モハ63は諸先輩の思い出の中で生き続けていたことがわかりました。たしかに人生と重なる電車でした。今回はtsurukameさんの山陽のロクサンと同じように南海へ売られていったロクサンの話です。ただ読んでみると貧しかった戦後の子供達とおなじようなロクサンの中でちょっと裕福感のあるロクサンです。
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63によせて
三井三池にはかないませんが、秩父の63のなれの果ての写真がありますのでご紹介します。撮影は平成11年4月3日 当時は群馬郡群馬町、今は高崎市群馬町保渡田というところにある自動車整備工場の一角にあるデハ801の廃車体です。秩父に来る前は 小田急の1800系だったそうで、昭和54年10月に秩父に来て平成2年3月に引退したようです。従って廃車後9年経過後の姿になります。自動車整備工場なので、色あせてはいるもののかなり手入れはよく、倉庫ではなく日常生活用に使われていたようです。パンタはありませんが、台車はそのままでした。今でもまだあるのかどうかは不明です。秩父鉄道沿線でもない榛名山のふもとになぜやってきたのかわかりません。運び込むのも大変だったと思われます。何しろ狭い場所に鎮座していてこんな写真しか撮れませんでした。車歴などは諸先輩の解説をよろしくお願いします。
モハ63形 → クモハ73形
仙石線 陸前大塚~陸前富山間を走行する特別快速石巻行
クモハ73003+サハ78008+モハ70124+クハ79230 の4両編成 (49-4-29)
関 三平さんの「昭和の電車」は、四国の電車が続いたので次は九州かと思っていたところ、63回に因んでモハ63→クモハ73であった。次回64回目は「クモハユニ64」ということはないだろう。
今回のイラストは電車の行先が「上野」になっているので常磐線のとある駅の風景と思われるが一寸見当がつかない。お判りの方はご教示願いたい。隣にはクモハ73の近代化改造車が描かれているので時期は昭和37年以降であることが判る。
クモハ73形とそのグループは、戦後の国鉄を代表する通勤型電車で、東は仙石線から西は山陽本線の小郡まで活躍した。車体の老朽化や使用線区に応じて手を加えられ、施工時期や工場により差異のため、細かく観察すると1両として同一スタイルの車両が存在せず興味が尽きない。これらを全部解説すると500ページの本になってしまうので、クモハ73形の一部を紹介させていただきたいと思う。
クモハ73010/昭和23年近畿車輌でモハ63526として新製。27年3月吹田工場で改造。49年6月淀川区(片町線)で廃車。(47-12-1 住道)
モハ63形は、大阪向け車両と東京向け車両では仕様が異なっていた。外観上は運行窓が大阪向けが2桁に対し東京向けは3桁であった。
73010の経歴は、淀川区から36年11月に環状線101系化により東十条に転属、41年3月淀川区に戻ってきた。
クモハ73041/昭和22年日本車輌でモハ63593として新製。27年10月吹田工場で改造。59年8月広島区(可部線)で廃車。(50-2-2 広島)
広島区では当初呉線で使用し、後に可部線で使用した。窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。
クモハ73052/24年汽車会社でモハ63823として新製。28年3月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-2-4 住道)
クモハ73053/昭和23年汽車会社でモハ63769として新製。27年12月吹田工場で改造。51年10月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)
クモハ73059/21年日本車輌でモハ63393として新製。27年6月日本車輌で改造。54年8月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30下馬)
仙石線配置車両は防寒対策のため、暖房の強化、ベンチレータの取り替え、窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。
クモハ73061/21年汽車会社でモハ63214として新製。27年6月日本車輌で改造。60年6月広島運転所(可部線)で廃車。(42-3-26武蔵中原区)
クモハ73062/23年汽車会社でモハ63746として新製。28年4月日本車輌で改造。49年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)
クモハ73073/22年川崎車輌でモハ63632として新製。27年7月日本車輌で改造。47年3月淀川区(片町線)で廃車。台車はDT15。(47-2-16 京橋)
クモハ73075/22年日本車輌でモハ63419として新製。27年8月日本車輌で改造。51年12月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)
クモハ73081/22年汽車会社でモハ63215として新製。27年8月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)
クモハ73083/22年日本車輌でモハ63395として新製。27年8月日本車輌で改造。51年4月淀川区(片町線)で廃車。(48-6-17 住道)
クモハ73091/昭和21年日本車輌でモハ63297として新製。27年9月日本車輌で改造。51年11月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)
クモハ73098/23年川崎車輌でモハ63848として新製。28年4月汽車会社で改造。51年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はウイングバネのDT14。(48-4-30上:東塩釜 下:下馬 臨時快速「コバルト金華山号」)
クモハ73108/23年川崎車輌でモハ63802として新製。28年5月汽車会社で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-25 住道)
クモハ73129/23年汽車会社でモハ63755として新製。27年12月日本車輌で改造。47年2月沼津区(御殿場線)で廃車。(41-2-14 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。
クモハ73134/22年近畿車輌でモハ63544として新製。28年8月東急車輌で改造。51年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)
クモハ73159/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年9月汽車会社で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(49-2-1 大阪)
クモハ73189/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年12月汽車会社で改造。51年11月淀川区(片町線)で廃車。(45-11-15 京橋)
経歴は41年3月下十条から明石に転属、45年2月淀川に転属。暫く茶色のままで使用。
クモハ73193/23年汽車会社でモハ63787として新製。27年12月汽車会社で改造。 47年4月沼津区(御殿場線)で廃車。台車はDT15。(41-1-23 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。
クモハ73205/23年汽車会社でモハ63779として新製。28年1月汽車会社で改造。 50年3月西明石区(大阪緩行線)で廃車。台車はDT15。(47-3-12 大阪)
クモハ73247/22年汽車会社でモハ63667として新製。27年10月東急車両で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(47-12-1 鳳)
クモハ73273/23年汽車会社でモハ63771として新製。27年12月東急車両で改造。 52年3月武蔵中原区(南武線)で廃車。台車はDT15。(50-3-23 稲城長沼)
「稲田堤」の行先板は珍しい。
クモハ73287/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 55年1月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30 下馬)
クモハ73295/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 49年12月鳳区(阪和線)で廃車。台車はDT14。(47-12-10 鳳)
クモハ73301/21年日本車輌でモハ63267として新製。28年5月日本車輌で改造。 52年8月鳳区(阪和線)で廃車。(47-12-10 天王寺)
クモハ73331/24年汽車会社でモハ63825として新製。28年6月汽車会社で改造。55年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はDT15。(48-4-30 下馬)
【近代化改造車】
モハ63形出身のクモハ73形、モハ72形が老朽化してきたため、昭和37年から大規模な改造が行われることになり、クモハ73形、モハ72形各44両と、ローカル線転用に伴うクモハ不足に対応するため、モハ72形に運転台を取付けクモハ73形500番台に改造する工事が20両実施された。外板の張替え、車内化粧板のメラニンプラスチック化、窓の2段化とアルミサッシ化等が実施され、見違える程になった。こちらについてもクモハ73形の一部のみ紹介する。
また、これらの改造以前に、昭和35年吹田工場で試験的に改造された車両についても紹介する。
クモハ73001/昭和35年12月吹田工場で実施された試作整備改造車。経歴は21年日本車輌でモハ63143として新製。27年3月吹田工場で改造。60年6月広島区(可部線)で廃車。(41-8-25 京都)
クモハ73024/22年日本車輌でモハ63515として新製。27年11月吹田工場で改造。38年6月吹田工場で近代化改造。55年10月沼津区(御殿場線)で廃車。(47-3-1大阪)
本日の185系(157系色+湘南色)
本日のあかぎ4号の新前橋から上野9:41着と あかぎ1号上野19:00発の新前橋までと 関連の回送列車はOM08(157系色)とOM03(湘南色)の14連でした。185系の14連の運用はこれしかありませんので なかなかこの編成の組み合わせはお目にかかれません。運用をたどり今日こそと東十条で写してきました。18:40にやってきました。19:00上野発のあかぎ1号を写したいのですがは暗くてきびしいのでその前の回送列車です。雰囲気だけでもお楽しみください。
左 OM03( クハ185-306) 右OM08(クハ185-214)です。
本日吾妻線で651系7連(K104)の試運転が行われたようです。近いうちに大宮の185系は655系に置き換わるようです。
山陽電鉄、標準軌間のモハ63型
モハ63、筆者にとって何とも懐かしい電車です。省線立花駅から三宮までの往復で何度も乗車しました。それから0番のキットを買い、初めて作ったのも、全長50cm近くのモハ63型模型電車でした。
尼崎から神戸に移住した1951年以後は、山陽電鉄700型としょっちゅう出会うことになりました。小学校校舎に接して北側が山陽電鉄東須磨駅です。5,6年生の時、我々は南側の教室でして、電車の見える北側教室がうらやましくて仕方がありません。よく北側教室に忍び込み、窓から駅を見下ろし、通過する700型などを見に行ったものです。
終戦後、国鉄同様私鉄も多くの車両を失い、輸送がままならぬ状況は諸兄ご存じの通りでした。国鉄で設計製造した63型を国鉄が一括発注し、私鉄に振り向けられた総数116両の内の20両(モハ63800-819)が山陽電鉄向けでした。その内の奇数番号車はクハでなく、モハの無電装車だそうです。製造は全車川崎車両。車両様式はモハ63型に準じているが、座席、天井、配線工事などの細部は、電鉄の注文に応じて改善されていたそうです。
山陽に入線当時、番号の内モハを取り、800-819をそのまま使用していたようですが、1949年700型700-719に改番されたので、筆者はその番号車を見ていません。また、入線時の窓は三段でしたが、のち二段に改造され、下側の窓には他の形式車両同様、保護棒が取り付けられています。また、下の写真717号車は未電装車ですので、屋根の先頭部にはパンタの設置予定スペースがそのままです。パンタ台はさすがに取り払われていますが。
初めて写真に撮ったのは、1960年9月モノクロでした。カラーは下の画像1962年1月が最初です。
この兵庫駅は1963年4月7日、神戸高速鉄道の開通にともない消滅しました。ここから西代駅までの約2km近くが道路併用軌道です。国鉄様式の大型車両が、電圧も軌間も異なる山陽電鉄に入線。その翌年に昇圧や駅ホームの延長など、幾多の困難を解消したとはいえ、道路併用軌道を走り、その上に長田では神戸市電と平面交差するのですから、それはそれは大変な事柄だったのです。
こちらは、姫路市の女鹿-白浜の宮間。筆者が正月に山陽電車を撮影する時はカラースライドでした。直線の多いこの区間は静かな播州米の産地でもありました。この辺りではさすがの大型車両でも様になります。
翌年の正月、須磨浦公園を過ぎて塩谷に向かう途中です。昔、右手石段組の坂道を上ると、藤田ガーデンがありました。今は失くなりましたが跡地に大きなマンションが建ち、当会の有名なお方が住んでおられます。
山陽に来た20両の内、2両を西代車庫の火災で失いましたが、18両が健在で撮影時にも頻繁に出会いました。
戦後の混乱期の電鉄に、大いなる貢献を果たしたモハ63型700形式ではありましたが、他形式へ転換車などを除き、老朽化が進み、20数年の活躍の後に、1969年までに廃車されました。
山陽電鉄とは無関係ですが、モハ63の話題のついでに、ジュラルミン電車のことを少し。
1946年川崎車両においてジュラルミン電車6両が誕生しました。モハ63400-402(電装して蒲田電車区に配属時は、モハ63900-902と附番された)、サハ78200-202です。下の写真は川崎車両の完成時の公式写真です。
(『蒸気機関車から超高速車両まで-写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史-』、川崎重工車両事業本部、平成8年、交友社)より。 材料は終戦で不要となった航空機用ジュラルミン10万トン活用の一端として車両製造に向けられたものです。ただ、無塗装であったため、腐食が進み、のちに塗装されたり、全金属車に改造されています。(『国鉄電車の歩み』、交友社、『電車のアルバム』、交友社を参照)
アルミニウム金属を主体に、第二成分として銅を混ぜた金属アロイ(合金)がジュラルミンです。新幹線車両をはじめ、最近の車両に使用されるアルミ合金はアルミニウムに、第ニ成分にマンガンを、第三成分にシリカを(6N01)、もしくは亜鉛を(7N01)のアロイです。こうしたジュラルミンは立派なアルミニウム合金ですし、『ジュラ電』はアルミ合金製車両の先駆車でもあると筆者は考えます。勿論台枠は鉄、内装材に一部木材も使用され、オールアルミカーではありませんでした。オールアルミカーが誕生するのはジュラ電から16年後、山陽電車の2012+2505+2013です。やはり川崎車両製でした。これはオールアルミカーの第一世代車と呼ばれています。そして現代の新幹線車両などは第四世代のオールアルミカーと呼ばれています。調査事項も含め、この辺のことは、別の機会に稿を改めます。
コメント投稿機能の不具合について
こちら管理人の小西です。
先月末より、特定のユーザからコメントが投稿できないという不具合が報告されています。当初はよくあるスパムフィルタの検閲によるコメントブロックを疑いましたが、検閲リストに該当コメントが残っていないため、原因は異なるようです。
他にも調べてみたのですが、残念ながら現在原因不明です。drfc-ob.com開設からかなり時間が経過しており、掲示板のバージョンも古くなっているため、現状改善を願って最新版にアップグレードしてみる予定です。
アップグレードに伴い、掲示板の投稿画面の仕様(見た目など)が微妙にかわる可能性がありますが・・・悪しからず。
国鉄クモハ73=ロクサン
こんなん、出てきました。(2) 明延の一円電車
両親が住んでいた家の物置を片付けていると、あやしいダンボール箱があって、開けてみると40年ほどたった鉄道模型の遺物がありました。このときはこのダンボール箱を発掘調査をせずに、次の日に発掘調査をおこなったのであります。すると模型の遺物だけでなくカラースライドの入った箱があり、調べてみると高校生の時に撮った写真がありました。中には親父が撮った写真があり、還暦をすぎたおじいが小学生の時の姿が写った写真もあったのです。鉄道の写真では全部を調べていませんが、とりあえず見つかったのは「明延の一円電車」「播但線のC57、C57とDF50の重連、キハ58か28の急行列車」「日中線の列車 喜多方駅と熱塩駅」などです。とりあえず「明延の一円電車」の写真4枚を・・・。
上の写真をごらんのようにフィルムは退色していましたが、エプソンのスキャナードライバーソフトにある退色復元をおこなうと何とか見られるようになります。ただし、カビとかフィルム表面が傷んでいると、カビの部分が青くなったり、フィルムの傷んだ部分が赤くなったりして、あとは画像処理で修復しないと戻りません。実際にやってみると正倉院の御物の修復みたいで、このような作業も面白いものです。親父も写真が好きで会社の仲間とよく撮影旅行に行っていました。モノクロ写真もありましたが、カラースライド写真も多く、よく家で映写会をしていました。そのときの映写機とスクリーンもまだあります。親父は晩年に撮った写真のほとんどがリバーサルフィルムで撮影してプリントしていました。発色がいいのでしょうか。
左の写真がスライドフィルムです。紙のマウントを使用しています。これはまだ固定されていますが、はずれているものもありました。これを見ても退色しているのがよくわかります。
撮影に使ったカメラはペンタックスSPでフィルムは富士フィルムです。さくらフィルムも時々使いました。親父は桜の花や紅葉など華やかな被写体や赤系統の色調の写真はさくらカラーで、新緑の風景など緑系統の色調の写真はフジカラーと使い分けていました。 いま使っているCANON EOS10のフィルムカメラは親父が使っていたものです。ただし、レンズは新しく買ったものを使用しています。
左の写真は当時の切符です。1円の切符は鉱山に勤めている人や家族の人が乗るときに使用する切符で、10円はそれ以外の人が乗るときの切符です。ゴム印で押したもので「明神電車」とあります。裏はなにもありません。
なぜ、一円電車に乗ったかというと当時は鉄道友の会に入っていて、阪神支部の見学会に参加したためです。友の会の会報も残っています。また、雑誌鉄道ファンにある友の会のページにこのときの様子が書かれてありました。また、発掘調査後、埋め戻したので調べるためには再度発掘調査をしなければいけません。そのうち、また発掘調査をするでしょう。当面は遺物や御物の修復技術の習得に励みたいと思っています。
元気な四国の私鉄は老人のアイドル
- 立派な駅前から走り出す電車は恥ずかしそうだ
阪和線の113系
4月6日【19427】「最後の113系阪和色」で特派員さんの報告の通り、113系は4月1日のさよなら運転で阪和線から姿を消した。(実際には紀勢線で運用されている2両編成が入出庫を兼ねて日根野~和歌山間で営業運転をされており、完全に姿を消したわけではないが、日根野以北で営業運転をすることはないため撤退したと表現しても良いと思う)
113系は、昭和47年3月15日のダイヤ改正で阪和間を途中鳳のみ停車で45分で結ぶ新快速運転時に6両×3編成が投入され、新快速は2編成で足りるため、残りの1編成は103系で運転されていた快速に使用された。その後も快速用として増備されたが、どちらかというと脇役的存在であったように思う。
熊取~日根野間を走行する新快速/(49-5-26)
杉本町を通過する新快速/(48-11-3)
新快速のヘッドマークに蓋をして快速に使用中/(48-11-3)
普通に使用中。中間の4両は大船から転属してきたためスカ色/48-9-15)堺市
先頭はクハ111-312
モハ112-1+モハ113-1のトップナンバーのユニットも在籍した。塗装は関西線快速色/(48-11-3)杉本町
スカ色のモハ113-72/(48-11-3)杉本町
堺市に停車中の快速/(19-2-16) 先頭車はクハ111-5261
(阪和色+湘南色×2+阪和色)+(カフェオレ×4)の3色混合の8両編成
上記編成の2、3両目のモハ113-5027+モハ112-5027
上記編成の最後部
堺市に停車中の快速/(19-2-16)
(カフェオレ×4)+(カフェオレ+阪和色×2+カフェオレ)の8両編成
上野芝を通過する上記の折返し
鳳駅に進入する (カフェオレ×4)+(阪和色×4)の8両編成/ (21-3-21)
上記の最後部で103系との並び
本日の183系と115系(両毛線)
今週初めに183系の「足利藤まつり」号を写していて足利フラワ-パークへ行きたくなり本日(5月4日)花見に行ってきました。
両毛線 富田駅が最寄駅でここから歩いて10分ほどです。
183系OM101 6両編成で富田到着です。ほぼ満席のお客様でした。
クハ182-1529です。
広大な面積の園内の藤の花はほぼ満開でツツジの赤色を含めた様々な色の花の共演はさすがにきれいでした。
大藤、八重藤、大長藤、白藤とつつじがきれいです。観光バスやマイカー、JRや東武鉄道利用で多くの方が来られていました。
次の写真は園内の白藤と115系です。
115系、107系、211系、183系、485系と多くの電車が両毛線を走っていました。
伊予鉄道 100、300、600型など
1961年3月20日撮影、四国・伊予鉄道。あれから半世紀が過ぎました。この時のフィルム画像は今もしっかりとしています。
そこで モハニ200型に続き、残りの形式も一挙に公開します。参考書は、小生の写真も掲載されている、『伊予鉄が走る街 今昔』、2007年7月発行、JTBキャンブックスです。
先ずは100型。1931年日本車両製。高浜線電化に伴い新造。モハ101号のみ前面に押し込み通風機が設けられています。モハニ200型、クハ400型と固定編成を組み、モハ100型が高浜方向を向いています。反対側が前回紹介のモハニ200型です。松山市駅にて。
モハ102、正面に、通風機はありません。大都市間を疾走する電車に似たオーソドックススタイルの車両です。
一見、省線電車を短くしたような雰囲気さえあります。古町車庫です。
高浜近くの海岸沿いを走るモハ104+クハ404+モハニ204の3両固定編成車です。
モハ105は、初代クハ406を電動車化した車両で、両運転台の3扉車です。1952年改造され出来ました。モハ102の側面写真と比較すると良く判るでしょう。そしてもう1両のモハ106ですが、小生が訪問した時はまだ誕生していませんでした。二つ下の写真モハ303のところで説明します。
次はモハ300型です。1950年に4両登場したのですが、1961年に古町工場で大型車への改造工事が行われました。車体中央部を分断し、扉1個、窓4個を継ぎ足しのでした。また運転台も片運転台に変更されたそうです。
下の写真は、改造前のモハ301号車。
同じく改造前のモハ303号車。編成はモハ303+クハ406(と思われる)+モハニ206です。初代クハ405の改造車106号がまだできていなくて、モハ303を使用した3両編成です。モハ300型との編成の最後の姿です。書籍等にこの辺の記録写真は少なく、その意味では貴重な写真かも知れません。303号、301号もこの年に3扉の延長化が終わり、両車で固定編成を組みました。
また、モハ106号が完成後、この3両編成はモハ303と置き換わり、モハ106+クハ406+モハニ206の編成で活躍しました。モハ106号は、後に再び両運転台に戻され、やがては銚子電鉄801号になったことは、乙訓の老人のコメントを参照してください。
次はモハ600型、601号、602号です。1958年ナニワ工機製。もちろんオールスチール製。
衣山-山西間(当時、中間の西衣山駅はまだ出来ていない)の、国鉄予讃線陸橋下を行く、モハ602+モハ601。複線の用地がありながら、撤去のまま単線です。
DB-1。ぼっちゃん列車を牽引していた蒸気機関車の代替機として、登場した第1号車。1953年森製作所製。1965年まで活躍したそうです。
乗り遅れた連接車
準特急先輩の連接車シリーズは9回で連載が終わりました。自分では連接車は1枚も写していないと思っていたところ 名鉄揖斐線で写していたことをすっかり忘れていて 乗り遅れてしまいました。連載第3回の福井鉄道の770型が元名鉄揖斐線だったのも知らず、見過していました。岐阜市内は本数も多く、手軽に撮影できるので よく街歩きしたことをなつかしんでいます。路面電車はいいですネ。
福井鉄道に移った時点で塗装は一新されたのでしょうが、名鉄時代には2丁パンタだったのが 新型パンタ1丁に変わっているのですネ。
ところで上の黒野駅でおもしろい車両を写していましたので、付け足しながらご紹介します。ひとつは保線用のホッパー車で 国鉄のセキとホキを足して2で割ったような2軸貨車、もうひとつは軽トラを改造したモーターカー?です。1ton程度の小型ダンプを改造した保線車両は今でもよく見かけますが、軽トラが化けたのはあまり見た記憶がありません。この軽トラはスクラップになったでしょうが、ホムも生き残ってはいないのでしょうネ。
中国の蒸気機関車について(追補)
藤本氏の記事と関連コメントを見て、相生市で撮影していたことを思い出しました。写真をご紹介します。場所は赤穂ではなく 相生市の中心部にある中央公園です。藤本氏のコメントによると 平成9年に解体されたとのことですが、撮影月日が平成9年7月24日ですから、解体直前の姿ということになります。
寄贈した㈱美乃美は京都市左京区で盛業中の中国関連図書を扱う会社のようです。
↑ 1E1 貨物用 前進形 QJ6200
↑ 2C1 旅客用 人民形 RM1163
ペーロンがとりもつ縁とはいえ 何でここに中国の蒸機なの?と思い 狭い場所でかつ逆光だったので早々に退散した記憶があります。今はモニュメントだけになっているようです。
伊予鉄道 モハニ200型
1961年四国の私鉄電車巡りの最後は、伊予鉄道でした。松山市内線を撮影後、高浜線を訪れました。いずれも1961年3月20日の撮影です。
松山市駅のホームで撮影後、市駅の西の方に歩き、横河原線用の客車が多数見える地点でのモハニ201号車。中間にクハ101を挟んで後はモハ101。
市駅をさらに西に進んで古町車庫にて。202号車。後に火災で焼失、廃車されました。
二代目モハ203。他のモハニ200型と異なる扉・窓配置、メーカーも日立製(この一両のみ)で200型他車(日本車両製)と異なる。
モハニ204号車、梅津寺近く。海に突き出た納涼台(桟橋)が見える。
山西-衣山間を疾走するモハニ204+クハ404+モハ104、松山市駅行き。この付近は単線である。戦前は複線であったが、戦時中の供出で単線化され、1961年当時はそのままであった。1964年に再び複線化された。
古町近くの複線区間を行くモハニ206+クハ406と3両目はモハ106か?。2扉車に見えるので、クハ405の改造車106でなく、303ではないかと思われますが、乙訓の老人様いかがでしょうか。パンタグラフの位置も異なります。改造車の誕生は1961年4月だそうですが、半月あまり前の3月です。
日本で保存されている中国の蒸気機関車
中国の鉄道を足繁く訪問されておられる、ぶんしゅう氏の驚異的な行動力には驚くばかりである。私は未だにフルタイムで現役を続けていることや諸般の事情により遠出は不可能であるが、都電荒川線、流鉄、関東鉄道等自宅周辺でも結構楽しめる所があり、細々と趣味活動を続けている。
中国まではとても行けそうにないが、東京都心から1時間圏内に元中国の蒸気機関車が保存されている。先週土曜日に見学に行ったので報告方々紹介する。
場所は、つくばエクスプレス「みらい平駅」から約9㎞離れた「きらく山ふれあいの丘」という「つくばみらい市」のレクリエーション施設で、みらい平駅、守谷駅、関東鉄道小絹駅からシャトルバスとコミュニティーバスの便がある。但し日曜日と年末年始は運休である。(土曜日と祝日は運転)
保存されている機関車は、元南満州鉄道の「プレニ形」で、昭和10年日本車輌で軽貨物や入換用として作られ、平成7年まで鞍山鉄鋼公司で使用されていた。
平成9年に旧伊奈町(つくばみらい市の前身)内外の有志が中国から買い取り、日本に帰還させてこの地に保存した。
あまり人目に付く場所ではないため悪戯による破損等は見られないが、15年間も雨ざらしのため老朽化が進行しており、早急に何らかの手立てを打たないと最悪の事態になりかねない状況である。
参考までに先週土曜日時点でのバスの時刻を書いておくが、改正される可能性があるため、行かれる時は「つくばみらい市」のH.Pで確認いただきたい。また、タクシーで行かれる場合は常磐線佐貫駅が近い。
シャトルバス/日曜、月曜日運休(月曜日が祝日の場合は火曜日運休)(運賃無料)
小絹 9:30 →みらい平 9:45→きらく山10:05/11:35 →みらい平11:55→小絹 12:10
小絹12:35 →みらい平12:50→きらく山13:10 /15:20→みらい平15:40→小絹15:55
コミュニティーバス/日曜日運休(運賃100円均一)
みらい平 9:45 →きらく山10:15/10:25 →みらい平11:10
みらい平12:05 →きらく山12:43/12:53 →みらい平13:30
みらい平15:55 →きらく山16:25/16:35 →みらい平17:20
みらい平18:00 →きらく山18:40/18:50 →みらい平19:30
みらい平 9:50 →守谷10:08→きらく山10:54/11:04 →みらい平11:55
みらい平15:45 →守谷16:03→きらく山16:49/16:59 →みらい平17:50
みらい平 7:30 →きらく山 8:14/ 8:24 →守谷 9:08→みらい平 9:40
みらい平13:30 →きらく山14:11/14:21 →守谷15:05→みらい平15:35
コミュニティーバスは、みらい平駅を起点に地域を巡回後みらい平駅に戻ってくる環状運転(完全な環状ではなく一部同一ルートを走行する)である。「きらく山」は途中の停留所で、各便とも時間調整のため約10分停車する。撮影のみであれば乗ってきたバスに再度乗って帰ることは可能であるが、じっくり見学するには最低でも30分は欲しいところである。
つくばみらい駅9時45分発のシャトルバスは利用者が多く、ワゴン車の場合は乗り切れない可能性があるため、同時刻に発車するコミュニティーバスの利用をお勧めする。9時50分発でも良いが、守谷駅を経由して大きく迂回するため時間がかかる。帰りのシャトルバスは、乗客数に応じてワゴン車と通常のバスを使い分けているので、積み残される心配はない。
関東鉄道竜ケ崎線、常総線の撮影を兼ねて是非訪れていただきたい。
つくばエクスプレスみらい平駅/ホームは地下にある。秋葉原から区間快速に乗れば40分で到着する。
つくばみらい市のコミュニティーバス/東ルートと南ルートが「きらく山」を通る。
伊予鉄モハニ200
連接車9
今回はヨーロッパの路面タイプではない連接車とする。連接車については鉄道ピクトリアル789 2007年5月号にその特集が組まれているが、巻頭の説明では「連接車は車両同士の連結部分に台車を配置し、隣接する2つの車両を1つの台車で賄っている車両である」と書かれている。ところが、その特集記事の中で専門家は上記定義に当てはまらないものと断って最近普及しているLRVを広義の連接車として説明している。広島電鉄5000形のようなLRVはヨーロッパ各都市では以前から多く見られるが、このような5車体3台車の車両では台車のない車両は隣の車両が吊っている様である。この連接車特集号では日本のLRVの写真がどんどん紹介されているし、旧東ドイツでは2車体2台車もある。連接車の定義、範囲はよくわからなくなった。ということで連接車最終回は標準型で有名な車両を選んでみた。
最初はイタリアの元TEE「セッテベロ」ETR300で小田急NSE等に影響を与えたといわれる車両。1952年生というから恐れ入るが実に思い切ったデザインの車両である。2車体3台車の間に3車体4台車の中間車を挟む7両編成。2000年5月5日ミラノ~ボローニャ間にあるFidenzaでの撮影。
これも有名なフランスのTGV。8車体9台車の中間車に両端はボギー式で10両で1編成。2005年8月7日南仏Antheorの高級別荘地から撮影。パリリヨンとニース方向を結ぶ上下列車。↓
1997年8月17日ベルギーのローゼンタール~アントワープ間のKijkuit付近で撮影のタリス。アムステルダム発ブラッセル行きで両端動力車中間8車体9台車はTGVと基本的に同じ考え。↓
ユーロスターも連接台車を採用しているが、動力車と客車間、編成中央の客車間は非連接で4分割可は海底トンネル内での異常時対応。1997年8月20日ベルギーのフランス国境に近いMonsで撮影したブラッセル発ロンドンウォータールー行き。↓
最後はスペインのタルゴ。2000年5月7日スイスチューリッヒ郊外のMurgenthal~Rothrist間を行くRE/44に牽引されるバルセロナ発チューリッヒ行きEN273列車。客車間の台車が1軸であるのが特徴で標準型の変わり種。↓
以上で連接車9回の連載を終わる。
レイルNo82「武庫川をめぐる鉄道」について
兵庫ふるさと通信員さんより表題について紹介をいただきました。早速コメントを書いたのですがどういう訳か送信ができない状態なので、新たに新規投稿の形でコメントさせていただくことをお許し下さい。
兵庫ふるさと通信員様
お名前は始めて拝見させていただきますが、有難うございます。拙文、拙写で恐縮しております。先輩であるtsurukame様には応援出演をしていただき、内容が濃くなりました。また、893-2様には急遽現在の写真を撮るように協力依頼をしたのですが、撮影途中でお役所に多大な寄付もされたと伺い、これまた、恐縮しております。
乙訓の老人様
励ましの言葉かお小言かよくわからないところがありますが、いつも早いコメント有難うございます。私は本を書く知識、能力、体力、気力は全くありません。鉄ピク誌に関しては毎号次の特集のテーマが与えられますので、どうせ何時かは撮る写真と思って出かけます。編集部がどういう写真を欲しているかは一応頭に入れおきます。データ以外は専門の方が説明を入れてくれるので気楽と言えば気楽です。私の強みは関西育ちで関東在住者、歳をとっていることです。逆に専門分野がなく、お迎えが近いとも言えますが、歳をとっている分、東西の新旧写真がかなり手元にあるとも言えます。古い写真はどちらかというと掲載率が高い様ですが、、最近の写真、特にJR系は若い人の方がカメラ知識もあり、うまいので殆ど落選します。若い人と競争するのも面白いですが、全部落選するとがっかりです。古い写真、特にカラーは貴重であるとのことですが、老人様やDRFC-OBの人間国宝級の方々のような貴重なものは皆無です。しかし、最近は私自身紛れもなく老人だと思っております。現在、連接車の最終回を準備しておりますのでまた、宜しくお願い致します。
土佐電鉄クハ2000、モハ1000
1961年3月18日撮影。半世紀前の写真です。
1960年同志社大学に入学、鉄道同好会に入部した翌年の3月、岡山の下津井電鉄を経由、その後一週間ほど四国を巡った時の一コマです。鉄道写真にまだ慣れていなくて、計画性もなく、ただ撮影したという一枚です。撮影記録もありません。私は安芸近くと思っていましたが、乙訓の老人の解説で、三平先生の写真と同じく手結近くだそうですね。
架線柱は両持ちですが、海側が鉄製トラス柱、山側は木製です。コンクリート防波堤に柱の基礎部分が埋め込まれています。線路と山の間の道路を利用してここまで来たのでしょう。線路を超え、海岸に突き出たコンクリート製の別の防波堤上で撮影しています。クハ2003を、そして振り返って撮影したのが2枚目のモハ1008です。2両編成です。
2枚目の写真中央には木製の架線柱が写っていました。幸い車両には掛かっていませんでしたので、あまり良いことではありませんが画像から消去削除しました。
出発に際し、若かりし頃の乙訓の老人よりNEOPAN フィルムの提供を受け、琴電、琴参、伊予鉄、土佐電のこれこれを撮影せよとの依頼を受けて出かけたものです。帰宅後は現像までして頂き、お蔭でこのフィルムは何の変形もなく現在に至っています。そして図らずも今回、三平先生の記事から皆さんのお目にかかることになりました。