長春(新京)の旧塩江温泉鉄道気動車

いささかも年齢を感じさせず、世界を縦横無尽に駆け巡り、只管列車を追いかけ、美食を求め、ビールを喰らい続ける”ぶんしゅう”氏のエネルギーと胃袋には端倪すべからずというか、感嘆するほかはない。近年さっぱりやる気を失い、指折り余命を数えるだけの小生にとってはこの世の話とも思えないが、彼氏の爪の垢を頂戴し煎じて服用すれば、いささかなりともあやかれるのだろうか。

で、6月2日アップの長春(新京)その2には、2005年訪問時展示されていた旧新京の路面電車写真が4枚掲載されている。その左下は、まさしく四国讃岐は塩江温泉鉄道の、旧ガソリンカーであるから、覇気生気を失った老人とて、黙っているわけには参らないではないか。

川崎車両英文カタログ掲載の塩江温泉鉄道ガソリンカー 車内がやったら長く見えるのは超広角レンズ撮影のため

これは我国標準軌間鉄軌道として唯一の非電化で、琴平電鉄仏生山から分岐し、塩江温泉まで16.25km。高松から専用貨車を、事平電鉄に併結し、自社線は瓦斯倫機関車で牽引直通する目的で標準軌間を採用した。しかしその後トラックと競争にならないとして、旅客専業で1929年11月12日開業。車両は終始半鋼片ボギーガソリンカー5両のみであった。

川崎車両がガソリンカー第一作として受注したが、先発の日車に負けてなるものかと、欧州風の車体、前後を絞った妻面1枚窓、側面は2個セットの窓の間(吹き寄せ)にも、細い嵌め殺し窓を設けるなど、他例のない構造・デザインである。少し前松井車両が中遠鉄道に2輌納品した木製・鋼板張り片ボギー車に追随した、我国ニ例目であった。

機関はブダDW-6、自重6.5トン、定員40(内座席20)人で、この点はほぼ問題はないが、日車との対抗意識が強すぎたか、極端とも言える軽量化設計とし、それが裏目に出て、購入側も納入側も手ひどい目に会うことになる。

納品が遅れ、ロクに試運転ができないままの開業で、何と輪心が車軸から抜け出すなど、聞いた事のない低次元な故障や不具合が続出。川車も必死で対応はしたのだが、散々な体たらくで、要は川車がガソリンカーでの無経験を無視し、自己技術を過信して突っ走ったためと思われる。

営業報告書には「故障頻発製造者川崎車両会社ノ熱心ナル修復アリシニモ拘ラス著シク運転状態ヲ乱シ大ニ人気ヲ阻害シタリ其ノ後拾壱月下旬ニ至リ漸ク故障原因ヲ発見修繕ニ努メタル結果無事平常運転ニ復スルヲ得タルモ時既ニ閑散季ニ入レリ」とある。

通常車両は1から納入されるものだが、この鉄道では3~5が早く、その3両で開業したようだ。1、2は数か月遅れているので、この間手直しをしたのであろう。価格も1両1万円と高価な車両だった。琴平電鉄に合わせ50分毎、一時25分毎と頻発したこともあるが、乗客は少なく、1938年5月1日琴平電鉄に併合。石油消費規正に対し代燃化もなされず、1941年5月11日廃止された。

ぶんしゅう氏の写真はこれから後で、車体をそのまま、ブリル単台車を装着して電車に化け、新京にデヴューした次第であった。

なおこの車両は両端が絞ってあるため、写真からは車体幅が極端に狭く見え、従前誰も確認しないまま「標準軌の軽便」だの、「車体巾は軌間より僅かに広いだけ」などと無責任に記され、信じ込まれていたが、現実の車体実幅は2,250mmである。また掲載英文カタログ記載軌間は1067mmとあるが、単なる間違いか、川車として何らかの思惑があったのかは不詳。

秩父鉄道デハ801によせて


 羽生駅に停車中のデハ807
-クハ857+デハ808-クハ858 (H1-4-29)

このところ63形の話題が続き、関 三平さんの「昭和の電車」も国鉄に続き南海と山陽電鉄の63形が登場した。

ロギング太郎さんが発表された三井三池のホハ203の写真は非常に貴重で、正面のグリル、扉上の水切り等63形の原形をよく残しており、サモハ63形そのものである。但し、モハ63形の私鉄向け割当車ではなく自社発注車である。

西村雅幸さん発表の秩父鉄道デハ801の前身は、記述されている通り元小田急デハ1800形であるが、更に前身を辿ると、名鉄から購入した車両と事故廃車国電が混在しておりややこしい。

簡単に述べると、終戦直後の大東急時代、運輸省から国鉄向けのモハ63形の割当てを20両受けた。内訳は電動車と制御車各10両で電動車はデハ1800形(1801~1810)、制御車はクハ1850形(1851~1860)であった。デハ1803~1808、クハ1853~1858は経営受託中の相模鉄道で使用、昭和22年11月受託解除後デハ1806~1808、クハ1856~1858は正式に譲渡した。23年3月名鉄から電動車、制御車各3両を譲受け、デハ1811~1813、クハ1861~1863とした。国鉄から事故廃車となったモハ42004(4扉改造車)とモハ60050を27年と24年に譲受け、デハ1821、クハ1871(←クハ1661)とした。

26年6月から車体整備とデハ、クハ間の貫通路の拡幅と貫通幌の設置が実施され、デハ1809~1813、クハ1859~1863はデハ1806~1810、クハ1856~1860に改番された。
32年から33年にかけて元国電のデハ1821、クハ1871共々全金属製の新製車体に乗せ換えられ、デハ1821、クハ1871はデハ1811、クハ1871はクハ1861に改番された。

54年から56年にかけて廃車になったが、22両全車両秩父鉄道に譲渡された。秩父鉄道では、車号の1000番台を取ってデハ800形、クハ850形となったが、デハ1806とクハ1856は部品取り車となり、デハ1811、クハ1871がデハ806、クハ856となった。塗装は当初他車と同じエンジとクリームであったが、61年元国鉄101系のデハ1000形が黄色に茶色の帯で登場すると同じ塗装に変更された。その後もデハ1000形の増備が続き平成元年から2年にかけて廃車になった。秩父鉄道での在籍期間は約10年と比較的短かったが、以降の普通列車用の車両は、元国鉄101系のデハ1000系、元都営地下鉄三田線6000形の5000系、元東急8500系の7000系、同8090系の7500系と4扉車を増備している。(一時期3扉の元東急7000系の2000系が在籍したが比較的短期間で廃車された)

西村雅幸氏投稿のデハ801の車歴は下記の通りである。
東急デハ1801→小田急デハ1801→秩父鉄道デハ801
ちなみにデハ801の置かれていた場所には、現在京王電鉄井の頭線の中間車デハ3063が置かれており、デハ801は別の場所に移されたようである。高崎方面に行った時に現地で確かめたい。

デハ807/車歴は東急デハ1810→小田急デハ1810(初代)→デハ1807(2代目)→秩父鉄道デハ807 (H1-4-29 羽生)

 クハ858/車歴は名鉄クハ2704(初代)→小田急クハ1861(初代)→クハ1858(2代目)→秩父鉄道クハ858 (H1-4-29 羽生)
 

デハ1000形の近況
昭和61年から平成元年にかけて、オリジナルのデハ100形、今回のデハ800形等の置換えに3連×12本=36両導入され、普通列車の主力として運用されていたが、平成21年から廃車が始まり、現在は次の4編成が残るのみとなった。現在のところ日常的に運用に入っているが、車齢等を考慮すると早めの撮影をお勧めする。

デハ1001-デハ1101-クハ1201(旧国鉄クモハ100117-モハ101100-クハ10158)/(H20-9-5 三峰口)

 デハ1003-デハ1103-クハ1203(旧国鉄クモハ100133-モハ101118-クハ10162)/(H24-5-20 広瀬河原)

 デハ1007-デハ1107-クハ1207(旧国鉄クモハ100130-モハ101112-クハ10161)/(H20-9-5 三峰口)

 デハ1010-デハ1110-クハ1210(旧国鉄クモハ100160-モハ101208-クハ10173)/(H20-9-5 三峰口)

 5月20日付で運用離脱したデハ1002-デハ1102-クハ1202(旧国鉄クモハ100140-モハ101179-クハ10161)/旧々塗装であるが違和感はなかった。デハ800形も入線時はこの色であった。/(H24-5-20 広瀬河原)

 秩父鉄道の他の在籍車両は、元都営三田線6000形の5000系4本、元東急8500系の7000系2本、同8090系の7500系6本、急行列車用として元西武新101系の6000系3本で、元東急車のウエイトが高くなっている。

山陽電鉄-標準軌間のモハ63型-(続)

再び山陽電鉄のロクサンです。『鉄道ピクトリアル』誌を購読の方も多いとは思いますが、今回は同誌掲載の山陽ロクサンに関する記事を紹介してみましょう。同誌327号(1976.11臨時増刊号)、528号(1990.5臨時増刊号)の2冊、主に528号からです。最後に筆者の写真も少し紹介します。

始めに、渡辺寿男・山陽電気鉄道㈱取締役会長(1990年当時)の『広軌63形の導入と820型製作当時の思い出』(528号)から。広軌への改良工事や車両導入の興味深い話です。

(前略)2.モハ63形受け入れのころ
山陽電鉄が、モハ63形電車を受け入れて、運転するようになったことによって、当社の輸送施設は、革命的な変革を遂げた。 そのことをご説明するためには、それ以前の施設の状況と、戦争の被害という、山陽モハ63の前史に、若干触れなければならぬ。(中略)

b)
戦争中の状況と空襲被害など
戦争末期の山陽沿線には、軍需産業の大工場が多数建設されて、輸送需要が急速に増大したため、車両数が極端に不足して、酷使を重ねることとなった。その最中の昭和2069, 77日の二回にわたり、当社明石工場は空襲による甚大な被害を受けた。(中略)加えて、敗戦直後の昭和20918日の台風と同年109日の集中豪雨によって、残存車両のうち多数が、床下浸水のため運転不能に陥り、さらに同じ頃、西代工場の巻線工場が失火によって焼失するなどのため、空襲よる明石工場の機能停止とあわせて、故障修理も思うように進まず、車両事情は極度に悪化して、ついには、全線を通じて可動車数両に過ぎぬ状況にまで低下し、運転は麻痺状態に陥った。

このため、兵庫須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。このため兵庫一須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。けれども、当時緊急に必要とする可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。   

c)全国的車両復興対策の状況
空襲による被害と、戦争中の人員資材の欠乏したなかでの酷使と合わせて、著しい車両不足に陥っていたのは、当社だけでなく、運輸省はもちろん、各私鉄会社共通の問題であった。したがって、当時の全国的な多数の新造車両の要求を充足するためには、同一形式の車両を大量生産的に新造するほかないとの判断によって、運輸省と、当時の各私鉄の統制団体であった日本鉄道会とは、昭和20年下期および21年度における、路面電車以外の新造電車の形式を、運輸省モハ63形・一形式に統一して、運輸省で一括して新造し、 とくに緊急増車を必要とする私鉄には、これを払い下げて使用させることとした。当社が、前記のような当時の線路条件に対しては、全く奇想天外とも言うべき、モハ63形の導入を決断せざるを得なかったのは、 このような事情によるものであった。 

3. 山陽向き広軌モハ63形の概要
山陽電鉄に割り当てられた20両の内訳は、電動車10両と、そのぎ装を制御車設計に変更したもの10両とであって、(中略)竣功したときの車両番号はモハ6380063819で、偶数番号車が電動車、奇数番号車が制御車であった。現車の側面中央には、省電と同じ様式で、この番号が標記されていたが、社内では簡単のため800形と呼び、入線後車体正面には800番代のみの番号標記がなされていた。台車は、MT共に電動車用のT R25A(後のD T13)であるが、輪軸を、各部直径はそのまま、軌間1,435mm用に単純に延長し、これに合わせて台車枠の幅が拡げられていて、MT40形主電動機が歯車側に寄せて吊りかけられた。従って車軸強度が狭軌用原設計に比べて、著しく低下しており、後に材質レベルの高いものと交換して、その設計の弱点を補った。  

車体については、元来モハ63は、車体の構造やアコモデーションが、戦時の最低仕様とも言うべきものであったから、製造過程で川崎車輛の協力を得て、たとえば台枠構体の組み方や、天丼の張り方などにおいて、番号の若い車両から高い車両に向かって、少しずつ改善を加えていった。このため、わずか20両ながらその中のヴァリエーションが、当時の急速な技術復興の歴史を物語っていた。

4.  63形の受け入れ
川崎車輛から当社線への輸送については、車体は1067mm軌間の仮台車に乗せ、台車は省有の長物車に積み、この2両を編成して山陽本線経由で回送した。前半12両の受け取りは、省線飾磨線と当社線とが並行する当社手柄駅付近に、当社側で側線を設け、飾磨線の本線路上から当社側線へ横取りをした。(中略)現在では考えられないような荷役作業であった。 

後半8両の受け取りは、下記の線路改良が進んで、明石以西にモハ63形が運転可能になったので、省社の側線の並行していた明石駅構内で行った。さて、前記のような状況の線路へ、いきなり車長20m、車休幅2.8m、軸重最大15tという大形車両を持ち込み、これを運転しようというのであるから、当然全線にわたって、線路施設の大改良が必要であった。その工事は、主として軌道中心とホームとの間隔の拡大、 ホーム延長、線路中心間隔の拡大、および橋梁、橋桁の補強などであって、 これらを、条件の良い姫路方から東に向かって着工し、その進捗に応じて、逐次運転区間を延長した。

22510日姫路網子間の運転を開始し、次いで八家貨物駅(営業は白浜の宮まで) 大塩、という段階を経て、2331日ようやく姫路―明石間の運転開始に漕ぎつけた。明石姫路間に63形を、兵庫姫路間の急行には従来の小形車両を使用した。明石以東の軌道線は、電車線電圧600Vであったため、この機会に1500Vに昇圧して全線の電圧を統一することとし、その工事は昭和2310月に完成した。同時に、軌道線所属600V専用車は、12両を昇圧改造したほかすべて廃車または譲渡した。そして231225日ダイヤ改正を行い、63形は全線に運転されることとなった。

 しかし、線路施設の改良は、63形運転の最低条件を辛うじて充たして、無理やりに運転を強行した感を免れず、そのため全線にわたり直列ノッチでのノロノロ運転を行った。それを若干改善するため、昭和24年には一時的に、直列最終段で弱界磁の入るよう電気回路に手を加えて、変則的ながら最高速度60km/h程度の運転ができるようになり、さらに線路改良の進捗に伴って、昭和28年には、本来の設計に戻って並列運転となった。

5.昭和20年代前半の山陽63
戦時形最低仕様、粗製乱造と悪名高い63形のイメージを少しでも薄めたい、というのが当時の担当者の願いであった。そこで昭和24年には、貫通路に幌の取付けと扉の撤去、運転室仕切り壁にガラス窓を開設、三段窓を二段窓に改造、座席の奥行き寸法の拡大、外部色の変更などを行うと共に、 天井板のなかった若い番号の車両には これを取付けた。また同じ時期に前者の番号の整理変更を実施したので、その機会に形式を700形と改め、番号を700719に変更した。全線で運転が可能になった後は、主として兵庫―姫路間の急行と、網干線で使用されたが、当社従来の車長15m、幅2.4mの小型車両に比べて格段に大きい収容力は、昭和20年代初期の輸送力逼迫の窮状を救い、主力車としてその責務を果たした。また、無理にもこの63形を導入したことが、当社の線路施設を向上させる契機となったわけで、山陽電鉄の歴史の上での63形の役割の意義は深い。
(引用終わり)

と、
63型導入の経緯に始まり、車両の運び込み、改良、運転そして最後に導入の意義を述べられている。
また、528号誌には、DRFCに多大のご理解を下さったと伺っている、故吉川文夫さんも『山陽700系の変遷と共に-63形電車が私鉄輸送に果たした役割』の文を寄稿されている。曰く、「広軌ロクサン」、「大きすぎて」など面白い話が、「私鉄へ入った63系その後」と共に掲載されています。

さて、関 三平先生のイラストですが、702+709は、1964(昭和39)年に車体を補強、内装の不燃化、窓の大改造などで再出発したものです。四扉車である以外、大きな変貌です。ベンチレータは交換され、63型、山陽700型の特徴であった前面通風器はシールドビームの前灯に変わりました。残念ながら筆者にこの写真はありませんでした。三平先生に本当は、702以外の700型のカラーイラストを掲載して欲しかったと残念がっています。 山陽に来た6320両の内、712+7131951(昭和26)年9月西代車庫で全焼しましたが、台車機器を利用して19572700+2701として復活しました。車体長は元の20mから18.67mに縮められました。しかし、大型車の印象以、63型の面影はもはやありません。2701の台車は川崎車両試作のOKA-20空気バネ台車で、2700はモハ63時代からのDT-13Sでした。
写真は、塩谷付近で洋館をバックに快走する特急です。
 

 

こちらは、長田での市電とのデッドセクションを行く2701+2700です。いかにも大きな車体で、デッドセクションを通過しました。 

 最後は、東垂水-滝の茶屋間、カメラは茅渟湾を東北東に大阪市の方向を眺めています。車両は705+704です。705の屋根前寄りにはベンチレータがありません。電装してパンタ設置予定の空間でした。

右端信号機に重なり、円柱形木製の架線支柱のあるところ、線路は隠れていますが、複線当時の国鉄山陽本線です。海と山の極めて狭い場所の一番下段です。中段が完成まじかの山陽本線の新しい線路で、真新しい鉄製の支柱。複々線完成後は、下段が山陽線下り線で西行。中段が上り線で東行。上段が山陽電鉄線です。

 仮定の話ですが、もしかしてモハ6380081920両が山陽に来ずに、国鉄で、しかも関西地区配属で山陽線電車区間を走ったとしたら、西明石まではこの下段を走り、京都まで復路は中段を走ることとなったかも知れませんでした。現実は上段を走り、山陽に多大の貢献を果たして長く活躍し、廃車もしくは改造され、最後の車両も1985年に姿を消しました。

山陽電鉄のロクサン

tsurukameさんの投稿を追いかけるようにが山陽電鉄のロクサン、700型登場!

以前に掲載されたtsurukameさんの投稿記事を参照しながらご覧下さい。それにしても阪急京都線にも投入計画があったとの記載には驚きました。皆さん、ご存じでしたか?P6と63がすれ違う、63をP6が追い抜く、なんてことがあれば見たかったなぁ!

南海のロクサン

モハ63は諸先輩の思い出の中で生き続けていたことがわかりました。たしかに人生と重なる電車でした。今回はtsurukameさんの山陽のロクサンと同じように南海へ売られていったロクサンの話です。ただ読んでみると貧しかった戦後の子供達とおなじようなロクサンの中でちょっと裕福感のあるロクサンです。

63によせて

三井三池にはかないませんが、秩父の63のなれの果ての写真がありますのでご紹介します。撮影は平成11年4月3日 当時は群馬郡群馬町、今は高崎市群馬町保渡田というところにある自動車整備工場の一角にあるデハ801の廃車体です。秩父に来る前は 小田急の1800系だったそうで、昭和54年10月に秩父に来て平成2年3月に引退したようです。従って廃車後9年経過後の姿になります。自動車整備工場なので、色あせてはいるもののかなり手入れはよく、倉庫ではなく日常生活用に使われていたようです。パンタはありませんが、台車はそのままでした。今でもまだあるのかどうかは不明です。秩父鉄道沿線でもない榛名山のふもとになぜやってきたのかわかりません。運び込むのも大変だったと思われます。何しろ狭い場所に鎮座していてこんな写真しか撮れませんでした。車歴などは諸先輩の解説をよろしくお願いします。

モハ63形 → クモハ73形


  仙石線 陸前大塚~陸前富山間を走行する特別快速石巻行
  クモハ73003+サハ78008+モハ70124+クハ79230 の4両編成 (49-4-29)

関 三平さんの「昭和の電車」は、四国の電車が続いたので次は九州かと思っていたところ、63回に因んでモハ63→クモハ73であった。次回64回目は「クモハユニ64」ということはないだろう。

今回のイラストは電車の行先が「上野」になっているので常磐線のとある駅の風景と思われるが一寸見当がつかない。お判りの方はご教示願いたい。隣にはクモハ73の近代化改造車が描かれているので時期は昭和37年以降であることが判る。 

クモハ73形とそのグループは、戦後の国鉄を代表する通勤型電車で、東は仙石線から西は山陽本線の小郡まで活躍した。車体の老朽化や使用線区に応じて手を加えられ、施工時期や工場により差異のため、細かく観察すると1両として同一スタイルの車両が存在せず興味が尽きない。これらを全部解説すると500ページの本になってしまうので、クモハ73形の一部を紹介させていただきたいと思う。

クモハ73010/昭和23年近畿車輌でモハ63526として新製。27年3月吹田工場で改造。49年6月淀川区(片町線)で廃車。(47-12-1 住道)
モハ63形は、大阪向け車両と東京向け車両では仕様が異なっていた。外観上は運行窓が大阪向けが2桁に対し東京向けは3桁であった。
73010の経歴は、淀川区から36年11月に環状線101系化により東十条に転属、41年3月淀川区に戻ってきた。

クモハ73041/昭和22年日本車輌でモハ63593として新製。27年10月吹田工場で改造。59年8月広島区(可部線)で廃車。(50-2-2 広島)
広島区では当初呉線で使用し、後に可部線で使用した。窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。

 クモハ73052/24年汽車会社でモハ63823として新製。28年3月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-2-4 住道)

 クモハ73053/昭和23年汽車会社でモハ63769として新製。27年12月吹田工場で改造。51年10月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)

クモハ73059/21年日本車輌でモハ63393として新製。27年6月日本車輌で改造。54年8月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30下馬)
仙石線配置車両は防寒対策のため、暖房の強化、ベンチレータの取り替え、窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。

クモハ73061/21年汽車会社でモハ63214として新製。27年6月日本車輌で改造。60年6月広島運転所(可部線)で廃車。(42-3-26武蔵中原区)

クモハ73062/23年汽車会社でモハ63746として新製。28年4月日本車輌で改造。49年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)

クモハ73073/22年川崎車輌でモハ63632として新製。27年7月日本車輌で改造。47年3月淀川区(片町線)で廃車。台車はDT15。(47-2-16 京橋)

クモハ73075/22年日本車輌でモハ63419として新製。27年8月日本車輌で改造。51年12月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)
 

クモハ73081/22年汽車会社でモハ63215として新製。27年8月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)

クモハ73083/22年日本車輌でモハ63395として新製。27年8月日本車輌で改造。51年4月淀川区(片町線)で廃車。(48-6-17 住道)
 

クモハ73091/昭和21年日本車輌でモハ63297として新製。27年9月日本車輌で改造。51年11月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)


クモハ73098/23年川崎車輌でモハ63848として新製。28年4月汽車会社で改造。51年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はウイングバネのDT14。(48-4-30上:東塩釜 下:下馬 臨時快速「コバルト金華山号」)

クモハ73108/23年川崎車輌でモハ63802として新製。28年5月汽車会社で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-25 住道)
 

クモハ73129/23年汽車会社でモハ63755として新製。27年12月日本車輌で改造。47年2月沼津区(御殿場線)で廃車。(41-2-14 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。

クモハ73134/22年近畿車輌でモハ63544として新製。28年8月東急車輌で改造。51年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)
 

クモハ73159/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年9月汽車会社で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(49-2-1 大阪)


クモハ73189/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年12月汽車会社で改造。51年11月淀川区(片町線)で廃車。(45-11-15 京橋)
経歴は41年3月下十条から明石に転属、45年2月淀川に転属。暫く茶色のままで使用。

 クモハ73193/23年汽車会社でモハ63787として新製。27年12月汽車会社で改造。 47年4月沼津区(御殿場線)で廃車。台車はDT15。(41-1-23 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。

クモハ73205/23年汽車会社でモハ63779として新製。28年1月汽車会社で改造。 50年3月西明石区(大阪緩行線)で廃車。台車はDT15。(47-3-12 大阪)
 

クモハ73247/22年汽車会社でモハ63667として新製。27年10月東急車両で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(47-12-1 )

クモハ73273/23年汽車会社でモハ63771として新製。27年12月東急車両で改造。 52年3月武蔵中原区(南武線)で廃車。台車はDT15。(50-3-23 稲城長沼)
「稲田堤」の行先板は珍しい。

クモハ73287/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 55年1月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30 下馬)


クモハ73295/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 49年12月鳳区(阪和線)で廃車。台車はDT14。(47-12-10 )
 

 クモハ73297/23年日本車輌でモハ63776として新製。28年2月日本車輌で改造。 55年7月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30 東塩釜)


 
クモハ73301/21年日本車輌でモハ63267として新製。28年5月日本車輌で改造。 52年8月鳳区(阪和線)で廃車。(47-12-10 天王寺)

クモハ73331/24年汽車会社でモハ63825として新製。28年6月汽車会社で改造。55年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はDT15。(48-4-30 下馬)
 

 クモハ73337/24年汽車会社でモハ63801として新製。28年7月汽車会社で改造。53年8月弁天橋区(鶴見線)で廃車。(47-2-20 大阪)
 
 クモハ73403/25年川崎車輌でモハ63857として新製。当時新製されていた80系(湘南形)70系(スカ形)と同レベルで製作されたため、特に改造されることなく、28年6月改番。モハ63形出身の73形のラストナンバーであった。50年3月淀川区(片町線)で廃車。台車はDT14。(47-12-10 住道)


【近代化改造車】
モハ63形出身のクモハ73形、モハ72形が老朽化してきたため、昭和37年から大規模な改造が行われることになり、クモハ73形、モハ72形各44両と、ローカル線転用に伴うクモハ不足に対応するため、モハ72形に運転台を取付けクモハ73形500番台に改造する工事が20両実施された。外板の張替え、車内化粧板のメラニンプラスチック化、窓の2段化とアルミサッシ化等が実施され、見違える程になった。こちらについてもクモハ73形の一部のみ紹介する。
また、これらの改造以前に、昭和35年吹田工場で試験的に改造された車両についても紹介する。

クモハ73001/昭和35年12月吹田工場で実施された試作整備改造車。経歴は21年日本車輌でモハ63143として新製。27年3月吹田工場で改造。60年6月広島区(可部線)で廃車。(41-8-25 京都)

   クモハ73233/昭和36年4月吹田工場で実施された整備改造車。経歴は22年日本車輌でモハ63579として新製。27年9月東急車両で改造。51年4月淀川区(片町線)で廃車。(48-11-3 京都)
 
 クモハ73020/22年近畿車輌でモハ63506として新製。27年3月吹田工場で改造。40年2月鷹取工場で近代化改造。52年2月淀川区(片町線)で廃車。(48-2-4 住道)
 

クモハ73024/22年日本車輌でモハ63515として新製。27年11月吹田工場で改造。38年6月吹田工場で近代化改造。55年10月沼津区(御殿場線)で廃車。(47-3-1大阪) 

クモハ73028/22年川崎車輌でモハ63562として新製。28年3月吹田工場で改造。38年10月吹田工場で近代化改造。54年11月沼津区(御殿場線)で廃車。(49-4-27  沼津)
 

クモハ73045/22年汽車会社でモハ63711として新製。27年10月吹田工場で改造。40年2月浜松工場で近代化改造。51年10月淀川区(片町線)で廃車。(48-7-15  住道)
 
 クモハ73114/23年近畿車輌でモハ63845として新製。28年6月汽車会社で改造。40年11月鷹取工場で近代化改造。55年5月沼津区(御殿場線)で廃車。(49-4-27  沼津)

  クモハ73359/23年汽車会社でモハ63759として新製。28年5月汽車会社で改造。38年2月吹田工場で近代化改造。54年9月沼津区(御殿場線)で廃車。(42-6-8  京都)
 
 クモハ73517/22年汽車会社でモハ63759として新製。28年3月豊川分工場で改造してモハ72231となる。42年3月大井工場で近代化改造と運転台復活。53年2月武蔵中原区(南武線)で廃車。(50-3-23稲城長沼)


ジュラルミン電車から全金属車に改造された車両と事故復旧時に全金属車に改造された車両、103系と同様の車体に乗せ換えた車両等については、機会があれば紹介したい。

本日の185系(157系色+湘南色)

本日のあかぎ4号の新前橋から上野9:41着と あかぎ1号上野19:00発の新前橋までと 関連の回送列車はOM08(157系色)とOM03(湘南色)の14連でした。185系の14連の運用はこれしかありませんので なかなかこの編成の組み合わせはお目にかかれません。運用をたどり今日こそと東十条で写してきました。18:40にやってきました。19:00上野発のあかぎ1号を写したいのですがは暗くてきびしいのでその前の回送列車です。雰囲気だけでもお楽しみください。


上野に向け快走(回送)中

左 OM03( クハ185-306)  右OM08(クハ185-214)です。

本日吾妻線で651系7連(K104)の試運転が行われたようです。近いうちに大宮の185系は655系に置き換わるようです。

山陽電鉄、標準軌間のモハ63型

モハ63、筆者にとって何とも懐かしい電車です。省線立花駅から三宮までの往復で何度も乗車しました。それから0番のキットを買い、初めて作ったのも、全長50cm近くのモハ63型模型電車でした。

尼崎から神戸に移住した1951年以後は、山陽電鉄700型としょっちゅう出会うことになりました。小学校校舎に接して北側が山陽電鉄東須磨駅です。5,6年生の時、我々は南側の教室でして、電車の見える北側教室がうらやましくて仕方がありません。よく北側教室に忍び込み、窓から駅を見下ろし、通過する700型などを見に行ったものです。

終戦後、国鉄同様私鉄も多くの車両を失い、輸送がままならぬ状況は諸兄ご存じの通りでした。国鉄で設計製造した63型を国鉄が一括発注し、私鉄に振り向けられた総数116両の内の20両(モハ63800-819)が山陽電鉄向けでした。その内の奇数番号車はクハでなく、モハの無電装車だそうです。製造は全車川崎車両。車両様式はモハ63型に準じているが、座席、天井、配線工事などの細部は、電鉄の注文に応じて改善されていたそうです。

山陽に入線当時、番号の内モハを取り、800-819をそのまま使用していたようですが、1949年700型700-719に改番されたので、筆者はその番号車を見ていません。また、入線時の窓は三段でしたが、のち二段に改造され、下側の窓には他の形式車両同様、保護棒が取り付けられています。また、下の写真717号車は未電装車ですので、屋根の先頭部にはパンタの設置予定スペースがそのままです。パンタ台はさすがに取り払われていますが。

初めて写真に撮ったのは、1960年9月モノクロでした。カラーは下の画像1962年1月が最初です。
この兵庫駅は1963年4月7日、神戸高速鉄道の開通にともない消滅しました。ここから西代駅までの約2km近くが道路併用軌道です。国鉄様式の大型車両が、電圧も軌間も異なる山陽電鉄に入線。その翌年に昇圧や駅ホームの延長など、幾多の困難を解消したとはいえ、道路併用軌道を走り、その上に長田では神戸市電と平面交差するのですから、それはそれは大変な事柄だったのです。

こちらは、姫路市の女鹿-白浜の宮間。筆者が正月に山陽電車を撮影する時はカラースライドでした。直線の多いこの区間は静かな播州米の産地でもありました。この辺りではさすがの大型車両でも様になります。

翌年の正月、須磨浦公園を過ぎて塩谷に向かう途中です。昔、右手石段組の坂道を上ると、藤田ガーデンがありました。今は失くなりましたが跡地に大きなマンションが建ち、当会の有名なお方が住んでおられます。

山陽に来た20両の内、2両を西代車庫の火災で失いましたが、18両が健在で撮影時にも頻繁に出会いました。
戦後の混乱期の電鉄に、大いなる貢献を果たしたモハ63型700形式ではありましたが、他形式へ転換車などを除き、老朽化が進み、20数年の活躍の後に、1969年までに廃車されました。

山陽電鉄とは無関係ですが、モハ63の話題のついでに、ジュラルミン電車のことを少し。

1946年川崎車両においてジュラルミン電車6両が誕生しました。モハ63400-402(電装して蒲田電車区に配属時は、モハ63900-902と附番された)、サハ78200-202です。下の写真は川崎車両の完成時の公式写真です。
(『蒸気機関車から超高速車両まで-写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史-』、川崎重工車両事業本部、平成8年、交友社)より。 材料は終戦で不要となった航空機用ジュラルミン10万トン活用の一端として車両製造に向けられたものです。ただ、無塗装であったため、腐食が進み、のちに塗装されたり、全金属車に改造されています。(『国鉄電車の歩み』、交友社、『電車のアルバム』、交友社を参照)

アルミニウム金属を主体に、第二成分として銅を混ぜた金属アロイ(合金)がジュラルミンです。新幹線車両をはじめ、最近の車両に使用されるアルミ合金はアルミニウムに、第ニ成分にマンガンを、第三成分にシリカを(6N01)、もしくは亜鉛を(7N01)のアロイです。こうしたジュラルミンは立派なアルミニウム合金ですし、『ジュラ電』はアルミ合金製車両の先駆車でもあると筆者は考えます。勿論台枠は鉄、内装材に一部木材も使用され、オールアルミカーではありませんでした。オールアルミカーが誕生するのはジュラ電から16年後、山陽電車の2012+2505+2013です。やはり川崎車両製でした。これはオールアルミカーの第一世代車と呼ばれています。そして現代の新幹線車両などは第四世代のオールアルミカーと呼ばれています。調査事項も含め、この辺のことは、別の機会に稿を改めます。

コメント投稿機能の不具合について

こちら管理人の小西です。
先月末より、特定のユーザからコメントが投稿できないという不具合が報告されています。当初はよくあるスパムフィルタの検閲によるコメントブロックを疑いましたが、検閲リストに該当コメントが残っていないため、原因は異なるようです。

他にも調べてみたのですが、残念ながら現在原因不明です。drfc-ob.com開設からかなり時間が経過しており、掲示板のバージョンも古くなっているため、現状改善を願って最新版にアップグレードしてみる予定です。
アップグレードに伴い、掲示板の投稿画面の仕様(見た目など)が微妙にかわる可能性がありますが・・・悪しからず。

こんなん、出てきました。(2) 明延の一円電車

 両親が住んでいた家の物置を片付けていると、あやしいダンボール箱があって、開けてみると40年ほどたった鉄道模型の遺物がありました。このときはこのダンボール箱を発掘調査をせずに、次の日に発掘調査をおこなったのであります。すると模型の遺物だけでなくカラースライドの入った箱があり、調べてみると高校生の時に撮った写真がありました。中には親父が撮った写真があり、還暦をすぎたおじいが小学生の時の姿が写った写真もあったのです。鉄道の写真では全部を調べていませんが、とりあえず見つかったのは「明延の一円電車」「播但線のC57、C57とDF50の重連、キハ58か28の急行列車」「日中線の列車 喜多方駅と熱塩駅」などです。とりあえず「明延の一円電車」の写真4枚を・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上の写真をごらんのようにフィルムは退色していましたが、エプソンのスキャナードライバーソフトにある退色復元をおこなうと何とか見られるようになります。ただし、カビとかフィルム表面が傷んでいると、カビの部分が青くなったり、フィルムの傷んだ部分が赤くなったりして、あとは画像処理で修復しないと戻りません。実際にやってみると正倉院の御物の修復みたいで、このような作業も面白いものです。親父も写真が好きで会社の仲間とよく撮影旅行に行っていました。モノクロ写真もありましたが、カラースライド写真も多く、よく家で映写会をしていました。そのときの映写機とスクリーンもまだあります。親父は晩年に撮った写真のほとんどがリバーサルフィルムで撮影してプリントしていました。発色がいいのでしょうか。

 左の写真がスライドフィルムです。紙のマウントを使用しています。これはまだ固定されていますが、はずれているものもありました。これを見ても退色しているのがよくわかります。

 撮影に使ったカメラはペンタックスSPでフィルムは富士フィルムです。さくらフィルムも時々使いました。親父は桜の花や紅葉など華やかな被写体や赤系統の色調の写真はさくらカラーで、新緑の風景など緑系統の色調の写真はフジカラーと使い分けていました。 いま使っているCANON EOS10のフィルムカメラは親父が使っていたものです。ただし、レンズは新しく買ったものを使用しています。

 

 左の写真は当時の切符です。1円の切符は鉱山に勤めている人や家族の人が乗るときに使用する切符で、10円はそれ以外の人が乗るときの切符です。ゴム印で押したもので「明神電車」とあります。裏はなにもありません。

 なぜ、一円電車に乗ったかというと当時は鉄道友の会に入っていて、阪神支部の見学会に参加したためです。友の会の会報も残っています。また、雑誌鉄道ファンにある友の会のページにこのときの様子が書かれてありました。また、発掘調査後、埋め戻したので調べるためには再度発掘調査をしなければいけません。そのうち、また発掘調査をするでしょう。当面は遺物や御物の修復技術の習得に励みたいと思っています。

元気な四国の私鉄は老人のアイドル

伊豫のプリマドンナ100形、200形は新製時、両運非貫通であった。3連化の時に片運改造がボツボツ始まり、貫通基本編成が定着した。1965年頃から西武所沢車両により車両更新が開始され、最初はプリマドンナより古い車が導入され、見た時はがっくりした。その後、冷房車導入で京王電鉄の支線か思われるぐらいに統一された。遠州鉄道と共に地方線区では最も優秀な民有鉄道と言われている。
それに比べ土佐電は、ヒイヒイ言いながらも話題に事欠かぬ存在で、今も観察をかさねている。2005年に訪れた時はまだ新駅着手の時で、竣工するや行きたかったのだがドタマの関係でドクターストップとなった。昨年GW、ぶんしゅうさんにおねだりして新駅拝見が実現した。
今年3月17日、善通寺へ向け出発した。18日琴平駅で500号急行をお迎えした。琴電から記念品グッズとお土産を頂いた。それというのはお使いになった写真、老人が1958年9月9日に撮影したものを採用されたのである。各駅にA4版が、
高松築港、瓦町、仏生山、一宮、滝宮、琴平にはA2版で張り出された由。残念ながら他用で乗れなかった。
81年前に輿入れの時はマドンナと言われた?
立派な駅前から走り出す電車は恥ずかしそうだ

81年前に輿入れの時はマドンナと言われた?これが駅舎かとびっくりした立派な駅前から走り出す電車は恥ずかしそうだ

阪和線の113系

4月6日【19427】「最後の113系阪和色」で特派員さんの報告の通り、113系は4月1日のさよなら運転で阪和線から姿を消した。(実際には紀勢線で運用されている2両編成が入出庫を兼ねて日根野~和歌山間で営業運転をされており、完全に姿を消したわけではないが、日根野以北で営業運転をすることはないため撤退したと表現しても良いと思う)

113系は、昭和47年3月15日のダイヤ改正で阪和間を途中鳳のみ停車で45分で結ぶ新快速運転時に6両×3編成が投入され、新快速は2編成で足りるため、残りの1編成は103系で運転されていた快速に使用された。その後も快速用として増備されたが、どちらかというと脇役的存在であったように思う。

熊取~日根野間を走行する新快速/(
49-5-26

杉本町を通過する新快速/(
48-11-3

新快速のヘッドマークに蓋をして快速に使用中/(
48-11-3

普通に使用中。中間の4両は大船から転属してきたためスカ色/
48-9-15)堺市

先頭はクハ111-312


モハ112-1+モハ113-1のトップナンバーのユニットも在籍した。塗装は関西線快速色/(
48-11-3)杉本町

スカ色のモハ113-72/(
48-11-3)杉本町

堺市に停車中の快速/
(19-2-16) 先頭車はクハ111-5261

(
阪和色+湘南色×2+阪和色)(カフェオレ×4)の3色混合の8両編成

上記編成の2、3両目のモハ113-5027+モハ112-5027

上記編成の最後部

堺市に停車中の快速/
(19-2-16)
(
カフェオレ×4)(カフェオレ+阪和色×2+カフェオレ)の8両編成

上野芝を通過する上記の折返し

鳳駅に進入する
(カフェオレ×4)(阪和色×4)の8両編成/ (21-3-21)

上記の最後部で103系との並び

本日の183系と115系(両毛線)

今週初めに183系の「足利藤まつり」号を写していて足利フラワ-パークへ行きたくなり本日(5月4日)花見に行ってきました。
両毛線 富田駅が最寄駅でここから歩いて10分ほどです。
183系OM101 6両編成で富田到着です。ほぼ満席のお客様でした。
クハ182-1529です。

広大な面積の園内の藤の花はほぼ満開でツツジの赤色を含めた様々な色の花の共演はさすがにきれいでした。

大藤、八重藤、大長藤、白藤とつつじがきれいです。観光バスやマイカー、JRや東武鉄道利用で多くの方が来られていました。

次の写真は園内の白藤と115系です。

115系、107系、211系、183系、485系と多くの電車が両毛線を走っていました。

伊予鉄道 100、300、600型など

 1961年3月20日撮影、四国・伊予鉄道。あれから半世紀が過ぎました。この時のフィルム画像は今もしっかりとしています。
そこで モハニ200型に続き、残りの形式も一挙に公開します。参考書は、小生の写真も掲載されている、『伊予鉄が走る街 今昔』、2007年7月発行、JTBキャンブックスです。

先ずは100型。1931年日本車両製。高浜線電化に伴い新造。モハ101号のみ前面に押し込み通風機が設けられています。モハニ200型、クハ400型と固定編成を組み、モハ100型が高浜方向を向いています。反対側が前回紹介のモハニ200型です。松山市駅にて。

モハ102、正面に、通風機はありません。大都市間を疾走する電車に似たオーソドックススタイルの車両です。
一見、省線電車を短くしたような雰囲気さえあります。古町車庫です。

同じくモハ103、松山市駅にて。

高浜近くの海岸沿いを走るモハ104+クハ404+モハニ204の3両固定編成車です。

モハ105は、初代クハ406を電動車化した車両で、両運転台の3扉車です。1952年改造され出来ました。モハ102の側面写真と比較すると良く判るでしょう。そしてもう1両のモハ106ですが、小生が訪問した時はまだ誕生していませんでした。二つ下の写真モハ303のところで説明します。

次はモハ300型です。1950年に4両登場したのですが、1961年に古町工場で大型車への改造工事が行われました。車体中央部を分断し、扉1個、窓4個を継ぎ足しのでした。また運転台も片運転台に変更されたそうです。
下の写真は、改造前のモハ301号車。

改造後のモハ302号。モハ304号車との固定編成。

同じく改造前のモハ303号車。編成はモハ303+クハ406(と思われる)+モハニ206です。初代クハ405の改造車106号がまだできていなくて、モハ303を使用した3両編成です。モハ300型との編成の最後の姿です。書籍等にこの辺の記録写真は少なく、その意味では貴重な写真かも知れません。303号、301号もこの年に3扉の延長化が終わり、両車で固定編成を組みました。

また、モハ106号が完成後、この3両編成はモハ303と置き換わり、モハ106+クハ406+モハニ206の編成で活躍しました。モハ106号は、後に再び両運転台に戻され、やがては銚子電鉄801号になったことは、乙訓の老人のコメントを参照してください。

改造後のモハ304、モハ302との固定編成。

次はモハ600型、601号、602号です。1958年ナニワ工機製。もちろんオールスチール製。

反対側、モハ602号。松山市内駅にて。

衣山-山西間(当時、中間の西衣山駅はまだ出来ていない)の、国鉄予讃線陸橋下を行く、モハ602+モハ601。複線の用地がありながら、撤去のまま単線です。

DB-1。ぼっちゃん列車を牽引していた蒸気機関車の代替機として、登場した第1号車。1953年森製作所製。1965年まで活躍したそうです。

最後は、古町車庫での可愛い工事用車両。単車の30号。
以上が、前回のモハニ200型に続く、伊予鉄道高浜線の車両でした。

乗り遅れた連接車

準特急先輩の連接車シリーズは9回で連載が終わりました。自分では連接車は1枚も写していないと思っていたところ 名鉄揖斐線で写していたことをすっかり忘れていて 乗り遅れてしまいました。連載第3回の福井鉄道の770型が元名鉄揖斐線だったのも知らず、見過していました。岐阜市内は本数も多く、手軽に撮影できるので よく街歩きしたことをなつかしんでいます。路面電車はいいですネ。

平成10年10月31日 徹明町付近にて

777  平成10年10月31日 徹明町付近にて

平成14年12月29日 黒野駅にて

773   平成14年12月29日 黒野駅にて

福井鉄道に移った時点で塗装は一新されたのでしょうが、名鉄時代には2丁パンタだったのが 新型パンタ1丁に変わっているのですネ。

ところで上の黒野駅でおもしろい車両を写していましたので、付け足しながらご紹介します。ひとつは保線用のホッパー車で 国鉄のセキとホキを足して2で割ったような2軸貨車、もうひとつは軽トラを改造したモーターカー?です。1ton程度の小型ダンプを改造した保線車両は今でもよく見かけますが、軽トラが化けたのはあまり見た記憶がありません。この軽トラはスクラップになったでしょうが、ホムも生き残ってはいないのでしょうネ。

ホ繧

ホム106+ホム107

軽トラ改造のモーターカー

軽トラ改造のモーターカー

中国の蒸気機関車について(追補)

藤本氏の記事と関連コメントを見て、相生市で撮影していたことを思い出しました。写真をご紹介します。場所は赤穂ではなく 相生市の中心部にある中央公園です。藤本氏のコメントによると 平成9年に解体されたとのことですが、撮影月日が平成9年7月24日ですから、解体直前の姿ということになります。

寄贈した㈱美乃美は京都市左京区で盛業中の中国関連図書を扱う会社のようです。

↑ 1E1 貨物用 前進形 QJ6200

↑ 2C1 旅客用 人民形 RM1163

 ペーロンがとりもつ縁とはいえ 何でここに中国の蒸機なの?と思い 狭い場所でかつ逆光だったので早々に退散した記憶があります。今はモニュメントだけになっているようです。

伊予鉄道 モハニ200型

 1961年四国の私鉄電車巡りの最後は、伊予鉄道でした。松山市内線を撮影後、高浜線を訪れました。いずれも1961年3月20日の撮影です。
松山市駅のホームで撮影後、市駅の西の方に歩き、横河原線用の客車が多数見える地点でのモハニ201号車。中間にクハ101を挟んで後はモハ101。

市駅をさらに西に進んで古町車庫にて。202号車。後に火災で焼失、廃車されました。

二代目モハ203。他のモハニ200型と異なる扉・窓配置、メーカーも日立製(この一両のみ)で200型他車(日本車両製)と異なる。

モハニ204号車、梅津寺近く。海に突き出た納涼台(桟橋)が見える。

 

山西-衣山間を疾走するモハニ204+クハ404+モハ104、松山市駅行き。この付近は単線である。戦前は複線であったが、戦時中の供出で単線化され、1961年当時はそのままであった。1964年に再び複線化された。

古町車庫での205号車、405と105の固定3両編成。

古町近くの複線区間を行くモハニ206+クハ406と3両目はモハ106か?。2扉車に見えるので、クハ405の改造車106でなく、303ではないかと思われますが、乙訓の老人様いかがでしょうか。パンタグラフの位置も異なります。改造車の誕生は1961年4月だそうですが、半月あまり前の3月です。