今日はダイヤ改正の前日。老体に鞭打って出かけたので報告する。小田急の消滅する車両の最終日の姿を撮ろうと出発準備していたら新幹線の100系と300系がなくなることが朝のテレビで放映されていた。それなら新幹線、小田急両方撮ろうと久しぶりに車で行くことにした。伊勢原でJR東海の371を撮って平塚の東豊田というところで300系、そのあとは秦野で小田急ロマンスカーと考えて出発。ところが、厚木市内で渋滞に巻き込まれて愛甲石田の本厚木よりでないと間に合わなくなった。いい場所ではないが妥協する。それでもその場所には一人後から来た。新幹線は5~60人くらいいただろうか。夕刊を見ると東京駅は1000人以上押しかけたようだ。ここ東豊田は富士山や丹沢が見えているが全体がかすんではっきりしない。女性のご老人がデジカメの小さいので準備していたが、急に来るので間に合わない。次の小田急の秦野~東海大学前は10人くらいで人出はJR新幹線と一私鉄の差であろう。大入り満員とはならない。通勤車5063は来なかった。

  2012.3.16 愛甲石田―本厚木 沼津発新宿行き「あさぎり2号」JR東海クモハ371-1 

 2012.3.16  平塚市東豊田 東京10時47分発の「のぞみ」新大阪行き300系 

 2012.3.16 秦野―東海大学前 箱根湯本行き「はこね21号」 10011-10001   

 

 2012.3.16 秦野―東海大学前 沼津行き「あさぎり5号」20301-20001

 

小田急HB車/廃車後の行方

小田急HB車とは、昭和2年4月小田原線、昭和4年4月江ノ島線開業時に製作された電車で、概略は2月27日付【18048】「小田急1600」で準特急様が記されておられる通りであるが、形式がいくつかあるので少し補足させていただく。

「H」は間接制御の加速の方法の手動(ハンド)を表し、「B」は制御電源の取り方の低電圧を表す。間接自動加速制御の場合は「A」(オート)、制御電源を架線から取る場合を「L」を表す。小田急の場合は新製当初はHL形制御であったが、昭和26年にMGを取付け低圧電源に変更してHB形制御に改造した。ちなみに京都市電の866~880、901~915、724~748はAB制御車、連結車の2000形と2600形はHB制御車であった。

モハ1形→デハ1100形(1101~1118)
新宿~稲田登戸(現向ヶ丘遊園)間の近郊区間用として日本車輌で18両新製された3扉ロングシート車である。正面がゆるくカーブしており、当時の標準的なスタイルでさほどブサイクとは思えない。昭和17年東急合併時にデハ1150形、更に昭和23年小田急分離時にデハ1100形に改番された。東急時代の昭和22年に相模鉄道に9両譲渡され、残った9両も更新修繕の対象から外され、1両荷電に改造、熊本電鉄に4両、日立電鉄に4両譲渡された。相模鉄道に譲渡された9両は京福電鉄(福井支社)に3両、日立電鉄に6両再譲渡された。京福電鉄と日立電鉄に行った車両はその後の車体更新で原型を崩したが、熊本電鉄に行った車両は原型のまま使用され、同社モハ301が廃車時、小田急が譲り受け復元工事が行われた。以前は一般公開時に展示されていたが、ここ数年は姿を見せていない。

モハ二101形→デハ1200形(1201~1212)
開業時に新宿から稲田登戸以遠小田原方面への郊外用として日本車輌で12両作られた。2扉で新宿寄りの扉と乗務員室の間に手荷物室とトイレが設置され、座席は扉間クロスシートであった。正面はモハ1形同様ゆるくカーブしていた。昭和15年に収容力増加のため、手荷物室撤去とロングシート化が行われた。東急合併時にデハ1201~1212に改番された。昭和31年から実施された更新修繕の結果、正面が平妻になり貫通扉の設置、片運化、扉の拡幅等が行われた。昭和41年から43年に、主電動機を流用して大型車体の4000系を製作するため廃車になったが、デハ1209、1210の車体が越後交通に譲渡された。

モハ121形、モハニ131形→デハ1200形(1213~1218)
昭和2年10月の全線複線化時に増備された車両で、2扉セミクロスのモハ121形が3両、荷物室付2扉ロングシートのモハニ131形が3両作られた。メーカーは藤永田造船所に変わり、正面は平妻になった。モハのロングシート化とモハニの荷物室撤去が行われ、東急合併時にデハ1213~1218に改番された。昭和31年から更新修繕が実施され、両側に貫通扉の設置、片運化、扉の拡幅等が行われた。昭和41年から43年に、主電動機を流用して大型車体の4000系を製作するため廃車になったが、デハ1215、1216の車体が岳南鉄道に譲渡された。

モハニ151形→デハ1300形(デハ1301~1303)、クハ1350形(1351、1352)
昭和2年10月の全線複線化時に増備された車両で、荷物室が広い3扉ロングシートである。メーカーは藤永田造船所で5両作られた。東急合併時にデハ二1251形に改番され、昭和21年荷物室を撤去してデハ1250形になった。更に昭和23年小田急分離時にデハ1300形に改番された。昭和31年に1304と1305電装解除され、クハ1350形1351、1352となった。昭和34年から35年にかけて車体更新が実施され、客室扉は両開扉に、窓は下降窓から上下幅を拡大してアルミサッシの2段窓となりスタイルが大きく変化した。昭和44年にそのままのスタイルで荷電となりデニ1300形となり昭和59年の荷電廃止まで使用された。
クハ1350形は昭和34年に車体更新が実施され、後述のデハ1400形と同様の車体になったが、昭和43年に廃車され、新潟交通と岳南鉄道に譲渡された。・

デハ1301/車体更新でアルミサッシ2段窓、両開扉となり原形からは大きく変化した。

 新原町田~相模大野 
(43-9-7)

デニ1302/昭和44年荷電デニ1300形に改造された。

 小田原 
(50-4-27)

モハ201形、クハ501形、クハ551形→デハ1400形(1401~1416)、クハ1450形(1451~1468)
昭和4年江ノ島線の開業と同時期に増備された車両で、モハ201形15両、クハ501形5両、クハ551形15両、川崎車輌で作られた。モハ201形とクハ551形はロングシート、クハ501形はセミクロスシートであったが、後にロングシート化された。クハ551形ラスト2両564、565は昭和16年に電装され、モハ251形251、252となった。

東急合併後の改番でモハ201形、251形は順にデハ1350形(1351~1367)、クハ501形と551形はクハ1300形(1301~1318)に改番された。昭和18年に元モハ251形のデハ1366と1367が井の頭線に転属した。

小田急分離後の昭和25年の改番でデハ1400形とクハ1450形となり、デハ1350形は旧車号に50を、クハ1300形は150をプラスした。
昭和29年から更新修繕が実施され、デハを新宿向きに、クハを小田原向きに揃えられ、扉の拡幅が行われた。

昭和41年から43年に、主電動機を流用して大型車体の4000系を製作するため廃車になったが、一部の車両が弘南鉄道、新潟交通、越後交通、岳南鉄道に譲渡された。デハ1406は廃車後教習車として使用されていたが、役割終了後解体されてしまった。戦前の小田急を代表する車両として是非保存して貰いたかったのに残念であった。

デハ1415-クハ1465+デハ1411-クハ1461の4連


 新原町田~相模大野 
(43-9-7)

前段が長くなったが、ここからが本論である。

(1)  デハ1100形の行方

①日立電鉄
昭和35年にデハ1102、1103、1104、1109の4両を譲受け順にモハ1001、サハ1501、モハ1002、1003とした。昭和38年に相模鉄道からモハ1001、1002、1003を譲受け、車号をそのまま生かしたため、前述のモハ1001~1003をモハ1004~1006に改番した。更に昭和53年に相模鉄道から荷電に改造されていたモニ1007~1009を譲受け旅客車に復元してモハ1007~1009とした。旧モハ1形18両中10両が集まったが、車体更新により原形は留めていなかった。

モハ1003/車号の変遷は小田急モハ7→東急デハ1157→相模鉄道デハ1157→同モハ1003→日立モハ1003。撮影時点では原形を保っていた。

 鮎川 
(41-3-12 )

モハ1002/小田急モハ6→東急デハ1156→相模鉄道デハ1156→同モハ1002→日立モハ1002。相模鉄道時代の中間電動車化され、運転台、パンタを撤去されていたが、車体は原形を保っていた。

 鮎川 
(41-3-12)

モハ1005/小田急モハ4→東急デハ1154→小田急デハ1104→日立電鉄モハ1002→同モハ1005。日立電鉄で車体更新が実施され、写真のようにスタイルが大きく変化した。

 
 鮎川 
(41-3-12)

サハ1501/小田急モハ3→東急デハ1153→小田急デハ1103→日立電鉄サハ1501。小田急時代に電装解除されサハ状態であったが、日立電鉄に来て正式にサハとなった。車体更新の結果、写真のようにスタイルが大きく変化した。

 鮎川 
(41-3-12)

②熊本電鉄
昭和34年にデハ1105~1108の4両を譲受け、順にモハ301~304とした。ほぼ原形のまま使用され、昭和56年に廃車になったモハ301を小田急に譲渡した。小田急では、開業時の姿に復元の上、車号を元のモハ10に戻して稼働状態で保存されている。

モハ303/小田急モハ16→東急デハ1166→小田急デハ1107→熊本電鉄モハ303。最後までよく原形を保っていた。

 北熊本 
(44-3-21)

③京福電鉄福井支社
昭和40年に相模鉄道からモハ1004~1006を譲受けホデハ271~273とした。譲受け時に車体更新が実施されノーシル・ノーヘッダーとなり、271は窓を2段上昇式に改造したためスタイルが変わってしまった。

ホデハ271/小田急モハ8→東急デハ1158→相模鉄道デハ1158→同モハ1004→ホデハ271→モハ271。ノーシル・ヘッダー、2段窓に改造された。

 福井 
(48-4-1)

ホデハ273/小田急モハ12→東急デハ1162→相模鉄道デハ1162→同モハ1006→ホデハ273→モハ273。ノーシル・ヘッダーとなったが窓は下降窓のままであった。

 福井 
(48-4-1)

(2)デハ1200形、デハ1400形、クハ1450形の行方

①弘前電鉄→弘南鉄道大鰐線
弘前電鉄時代の昭和45年にクハ1459を譲受けクハ201とした。尚、弘前電鉄は経営不振のため同年10月1日弘南鉄道に経営権を譲渡し、同社の大鰐線となった。

クハ201/小田急クハ554→東急クハ1309→小田急クハ1459→弘前電鉄クハ201→弘南鉄道クハ201。元木製国電の代替として譲り受けた。

 津軽大沢 
(50-4-28)

②岳南鉄道
デハ1200形2両、クハ1350形1両、クハ1450形1両の4両在籍した。

モハ1107/小田急モハニ154→東急デハニ1254→同デハ1254→小田急デハ1304→同クハ1351→岳南モハ1107→同クハ2602→同クハ1107
廃車になるまで7回改番している。

 岳南富士岡 
(49-2-17)

クハ2102/小田急クハ504→東急クハ1304→小田急クハ1454→岳南クハ2102

 吉原 
(43-4-6)

クハ2103/小田急デハ123→東急デハ1215→小田急デハ1215→岳南クハ2103
元デハ1200形のため前述のクハ2102とは窓配置が異なる。

 岳南江尾 
(50-9-14)

クハ2105/小田急デハ131→東急デハ1216→小田急デハ1216.→岳南クハ2105

 岳南江尾 
(50-9-14)

③新潟交通
デハ1400形6両、クハ1450形1両、クハ1350形1両の8両在籍した。車体更新(車体乗換え)に利用されたため、書類上7両は乗換え前の車両の改造扱い、1両は新製扱いとなっていた。車歴は小田急時代の車号を基準にした。

モハ16/小田急モハ209→東急デハ1359→小田急デハ1409→新潟交通モハ16
昭和2年汽車会社製(元伊那電鉄の買収国電モハ1924)のモハ16の車体更新車。小さな窓と二重屋根の車体はいかにも古めかしく感じさせられた。(更新前については他の車両と併せて別途解説したい)

 県庁前 
(47-4-30)

クハ36/小田急モハニ155→デハニ1255→同デハ1255→小田急デハ1305→同クハ1352→新潟交通クハ36
昭和22年日本鉄道自動車製のクハ36の車体更新車であるが、書類上は新製扱になっている。クハ36は当初モハ16として竣工して昭和25年に電装解除してクハ36となった。窓が大きく軽快に見えるが、終戦直後に作られた車体の出来が悪かったのと、小型のため更新の対象となった。同形車は近江鉄道、北陸鉄道にも在籍した。

 県庁前 
(47-4-30)

クハ45/小田急クハ563→東急クハ1318→小田急クハ1468→同デハ1416→新潟交通クハ45
昭和19年日本鉄道自動車製のクハ35の車体更新車。車体の老朽化と小型のため更新された。

 朝の3両編成の中間車として使用中/県庁前 
(43-8-30)

 東関屋 
(43-8-30)

クハ46/小田急モハ208→東急デハ1358→小田急デハ1408→新潟交通クハ46
昭和19年日本鉄道自動車製のクハ34の車体更新車。更新前は前述のクハ45と同形である。

県庁前 
(47-4-30)

クハ47/小田急モハ214→東急デハ1364→小田急デハ1414→新潟交通クハ47
昭和8年日本車輌製のクハ31の車体更新車。昭和8年新潟電鉄開業時に新製された車両である。同時に新製されたモハ11~14は昭和38年から42年にかけて日本車輌製の新製車体に乗せ換えられたが、クハは小型のまま残っていた。

 県庁前 
(47-4-30)

クハ49/小田急クハ560→東急クハ1315→小田急クハ1465→新潟交通クハ49
昭和11年日本車輌製のクハ33の車体更新車。前身は元神中鉄道のガソリンカーキハ31であった。元小田急のクハの内、この車のみ県庁前向きに運転台があった。(他車はすべて燕向き)

 

 

 
 県庁前 
(47-4-30)

下記2両は写真が見当たらないため割愛させていただいた。
クハ48/小田急モハ212→東急デハ1362→小田急デハ1412→新潟交通クハ48
更新前はクハ32で前述のクハ31と同型。

クハ50/小田急モハ211→東急デハ1361→小田急デハ1411→新潟交通クハ50
更新前はクハ40で大正15年製元東武のデハ9である。

④越後交通長岡線
昭和44年、架線電圧を750Vから1500Vに昇圧時にデハ1200形2両、デハ1400形2両、クハ1450形6両、全車両新製扱いで入線した。その際モハとなった車両は単行運転に備えて両運に戻された。6年後の昭和50年3月31日をもって旅客営業を廃止したので活躍したのは僅かな期間であった。その後も貨物営業は続けられ、最終的に廃止になったのは平成7年4月1日であった。

モハ1401/小田急モハ215→東急デハ1365→小田急デハ1415→越後交通モハ1401


 西長岡 
(50-3-22)

モハ1402/小田急モハ201→東急デハ1351→小田急デハ1401→越後交通モハ1402


 西長岡 上
(43-8-30) 下(47-4-30)

モハ1403/小田急モハ109→東急デハ1209→小田急デハ1209→越後交通モハ1403
この車と次のモハ1404は元デハ1200形のため窓配置が異なる。

西長岡 
(50-3-22)

モハ1404/小田急モハ110→東急デハ1210→小田急デハ1210→越後交通モハ1404

西長岡 
(50-3-22)

クハ1451/小田急クハ501→東急クハ1301→小田急クハ1451→越後交通クハ1451

 脇野町 
(47-4-30)

クハ1452/小田急モハ202→東急デハ132→小田急デハ1402→越後交通クハ1452
連結面のテールライトは来迎寺線の混合列車で客車として使用した時に最後部になることを考慮したため。


 西長岡 
(47-4-30)

クハ1453/小田急クハ503→東急クハ1303→小田急クハ1453→越後交通クハ1453



 西長岡 上(47-4-30) 下
(50-3-22)

クハ1454/小田急クハ563→東急クハ1318→小田急クハ1468→同クハ1466→越後交通クハ1454



 西長岡 上
(43-8-30) 下(47-4-30)

クハ1455/小田急クハ552→東急クハ1307→小田急クハ1457→越後交通クハ1455


 西長岡 上
(43-8-30) 下(47-4-30)

クハ1456/小田急クハ556→東急クハ1311→小田急クハ1461→越後交通クハ1456

 西長岡 
(50-3-22)

越後交通でも栃尾線は762mmということで比較的よく取り上げられるが、長岡線は地味な路線で、かつ末期は元小田急車に統一されていたこともあり、取り上げられる機会は少ないように思われる。昭和40年代初めまで4輪客車が健在、日本初のディーゼルカー改造の電車が在籍、電気機関車がバラエティーに富んでいた等、中々面白い路線であった。

 

 

手持ち京阪古写真

関三平センセイの京阪700型が出たが、乙訓老人に遠慮してか、なぜか諸兄のコメントがない。どうせ彼の老人が黙っているわけはなかろうが、そういゃこの老人も京阪の古い複写があったはず、それに日車のカタログもと探すと、プリントは他の京阪一式がいずこか行方知らず、ただ35mmの複写ネガがあったので、本命乙訓ご老人ご出馬までの露払いか、つなぎを。


我々が知っている形式は600型だが、この時点では1550型ナンバー1555。つぎの1580型とも、仮台車での写真なのは、日車の納品が車体だけだったからであろう。幕板部にKEIHN ERECTRIC RAILWAY COMPANYとレタリングされている。日車売上台帳からは、56期(1927年6~11月)に全鋼製ボギー電車車体7両があり、請負金額77,140円、製作費86,989円22銭、差引9,849円22銭の赤字出荷であったことが知れる。同期に配線工事7両分、2,100円なる売上があり、これは1,175円51銭儲かっている。


こっちは1580形1581で、幕板にはKYOTO ・ OSAKA  LINE、京阪電鉄の英文表示は腰部に記されている。床下機器が一切ない車体だけの写真だから、1550型と共に魚腹台枠であることが明白に分るだろう。やはり日車売上台帳では、58期(1928年6~11月)に全鋼製四輪ボギー電車車体4両、請負金額59,400円、製作費56,725円05銭で、2,674円95銭の収益であった。


これは故高田隆雄氏撮影の624 フェンダーや救助網が併用軌道(敗戦後も残存)を物語る


1580型の室内 床はリノリューム張り 吊革はリコ式である


1580型の運転台 機器がケーシングされているのが珍しく 運転手座席はベンチ 路面電車並みのH棒仕切りだから展望はいい

さて、乙訓ご老人よ。黙っていては沽券にかかわるぞよ。早々にご登場あれ。

連接車7

今回は比較的異色車を交えてみた。

まずは北の札幌。ここはヨーロッパスタイルの連接車や気動車が印象的であった。以前、A830形の譲渡先名鉄美濃町線の姿をお見せしたのでA810形A812・A811とする。というよりも他の連接車A800形、A820形は撮っていないというのが正直なところである。今は名前が消えてしまった銀行がバックにあるので多分駅前から大通りに向って歩きながら適当に撮ったのだろう。札幌には1年赴任したが場所は明確にはわからない。

  1969.3.18  →札幌市A812・A811

 

南海にも連接車がいた。といっても元和歌山電気軌道2000形で、1961年に南海電鉄に吸収合併され同社和歌山軌道線になって以降の姿。ウサギの耳のようなライトが特徴。この撮影の約2年後の1971年1月に軌道線は廃止された。

 1968.11.21 南海電鉄和歌山軌道線 和歌山市2003・2004

 

1969年5月10日に廃止された東急玉川線には面白いのがいた。超タマゴ型の軽量車両で1軸連接台車。使い勝手が悪かったのか玉川線廃止後は世田谷線に残ることは無かった。こういう個性的な車両は最近は見かけない。現在の世田谷線はオール300形で2車体3台車。

 1969.5.8(玉川線廃止2日前)東急玉川線上通りデハ205二子玉川園行き

 

 2012.2.5 東急世田谷線宮の坂 三軒茶屋行き307AB

 

 2012.2.29 降雪の東急世田谷線下高井戸に到着する304AB

 

元祖連接車京阪びわこ

1969.12.6 京阪電鉄浜大津駅到着61 撮影メモ紛失のため駅名は未確認。

 

762ミリゲージ唯一の連接車が三岐鉄道北勢線に存在している。同社の200形で元三重交通湯の山線4400形1959年製。湯の山線改軌後は近鉄北勢線に移ったが何回行っても休んでいたのか撮れなかった。先日の烏丸御池写真展に行く前に訪問してみたらこの日は運よく走っていた。土砂降りであったがやっと撮れたと満足して帰った。

  2012.2.14 三岐鉄道北勢線楚原~麻生田 ク202

 

長野電鉄へ譲渡された元小田急10000形。本家の10000形は3月16日で全廃されるが分家では4連ながら小田急そのままの姿でしばらく走り続ける。

2007.9.16 長野電鉄夜間瀬~信濃竹原 特急「ゆけむり」湯田中行き1001~1031

 

JRでは珍しい連接車。7両連接×2の14両編成。京葉線で土休日に走っていたが、最近は見かけない。どうなっているのだろうか。電車情報にお詳しい葛飾区や都筑区にお住まいの方、情報をお願いしたい。

2010.7.26 JR京葉線潮見 クハE331-1 海浜幕張行き

本日の鴬谷 185系、485系

本日の上野駅7時20発の特急草津1号に157系色のOM08編成が運用されました。この列車は今週金曜日16日で廃止されますので最後の機会かと思われます。

鴬谷で朝日の逆光を浴びての草津号は今週で見納めです。

クモハ157に似ていますね。

 

次は上野18時40分発のホームライナー鴻巣3号です。上野発着の定期列車として唯一のオリジナルカラーの485系です。3月17日の改正で185系となりますのでこちらも今週で見納めです。

名残惜しい姿を撮影しています。

この発車案内と485系も見納めです。(クハ481-346)

夜の鴬谷を駆けぬけていきました。上野といえば485系でした。もう過去になります。

ありがとう119記念号

二月下旬、いつもデジタル青信号のトップ画像を撮影されている893-2氏より、飯田線の119系が3月いっぱいで引退するとの情報がもたらされました。

我ら82年度生にとって、飯田線は、特別の思いがあります。大学生になって、旧型国電を追って、何度と無く通った場所だからです。

また、1983年8月21日に降りしきる雨の中、伊那松島→中部天竜間で運転された旧型国電最後のさよなら列車にも、893-2氏と乗車しました。

その旧型国電を駆逐した憎い119系もとうとう引退のときを迎えました。東海色の119系には、あまり食指が動きませんが、デビュー当初の天竜川の流れをイメージした塗色の119系が運転されるとのことなので、先日の日曜日、青春18きっぷで飯田線まで、出かけてきました。

朝、6時過ぎに自宅近くの駅を出発し、途中、浅草橋・御茶ノ水・高尾・小淵沢・岡谷で乗換え、田切に着いたのは13時43分、旧国を何度と無く撮影した大変懐かしい田切のカーブで、宝塚から車で駆けつけた893-2氏と合流。こちらは、長い車中で、チューハイ・カップワインなど結構いい気分でしたが、彼は、もちろんアルコールなし。「酒臭いなー」といわれながら、ほどなくやってきた団体臨時列車として運転された119系2連の「ありがとう119記念号」を撮影しました。

デビュー当時119系の白い帯は、粘着テープで表現されており、非冷房であった当時、窓から手を出し、テープをはがす者が続出し、遠くから見てもみすぼらしい姿であったことが思い出されました。

その後、893-2氏の車に乗り、赤木~沢渡間に移動。ここで、9434M快速「ありがとう119記念号」を撮影しました。

去って行く119系に別れを告げ、ここで、893-2氏とも別れ、赤木から岡谷・大月・西国分寺・東松戸と乗換え、自宅最寄り駅に着いたのが22時51分。帰りも行きと同様、飲み続けたので、疲労困憊で自宅に帰りました。

ミシェラン車の車輪

余命幾許もない老人の希望を、ぶんしゅう氏がたちどころに叶えてくださったので、老人は機嫌すこぶる麗しく、いそいそと次なるスキャンに着手した。これで化けて出たり、怨念で祟り尽す必要もなくなった。いや、実のところこの老人に祟れる能力などありゃせんが、万が一にもぶんしゅう氏に無視でもされたら、それこそ安倍清明の法力にすがってでも、とは考えていた。因みに京都市立上京中学校のすぐ西に清明神社があり、子女の参詣が盛んだが、老人はこの中学を60年以上前に通ったから、清明とて同じ学区の縁?で、頼めばイヤとはいわんはずである。

ミシュラン車といえども、当然ながら多数のバリエーションがあり、けして単純ではないのだが、なるべく近そうな図や写真をお目にかけ、ミシュラン車の片鱗をご理解賜れば、老人にはこの上ない幸せである。

これがミシュランゴムタイヤ車輪の「最もポピュラー」な断面図である。タイヤ内部で逆向きのレール断面の如き代物は、タイヤがパンクした際急激にしぼんで二次事故に至らぬ為の鋼製プロテクターで、当然いくつかのバリエーションがある。鉄道に不可欠なフランジも勿論鋼製で、やはり数種があって、上図と次の写真とは種類が違うかもしれない。

ぶんしゅう氏最初の写真1枚だけからでは3軸ボギーかと思ったが、4軸だったので、この写真が同じかどうかは保証の限りでないが、外側のリーフスプリングがよく似ているものを探した。よっく目を見開いてご覧いただきたいが、ファイナルドライブがウォームギヤである。ウォームが逆回しできないというのは、模型のようにウォームの條溝が1本か2本の場合で、4本以上あれば効率はともかく逆回しが可能である。古い貨物自動車にはウォーム駆動が多かった。通常歯車にはニッケルクローム等の硬い金属を用いるが、戦前のウォームはマンガンブロンズ(砲金)等の柔らかい金属が常識で、粉末状での磨耗が不可避のため、やや耐久性のある消耗品として、簡単に交換ができる設計がなされている。現在では工作機械の進歩で、ウォームギヤは高性能歯車に分類されている。

先回挿入した写真に見合う図面が見つからず、一統中なるべく似たものを最後に入れておく。図は車体中間に扉があるタイプだが、貫通できず、前部が3等、中間が2等、後尾1等室は後向け展望室様になっている。便所も3等/1、2等と分かれ、これは白人が現地人との同室を嫌った植民地に多いタイプである。

なお今回も図と写真は『Autorail de France Tome1』から引用した。

ミシェランの内燃動車に驚く

エネルギー満ち溢れたぶんしゅう氏のリポートにはほとほと驚かされる。本日アップされた「ぶんしゅう旅日記Part11」初っ端に、メーターゲージの雲南鉄道ミシェラン車があるではないか。ピカピカに整備された保存車両だが、一体これはどこに保存されているのか。フランス植民地はメーターゲージが周知で、シンガポールからマレーシアを経てタイに到る鉄道や、ミャンマーもメーターゲージである。

ところでぶんしゅう氏の写真でのミシュラン車の足回りは通常の鉄輪のようだが、本来ミシュランはタイヤメーカーだから、ゴムタイヤ装着ガソリンカーを製造し、米国にまで輸出している。手持ちの本から、よく似ている車両を選んでみたが、何れも単端式である。

ぶんしゅう氏よ、もっと現車を詳しく観察したレポートを掲載せられよ。そして写真データーを余命幾許もない須磨老人に「気持ちよく」上納せられよ。さもなくば老人は絶望して寿命を縮め、間違いなく貴殿のもとに「うらめしやー」と化けて出て、とことん祟りまくること確実である。命が惜しいか、データーを出し惜しみするか。挿入写真は標準ゲージのゴムタイヤだが、窓配置などそっくり=『Autorail de France Tome1』より

京都水族館に行ってきました!

 

今日は14日開業の京都水族館の完成祝賀会でした。

町内に住んでいるからか招待を頂いたので見に行きました。じつは先日から年間パスポートの販売ですごい行列ができていたので開業からしばらくはひどい人気だろうと敬遠していましたが、ご招待なら楽々見られると喜んで行きました。というのはイルカのショーを見るスタンドから東海道線が見えるとの情報があったからです。

ご覧の通りスタンドから見るプールは彼方に東寺の塔、山陰線の221系、新幹線の700系、ここには写っていませんが梅小路のD51200の引く展示列車が一望です。来賓の前原誠司さんが「ここは最高ですね、新幹線のN700と在来線の国鉄塗色がイルカと一緒に見られます。全国のテッチャン300万人の入場も見込めます」とのリップサービスで会場を沸かせていました。そのほか、京都市長の門川大作さん(演歌歌手ではない)は「27年度にはここに日本最大の鉄道博物館ができる」と言っていました。これを楽しみにしています。予断ですが写真に写っている頭は、左から門川市長、右隣が山田府知事です。

小田急デハ1600形/廃車後の行方

デハ1600形は、関 三平様が解説されておられる通り、昭和17年に10両新製されているが、相棒のクハ1650形の経歴は少々複雑であるのでごく簡単に説明する。
最初に作られたクハ1651~1653は、昭和16年から19年にかけて鉄道省払下げの木製客車の台枠を使用して車体を新製した。スタイルはデハ1600形とは扉位置が異なり、HB車(皆さん言われているブサイクな車両)の制御車として使用され、後に制御器をABF車用に変更された。
昭和27年に戦災国電の復旧名義でクハ1654と1655が作られたが、台車のみ流用してデハ1600形と同形の車体を新製した。
昭和28年にクハ1656~1660の5両を新車として新製したが、台車は中古のTR11を使用した。この時点でMc、Tcともに10両ずつとなり、下2桁同一番号車で固定編成を組み、連結する側の運転台が撤去された。昭和33年から車体更新が実施され、正面窓のHゴム化、客室窓のアルミサッシ化、車内のアコモ改善等が行われたが、最初に作られたクハ1651~1653は、旧車体を廃棄してデハ1600形と同一車体を新製した。
廃棄された旧車体のうち2両分は上田丸子電鉄に売却され、元信濃鉄道買収車のモハ5362、モハ5363の鋼体化に使用された。
戦後の一時期、新宿~小田原間の特急にも使用されたが、晩年はローカル用で、昭和43年から45年にかけて廃車となり、主電動機等の一部電装品は4扉の大型車デハ4000形に流用された。車体は更新されており状態が良かったため振子式の試験車となったクハ1658と幼稚園の図書室に利用されたデハ1601以外は、関東鉄道、岳南鉄道等で再起した。

(1)関東鉄道
クハ1650形が7両入線し、キクハ1~4、キサハ65~67となった。
キクハ1~4
昭和44年に自社工場でキクハに改造した。旧車号は順に1655、1651、1652、1653である。2個エンジンの元小田急御殿場線直通準急用のキハ751~754と編成を組むことが多かった。片運で運転台はキクハ1と3は取手向きに、2と4は下館向きに設置されている。

 キクハ1/クハ1655の改造車。1655は、昭和27年に木製省電サハ19023の戦災復旧車名義で台車を流用して車体を新製した。デハとの連結面は広幅貫通路であったため改造時に両側の窓はそのままで通常サイズの貫通扉を設置した。(45-3-15、下45-9-14 水海道)

キクハ2/クハ1651からの改造車。昭和17年、鉄道省の雑形木製客車の台枠を利用して小田急クハ602として誕生。東急と合併時の改番でクハ1652となった。昭和33年にデハ1600形と同一スタイルの車体を新製して乗せ換えた。同時期にデハが新宿向きを奇数編成に、小田原向きを偶数編成に揃えるため、1601+1651と1602+1652の車号を振り替えたため、クハ1652はクハ1651に改番された。(50-1-3、下58-5-7 水海道)


キクハ3/クハ1652の改造車。経歴は(鉄道省木製雑形客車)→小田急クハ601→東急クハ1651→小田急クハ1651→車号振替による改番クハ1602→関東鉄道キクハ3。元小田急のキハ752と753の中間車として使用中。(50-1-3 水海道)

キクハ4/クハ1653からの改造車。経歴は(鉄道省木製雑形客車)→小田急クハ603→東急クハ1653→小田急クハ1653→関東鉄道キクハ4。(54-9-14 水海道)

 キサハ65~67
旧車号は順に1654、1656、1660である。キサハ65と67は、書類上は昭和48年西武所沢工場製となっている。
キサハ65/クハ1654の改造車。昭和27年に戦災国電の復旧名義で台車を流用して車体を新製した。乗務員室扉は埋め込まれて小窓化された。 (50-1-3 水海道)

キサハ66/クハ1656の改造車で昭和28年の新製車。台車は中古のTR11であった。乗務員室扉が残されている。(58-5-7 水海道)


 キサハ67/クハ1660の改造車で、昭和28年の新製車である。写真は無いが形態はキサハ65と同じである。 (50-1-3 水海道)

 岳南鉄道
昭和44年から47年にかけてデハ1600形4両(1604、1606~1608)、クハ1650形1両(1659)の5両が譲渡された。
モハ1108・クハ2106
昭和44年、西武所沢工場で更新の上入線した。モハ1108の旧車号はデハ1607、クハ2106はクハ1659である。2両固定編成でモハのパンタは連結面に移設された。


モハ1108/
(49-2-17 岳南江尾)

クハ2106/
(45-3-11 岳南江尾)
 
 モハ1601、1602、クハ2601
昭和46年にモハ1601、クハ2601、47年にモハ1602が入線した。旧車号は順にデハ1606、1604、1608である。モハ1601とクハ2601が固定編成、モハ1602は増結用の単独車である。

モハ1601+クハ1601+モハ1602/
(50-9-14 岳南江尾)

モハ1601/
(49-2-17 吉原)

クハ2601+モハ1601/
(49-2-17 吉原)

近江鉄道
昭和45年に元東急のモハ201、202、サハ101の車体更新のため、デハ1609、1603、1610の車体を購入、更にモハ201と202をMT編成にするため、西武所沢工場の新製車名義のクハ1201(旧クハ1657)、クハ1201(旧デハ1601)を購入した。サハ101は両運の電動車化してモハ203となった。
その後、三岐鉄道から元小田急デハ1605改造のモハ140を譲受け、モハ205となった。

クハ1201+モハ201
(47-5-28 貴生川)

デハ1600形と相棒のクハ1650形は、車体は比較的新しく更新修繕により車内のアコモも改善されていたが、沿線人口の急増により車体の大型化に迫られ、やむなく電動機を流用して大型のセミ新車を製作した。旧車体は状態が良く、ローカル私鉄には手頃なサイズであったため、関東鉄道、岳南鉄道、三岐鉄道、近江鉄道で再起した。
キクハについては、米手作市様のリクエストにより、写真と共にやや細かく書いたつもりである。その割には地元の近江が1枚しかないやんけと言われそうであるが、ネガが見つからず見切り発車したためである。

引続きHB車(皆さんが言われているブサイクな車両)についても小田急廃車後の行方について書いてみたい。

浜大津貨物線の思い出

先日の藤本様の投稿「昭和40年ころの浜大津界隈(3)」の最後のほうに、浜大津貨物線の86の写真があり、懐かしくなって、古いネガを探してみました。浜大津貨物線はご存知の通り、江若鉄道廃止と同時に廃止されましたが、最後まで8620が貨車を引っ張って膳所と浜大津の間を走っていました。湖岸側が3線区間となっており、もともと国鉄の線路に当時の大津電車軌道が第三レールを引いて営業したものですから、貨物が通るときはこの区間が閉塞区間となって浜大津から石山寺方面の電車はしばらく間隔があきました。この写真はいずれも196811月、丁度廃止の1年前に撮った物で、湖岸道路側から撮った写真にはこの年開催したびわこ博の看板が出ており、現在西武百貨店やマンションが立ち並ぶにおの浜一帯はこの時に埋め立てられたものです。また、このあたりの湖岸道路は確かまだ片側1車線で、湖岸通りより北側には1966年に開業した京阪レークセンターがありました。

私の自宅は大津駅の裏、山手のほうですが、夜になるといつも梅小路へ帰って行く汽笛の音が聞こえてきました。当時、ラジオのベストヒット番組が始まった頃で「9500万人のポピュラーリクエスト」(この当時人口が9500万人だったのでしょうか)を聞いていたときに汽笛が鳴ったような記憶があったので調べてみると、番組は20002100の放送でした。私のハンドルネーム「大津の86」というのは恥ずかしながら、ラジオ番組にリクエスト出していたときの名前で、40数年ぶりまたこの名前を使うこととなりました。

浜大津貨物線の写真は2,3度は撮りに行った記憶がありますし、一度は父の8mmを借りて島の関付近を撮ったように思うのですが、残念ながらここに載せたもの以外はどうも見当たりません。ネガの状態も悪くお見せできるような代物ではないのですが、つい懐かしくなって出させていただきました。

空飛ぶ電車をご存知ですか

幼い頃、親父からドイツには“空飛ぶ電車が走っている”と聞かされた。電車は上に電線があってポールかパンタグラフで電気を摂り、下に線路があって車輪が回っているのに、どうして飛ぶのかと思っていた。小学校入学の頃、ドイツの飛行機に被れていた兄に“空飛ぶ電車”について聞いたら、「親父の言っているあれか、ヴッパータルの懸垂電車のことだろう。」と笑いながら言ったが、何処だとはとは教えてくれなかった。雰囲気からどうも「ど」田舎ではないかと思い、親父に「地図に載ってないが、どうやって行くのや。」と聞いてみた。「そうか、化学工業都市で有名な町やが、戦争で壊滅したかな?デュッセルドルフから汽車で1時間ぐらい、どっちの方向やったかな……。」20年前の事となると仕事に関係ある事は覚えていても、それ以外は忘却の彼方となるようだ。それでも印象深いものがあったようで、「川の上を走っていた。」と言ってくれた。

1980年、始めてドイツに行くことが出来た。フランクフルトの本屋で「ドイツの地図が欲しい」と言ったら道路地図が出てきた。西ドイツ圏だけだが、ヴッパータルはデュッセルドルフの東に記されていた。こうなると行って見たい。どんな電車が走っているのか、上野動物園の懸垂電車を一回り大きくしたものだと言うことは文献で知ったが、どんな地形でどんな川の上に線路があるのか、電車の内部はどうなっているのか、知りたいことで一杯であった。

2003年、鹿島さんに連れられ、吉川さんを誘ってのドイツ一周路面電車巡りで、やっと「空飛ぶ電車」を訪ねることが実現した。ところがトーマスクックの時刻表では、細い線がデュッセルドルフから東方向にあることはあるが、駅名も発車時刻の記載もないのである。やはり「ど」田舎らしいと心配になり、鹿島さんに「列車本数の少ない不便なところですか?」と尋ねてみた。「ヴッパータルはドルトムントからケルンへの本線筋にあり、ICではハーゲンの次の停車駅になる、ヴッパー川沿いに細長い町です。ちなみにタル(tal)とは谷又は谷底のことですな。沖中さんの見つけたコース、デュッセルドルフから行くようにしましょう。」と、老人の願いに応えてくださった。

その日は2003620日、朝815分頃デュッセルドルフを客車編成で出発。農村風景の中を走ること約45分、鹿島さんは「1駅手前で降りて西端の終点から乗ってヴッパータル市内に入りましょう……。」とおっしゃった。1駅手前(駅名不明)で降りて駅前広場の正面を左折、十字路に出ると「空飛ぶ電車」のレールが空中左右に横たわっていた。暫くすると右(西)から左に2車体1組の懸垂電車が軽い音と共に横切った。次いでカメラを構えていると左から右へ、有難いことに地上の交差点ではバスが渡ってくれた。西端フォルヴィンケル駅へは街路からエレベーターで上がる。終端の奥は車庫を兼ね、本線は手前でループになっていた。以下、写真をご覧下さい。

空飛ぶ電車Hbfで下車、DBHbfへは徒歩で約3分。IC3のビュッフェで、生中を乾杯!ケルン経由でボンに向かったのでありました。

 

道路に出たらバスの上に電車がやってきた。

道路に出たらバスの上に電車がやってきた。

西の終点駅の乗り場は右側
西の終点駅の乗り場は右側
終点の奥は車庫。右端は旧型の動態保蝌・?
終点の奥は車庫。右端は旧型の動態保存車
車内:右側は扉、通路、立蟶・?左側に1箱2人掛け12脚の座蟶・?
車内:右側は扉、通路、立席。左側に1箱2人掛け12脚の座席。
街路の上を走る
街路の上を走る
川の荳・?乗り場にはエレベーターで上る
川の中の乗り場にはエレベーターで上る
ソンボルネル通りから東は川の上
ソンボルネル通りから東は川の上
両端リブ付き車輪と主電動機、ブレー繧・?電制と油圧
両端リブ付き車輪と主電動機、ブレーキは電制と油圧
路線の荳・?あたりのDB・Hbf至近駅で下車
路線の中央あたりのDB・Hbf至近駅で下車

小田急デハ1600

何度も言いますが、私は電車、特に関東の私鉄についてはそこら辺の女子供にも劣る知識です。このシリーズを拝読するに付けても奥深いものと感心していますが、この記事に即反応してデータと知識を開陳してくれる会員の皆様にさらなる感銘を受けております。

今日の話題は小田急電鉄です。この記事の中で疑問がいくつかありますので教えて下さい。

①昭和2年から一気に作った76両がブサイクだった、と書かれているがどんな顔だったのか?

②“いっそ小田急で逃げましょうか・・”などという歌謡曲があったのか?

③廃車後は各地で活躍した、とありますがどこで活躍したのか?

よろしくお願い致します。

昭和40年前後の浜大津界隈(3)

西村雅幸氏投稿の2月20日【17859】「浜大津ターミナル復元(その6)」で、京津線の発着番線に関するご質問が寄せられたところ、当日中に特派員さんが写真と共に回答されており、改めてクローバー会の連携と実力を実感した。

特派員さんの写真でご注目いただきたいのは、浜大津駅の看板で、昭和40年代の前半頃まで「京都、大阪、宇治、奈良方面行のりば」となっていたのが「奈良」が「私市」に変更されている点である。大津で「私市」は一般的でないため、「奈良」を外すのであれば「京都、大阪、枚方、宇治」の方がスッキリしたのではないかと思われる。

発着番線関連を含め、あと少し貼り付けたので参考になれば幸いである。

2番線を発車した普通/この時代三条方面の昼間のダイヤは三条~石山寺間急行、三条~浜大津間普通、三条~四宮間普通が各20分間隔で、三条~浜大津間の普通は急行退避がなかったため、三条~
浜大津間は実質1時間に6本運行されていた。(40-1-2)

浜大津東口を発車した石山寺行/303+304
(40-11-4)

浜大津東口を発車した石山寺行/263+264
(41-2-19)

88638との並び 
(43-9-28)

13+14/土産物屋は2件並んでいた。
(41-2-19)

 61
(42-5-13)

京浜急行デハ230型とトンボ電車クハ140型

米手作市様からのご指名ではないが、迷図作家さん関連の京浜急行230型の乙訓の老人様発表の続きとして失礼ながら続行させて頂く。また、同作家の昨年7月7日のトンボ電車について廃車後ではあるがその姿も発表する。とんぼ電車については京浜急行クハ140型が電動車デハ51型であった頃にポールをふりふりして軽快に駆けた姿からその様に言われたとのことで私はその記事をよく読まずお尋ねして恥をかいた次第である。

         1998.5.4 房前~塩屋 38+37

この撮影名所はその後の訪問では覆いができてしまい撮影を諦めたように思う。

 

           1998.5.4 房前~塩屋 27

京浜急行デハ230のサイドビューである。京浜急行は馬堀海岸、三浦海岸、大森海岸、津久井浜、汐入、浦賀等々海に因んだ駅名が多いがこれほど海に近づいて走行している場所はないと思う。この撮影地点の背後に琴電の旧型車が保存されている。

 

           1970.1.4 川崎大師付近 

品川からの初詣臨時急行でだるまのヘッドマーク付き。前から246・245・250・249の編成。

1965年の夏には海水浴の臨時特急が230型を含め吊り掛け車も総動員して運行されていた。アルバイトの帰りに新子安の京浜東北線のホームからその快走ぶりを見たことがある。乗ってみると窓が大きくて低く、シルにリベットがつき少しP-6を思い出したが、小錦と舞の海の重量差、軽快差を感じた。

 

        1966.11.1 久里浜工場 141

この電車がその昔ポールふりふりとんぼ電車と言われたようであるが、丁度廃車された頃に久里浜工場にいたので撮影した。デハ230と連結してクハとなったり中間に入っていたとのことであるが、現役の姿は見ていない。

 

 

快速観光電車 京急デハ230型

米手作市さん、ご指名に預り有難うございます。総本家さんから先日「琴電100年の歩み」の編集が終わったとの便りがありました。1年近く取組んでおられたCan Booksが、間もなく店頭に並ぶ事になりお慶び申し上げます。皆さんぜひ「立ち読み」お願いします。迷図作家さんがお取り上げ下さいました京浜急行電鉄デハ230型が、最後に活躍した電鉄線を紹介した書籍が同時期に刊行されるとは、なにか因縁めいたものがあるのでしょうか。

さて老人はデハ230型を始めての東京電車見物の時に乗っております。先日、横浜市電の展覧会で横浜に行く時も、都営地下鉄「泉岳寺」初発の快急、2100系先頭クロス(着席は限定4人)で59年前の京浜突進電車デハ230型のことを思い出しておりました。窓の高さ、これは関西で匹敵するものは奈良電クハボ600と南海1900号ぐらいのものと思います。運転席が独立せずに低い囲いで、自動扉の開閉を運転士がしていたこと、中間に連結していたのがモーター無しの「トンボ電車」であったこと、外部塗色が米手作市さんご指摘の強烈なものであったこと、東京の郊外電車は非貫通の両運が多いことを気付かせる電車であったこと、などなど。

先の東急3450型が50両であったことを知ったのは高校進学後で、京浜230型の55両も同時に知りました。その時、東急は4線に配置され目立ちませんでしたが、京浜の方は吉谷さん流に言えば「せんぐりせんぐりやってくる」電車の印象を持って帰京しました。

迷図作家さんご指摘の琴電志度線の海岸沿いの急カーブ、老人もお気に入りのポイントですが、昨年GWに「ぶんしゅう」さんを引張って行ったのですが、防波堤の上方に無粋な鉄板が追加され、さっぱりでした。16,7年前の盆休みに急カーブのところで撮影したのがあった筈と探しましたが出てきません。どなたかにプレゼントしたようです。代わりに10年ばかり前の工事中が出て参りました。ぶんしゅうさんは房前-原間の築堤沿いで撮影となりました。

屋島東方・31+32 貫通扉なし

屋島東方・31+32 貫通扉なし

房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事荳
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事中