土佐電鉄クハニ2000

お久しぶりの投稿です。

4月8日早朝、今までに経験の無い腹部の激痛に見舞われ近くの病院に駆け込みました。当直医しかいないので、鎮痛剤を点滴されて昼過ぎには恢復しました。経過観察入院を勧められましたが断り退院して家へ帰りましたが、今度は胸が痛くなり出し翌朝再び病院へ向かいました。診察の結果急性の胆嚢炎と診察され、救急車での搬送といわれました。緊急手術を受けて十日間の入院となってしまったのです。甲斐あって昨日退院してきました。その間、9日は休刊日でこの記事はありませんでしたが16日の記事を今日アップすることになり、申し訳なく思っております。

さて、今回は見た瞬間に西村さんの江若と見まごうばかりのそっくりさん、解説を読むと京阪からの車両とは別物とのことですがなにやら曰くのありそうな面構えですね。担当は藤本さんでしょうか、長老様でしょうか、それとも湯口先輩でしょうか、よろしくお願い致します。

今でも気になる江若鉄道(Ⅵ)

前回まで(Ⅰ)気動車、(Ⅱ)駅、(Ⅲ)客車、(Ⅳ)貨物列車と貨車、(Ⅴ)国鉄バス若江線と話を進めてきたが、今回は(Ⅰ)の気動車で紹介の漏れた車両について話を進めたい。気動車については多くの趣味誌で紹介されており、今更という気がしないでもないが、おさらいと記憶の呼び戻しの一助となれば幸いである。

【昭和44年4月1日時点での在籍車両】

〔非総括制御車〕キニ5両、キハ11両、ハフ4両
キニ4、キニ5、キニ9、キニ11、キハ12、キニ13、キハ14~キハ17、キハ20~キハ23、キハ51、キハ52
ハフ2、ハフ3、ハフ7、ハフ8

〔総括制御車〕キハ5両、ハ1両
キハ5120(元キハ30)、キハ5121(元キハ18)、キハ5122(元キハ19)、キハ5123(元キニ6)、キハ5124(元キハ24)、ハ5010(元キニ10→ハニフ10)

この内、非総括制御車のキハ17、20~23と総括制御車の解説を(1)で行ったので、今回はそれ以外の車両について解説する。

キニ4、キニ5
昭和6年日本車輌製で全長17.4mの堂々たる大型車で、エンジンはウォーケシャ6RDを搭載した。昭和16年木炭ガス発生装置を取付け代燃車化したが、キニ4は昭和26年1月、キニ5は25年3月に日野DA54を搭載してディーゼル化、昭和30年11月にDMH17に取り替えた。正面は当初4枚窓であったが、昭和31年10月運転台を左側から中央に移設した際3枚窓に改造された。(1)で解説したキニ6→キハ5123は当初から正面3枚窓であった。


キニ4/上(
41-2-19)浜大津 下(44-10-10)三井寺下


 キニ5/上
(43-9-28)浜大津 下(44-10-5)三井寺下

キニ9、キニ11、キニ12→キハ12、キニ13
キニ9は昭和10年、キニ11~キニ13は昭和12年日本車輌製で、流線形の堂々たるスタイルは、戦前、戦後を通じて江若を代表する車両であった。
エンジンは国産となり、キニ9は川崎KW127、キニ11~13はGMF13を搭載した。キニ9に昭和18年3月、梁瀬式隔膜型圧縮ガス装置を取付けたが、戦後間もなく取り外され昭和27年8月DMH17を搭載した。
キニ11と13は、昭和23年7月日野DA54に取替えてディーゼル化、昭和27年8月DMH17に取替えた。
キニ12は昭和17年3月木炭ガス発生装置を取付け代燃化、昭和25年日野DA54に取替えてディーゼル化、昭和27年1月DMH17に取替えた。昭和35年3月大鉄車両で車体の大改造が実施され、写真のようなスタイルになった。
キハ12とキニ13は岡山臨港鉄道で再起し、同社のキハ5001、5002となった。


 キニ9/上
(44-10-4) 下(44-10-24) 三井寺下


キニ11/上
(39-12-15) こだま色の時 中(44-10-4) 下(44-10-5) 三井寺下


キハ12/上
(41-2-19) 浜大津 下(44-10-10) 三井寺下

キニ13/
(43-9-28) 三井寺下

岡山臨港鉄道キハ5002/
(49-11-23)  南岡山

キハ14~キハ17
キハ14~16は昭和25年、キハ17は昭和28年に国鉄からキハ41000形を譲り受けた。国鉄時代の車号は次の通りである。
キハ41014/8年3月日車(24年9月30日付廃車)→キハ14
キハ41023/8年3月川崎(24年9月30日付廃車)→キハ15
キハ41044/8年12月日車(24年9月30日付廃車)→キハ16
ハ41105/10年3月川崎(23年3月5日付廃車)→キハ17

譲受け当初、機関は日野DA55を装備していたが、キハ16は昭和33年3月にDA58に、キハ14、15、17は昭和35年5月DA59Aに換装した。車内は国鉄時代から変化はなかったが運転士席横の通称展望座席は撤去され、全室運転台になっていた。

ハフを引いてDTで走ることもあったが、DT編成の増結に使用されることが多かった。キハ16のみ御坊臨港鉄道(→紀州鉄道)で再起し、同一車号で使用された。また、キハ17が車内をお座敷に改造したことは(Ⅰ)に記述した通りである。

 キハ14/
(44-10-4) 三井寺下

 キハ15/
(44-10-4) 三井寺下

 キハ16/
(44-10-10) 三井寺下

紀州鉄道キハ16/
(52-1-16) 紀伊御坊

キハ51、52
昭和39年3月末で営業を廃止した熊延鉄道のヂハ201、202を譲り受け、順にキハ51、52となった。昭和28年3月帝国車輌製で、湘南形の正面はクハ86、クハ76の木製木枠時代を彷彿させるもので、2枚ずつ纏められた客室窓と相まって、いかにも戦後製らしい好ましいスタイルであった。機関はDMH17で、TC-2形液体変速機を装備していたが総括制御は不可能であった。車齢が若いので、廃止後次の職場での活躍を期待したが、買い手が現れず、惜しくも解体されてしまった。


 キハ51/上
(44-10-10)  下(44-11-1)三井寺下

 キハ52/上
(44-10-12) 近江今津 下(44-11-1)三井寺下

ハフ2(ハユフ15←キハ15)
昭和2年雨宮製作所製の元成田鉄道ガ101が前身。新製時車体長約10mありながら2軸車であった。昭和7年2月汽車会社でホイルベース過大の理由で片ボギーに改造された。戦時中の昭和19年1月11日成田~八日市場間の全線が運転休止(正式廃止は21年10月9日)となり、ガ101を譲り受け、キハ15となった。昭和25年エンジンを降ろし、近江今津寄りに郵便室を設置してハユフ15に改番、昭和28年窓の2段化と両ボギー化が行われ、昭和34年郵便室の客室化を行いハフ2となった。
内燃動車発達史上巻のP93に成田鉄道時代と片ボギー時代のハユフ15の写真が、下巻P82に両ボギー、2段窓化されたハユフ15の写真が掲載されているので、お持ちの方はご覧いただきたい。


 上
(39-12-29) 浜大津 こだま色 下(44-10-14) 北小松

ハフ3(←キニ3)
昭和6年1月、安曇~近江今津間開業に備え日本車輌で作られた。機関はブダ社のBA-6を搭載していた。昭和25年機関を降ろしてハフ3となった。


 上
(41-2-16) 浜大津 下(44-10-14) 三井寺下

ハフ7、8(←キハ7、8)
昭和7年に日本車輌で作られたディーゼル動車でダイムラーベンツ社製のメルセデスベンツOM5Sエンジンを搭載した。当時の技術では十分使いこなせず昭和16年はやくもエンジンを降ろしてトレーラー化されてしまった。


 ハフ7/上
(39-12-29) 浜大津 こだま色 下(44-10-14) 三井寺下


 ハフ8/上
(39-8-2) 浜大津 旧塗装 下(44-10-3) 浜大津

吉野鉄道モハ201形→近鉄モ5201形について

関 三平さんの「昭和の電車」は、元高野山電気鉄道の南海電鉄モハ561形の次は元吉野鉄道のモハ201形→近鉄モ5201形であった。

近鉄の中では、2200系の影に隠れてあまり目立たない存在であったが、名古屋線から南大阪線に戻った車両が最末期は別として比較的末期まで大阪(阿部野橋)~吉野間の急行で活躍していたことは特筆される。

長老より解説頂いているが、少しだけ補足を試みた。しかし、基本的な部分で不明点があり、ご存知の方はぜひご教示をお願いしたい。

(1)モ5201形の制御器がHLからALに変更された時期。昭和32年に名古屋線から南大阪線(含吉野線)に戻った時と思われるが確証が取れていない。

(2)ク6503を名乗る車両が2両存在した。初代ク6503が廃車後、別の車両がク6503に改番された結果と思われるが、2代目のク6503の旧車号が不明。私個人的には初代ク6503とク6501車号を振替えたのではないかと思うが、車号を振替える理由が見当たらない。あえて考えられる理由は、ク6501形7両を養老線に転属させる際に車体状態の良いク6503を名古屋線に残すため、ク6501と相互に改番して、転属車をク6502~6508に番号を揃えた。

いずれもピク誌のバックナンバーを丹念に調べると答えが簡単に見つかるかも知れないが、あいにく実家の物置に眠ったままである。 

名古屋線に転属後は、サハ301~310(改番後ク6501~6510)は制御器をABFに取換え、片運化、トイレ設置の改造が実施されて急行用となった。
モハ201~206(改番後モ5201~5206)とサハ311~314(改番後ク5511~5514)はHLのまま、普通列車や伊勢線で使用されたが、後にク5511~5514は制御器のABF化と片運改造の上、ク6511~6514に改番された。

長老が記されている通り、昭和32年に南大阪線の大型車モ6801形(6801~6804)とク6701形(6701・6702)とのトレードでモ5201~5206が南大阪線に戻り3連×2本を組んだ。モ5203と5206は電装解除され制御車として使用された。名古屋線改軌によりク6511~6514が南大阪線に戻り、制御車代用であったモ5203と5206はモ6601形の予備電装品で再度電装され、モ5211・5212となった。また、モ5205が5203に改番された。

名古屋線に残ったク6501~6510のその後の経過は、名古屋線改軌時にクハ6501~6509は標準軌に改造されたD-16に履き替え引続き名古屋線で、クハ6510は養老線に転属した。昭和38年にクハ6509、昭和45年にクハ6502~6508が台車を狭軌用のD-18に交換の上養老線に転属し、先に養老線入りしていたクハ6509、6510が廃車になった。

外板を全面的に張り替えたク6503(初代)以外は、全鋼製の頑丈な車体の故、新製時のスタイルを大きく崩すことなく使用されていたが、南大阪線は昭和49年、養老線は昭和52年までに廃車になった。

〔モ5201形〕
モ5201(46-6-6) 古市

 モ5202(42-8-20) 古市
 

モ5203(2代目)(46-6-6) 古市
電装解除して制御車として使用されていた、初代モ5203が電装の上モ5211となったため、モ5205がモ5203に改番された。

モ5204(46-6-6) 古市

〔モ5211形〕
モ5212(49-5-20) 道明寺
元モ5206で制御車として使用されていたが、モ6601形の予備の電装品で電動車化された。
 

〔ク6501形〕
ク6501(40-5-23) 四日市
2代目ク6503に改番されたと推定。

 ク6502(46-7-25) 西大垣

 ク6503(初代)(43-2-13) 白塚
事故復旧時に外板を張り替えノーシル、ノーヘッダーとなった。2代目ク6501に改番されたと推定。

 ク6503(2代目)(46-7-25) 西大垣
元ク6501と推定。

 ク6505(46-7-25) 西大垣

 ク6507(46-7-25) 西大垣

 ク6508(46-7-25) 西大垣

 ク6510(45-10-4) 西大垣
先に養老線入りしたク6509と6510は運転台が大垣向きであったが、ク6502~6508は中川の3角線で方転の上入線したため、運転台は桑名向きであった。

〔ク6511形〕
ク6511(43-12-25) 古市

 ク6512(42-8-20) 古市

 ク6514(42-8-20) 古市
この時点ではパンタが付いていた。

 ク6514(46-6-6) 古市

上記の不明点、推定部分については、ピク誌通巻219号、313号に記載されている可能性があり、お持ちの方は是非ご確認をお願いしたい。

琴電と琴参 あれこれ話

JR予讃線坂出・高松間に国分駅があるが、このあたりを境界に東を東讃(とうさん)、西を讃西(せいさん)と言っている。倒産して清算とは事業者にとっては良くない「語呂」だが、なぜか昔から両地域は対抗心が強い。その東讃の方に19111118日、私設鉄道法による東讃電気軌道が開業した。現在、高松琴平電鉄志度線を名乗っている。次いで1912430日、軌道条例による高松電気軌道が開業した。高松琴平電鉄長尾線である。真打は取りを勤めるもので19261221日、琴平電鉄が地方鉄道法により栗林公園-滝宮間を部分開業した。高松(瓦町)-琴平間が全通したのは1927422日である。この3社は戦時統合で琴平電鉄を核として1943年に合併、晴れて高松琴平電鉄を名乗ることになった。昨年、100周年を迎えJTB Can Books100年史が上梓されたが、クローバー会有志も協力している。読んで頂くと「琴電」は東讃の電車であることがよく分る。

西讃の電車だが、ここは四国の鉄道の“魁”と言える地で、1889年に丸亀-琴平間で讃岐鉄道が前年開業の伊予鉄道の後を追った。1897年に丸亀から高松に延長されたが、客足は伸びず経営不振となり1904年、対岸の宇野へ延長された山陽鉄道に買収され、1906年には官設鉄道の一員となった。西讃の中核都市は丸亀で、この地から琴平へ、電車を国道沿いに走らせる構想は早くからあった。しかし官設鉄道に平行しているとの理由で敷設は認められなかった。軌道条例による丸亀―善通寺間は讃岐電気軌道として1910年、やっと特許を取得することは出来た。ところが建設資金に齟齬をきたし、大阪方面をうろついた結果、1918年にやっと丸亀に本社を置くことが出来た。

開業できたのは1922年で、琴平参宮電鉄として丸亀―善通寺駅前間であった。その後、先ず琴平へ延長が認められ、更に善通寺から多度津へは地方鉄道法により延長された。これが大当たりとなり、以前「琴参電車あれこれ話」で紹介した。西讃は坂出にも港があり、大河の流入なく大型船の出入りが可能であるので拡張されることになった。琴参電鉄は丸亀から坂出へ地方鉄道法により延長、開通は1928年であった。西讃では更に琴平急行電鉄が設立され、琴参電鉄坂出駅前面道路を挟み斜め向かいから、琴参電鉄琴平駅前面道路真東向かいを終着点として1930年に開業した。苦しい経営を余儀なくさせられたのは自明のことで、琴参共々国から補助金の支給を受け営業していたが、1944年には不要不急鉄道として営業休止となった。戦後1948年、琴参電鉄に合併されたが、復旧されることなく1954年に廃線となっている。

琴電と琴参について述べよとの米手作市の指示応えたつもりである。その後だが東讃の電車は紆余曲折した上で現存しているが、西讃の方は時代の流れについて行けず、1963915日で営業を終えた。琴参電鉄は1965年近鉄の資本参加もあり多角事業に乗り出したが、本業であるバス事業が不振となり、近鉄は2006年に撤退した。2008年、ついに会社整理事業者となり、清算する嵌めになり、ここに琴平参宮電鉄は終わりを遂げた。その7年前、琴電も「そごう倒産」のあおりを食らったが、いまや再建の道を順調に歩んでいるのはご同慶の至りである。

悲しいかな、倒産、清算の語呂合わせが讃岐では存在したのであった。

琴電無蓋貨車は国鉄貨車2両分の台枠流用で自社仏生山工場製

琴電無蓋貨車は国鉄貨車2両分の台枠流用で自社仏生山工場製

 

琴電有蓋車は高松電軌引継ぎ車。終戦直後は客車代用車。
琴電有蓋車は高松電軌引継ぎ車。終戦直後は客車代用車。
琴参の無蓋貨車は日本商会と称するメーカー製
琴参の無蓋貨車は日本商会と称するメーカー製
琴参の��体不明の有蓋貨車の達磨さん
琴参の正体不明の有蓋貨車の達磨さん

リバイバル急行「志賀」と長野電鉄屋代線 撮影記

早いもので、長野電鉄屋代線が廃止されてから10日がたちました。

3月24日にしなの鉄道で、169系のリバイバル急行「志賀」が運転されるのと長野電鉄屋代線に2000系が入線するということで、「一石二鳥」ということで青春18きっぷを使って出かけてきました。

3月のダイヤ改正で、碓氷峠を越えるJRバスの時刻が変更となり、自宅から一番早く乗れるバスが10時横川発となってしまいました。このバスですと、軽井沢着が10時34分で、既に屋代発のリバイバル急行「志賀2号」は、軽井沢に到着済みです。折り返しのリバイバル急行「志賀1号」の発車は、10時56分ですので、ほとんど時間がありません。軽井沢駅脇の駐車場より出発を撮影しました。軽井沢での169系三両編成は、少々物足りませんが贅沢は言えません。

いっそうの事、このまま、屋代線に入線してくれれば、本当に様になったと思います。

その後、軽井沢駅の旧駅舎を利用した資料館で、草軽電鉄のL型電気機関車やEF632を見学したのち、しなの鉄道で、屋代へ。

屋代では、停車中のリバイバル急行「志賀」を撮影。

そのあと、徒歩で、長野電鉄東屋代駅へ移動。この駅周辺で、定期列車を撮影の後、いよいよ、2000系の団体臨時列車「ありがとう!長野電鉄屋代線SBCろくちゃん号」がやってきました。

屋代駅での折り返し時間があったので、帰りのアルコールの調達も兼ねて、周辺を散策。長野県立屋代高校には、「ありがとう屋代線」と電車から見えるように貼ってありました。

折り返しの2000系を撮影の後、徒歩で、しなの鉄道屋代高校前駅へ。

ここからしなの鉄道で、テクノ坂城というハイカラかどうかわからないような駅名の駅まで行き、駅付近で、黄昏時の時間を走るリバイバル急行「志賀3号」を撮影しました。

軽井沢発18時10分の最終のJRバスに乗り、峠を下りて、帰途に着きました。

また、ひとつ撮りたい鉄道・車両がなくなってしまいました。

KAWANAKAです。

報告が1日遅れましたが、4月7日、ぶんしゅう氏の地元である長岡京駅前のアジトで長期取材の報告、裏報告がありました。参加は地元のメンバーというのも止むを得ませんが、乙訓の老人、福田、ぶんしゅう氏と小生でありました。

詳細は紀行に詳細に記されているので書きませんが、一堂ぶんしゅう氏のエネルギーに改めて感嘆するとともに、氏から「あんたらもいきまへんか?」の誘いがありました。みなケツの穴が小さいのでモゾモゾしておりますが、会員の皆様は如何でしょうか。

老人から高尚な薀蓄がありましたが、皆さんDLになって、詳細は記憶していません。

燃料補給の状況をUPしておきます。なお、時々、この穴倉に集まろうということが決まったのだけ覚えています。

1987年の北条鉄道

西村雅幸氏「北条鉄道に行ってきました」を見て、須磨老人もレールバスにカンカンになっていた時期、まだモノクロフイルムで撮っていたのを思い出した。1987年4月18日だったから、四半世紀経過したことになる。


法華口に到達したフラワー1985-1+2
北条町駅
北条町駅 機回り線以外の側線が撤去されているが右側には土蔵様の長い倉庫が健在だった

のどかな北条町駅を発車

カーテンが風でなびくのは窓が開けられるからだが それすら無くなってしまった

粟生に到着 加古川線のディーゼルカーも今となっては懐かしい

その後北条町駅だけでなく、周辺全部が再開発で何から何まですっかり姿を変えてしまった。かつての駅と周辺は、播丹鉄道時代のままだったのは、三木鉄道三木駅と共通していた。法華口(勿論無人)は何とか面影を残すが。

富士重工業の2軸レールバス3両―フラワー1985-1~3での、1985年4月1日開業だった。三木鉄道はミキ180-1、2の2両だった。この年はユニバーシアード神戸大会開催年であり、総務担当だった小生は到底撮影になんぞ出られない。やっと暇になった11月、一人樽見鉄道、名古屋鉄道、鹿島臨海鉄道、三陸鉄道、下北交通、由利高原鉄道をめぐった。秋田で自宅に電話を入れたら、吉谷先輩が亡くなってその日が葬儀だという。間に合うはずもなく、居酒屋で冥福を祈り、銚子を追加したことであった。

連接車8

電車少年こと乙訓の老人様から私の撮っていない車両やカラー写真を送っていただいたので今回はそれを並べてみる。

仙台市交通局ダブルルーフ木造車改造の300形連接車。これは撮っておきたかった電車。超クラッシックスタイルと改造時の台車のアンバランスが魅力。 長町駅前での走行と中間台車↓

               名古屋市交通局3003と中間台車 ↓

広島電鉄5000形グリーンムーバーとその台車。ヨーロッパスタイル5車体連接の超低床車。台車がどこにあるのかさっぱりわからないが、それを撮影されているので大変参考になる台車の写真。

 

 南国鹿児島の連接車。鹿児島市交通局700形には大阪市交通局3001形を改造したものもあるという。 ↓

             筑豊電鉄旧カラーの車両。 ↓

岡崎公園に保存中の名鉄400形とそ中間台車。谷汲線走行中の姿はは連接車2[17097]参照。 ↓

福井鉄道200形の乗車の様子と鉄道線走行の姿。 福井駅前の路面停留所から荷物を三つも抱えてどっこいしょと乗り込むご婦人。これも貴重な写真。まだ、バリアフリーなどの言葉もない時代に路面線、鉄道線の両刀使いの苦肉の策の電車。鉄道線は上鯖江~家久間で福井駅前乗車風景ともに1992年10月18日の撮影。

電車少年さん有難うございました。撮影記録やこんな話、あんな話、補足説明等お願いいたします。

連接車(ミラノにて)

準特急様の連接車の連載、さすが見事な写真を毎回楽しませていただきました。「個人的には車両と車両の間に台車が丸見えの古いタイプが好きです」とのコメントで思い出したのがイタリアのミラノの路面電車でした。2009年6月の撮影です。ツアーの間のわずかな時間で写した写真ですがご覧ください。

2車体連接車です。こちらは扉の無い側面になります。

先ほどの写真のほぼ同じ車両の扉のある側面です。ドゥオモの屋上展望台からの写真です。

色違いの2車体連接車です。

これはみごとな3車体連接車です。進行方向は右です。
左の奥に新型車が見えます。
ミラノ市内には連接車や新型車のほかに「ベントット」とよばれる1928年から製造された古典的な電車が多く走っています。

ミラノの街並みを行く「ベントット」

右側通行ですのでこちら側に扉がありません。ミラノのスカラ座の前にて。

扉のある側面です。こちらの色はリバイバルカラーだそうです。ミラノ中央駅近くにて

標準色です。一番上の写真と同じ場所です。緑がきれいでした。

以上 イタリアのミラノの連接車と古風な路面電車の紹介でした。

長老様、出番です!高松琴平62号

ぶんしゅうさんそこのけの連投ですが風邪をひいて寝ておりましたのでお許し下さい。15mの湘南型とは、初心者用のOゲージ模型のようでおもしろいですね。長老様は見ただけではなくもちろん乗っておられるのでしょうね。素人並みの質問で申し訳ありませんが、高松琴平電鉄と琴平参宮電鉄の関係を教えて下さい。

全鋼車・近鉄5201系

昭和4年製で1000mmの広窓という。少し時代が下がるがオロ36とオロ40を思い出しました。

それにしても全鋼車ができたのが意外と遅いのに驚きます。近鉄のように各社が合併してできあがった会社は別として、阪急や京阪でも同じ頃なんでしょうかね?やっぱり地下乗り入れや都市間連絡の都会型電鉄は早いのでしょうね。

 

「また南海、デニ502」に寄せて


 水間鉄道モハ365 (45-5-24) 貝塚
高野山電気鉄道デニ501→南海電気鉄道デニ501→同モハ569→水間鉄道モハ365/元荷物室側は非貫通のままである。

昨年11月ズームカーの試験車「モハ1」が紹介されたので、南海は2度目でしかも再度高野線である。恐らく関 三平さんのご実家が南海高野線沿線で、特に思い入れがあるのではなかろうか。

今回の解説を読まれて「あれ?」と思われた方がおられると思う。「南海規格の車両の増備が進むと、デ101型8輌は本来の山岳区間専用に戻り、デニ2輌だけが直通荷物電車として難波に出入りを続ける。」ここまではその通りであるが、問題はその次の部分「501号は26年に火災にあい、別形式となるので、私が見たのは2つ目玉最後の1輌の502となる。」と記されているが、昭和26年に火災に遭ったのは502号で、関さんが見られたのは501号であると思われるが、火災前の502号だった可能性もあり、私はこちらを支持したい。

南海の電車は「難解だ」と言われる程複雑で私自身さっぱりわからない部分が多いが、今回の元高野山電気鉄道の電車はデニ501形2両とデ101形8両の10両のみで極めてシンプルである。

高野山電気鉄道は、高野線の高野下~極楽橋間とケーブル区間の極楽橋~高野山間を営業していた会社で、大正14年3月設立、昭和3年6月高野下~神谷(現在の紀伊神谷)を開業、同4年神谷~極楽橋間開業、同5年6月極楽橋~高野山間のケーブル区間を開業して、難波と高野山が結ばれた。当初、架線電圧1500Ⅴであったが、南海と直通運転を実施するため600Ⅴに降圧した。戦時中の私鉄統合により、南海鉄道と関西急行が合併して近畿日本鉄道となったが、高野山電気鉄道は統合されなかった。昭和22年3月社名を南海電気鉄道に変更して、同年6月に近畿日本鉄道から旧南海鉄道の路線を譲り受けた。

開業時にデニ501形2両とデ101形8両が日本車輌で新製された。車体は全鋼製、両運で、デニは荷物室側非貫通、デは両側とも貫通扉が設置され、50‰の急勾配、急カーブが存在する山岳路線のため、電力回生制動を持ち、ヘッドライトはイラストの通り屋根上に2個設置された。
昭和24年、デ101形はモハ561形に改番されモハ561~568となった。昭和26年にデニ502が紀見トンネル内で焼失したが、昭和28年デワ2001として復旧した。
戦後は
モハ1251形の増備により難波までの直通運転は中止となり、元の高野下~極楽橋間の区間運転用となった。

昭和38年から39年にかけて更新修繕が実施され、制御器の交換の結果、回生制動が使用不能となったため平坦線用となり住吉東~汐見橋間で使用された。この時デニ501は荷物室を撤去してモハ561形モハ569に改番されたが、元荷物室側は非貫通のままであった。

昭和43年から44年に廃車になったが、モ562とデニ501改造のモ569は水間鉄道に譲渡され、モハ364、365になった。

モ561+モ562+モ563の3連

 住吉東~汐見橋間で使用 / (42-5-28) 住吉東

水間鉄道モハ364

 (45-5-24) 貝塚

高野山電気鉄道デ102→南海電気鉄道デ102→同モハ562→水間鉄道モハ364


モハ364+モハ365/ (45-5-24)  水間~三ヶ山口

本日の特急「あけぼの」

定期列車としての ブルートレインは上野と青森を結ぶ「あけぼの」と上野と札幌を結ぶ「北斗星」の2列車となってしまいました。
「北斗星」は機関車も新製されある意味では将来を約束された列車といえるかもしれませんが、「あけぼの」はさていつまで走ることかと心配しています。本日朝上野駅13番線に少し遅れてに着いた「あけぼの」は 春休みに入ったせいかいつもより多くのお客様を運んできました。編成は下記です。
上野方 EF641032 オハネフ25 205 オハネ25 215 オハネ24 51 オハネフ25 121 オハネ24 554 オハネ24 552 スロネ24 552 オハネフ25 201 カニ24 116 青森方   全車盛アオ所属  オハネ24 51のみ白帯車  ほかは金帯車でした。

いつもの降車風景です。

はいチーズ。可愛いらしい姉妹でした。

本日朝 7時すぎの上野駅でした。

越後交通長岡線


 越後平野を走るモハ3001/越後日吉~王寺川間(40-3-25)

 3月15日【18458】「小田急HB車/廃車後の行方」で、越後交通に行った車を解説したが、引き続き越後交通長岡線に在籍した車両について紹介する。

〔沿革〕
大正3年3月3日、来迎寺~長岡~寺泊を結ぶ目的で中貫鉄道が設立され、同年8月7日、長岡鉄道に社名変更した。
大正4年10月7日、与板~寺泊間(初代)を開業、以降、同5年1月5日、与板~西長岡間、同10年11月18日、西長岡~来迎寺間が開業して全線開通した。
戦後の昭和26年12月1日、西長岡~寺泊間が直流750Ⅴで電化が完成したが、工事期間は僅か2カ月半であった。ちなみにこの時の社長は田中角栄氏であった。
翌年11月1日、西長岡~来迎寺間が電化され全線の電化が完成した。
昭和35年10月1日、長岡鉄道、栃尾鉄道、中越自動車の3社が合併し越後交通が発足。同社の長岡線となった。
昭和36年10月3日、寺泊新道~寺泊間(初代)休止。同区間を41年5月31日廃止して寺泊新道を寺泊(2代目)に改称。
昭和44年9月、架線電圧を750Ⅴから1500Ⅴに昇圧。
昭和47年4月16日、西長岡~来迎寺間の旅客営業を廃止して同区間は貨物専業となった。
昭和48年4月16日、大河津~寺泊間(2代目)廃止。
昭和50年4月1日、越後関原~大河津間を廃止、同時に西長岡~越後関原間の旅客営業を廃止して同区間は貨物専業となった。これにより旅客営業は全廃となり貨物専業となった。
平成4年4月1日、西長岡~越後関原間休止。
平成5年3月31日、休止中の西長岡~越後関原間を廃止。営業区間は西長岡~来迎寺間の貨物営業のみとなった。
平成7年4月1日、西長岡~来迎寺間が廃止され、全線廃止となった。

 〔車両〕
撮影した車両についてのみ解説する。

①電気機関車
EB111/昭和27年日本鉄道自動車製。一見D型機に見えるが2個モーターである。昭和42年に廃車され、秋田中央交通(八郎潟~五城目)に譲渡された。しかし、昭和44年7月11日に鉄道営業が廃止され、バス専業になったため、僅か2年の活躍であった。

 (40-3-25)
西長岡
 

ED211/書類上は昭和29年日本鉄道自動車製となっているが、その経歴は極めて複雑である。大正8年枝光鐵工所で京王電気軌道の「20」として新製。昭和8年無蓋電動貨車「15」に改造。更に昭和16年有蓋電動貨車に改造され、昭和19年5月東急との合併による改番でデワ2915となった。昭和23年6月京王帝都電鉄として東急から独立後、27年に廃車。翌年3月長岡鉄道が譲受けデワ102となったが、程なくED211に改番された。スタイルが電気機関車らしくないのは以上の理由のためである。44年の1500Ⅴ昇圧時に廃車された。

 どう見ても電気機関車には見えない/(43-8-30) 
与板

ED261/旧国鉄ED26と言えば、飯田線にいた元伊那電鉄買収機を思い浮かべる方が多いと思うが、あちらは2代目で、初代はこちらである。
富山ライトレールとなった旧国鉄富山港線の前身富南鉄道のロコ2として大正13年ウェスチングハウス社で新製され、昭和15年日本鉄道自動車で改造された。鉄道省に買収後も同一車号で使用されていたが、昭和32年の改番でED261となった。昭和35年5月に廃車になり、36年7月に譲り受けた。昭和44年西武所沢工場で1500Ⅴ昇圧改造されたが昭和55年1月廃車になった。


 (43-8-30)
西長岡

ED262/昭和44年の1500V昇圧時、改造入場時の車両不足を補うため西武鉄道からの借入車を譲り受けた。
旧武蔵野鉄道のデキカ11として大正12年ウェスチングハウス社で新製、旧西武鉄道との合併で11に、昭和36年の改番でE11となった。昭和47年撮影時には早くも休車で、いくらも使用しないまま廃車になった。

 (47-4-30)
西長岡

ED311/元西武鉄道のE31で、昭和31年西武所沢工場製である。昭和39年2月に譲受け廃止まで活躍した。

 (41-9-7)
 西長岡

ED401/昭和42年東洋工機・東洋電機製の箱型機で、廃止時まで活躍した。


 上 
(47-4-30)  下 (50-3-22)  西長岡

ED511、512/元長野電鉄のED5002、5003で1500V昇圧後の昭和45年4月に譲り受けた。ED511は昭和2年、ED512は昭和3年、日立製作所製である。昭和55年1月同じ長野電鉄から譲り受けたED5101、5102と交代して廃車になったが、ED511は長野電鉄に里帰りして、小布施駅構内の「ながでん電車の広場」で保存されている。

 ED511 
(47-4-30) 西長岡

 ED512 
(50-3-22) 西長岡

(参考)長野電鉄時代

 ED5002→ED511/
(45-3-17) 須坂~北須坂

 ED5003→ED512/
(45-3-17)
 

ED5101、5102/元長野電鉄のED5101、5102で昭和54年9月に譲り受けた。更にその前があり、元は定山渓鉄道のED5001、5002として昭和32年、新三菱重工三原製作所で新製された機関車である。昭和44年10月31日廃止により、長野電鉄に譲渡されたが、昭和54年3月31日限りで貨物営業が廃止されたため、譲り受けた。廃止時まで主力機として活躍した。
貨物専業になってからは訪れていないので、定山渓鉄道と長野電鉄時代の写真を掲載した。

定山渓鉄道ED5001→長野電鉄ED5101→越後交通ED5101

 定山渓鉄道ED5001/
(42-9-9) 豊平

 長野電鉄ED5101/
(52-5-5) 須坂

定山渓鉄道ED5002→長野電鉄ED5102→越後交通ED5102

 定山渓鉄道ED5002/
(42-9-9) 豊平

 ②電車
モハ2001、2002→ホハ2001、2002
書類上は昭和27年東洋電機製となっているが、ガソリンカーから電車に改造した時である。昭和3年雨宮製作所で日本初のディーゼルカーキロ1、キロ2として新製された。昭和5年の改番でキロ201、202となった。トラブル続きのため13年にガソリンカーに改造され、キロ201→キハ203、キロ202→キハ202となった。更に17年には天然ガス代燃車に改造された。
昭和26年の750V電化により、東洋電機で電車に改造され、55馬力モーターが2コ取付けられ、キハ202(元キロ202)→モハ2001、キハ203(元キロ201)→モハ2002となった。制御方式は直接制御であった。
ここまでの経緯は湯口先輩の「内燃動車発達史・上巻」のP122~P125に詳細に記されているので、是非ご覧いただきたい。
昭和44年9月の1500V昇圧時に電装解除され、ホハ2001、2002となり、西長岡~来迎寺間の混合列車の客車として使用された。
 
 モハ2001 
(41-9-7)

 
モハ2001の台車 (41-9-7)

 
モハ2002 (40-3-25)
 
 
電装解除後ホハ2001 (47-4-30)

モハ2003→ホハ2003
昭和29年東洋電機製で、車体は新製であるが、台車は京王帝都から譲り受けたデワ102が履いていたテーラー製のものを履いている。モーターは41Kwのものが2コ取付けられ、制御方式は直接制御であった。
昭和44年9月の1500V昇圧時に電装解除され、ホハ2003となり、西長岡~来迎寺間の混合列車の客車として使用された。


 
(40-3-25) 下(43-8-30)

電装解除後のホハ2003 (47-4-30)

ホハ2003のテーラー台車 (47-4-30)

モハ3001、3002
昭和26年電化時に京浜急行からデハ111、112を譲り受け、東洋工機で車体を新製した。モーターは41Kwのものが4コ取付けられ、制御方式はHL制御であった。1500Ⅴ昇圧時に廃車となり、モハ3002は蒲原鉄道に譲渡され、同社のモハ81となった。

 モハ3001 (40-3-25)
 
  
 モハ3002/(41-9-7)
 
 
新塗装に変更後のモハ3002 (47-4-30)

モハ3005
昭和39年に京王帝都電鉄からデハ2125(昭和8年日本車輌製)を譲り受け、2扉に改造した。昇圧改造されることなく僅か5年で廃車になった。
 
 (40-3-25)/撮影時に扉を閉めなかったのは、乗車予定の電車の発車時間が迫っていたからと思われるが、無いよりマシと思っていただきたい。

モハ5001
昭和35年に元国鉄モハ1206を譲り受け、東急車両で両運化、1200Ⅴから750Ⅴに降圧等の改造の上入線した。車内はクロスシートのままで、連結面の運転台を復活して非貫通にした結果、原形に近くなった。
富士身延鉄道の買収車で、昭和3年新潟鐵工所でモハ110として新製。昭和16年10月鉄道省買収時にモハ93形93006に、昭和28年6月の改番でモハ1200形1206となった。買収後も引き続き身延線で使用されていたが、昭和22年に伊那松島機関区に転属し、主に北部飯田線の天竜峡~辰野間(旧伊那電鉄の区間)で使用された。昭和26年から実施された更新修繕で、後位の運転台を撤去して貫通扉、貫通幌の設置等が実施された。昭和30年4月に天竜峡~辰野間が1200Ⅴから1500Ⅴに昇圧されたため使用停止となった。
昭和44年の1500Ⅴ昇圧時にも改造されて引き続き使用されたが、昭和48年大河津~寺泊間の廃止時に廃車になった。
 
 (43-8-30)

 
新塗装に変更後 (47-4-30)

③客車
ハ6(ハ3形)/大正5年天野工場製の2軸単車で、車内は背擦りの低いクロスシートが10脚並び、定員は40名であった。
ハ3形として3~8の6両作られたが、撮影時点で残っていたのは、この車両のみであった。

  ハ6/
(40-3-25)

ハ9、ハ10、ハ11(ハ9形)/大正11年日本車輌製で、車内はハ6と同様であった。
  
 ハ9/
(41-9-7)

 
ハ10(廃車後解体待ち)/(47-4-30)

 
ハ11/(43-8-30)

ハニフ21、22(ハニフ21形)/大正11年日本車輌製で、半分が荷物室のため、車内はクロスシートが4脚並び定員は16名であった。

(40-3-25)/この車両に西長岡~来迎寺間を乗車したが、ゴツゴツとした物凄い振動で、ポイント通過時は飛び上りそうな感じであった。
以上の3形式は西長岡~来迎寺間の混合列車に使用されていた。

 ホハ31、32(ホハ31形)/大正4年天野工場製のボギー車で、車内はロングシート、定員は31が100名(座席定員44名)、32が98名(座席定員42名)であった。

 
ホハ31/(40-3-25)

 
ホハ32/(40-3-25) 

ホハ33、34(ホハ33形)/昭和38年に上田丸子電鉄から同社西丸子線で使用されていたモハ3211、3212を譲り受け電装解除した。
目黒蒲田電鉄のモハ4、5(大正11年汽車会社製)が前身で、昭和17年神中鉄道に譲渡され、同社のモハ4、5となった。神中鉄道は、昭和18年4月に茅ヶ崎~橋本間で営業していた相模鉄道に買収されたが、昭和19年6月1日、同区間が鉄道省に買収されたため、相模鉄道の営業区間は旧神中鉄道の横浜~海老名間となった。昭和22年9月、上田丸子電鉄に譲渡され、モハ11、12となり別所線、西丸子線で使用、昭和25年の改番でモハ3211、3212となった。

 
ホハ34/(41-9-7)

③貨車
ワ10/明治40年新潟鐵工所製

 (47-4-30)

 ワブ1/大正4年大日本軌道製

 
(47-4-30)

 ロ101

 
(47-4-30)

 ④その他

地図上では、来迎寺~西長岡~大河津~寺泊間は路線が繋がっているが、列車の運行は西長岡~寺泊間と西長岡~来迎寺間に分離され、前者は旅客中心、後者は貨物中心であった。
運行本数の推移を見ると、昭和36年6月時点では、旅客列車が西長岡~寺泊間6往復、西長岡~寺泊新道間8往復、西長岡~与板間2往復、大河津~寺泊新道間2往復、貨物列車が西長岡~寺泊新道間2往復、西長岡~来迎寺間は9往復で朝夕の2往復のみ電車、7往復が混合列車であった。
昭和47年3月時点では、西長岡~寺泊間11往復、大河津~寺泊間、与板~寺泊間各1往復。西長岡~来迎寺間混合列車3往復。
旅客営業廃止直前の昭和50年3月時点では西長岡~大河津間6往復、西長岡~与板間3往復であった。
 

 昭和50年3月22日 王寺川駅の時刻表

長岡線の営業が振るわなかった理由は、ターミナルの西長岡駅が長岡市内中心部とは信濃川を隔てて約3.5キロ離れており、連絡バスに乗り換える必要があった。乗車された方はお判りいただけると思うが、途中駅が集落の中心部から離れていたため、乗客が集落の中心部を通り長岡駅に直通するバスに流れるのは当然であった。

 
周りに何もない越後日吉駅
 
 
王寺川駅を発車した大河津行

⑤行先板
昭和47年4月30日訪問時に撮影した行先板

長岡には昭和50年3月末、同社の栃尾線が廃止になるまで数回訪れているが、栃尾線、長岡線、当時長岡を中心に活躍していた旧形国電に魅力を感じていたからであろう。

 

 

 

 

今日はダイヤ改正の前日。老体に鞭打って出かけたので報告する。小田急の消滅する車両の最終日の姿を撮ろうと出発準備していたら新幹線の100系と300系がなくなることが朝のテレビで放映されていた。それなら新幹線、小田急両方撮ろうと久しぶりに車で行くことにした。伊勢原でJR東海の371を撮って平塚の東豊田というところで300系、そのあとは秦野で小田急ロマンスカーと考えて出発。ところが、厚木市内で渋滞に巻き込まれて愛甲石田の本厚木よりでないと間に合わなくなった。いい場所ではないが妥協する。それでもその場所には一人後から来た。新幹線は5~60人くらいいただろうか。夕刊を見ると東京駅は1000人以上押しかけたようだ。ここ東豊田は富士山や丹沢が見えているが全体がかすんではっきりしない。女性のご老人がデジカメの小さいので準備していたが、急に来るので間に合わない。次の小田急の秦野~東海大学前は10人くらいで人出はJR新幹線と一私鉄の差であろう。大入り満員とはならない。通勤車5063は来なかった。

  2012.3.16 愛甲石田―本厚木 沼津発新宿行き「あさぎり2号」JR東海クモハ371-1 

 2012.3.16  平塚市東豊田 東京10時47分発の「のぞみ」新大阪行き300系 

 2012.3.16 秦野―東海大学前 箱根湯本行き「はこね21号」 10011-10001   

 

 2012.3.16 秦野―東海大学前 沼津行き「あさぎり5号」20301-20001

 

小田急HB車/廃車後の行方

小田急HB車とは、昭和2年4月小田原線、昭和4年4月江ノ島線開業時に製作された電車で、概略は2月27日付【18048】「小田急1600」で準特急様が記されておられる通りであるが、形式がいくつかあるので少し補足させていただく。

「H」は間接制御の加速の方法の手動(ハンド)を表し、「B」は制御電源の取り方の低電圧を表す。間接自動加速制御の場合は「A」(オート)、制御電源を架線から取る場合を「L」を表す。小田急の場合は新製当初はHL形制御であったが、昭和26年にMGを取付け低圧電源に変更してHB形制御に改造した。ちなみに京都市電の866~880、901~915、724~748はAB制御車、連結車の2000形と2600形はHB制御車であった。

モハ1形→デハ1100形(1101~1118)
新宿~稲田登戸(現向ヶ丘遊園)間の近郊区間用として日本車輌で18両新製された3扉ロングシート車である。正面がゆるくカーブしており、当時の標準的なスタイルでさほどブサイクとは思えない。昭和17年東急合併時にデハ1150形、更に昭和23年小田急分離時にデハ1100形に改番された。東急時代の昭和22年に相模鉄道に9両譲渡され、残った9両も更新修繕の対象から外され、1両荷電に改造、熊本電鉄に4両、日立電鉄に4両譲渡された。相模鉄道に譲渡された9両は京福電鉄(福井支社)に3両、日立電鉄に6両再譲渡された。京福電鉄と日立電鉄に行った車両はその後の車体更新で原型を崩したが、熊本電鉄に行った車両は原型のまま使用され、同社モハ301が廃車時、小田急が譲り受け復元工事が行われた。以前は一般公開時に展示されていたが、ここ数年は姿を見せていない。

モハ二101形→デハ1200形(1201~1212)
開業時に新宿から稲田登戸以遠小田原方面への郊外用として日本車輌で12両作られた。2扉で新宿寄りの扉と乗務員室の間に手荷物室とトイレが設置され、座席は扉間クロスシートであった。正面はモハ1形同様ゆるくカーブしていた。昭和15年に収容力増加のため、手荷物室撤去とロングシート化が行われた。東急合併時にデハ1201~1212に改番された。昭和31年から実施された更新修繕の結果、正面が平妻になり貫通扉の設置、片運化、扉の拡幅等が行われた。昭和41年から43年に、主電動機を流用して大型車体の4000系を製作するため廃車になったが、デハ1209、1210の車体が越後交通に譲渡された。

モハ121形、モハニ131形→デハ1200形(1213~1218)
昭和2年10月の全線複線化時に増備された車両で、2扉セミクロスのモハ121形が3両、荷物室付2扉ロングシートのモハニ131形が3両作られた。メーカーは藤永田造船所に変わり、正面は平妻になった。モハのロングシート化とモハニの荷物室撤去が行われ、東急合併時にデハ1213~1218に改番された。昭和31年から更新修繕が実施され、両側に貫通扉の設置、片運化、扉の拡幅等が行われた。昭和41年から43年に、主電動機を流用して大型車体の4000系を製作するため廃車になったが、デハ1215、1216の車体が岳南鉄道に譲渡された。

モハニ151形→デハ1300形(デハ1301~1303)、クハ1350形(1351、1352)
昭和2年10月の全線複線化時に増備された車両で、荷物室が広い3扉ロングシートである。メーカーは藤永田造船所で5両作られた。東急合併時にデハ二1251形に改番され、昭和21年荷物室を撤去してデハ1250形になった。更に昭和23年小田急分離時にデハ1300形に改番された。昭和31年に1304と1305電装解除され、クハ1350形1351、1352となった。昭和34年から35年にかけて車体更新が実施され、客室扉は両開扉に、窓は下降窓から上下幅を拡大してアルミサッシの2段窓となりスタイルが大きく変化した。昭和44年にそのままのスタイルで荷電となりデニ1300形となり昭和59年の荷電廃止まで使用された。
クハ1350形は昭和34年に車体更新が実施され、後述のデハ1400形と同様の車体になったが、昭和43年に廃車され、新潟交通と岳南鉄道に譲渡された。・

デハ1301/車体更新でアルミサッシ2段窓、両開扉となり原形からは大きく変化した。

 新原町田~相模大野 
(43-9-7)

デニ1302/昭和44年荷電デニ1300形に改造された。

 小田原 
(50-4-27)

モハ201形、クハ501形、クハ551形→デハ1400形(1401~1416)、クハ1450形(1451~1468)
昭和4年江ノ島線の開業と同時期に増備された車両で、モハ201形15両、クハ501形5両、クハ551形15両、川崎車輌で作られた。モハ201形とクハ551形はロングシート、クハ501形はセミクロスシートであったが、後にロングシート化された。クハ551形ラスト2両564、565は昭和16年に電装され、モハ251形251、252となった。

東急合併後の改番でモハ201形、251形は順にデハ1350形(1351~1367)、クハ501形と551形はクハ1300形(1301~1318)に改番された。昭和18年に元モハ251形のデハ1366と1367が井の頭線に転属した。

小田急分離後の昭和25年の改番でデハ1400形とクハ1450形となり、デハ1350形は旧車号に50を、クハ1300形は150をプラスした。
昭和29年から更新修繕が実施され、デハを新宿向きに、クハを小田原向きに揃えられ、扉の拡幅が行われた。

昭和41年から43年に、主電動機を流用して大型車体の4000系を製作するため廃車になったが、一部の車両が弘南鉄道、新潟交通、越後交通、岳南鉄道に譲渡された。デハ1406は廃車後教習車として使用されていたが、役割終了後解体されてしまった。戦前の小田急を代表する車両として是非保存して貰いたかったのに残念であった。

デハ1415-クハ1465+デハ1411-クハ1461の4連


 新原町田~相模大野 
(43-9-7)

前段が長くなったが、ここからが本論である。

(1)  デハ1100形の行方

①日立電鉄
昭和35年にデハ1102、1103、1104、1109の4両を譲受け順にモハ1001、サハ1501、モハ1002、1003とした。昭和38年に相模鉄道からモハ1001、1002、1003を譲受け、車号をそのまま生かしたため、前述のモハ1001~1003をモハ1004~1006に改番した。更に昭和53年に相模鉄道から荷電に改造されていたモニ1007~1009を譲受け旅客車に復元してモハ1007~1009とした。旧モハ1形18両中10両が集まったが、車体更新により原形は留めていなかった。

モハ1003/車号の変遷は小田急モハ7→東急デハ1157→相模鉄道デハ1157→同モハ1003→日立モハ1003。撮影時点では原形を保っていた。

 鮎川 
(41-3-12 )

モハ1002/小田急モハ6→東急デハ1156→相模鉄道デハ1156→同モハ1002→日立モハ1002。相模鉄道時代の中間電動車化され、運転台、パンタを撤去されていたが、車体は原形を保っていた。

 鮎川 
(41-3-12)

モハ1005/小田急モハ4→東急デハ1154→小田急デハ1104→日立電鉄モハ1002→同モハ1005。日立電鉄で車体更新が実施され、写真のようにスタイルが大きく変化した。

 
 鮎川 
(41-3-12)

サハ1501/小田急モハ3→東急デハ1153→小田急デハ1103→日立電鉄サハ1501。小田急時代に電装解除されサハ状態であったが、日立電鉄に来て正式にサハとなった。車体更新の結果、写真のようにスタイルが大きく変化した。

 鮎川 
(41-3-12)

②熊本電鉄
昭和34年にデハ1105~1108の4両を譲受け、順にモハ301~304とした。ほぼ原形のまま使用され、昭和56年に廃車になったモハ301を小田急に譲渡した。小田急では、開業時の姿に復元の上、車号を元のモハ10に戻して稼働状態で保存されている。

モハ303/小田急モハ16→東急デハ1166→小田急デハ1107→熊本電鉄モハ303。最後までよく原形を保っていた。

 北熊本 
(44-3-21)

③京福電鉄福井支社
昭和40年に相模鉄道からモハ1004~1006を譲受けホデハ271~273とした。譲受け時に車体更新が実施されノーシル・ノーヘッダーとなり、271は窓を2段上昇式に改造したためスタイルが変わってしまった。

ホデハ271/小田急モハ8→東急デハ1158→相模鉄道デハ1158→同モハ1004→ホデハ271→モハ271。ノーシル・ヘッダー、2段窓に改造された。

 福井 
(48-4-1)

ホデハ273/小田急モハ12→東急デハ1162→相模鉄道デハ1162→同モハ1006→ホデハ273→モハ273。ノーシル・ヘッダーとなったが窓は下降窓のままであった。

 福井 
(48-4-1)

(2)デハ1200形、デハ1400形、クハ1450形の行方

①弘前電鉄→弘南鉄道大鰐線
弘前電鉄時代の昭和45年にクハ1459を譲受けクハ201とした。尚、弘前電鉄は経営不振のため同年10月1日弘南鉄道に経営権を譲渡し、同社の大鰐線となった。

クハ201/小田急クハ554→東急クハ1309→小田急クハ1459→弘前電鉄クハ201→弘南鉄道クハ201。元木製国電の代替として譲り受けた。

 津軽大沢 
(50-4-28)

②岳南鉄道
デハ1200形2両、クハ1350形1両、クハ1450形1両の4両在籍した。

モハ1107/小田急モハニ154→東急デハニ1254→同デハ1254→小田急デハ1304→同クハ1351→岳南モハ1107→同クハ2602→同クハ1107
廃車になるまで7回改番している。

 岳南富士岡 
(49-2-17)

クハ2102/小田急クハ504→東急クハ1304→小田急クハ1454→岳南クハ2102

 吉原 
(43-4-6)

クハ2103/小田急デハ123→東急デハ1215→小田急デハ1215→岳南クハ2103
元デハ1200形のため前述のクハ2102とは窓配置が異なる。

 岳南江尾 
(50-9-14)

クハ2105/小田急デハ131→東急デハ1216→小田急デハ1216.→岳南クハ2105

 岳南江尾 
(50-9-14)

③新潟交通
デハ1400形6両、クハ1450形1両、クハ1350形1両の8両在籍した。車体更新(車体乗換え)に利用されたため、書類上7両は乗換え前の車両の改造扱い、1両は新製扱いとなっていた。車歴は小田急時代の車号を基準にした。

モハ16/小田急モハ209→東急デハ1359→小田急デハ1409→新潟交通モハ16
昭和2年汽車会社製(元伊那電鉄の買収国電モハ1924)のモハ16の車体更新車。小さな窓と二重屋根の車体はいかにも古めかしく感じさせられた。(更新前については他の車両と併せて別途解説したい)

 県庁前 
(47-4-30)

クハ36/小田急モハニ155→デハニ1255→同デハ1255→小田急デハ1305→同クハ1352→新潟交通クハ36
昭和22年日本鉄道自動車製のクハ36の車体更新車であるが、書類上は新製扱になっている。クハ36は当初モハ16として竣工して昭和25年に電装解除してクハ36となった。窓が大きく軽快に見えるが、終戦直後に作られた車体の出来が悪かったのと、小型のため更新の対象となった。同形車は近江鉄道、北陸鉄道にも在籍した。

 県庁前 
(47-4-30)

クハ45/小田急クハ563→東急クハ1318→小田急クハ1468→同デハ1416→新潟交通クハ45
昭和19年日本鉄道自動車製のクハ35の車体更新車。車体の老朽化と小型のため更新された。

 朝の3両編成の中間車として使用中/県庁前 
(43-8-30)

 東関屋 
(43-8-30)

クハ46/小田急モハ208→東急デハ1358→小田急デハ1408→新潟交通クハ46
昭和19年日本鉄道自動車製のクハ34の車体更新車。更新前は前述のクハ45と同形である。

県庁前 
(47-4-30)

クハ47/小田急モハ214→東急デハ1364→小田急デハ1414→新潟交通クハ47
昭和8年日本車輌製のクハ31の車体更新車。昭和8年新潟電鉄開業時に新製された車両である。同時に新製されたモハ11~14は昭和38年から42年にかけて日本車輌製の新製車体に乗せ換えられたが、クハは小型のまま残っていた。

 県庁前 
(47-4-30)

クハ49/小田急クハ560→東急クハ1315→小田急クハ1465→新潟交通クハ49
昭和11年日本車輌製のクハ33の車体更新車。前身は元神中鉄道のガソリンカーキハ31であった。元小田急のクハの内、この車のみ県庁前向きに運転台があった。(他車はすべて燕向き)

 

 

 
 県庁前 
(47-4-30)

下記2両は写真が見当たらないため割愛させていただいた。
クハ48/小田急モハ212→東急デハ1362→小田急デハ1412→新潟交通クハ48
更新前はクハ32で前述のクハ31と同型。

クハ50/小田急モハ211→東急デハ1361→小田急デハ1411→新潟交通クハ50
更新前はクハ40で大正15年製元東武のデハ9である。

④越後交通長岡線
昭和44年、架線電圧を750Vから1500Vに昇圧時にデハ1200形2両、デハ1400形2両、クハ1450形6両、全車両新製扱いで入線した。その際モハとなった車両は単行運転に備えて両運に戻された。6年後の昭和50年3月31日をもって旅客営業を廃止したので活躍したのは僅かな期間であった。その後も貨物営業は続けられ、最終的に廃止になったのは平成7年4月1日であった。

モハ1401/小田急モハ215→東急デハ1365→小田急デハ1415→越後交通モハ1401


 西長岡 
(50-3-22)

モハ1402/小田急モハ201→東急デハ1351→小田急デハ1401→越後交通モハ1402


 西長岡 上
(43-8-30) 下(47-4-30)

モハ1403/小田急モハ109→東急デハ1209→小田急デハ1209→越後交通モハ1403
この車と次のモハ1404は元デハ1200形のため窓配置が異なる。

西長岡 
(50-3-22)

モハ1404/小田急モハ110→東急デハ1210→小田急デハ1210→越後交通モハ1404

西長岡 
(50-3-22)

クハ1451/小田急クハ501→東急クハ1301→小田急クハ1451→越後交通クハ1451

 脇野町 
(47-4-30)

クハ1452/小田急モハ202→東急デハ132→小田急デハ1402→越後交通クハ1452
連結面のテールライトは来迎寺線の混合列車で客車として使用した時に最後部になることを考慮したため。


 西長岡 
(47-4-30)

クハ1453/小田急クハ503→東急クハ1303→小田急クハ1453→越後交通クハ1453



 西長岡 上(47-4-30) 下
(50-3-22)

クハ1454/小田急クハ563→東急クハ1318→小田急クハ1468→同クハ1466→越後交通クハ1454



 西長岡 上
(43-8-30) 下(47-4-30)

クハ1455/小田急クハ552→東急クハ1307→小田急クハ1457→越後交通クハ1455


 西長岡 上
(43-8-30) 下(47-4-30)

クハ1456/小田急クハ556→東急クハ1311→小田急クハ1461→越後交通クハ1456

 西長岡 
(50-3-22)

越後交通でも栃尾線は762mmということで比較的よく取り上げられるが、長岡線は地味な路線で、かつ末期は元小田急車に統一されていたこともあり、取り上げられる機会は少ないように思われる。昭和40年代初めまで4輪客車が健在、日本初のディーゼルカー改造の電車が在籍、電気機関車がバラエティーに富んでいた等、中々面白い路線であった。

 

 

手持ち京阪古写真

関三平センセイの京阪700型が出たが、乙訓老人に遠慮してか、なぜか諸兄のコメントがない。どうせ彼の老人が黙っているわけはなかろうが、そういゃこの老人も京阪の古い複写があったはず、それに日車のカタログもと探すと、プリントは他の京阪一式がいずこか行方知らず、ただ35mmの複写ネガがあったので、本命乙訓ご老人ご出馬までの露払いか、つなぎを。


我々が知っている形式は600型だが、この時点では1550型ナンバー1555。つぎの1580型とも、仮台車での写真なのは、日車の納品が車体だけだったからであろう。幕板部にKEIHN ERECTRIC RAILWAY COMPANYとレタリングされている。日車売上台帳からは、56期(1927年6~11月)に全鋼製ボギー電車車体7両があり、請負金額77,140円、製作費86,989円22銭、差引9,849円22銭の赤字出荷であったことが知れる。同期に配線工事7両分、2,100円なる売上があり、これは1,175円51銭儲かっている。


こっちは1580形1581で、幕板にはKYOTO ・ OSAKA  LINE、京阪電鉄の英文表示は腰部に記されている。床下機器が一切ない車体だけの写真だから、1550型と共に魚腹台枠であることが明白に分るだろう。やはり日車売上台帳では、58期(1928年6~11月)に全鋼製四輪ボギー電車車体4両、請負金額59,400円、製作費56,725円05銭で、2,674円95銭の収益であった。


これは故高田隆雄氏撮影の624 フェンダーや救助網が併用軌道(敗戦後も残存)を物語る


1580型の室内 床はリノリューム張り 吊革はリコ式である


1580型の運転台 機器がケーシングされているのが珍しく 運転手座席はベンチ 路面電車並みのH棒仕切りだから展望はいい

さて、乙訓ご老人よ。黙っていては沽券にかかわるぞよ。早々にご登場あれ。

連接車7

今回は比較的異色車を交えてみた。

まずは北の札幌。ここはヨーロッパスタイルの連接車や気動車が印象的であった。以前、A830形の譲渡先名鉄美濃町線の姿をお見せしたのでA810形A812・A811とする。というよりも他の連接車A800形、A820形は撮っていないというのが正直なところである。今は名前が消えてしまった銀行がバックにあるので多分駅前から大通りに向って歩きながら適当に撮ったのだろう。札幌には1年赴任したが場所は明確にはわからない。

  1969.3.18  →札幌市A812・A811

 

南海にも連接車がいた。といっても元和歌山電気軌道2000形で、1961年に南海電鉄に吸収合併され同社和歌山軌道線になって以降の姿。ウサギの耳のようなライトが特徴。この撮影の約2年後の1971年1月に軌道線は廃止された。

 1968.11.21 南海電鉄和歌山軌道線 和歌山市2003・2004

 

1969年5月10日に廃止された東急玉川線には面白いのがいた。超タマゴ型の軽量車両で1軸連接台車。使い勝手が悪かったのか玉川線廃止後は世田谷線に残ることは無かった。こういう個性的な車両は最近は見かけない。現在の世田谷線はオール300形で2車体3台車。

 1969.5.8(玉川線廃止2日前)東急玉川線上通りデハ205二子玉川園行き

 

 2012.2.5 東急世田谷線宮の坂 三軒茶屋行き307AB

 

 2012.2.29 降雪の東急世田谷線下高井戸に到着する304AB

 

元祖連接車京阪びわこ

1969.12.6 京阪電鉄浜大津駅到着61 撮影メモ紛失のため駅名は未確認。

 

762ミリゲージ唯一の連接車が三岐鉄道北勢線に存在している。同社の200形で元三重交通湯の山線4400形1959年製。湯の山線改軌後は近鉄北勢線に移ったが何回行っても休んでいたのか撮れなかった。先日の烏丸御池写真展に行く前に訪問してみたらこの日は運よく走っていた。土砂降りであったがやっと撮れたと満足して帰った。

  2012.2.14 三岐鉄道北勢線楚原~麻生田 ク202

 

長野電鉄へ譲渡された元小田急10000形。本家の10000形は3月16日で全廃されるが分家では4連ながら小田急そのままの姿でしばらく走り続ける。

2007.9.16 長野電鉄夜間瀬~信濃竹原 特急「ゆけむり」湯田中行き1001~1031

 

JRでは珍しい連接車。7両連接×2の14両編成。京葉線で土休日に走っていたが、最近は見かけない。どうなっているのだろうか。電車情報にお詳しい葛飾区や都筑区にお住まいの方、情報をお願いしたい。

2010.7.26 JR京葉線潮見 クハE331-1 海浜幕張行き

本日の鴬谷 185系、485系

本日の上野駅7時20発の特急草津1号に157系色のOM08編成が運用されました。この列車は今週金曜日16日で廃止されますので最後の機会かと思われます。

鴬谷で朝日の逆光を浴びての草津号は今週で見納めです。

クモハ157に似ていますね。

 

次は上野18時40分発のホームライナー鴻巣3号です。上野発着の定期列車として唯一のオリジナルカラーの485系です。3月17日の改正で185系となりますのでこちらも今週で見納めです。

名残惜しい姿を撮影しています。

この発車案内と485系も見納めです。(クハ481-346)

夜の鴬谷を駆けぬけていきました。上野といえば485系でした。もう過去になります。