電車を利用して市内観光をしていました。一日乗車券は600円と格安ですし6分間隔の電車は便利です。函館バスも頑張っています。
写真はすべて2012年6月14日です。    犬伏 孝司

京福にもあった?ロクサン!

ロクサンシリーズはまだ続くようです。今回はロクサンのコピー車両?が京福福井支社にあったというお話です。

思えばロクサンは品質は別にして鉄道業界には渇望されたのですね。知りませんでした。のちの80系のコピーブームとは違い、戦後の混乱期のわびしさが身につまされます。

他の私鉄でもコピー車両はあったのでしょうか?

ふるさと銀河線での「またきてね」

♯21036 kawanaka_t氏「またきてね」の写真を見て、16年前の北海道ちほく高原鉄道―ふるさと銀河線での記憶が蘇った。60歳になり、あと5か月で定年という時期北海道出張があり、恐らく見納めと根室本線池田まで特急に乗った。北海道ちほく高原鉄道に乗るためである。

学生時代、何度か釧路や根室まで足を伸ばしたのは、いずれも私鉄―十勝、雄別炭鉱、根室拓殖鉄道、鶴居村営軌道、標茶町営軌道等のためで、観光地とは全く無縁だった。池田-北見間の池北線は、1961年3月まで網走本線であり、北見は1942年9月まで野付牛という駅名だった。小生が初めて通して乗ったのは1957年8月だが、沿線ともかく材木だらけ。駅のヤードにはうずたかく材木が積まれ、足寄、陸別、置戸には営林署があり、森林鉄道―流石に小型蒸機の姿はなかったが、ディーゼル機が這い回っていた。沿線ことごとく、活気にあふれていたのである。

それから40年以上経ち、足を踏み入れたふるさと銀河線は過疎、それもただ事でない超超過疎の一言に尽き、駅前の旅館兼料亭、営林署をはじめとする官庁出先機関、材木商、諸商店、民家は綺麗に消滅。駅も側線を外し、かつて材木が山をなしていたヤードは単なる空き地と化し雑草が生い茂っていた。ここにぎっしりレールが敷かれ、大勢の人が立ち働いていたなどとは、初めて来た人には到底想像すらできないだろう。


陸別駅の標識 ここには辛うじて店もあったが駅周辺はご覧のとおり

左側停車中ディーゼルカーの右2階建がお目当ての宿泊棟だが貸切で残念

新潟製ディーゼルカーの車内で、隣の人が当方の沿線での宿泊希望を聞き、そりゃ陸別にしなされ。あのホテルはいいとのお墨付きを。沿線住民自慢の施設だったのである。ところがシーズン外で観光客皆無、ホテルは建設会社に貸切で、作業員が一杯でお気の毒様。駅前に辛うじてもう一軒あった旅館も別の土建会社が借り切っており、当方の願いは聞き入れられず、宿無しとは相成った。

段々日は暮れてくる。あと2時間後の列車で北見まで出れば、当然ビジネスホテルはあるだろう。それともこの駅でステホ?と迷っていたが、先ずは缶ビールで気を落着け、電話帳を繰ると2駅北の川上近くに民宿らしきものがある。電話すると、どうも応対が芳しくない。当方は通常の旅館と思われると困ります。男女別部屋で、風呂も御気に召さないかもしれないという。どんな宿でもこの歳になってのステホよりマシと食下がり、OK取り付けに成功。真っ暗の中川上に下車したが、駅は乙女チックだが無人で、周囲には民家など一軒もない。

先ほどの電話では駅から真っ直ぐ、500mぐらい歩けとのことで、乏しい星明りの下を歩き出しかけたら、若い兄ちゃんから声がかかり、4駆車に乗せて宿まで運んでくれた。てっきり宿の人かと思ったが、単なる宿泊者で、初めての人が真っ暗な道では大変だろうと、ボランティアで迎えに来て呉れたのだった。

これは廃校になった小学校で、脱サラ夫婦がバイク野郎相手の民宿を開業したもので、客はバイクか4駆車で北海道を走り回る「北海道オタク」の若者ばかり。皆さん菓子や焼酎などを持ち寄って、素朴な夕食後はそれをつまんだり、回し飲みで話を弾ませていた。この沿線が材木で賑わっていた事、ましてナローの森林鉄道が縦横に走っていたなど、宿の主人も含め誰も知らない。小生だけが手ぶらだったから、焼酎をご馳走になったかわりにそんな昔話をすると、皆の衆感心して聞いてくれていた。

夜半、星が綺麗に見える場所があると、観星ツアーが企画され、各人の車に分乗して出発。生憎天気が良くなく星はそれほど見えなかったが、戦時中以来の「真っ暗」はたっぷり体験できた。


無人の川上停留場に終結した「見送り隊」

翌日ふるさと銀河線に乗車するのは小生一人。出発前宿の主人が一声掛けると、全員が500mほど離れた駅まで見送ってくれたのに驚いた。犬も一緒だったから、宿はこの間完全に空っぽである。こんな経験は後にも先にも、これだけ。このときの写真を大きく伸ばし、宿に送ったから、しばらくは居間に張ってあったことだろう。


白ゴム長は宿の奥さん 犬だけがソッポを向いていた

川上駅を後にディーゼルカーは北見へ かつてはこの駅も左右は材木だらけだったのだが

「また来てね」の写真

KAWANAKAです。

しばらく東京で仕事をした後、関西に戻って和歌山にいましたが、高槻のトレインビューの我家に無事戻ってきました。

何の記事かな?と思われますでしょうが、小生気になっていたことがありました。実は前の写真展で、「また来てね」というタイトルの写真を出しました。この写真は昨年の秋に仕事の帰りに小港鐵道を訪問し、日が暮れるまでの僅かの時間を海士有木の駅(ここまでしか時間的に行けなかった)でロケ/その間の時間つぶしをしたときに撮ったものです。

そのとき時間があったので、駅の業務委託を受けているおばさんと世間話、打ち溶けましたが、帰りの車窓から見ると手を振っているのが見えたので、瞬間的にシャッターを切りました。準特急先輩がこの写真は写真展決まりや、と言い、福田氏などの選定もあって「また来てね」の写真となったのだが、せっかく写したのであるのでお渡ししたいとずっと気になっていました。

たまたま出張で午後に時間ができたので、6ツに引き伸ばした写真を海士有木まで持って行きました。行ってみるとおばさんがいません。「このおばさんは?」と写真を見せて聞くと「交代でもうすぐ来ます」とのこと。待つこと10分。中村さんというおばさんが現れ、話すうちに次第にそのときのことを思い出してきました。写真を撮られるのは好きではないが、だいじに額に入れておきますとのこと。販売機からジュースやコーヒーを買ってきて精一杯の接待?をしてくれました。

たった、それだけのことです。次の上り列車で五井経由都内に戻りました。また手を振っていましたが、今度は写真を撮りませんでした。半日使いましたが、肩の荷が降りたような気がしました。今度は本当に「また来てね」と言っていました。

投稿するような高尚な内容ではありませんが、鉄道を通じて触れ合ったひとつの出来事としてUPしました。掲示板には写真展の写真がありませんが、「また来てね」を掲示します。瞬間に撮ったので拙写ですが、家に飾ってもらえているとしたら幸甚です。

こんなん、出てきました。 レンゲと蒸気機関車と・・・加古川線の段

 明延の一円電車の写真が見つかった時に、すでに忘れていた写真が多く出て来ました。その中にレンゲ畑の中を加古川線のC12が引く貨物列車の写真がありました。前回の時にぶんしゅうさんからニコンのCaptureNX2という画像処理ソフトを教えていただいて、さっそく体験版で実際に画像処理をしてみると、なかなか具合がよろしいので購入いたしました。それを使って加古川線で撮った写真をなんとか見ることが出来るようにしました。

上の写真が退色復元し、カビで変色した部分などを修正したものです。ごらんのように天気が悪く、ねむい写真になっています。このときの事情が私が保存している「青信号」とともにDRFCの重要な情報誌である「補機」35号に記事として載っていました。

ごらんの写真の様に「青信号」と同様に全手動孔版印刷によるものです。表紙の絵は熊本市交通局350型電車です。

 さて、その記事の題名は「1日Ⅱ←(1or 2)?本もとれる加古川線を訪ずれて」です。原文どおりに書きましたが、実は一部おくり仮名が間違っています。それでは本文ですが「5月3日の憲法記念日、私は加古川線に 蓮華の花とC12を求めて京都8:05発の快速に乗車した。茨城からI氏が、大阪からY氏が乗って来て、ここに第2次青野ヶ原現地闘争のメンバーが集まった。」とあります。人名はイニシャルで記載いたしますので、だれか想像してください。どうも5月連休の時に行ったようです。筆者は蓮華の花とC12にこだわっていたようです。「・・・、10時10分発の鍛冶屋行のディーゼルの乗車、車はキハ177である。とにかくロケハンというので青野ヶ原より一つ向うの社町迄乗ったのであるがクサイので青野ヶ原に、次の上りで引き返す。」今では廃線となった鍛冶屋線の終点鍛冶屋行に乗ったようです。この文章のなかで「クサイ」とあるのは臭いが「クサイ」のではなく、写真にするには風景として雑然としてよい写真にならない時などに使用する言語で、当時のDRFC人が好んで使用した言語です。ほかに「クサイ写真やな~」とかいろいろな場面に使用されていた様です。いまではこのような言葉は不適切な表現となるのでしょうか?

 青野ヶ原に戻ってから本文はI氏がフィルムが買うために八百屋や散髪屋などをうろちょろしているくだりがあり、その後「5分程歩くとコッテリ蓮華のある所があったので、そこに三脚を据える。まだ時間があるので持参した弁当で腹ごしらえをする。どうせのろいのろいとタカをくってゆっくり食っていると突然汽笛一声とともにスサマジイスピードでやって来た。C12167+貨車3両である。」 このときの写真が最初の写真で、さらに接近したときの写真が下の2枚の写真です。

 

そして、筆者は「あわててシャッターを切ったが、アッというまにポコポコ行ってしまった。普通、写真を撮った後は何か余いんが残るのに今度ばかりは何も残らなかった。C62がはやいのはいいもんだがC12があんなに早く走ってはワヤクチャである。」と書いています。とにかく天気が曇りと光の具合が悪く、鮮やかさに欠けた写真になってしまいました。露出やシャッター速度の条件もまだ未熟なのでうまくいかなかったのでしょう。最近のデジカメであれば機械がうまく調整してくれるのでこんなにひどくはならないと思いますが・・・ 。とにかく、画像処理のおかげで何とか見ることが出来ますが、カビによる変色についてはもう少しよくなるように研究が必要です。

 さて、この後は下りの貨物列車までに4時間ほどあるので神戸電鉄で小野の町まで行って時間をつぶしたと書かれてあります。再び、青野ヶ原に戻り、「そして青野ヶ原-社町間の大築堤の所でタップリ蓮華を入れて三脚をセット。まず2本の気動車を狙う。」この時に撮った写真がごらんのようなピントがどこに合わしたか、狙いの定かでない写真が出来上がりました。

前ピンでもない、中ピンでまったく恥ずかしい写真となりました。まあ、これはこれで斬新的な試みとして慰めるしかありません。そして「・・・、いよいよ本日のメンエベントである下り貨物を今や遅しと待ち受ける。しかしホンマに遅いがな!!貨物は15:58青野ヶ原通過であるが来いヒンがな。いやな予感がした。・・・いやそんな筈は無いと言い聞かせ、しばらく待つと、スワッ!! やっぱり運休である。・・・、家に帰るために16時20分の748Dに乗り粟生迄行く。車両は木破銃菜々七である。帰りは、神戸電鉄で新開地、阪急で河原町迄と帰って来たが家に着いたのは8時過ぎであった。もちろんヨレボロである。」結局、このときは上りの貨物列車と気動車を撮っただけであったが、今となってはレンゲ畑とC12の貨物列車という貴重な写真になったとしだいです。そして筆者は「しかし、加古川線はエエ、皆様に勧めます。」と締めくくっています。さて、これを読んで加古川線に行った奇特な人はいたのでしょうか。

そして、上の写真はレンゲの花と戯れる筆者の姿です。さて、だれでしょうか?はるか、41年前の出来事でした。

長春(新京)の旧塩江温泉鉄道気動車

いささかも年齢を感じさせず、世界を縦横無尽に駆け巡り、只管列車を追いかけ、美食を求め、ビールを喰らい続ける”ぶんしゅう”氏のエネルギーと胃袋には端倪すべからずというか、感嘆するほかはない。近年さっぱりやる気を失い、指折り余命を数えるだけの小生にとってはこの世の話とも思えないが、彼氏の爪の垢を頂戴し煎じて服用すれば、いささかなりともあやかれるのだろうか。

で、6月2日アップの長春(新京)その2には、2005年訪問時展示されていた旧新京の路面電車写真が4枚掲載されている。その左下は、まさしく四国讃岐は塩江温泉鉄道の、旧ガソリンカーであるから、覇気生気を失った老人とて、黙っているわけには参らないではないか。

川崎車両英文カタログ掲載の塩江温泉鉄道ガソリンカー 車内がやったら長く見えるのは超広角レンズ撮影のため

これは我国標準軌間鉄軌道として唯一の非電化で、琴平電鉄仏生山から分岐し、塩江温泉まで16.25km。高松から専用貨車を、事平電鉄に併結し、自社線は瓦斯倫機関車で牽引直通する目的で標準軌間を採用した。しかしその後トラックと競争にならないとして、旅客専業で1929年11月12日開業。車両は終始半鋼片ボギーガソリンカー5両のみであった。

川崎車両がガソリンカー第一作として受注したが、先発の日車に負けてなるものかと、欧州風の車体、前後を絞った妻面1枚窓、側面は2個セットの窓の間(吹き寄せ)にも、細い嵌め殺し窓を設けるなど、他例のない構造・デザインである。少し前松井車両が中遠鉄道に2輌納品した木製・鋼板張り片ボギー車に追随した、我国ニ例目であった。

機関はブダDW-6、自重6.5トン、定員40(内座席20)人で、この点はほぼ問題はないが、日車との対抗意識が強すぎたか、極端とも言える軽量化設計とし、それが裏目に出て、購入側も納入側も手ひどい目に会うことになる。

納品が遅れ、ロクに試運転ができないままの開業で、何と輪心が車軸から抜け出すなど、聞いた事のない低次元な故障や不具合が続出。川車も必死で対応はしたのだが、散々な体たらくで、要は川車がガソリンカーでの無経験を無視し、自己技術を過信して突っ走ったためと思われる。

営業報告書には「故障頻発製造者川崎車両会社ノ熱心ナル修復アリシニモ拘ラス著シク運転状態ヲ乱シ大ニ人気ヲ阻害シタリ其ノ後拾壱月下旬ニ至リ漸ク故障原因ヲ発見修繕ニ努メタル結果無事平常運転ニ復スルヲ得タルモ時既ニ閑散季ニ入レリ」とある。

通常車両は1から納入されるものだが、この鉄道では3~5が早く、その3両で開業したようだ。1、2は数か月遅れているので、この間手直しをしたのであろう。価格も1両1万円と高価な車両だった。琴平電鉄に合わせ50分毎、一時25分毎と頻発したこともあるが、乗客は少なく、1938年5月1日琴平電鉄に併合。石油消費規正に対し代燃化もなされず、1941年5月11日廃止された。

ぶんしゅう氏の写真はこれから後で、車体をそのまま、ブリル単台車を装着して電車に化け、新京にデヴューした次第であった。

なおこの車両は両端が絞ってあるため、写真からは車体幅が極端に狭く見え、従前誰も確認しないまま「標準軌の軽便」だの、「車体巾は軌間より僅かに広いだけ」などと無責任に記され、信じ込まれていたが、現実の車体実幅は2,250mmである。また掲載英文カタログ記載軌間は1067mmとあるが、単なる間違いか、川車として何らかの思惑があったのかは不詳。

秩父鉄道デハ801によせて


 羽生駅に停車中のデハ807
-クハ857+デハ808-クハ858 (H1-4-29)

このところ63形の話題が続き、関 三平さんの「昭和の電車」も国鉄に続き南海と山陽電鉄の63形が登場した。

ロギング太郎さんが発表された三井三池のホハ203の写真は非常に貴重で、正面のグリル、扉上の水切り等63形の原形をよく残しており、サモハ63形そのものである。但し、モハ63形の私鉄向け割当車ではなく自社発注車である。

西村雅幸さん発表の秩父鉄道デハ801の前身は、記述されている通り元小田急デハ1800形であるが、更に前身を辿ると、名鉄から購入した車両と事故廃車国電が混在しておりややこしい。

簡単に述べると、終戦直後の大東急時代、運輸省から国鉄向けのモハ63形の割当てを20両受けた。内訳は電動車と制御車各10両で電動車はデハ1800形(1801~1810)、制御車はクハ1850形(1851~1860)であった。デハ1803~1808、クハ1853~1858は経営受託中の相模鉄道で使用、昭和22年11月受託解除後デハ1806~1808、クハ1856~1858は正式に譲渡した。23年3月名鉄から電動車、制御車各3両を譲受け、デハ1811~1813、クハ1861~1863とした。国鉄から事故廃車となったモハ42004(4扉改造車)とモハ60050を27年と24年に譲受け、デハ1821、クハ1871(←クハ1661)とした。

26年6月から車体整備とデハ、クハ間の貫通路の拡幅と貫通幌の設置が実施され、デハ1809~1813、クハ1859~1863はデハ1806~1810、クハ1856~1860に改番された。
32年から33年にかけて元国電のデハ1821、クハ1871共々全金属製の新製車体に乗せ換えられ、デハ1821、クハ1871はデハ1811、クハ1871はクハ1861に改番された。

54年から56年にかけて廃車になったが、22両全車両秩父鉄道に譲渡された。秩父鉄道では、車号の1000番台を取ってデハ800形、クハ850形となったが、デハ1806とクハ1856は部品取り車となり、デハ1811、クハ1871がデハ806、クハ856となった。塗装は当初他車と同じエンジとクリームであったが、61年元国鉄101系のデハ1000形が黄色に茶色の帯で登場すると同じ塗装に変更された。その後もデハ1000形の増備が続き平成元年から2年にかけて廃車になった。秩父鉄道での在籍期間は約10年と比較的短かったが、以降の普通列車用の車両は、元国鉄101系のデハ1000系、元都営地下鉄三田線6000形の5000系、元東急8500系の7000系、同8090系の7500系と4扉車を増備している。(一時期3扉の元東急7000系の2000系が在籍したが比較的短期間で廃車された)

西村雅幸氏投稿のデハ801の車歴は下記の通りである。
東急デハ1801→小田急デハ1801→秩父鉄道デハ801
ちなみにデハ801の置かれていた場所には、現在京王電鉄井の頭線の中間車デハ3063が置かれており、デハ801は別の場所に移されたようである。高崎方面に行った時に現地で確かめたい。

デハ807/車歴は東急デハ1810→小田急デハ1810(初代)→デハ1807(2代目)→秩父鉄道デハ807 (H1-4-29 羽生)

 クハ858/車歴は名鉄クハ2704(初代)→小田急クハ1861(初代)→クハ1858(2代目)→秩父鉄道クハ858 (H1-4-29 羽生)
 

デハ1000形の近況
昭和61年から平成元年にかけて、オリジナルのデハ100形、今回のデハ800形等の置換えに3連×12本=36両導入され、普通列車の主力として運用されていたが、平成21年から廃車が始まり、現在は次の4編成が残るのみとなった。現在のところ日常的に運用に入っているが、車齢等を考慮すると早めの撮影をお勧めする。

デハ1001-デハ1101-クハ1201(旧国鉄クモハ100117-モハ101100-クハ10158)/(H20-9-5 三峰口)

 デハ1003-デハ1103-クハ1203(旧国鉄クモハ100133-モハ101118-クハ10162)/(H24-5-20 広瀬河原)

 デハ1007-デハ1107-クハ1207(旧国鉄クモハ100130-モハ101112-クハ10161)/(H20-9-5 三峰口)

 デハ1010-デハ1110-クハ1210(旧国鉄クモハ100160-モハ101208-クハ10173)/(H20-9-5 三峰口)

 5月20日付で運用離脱したデハ1002-デハ1102-クハ1202(旧国鉄クモハ100140-モハ101179-クハ10161)/旧々塗装であるが違和感はなかった。デハ800形も入線時はこの色であった。/(H24-5-20 広瀬河原)

 秩父鉄道の他の在籍車両は、元都営三田線6000形の5000系4本、元東急8500系の7000系2本、同8090系の7500系6本、急行列車用として元西武新101系の6000系3本で、元東急車のウエイトが高くなっている。

山陽電鉄-標準軌間のモハ63型-(続)

再び山陽電鉄のロクサンです。『鉄道ピクトリアル』誌を購読の方も多いとは思いますが、今回は同誌掲載の山陽ロクサンに関する記事を紹介してみましょう。同誌327号(1976.11臨時増刊号)、528号(1990.5臨時増刊号)の2冊、主に528号からです。最後に筆者の写真も少し紹介します。

始めに、渡辺寿男・山陽電気鉄道㈱取締役会長(1990年当時)の『広軌63形の導入と820型製作当時の思い出』(528号)から。広軌への改良工事や車両導入の興味深い話です。

(前略)2.モハ63形受け入れのころ
山陽電鉄が、モハ63形電車を受け入れて、運転するようになったことによって、当社の輸送施設は、革命的な変革を遂げた。 そのことをご説明するためには、それ以前の施設の状況と、戦争の被害という、山陽モハ63の前史に、若干触れなければならぬ。(中略)

b)
戦争中の状況と空襲被害など
戦争末期の山陽沿線には、軍需産業の大工場が多数建設されて、輸送需要が急速に増大したため、車両数が極端に不足して、酷使を重ねることとなった。その最中の昭和2069, 77日の二回にわたり、当社明石工場は空襲による甚大な被害を受けた。(中略)加えて、敗戦直後の昭和20918日の台風と同年109日の集中豪雨によって、残存車両のうち多数が、床下浸水のため運転不能に陥り、さらに同じ頃、西代工場の巻線工場が失火によって焼失するなどのため、空襲よる明石工場の機能停止とあわせて、故障修理も思うように進まず、車両事情は極度に悪化して、ついには、全線を通じて可動車数両に過ぎぬ状況にまで低下し、運転は麻痺状態に陥った。

このため、兵庫須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。このため兵庫一須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。けれども、当時緊急に必要とする可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。   

c)全国的車両復興対策の状況
空襲による被害と、戦争中の人員資材の欠乏したなかでの酷使と合わせて、著しい車両不足に陥っていたのは、当社だけでなく、運輸省はもちろん、各私鉄会社共通の問題であった。したがって、当時の全国的な多数の新造車両の要求を充足するためには、同一形式の車両を大量生産的に新造するほかないとの判断によって、運輸省と、当時の各私鉄の統制団体であった日本鉄道会とは、昭和20年下期および21年度における、路面電車以外の新造電車の形式を、運輸省モハ63形・一形式に統一して、運輸省で一括して新造し、 とくに緊急増車を必要とする私鉄には、これを払い下げて使用させることとした。当社が、前記のような当時の線路条件に対しては、全く奇想天外とも言うべき、モハ63形の導入を決断せざるを得なかったのは、 このような事情によるものであった。 

3. 山陽向き広軌モハ63形の概要
山陽電鉄に割り当てられた20両の内訳は、電動車10両と、そのぎ装を制御車設計に変更したもの10両とであって、(中略)竣功したときの車両番号はモハ6380063819で、偶数番号車が電動車、奇数番号車が制御車であった。現車の側面中央には、省電と同じ様式で、この番号が標記されていたが、社内では簡単のため800形と呼び、入線後車体正面には800番代のみの番号標記がなされていた。台車は、MT共に電動車用のT R25A(後のD T13)であるが、輪軸を、各部直径はそのまま、軌間1,435mm用に単純に延長し、これに合わせて台車枠の幅が拡げられていて、MT40形主電動機が歯車側に寄せて吊りかけられた。従って車軸強度が狭軌用原設計に比べて、著しく低下しており、後に材質レベルの高いものと交換して、その設計の弱点を補った。  

車体については、元来モハ63は、車体の構造やアコモデーションが、戦時の最低仕様とも言うべきものであったから、製造過程で川崎車輛の協力を得て、たとえば台枠構体の組み方や、天丼の張り方などにおいて、番号の若い車両から高い車両に向かって、少しずつ改善を加えていった。このため、わずか20両ながらその中のヴァリエーションが、当時の急速な技術復興の歴史を物語っていた。

4.  63形の受け入れ
川崎車輛から当社線への輸送については、車体は1067mm軌間の仮台車に乗せ、台車は省有の長物車に積み、この2両を編成して山陽本線経由で回送した。前半12両の受け取りは、省線飾磨線と当社線とが並行する当社手柄駅付近に、当社側で側線を設け、飾磨線の本線路上から当社側線へ横取りをした。(中略)現在では考えられないような荷役作業であった。 

後半8両の受け取りは、下記の線路改良が進んで、明石以西にモハ63形が運転可能になったので、省社の側線の並行していた明石駅構内で行った。さて、前記のような状況の線路へ、いきなり車長20m、車休幅2.8m、軸重最大15tという大形車両を持ち込み、これを運転しようというのであるから、当然全線にわたって、線路施設の大改良が必要であった。その工事は、主として軌道中心とホームとの間隔の拡大、 ホーム延長、線路中心間隔の拡大、および橋梁、橋桁の補強などであって、 これらを、条件の良い姫路方から東に向かって着工し、その進捗に応じて、逐次運転区間を延長した。

22510日姫路網子間の運転を開始し、次いで八家貨物駅(営業は白浜の宮まで) 大塩、という段階を経て、2331日ようやく姫路―明石間の運転開始に漕ぎつけた。明石姫路間に63形を、兵庫姫路間の急行には従来の小形車両を使用した。明石以東の軌道線は、電車線電圧600Vであったため、この機会に1500Vに昇圧して全線の電圧を統一することとし、その工事は昭和2310月に完成した。同時に、軌道線所属600V専用車は、12両を昇圧改造したほかすべて廃車または譲渡した。そして231225日ダイヤ改正を行い、63形は全線に運転されることとなった。

 しかし、線路施設の改良は、63形運転の最低条件を辛うじて充たして、無理やりに運転を強行した感を免れず、そのため全線にわたり直列ノッチでのノロノロ運転を行った。それを若干改善するため、昭和24年には一時的に、直列最終段で弱界磁の入るよう電気回路に手を加えて、変則的ながら最高速度60km/h程度の運転ができるようになり、さらに線路改良の進捗に伴って、昭和28年には、本来の設計に戻って並列運転となった。

5.昭和20年代前半の山陽63
戦時形最低仕様、粗製乱造と悪名高い63形のイメージを少しでも薄めたい、というのが当時の担当者の願いであった。そこで昭和24年には、貫通路に幌の取付けと扉の撤去、運転室仕切り壁にガラス窓を開設、三段窓を二段窓に改造、座席の奥行き寸法の拡大、外部色の変更などを行うと共に、 天井板のなかった若い番号の車両には これを取付けた。また同じ時期に前者の番号の整理変更を実施したので、その機会に形式を700形と改め、番号を700719に変更した。全線で運転が可能になった後は、主として兵庫―姫路間の急行と、網干線で使用されたが、当社従来の車長15m、幅2.4mの小型車両に比べて格段に大きい収容力は、昭和20年代初期の輸送力逼迫の窮状を救い、主力車としてその責務を果たした。また、無理にもこの63形を導入したことが、当社の線路施設を向上させる契機となったわけで、山陽電鉄の歴史の上での63形の役割の意義は深い。
(引用終わり)

と、
63型導入の経緯に始まり、車両の運び込み、改良、運転そして最後に導入の意義を述べられている。
また、528号誌には、DRFCに多大のご理解を下さったと伺っている、故吉川文夫さんも『山陽700系の変遷と共に-63形電車が私鉄輸送に果たした役割』の文を寄稿されている。曰く、「広軌ロクサン」、「大きすぎて」など面白い話が、「私鉄へ入った63系その後」と共に掲載されています。

さて、関 三平先生のイラストですが、702+709は、1964(昭和39)年に車体を補強、内装の不燃化、窓の大改造などで再出発したものです。四扉車である以外、大きな変貌です。ベンチレータは交換され、63型、山陽700型の特徴であった前面通風器はシールドビームの前灯に変わりました。残念ながら筆者にこの写真はありませんでした。三平先生に本当は、702以外の700型のカラーイラストを掲載して欲しかったと残念がっています。 山陽に来た6320両の内、712+7131951(昭和26)年9月西代車庫で全焼しましたが、台車機器を利用して19572700+2701として復活しました。車体長は元の20mから18.67mに縮められました。しかし、大型車の印象以、63型の面影はもはやありません。2701の台車は川崎車両試作のOKA-20空気バネ台車で、2700はモハ63時代からのDT-13Sでした。
写真は、塩谷付近で洋館をバックに快走する特急です。
 

 

こちらは、長田での市電とのデッドセクションを行く2701+2700です。いかにも大きな車体で、デッドセクションを通過しました。 

 最後は、東垂水-滝の茶屋間、カメラは茅渟湾を東北東に大阪市の方向を眺めています。車両は705+704です。705の屋根前寄りにはベンチレータがありません。電装してパンタ設置予定の空間でした。

右端信号機に重なり、円柱形木製の架線支柱のあるところ、線路は隠れていますが、複線当時の国鉄山陽本線です。海と山の極めて狭い場所の一番下段です。中段が完成まじかの山陽本線の新しい線路で、真新しい鉄製の支柱。複々線完成後は、下段が山陽線下り線で西行。中段が上り線で東行。上段が山陽電鉄線です。

 仮定の話ですが、もしかしてモハ6380081920両が山陽に来ずに、国鉄で、しかも関西地区配属で山陽線電車区間を走ったとしたら、西明石まではこの下段を走り、京都まで復路は中段を走ることとなったかも知れませんでした。現実は上段を走り、山陽に多大の貢献を果たして長く活躍し、廃車もしくは改造され、最後の車両も1985年に姿を消しました。

山陽電鉄のロクサン

tsurukameさんの投稿を追いかけるようにが山陽電鉄のロクサン、700型登場!

以前に掲載されたtsurukameさんの投稿記事を参照しながらご覧下さい。それにしても阪急京都線にも投入計画があったとの記載には驚きました。皆さん、ご存じでしたか?P6と63がすれ違う、63をP6が追い抜く、なんてことがあれば見たかったなぁ!