ありがとう119記念号

二月下旬、いつもデジタル青信号のトップ画像を撮影されている893-2氏より、飯田線の119系が3月いっぱいで引退するとの情報がもたらされました。

我ら82年度生にとって、飯田線は、特別の思いがあります。大学生になって、旧型国電を追って、何度と無く通った場所だからです。

また、1983年8月21日に降りしきる雨の中、伊那松島→中部天竜間で運転された旧型国電最後のさよなら列車にも、893-2氏と乗車しました。

その旧型国電を駆逐した憎い119系もとうとう引退のときを迎えました。東海色の119系には、あまり食指が動きませんが、デビュー当初の天竜川の流れをイメージした塗色の119系が運転されるとのことなので、先日の日曜日、青春18きっぷで飯田線まで、出かけてきました。

朝、6時過ぎに自宅近くの駅を出発し、途中、浅草橋・御茶ノ水・高尾・小淵沢・岡谷で乗換え、田切に着いたのは13時43分、旧国を何度と無く撮影した大変懐かしい田切のカーブで、宝塚から車で駆けつけた893-2氏と合流。こちらは、長い車中で、チューハイ・カップワインなど結構いい気分でしたが、彼は、もちろんアルコールなし。「酒臭いなー」といわれながら、ほどなくやってきた団体臨時列車として運転された119系2連の「ありがとう119記念号」を撮影しました。

デビュー当時119系の白い帯は、粘着テープで表現されており、非冷房であった当時、窓から手を出し、テープをはがす者が続出し、遠くから見てもみすぼらしい姿であったことが思い出されました。

その後、893-2氏の車に乗り、赤木~沢渡間に移動。ここで、9434M快速「ありがとう119記念号」を撮影しました。

去って行く119系に別れを告げ、ここで、893-2氏とも別れ、赤木から岡谷・大月・西国分寺・東松戸と乗換え、自宅最寄り駅に着いたのが22時51分。帰りも行きと同様、飲み続けたので、疲労困憊で自宅に帰りました。

ミシェラン車の車輪

余命幾許もない老人の希望を、ぶんしゅう氏がたちどころに叶えてくださったので、老人は機嫌すこぶる麗しく、いそいそと次なるスキャンに着手した。これで化けて出たり、怨念で祟り尽す必要もなくなった。いや、実のところこの老人に祟れる能力などありゃせんが、万が一にもぶんしゅう氏に無視でもされたら、それこそ安倍清明の法力にすがってでも、とは考えていた。因みに京都市立上京中学校のすぐ西に清明神社があり、子女の参詣が盛んだが、老人はこの中学を60年以上前に通ったから、清明とて同じ学区の縁?で、頼めばイヤとはいわんはずである。

ミシュラン車といえども、当然ながら多数のバリエーションがあり、けして単純ではないのだが、なるべく近そうな図や写真をお目にかけ、ミシュラン車の片鱗をご理解賜れば、老人にはこの上ない幸せである。

これがミシュランゴムタイヤ車輪の「最もポピュラー」な断面図である。タイヤ内部で逆向きのレール断面の如き代物は、タイヤがパンクした際急激にしぼんで二次事故に至らぬ為の鋼製プロテクターで、当然いくつかのバリエーションがある。鉄道に不可欠なフランジも勿論鋼製で、やはり数種があって、上図と次の写真とは種類が違うかもしれない。

ぶんしゅう氏最初の写真1枚だけからでは3軸ボギーかと思ったが、4軸だったので、この写真が同じかどうかは保証の限りでないが、外側のリーフスプリングがよく似ているものを探した。よっく目を見開いてご覧いただきたいが、ファイナルドライブがウォームギヤである。ウォームが逆回しできないというのは、模型のようにウォームの條溝が1本か2本の場合で、4本以上あれば効率はともかく逆回しが可能である。古い貨物自動車にはウォーム駆動が多かった。通常歯車にはニッケルクローム等の硬い金属を用いるが、戦前のウォームはマンガンブロンズ(砲金)等の柔らかい金属が常識で、粉末状での磨耗が不可避のため、やや耐久性のある消耗品として、簡単に交換ができる設計がなされている。現在では工作機械の進歩で、ウォームギヤは高性能歯車に分類されている。

先回挿入した写真に見合う図面が見つからず、一統中なるべく似たものを最後に入れておく。図は車体中間に扉があるタイプだが、貫通できず、前部が3等、中間が2等、後尾1等室は後向け展望室様になっている。便所も3等/1、2等と分かれ、これは白人が現地人との同室を嫌った植民地に多いタイプである。

なお今回も図と写真は『Autorail de France Tome1』から引用した。

ミシェランの内燃動車に驚く

エネルギー満ち溢れたぶんしゅう氏のリポートにはほとほと驚かされる。本日アップされた「ぶんしゅう旅日記Part11」初っ端に、メーターゲージの雲南鉄道ミシェラン車があるではないか。ピカピカに整備された保存車両だが、一体これはどこに保存されているのか。フランス植民地はメーターゲージが周知で、シンガポールからマレーシアを経てタイに到る鉄道や、ミャンマーもメーターゲージである。

ところでぶんしゅう氏の写真でのミシュラン車の足回りは通常の鉄輪のようだが、本来ミシュランはタイヤメーカーだから、ゴムタイヤ装着ガソリンカーを製造し、米国にまで輸出している。手持ちの本から、よく似ている車両を選んでみたが、何れも単端式である。

ぶんしゅう氏よ、もっと現車を詳しく観察したレポートを掲載せられよ。そして写真データーを余命幾許もない須磨老人に「気持ちよく」上納せられよ。さもなくば老人は絶望して寿命を縮め、間違いなく貴殿のもとに「うらめしやー」と化けて出て、とことん祟りまくること確実である。命が惜しいか、データーを出し惜しみするか。挿入写真は標準ゲージのゴムタイヤだが、窓配置などそっくり=『Autorail de France Tome1』より

京都水族館に行ってきました!

 

今日は14日開業の京都水族館の完成祝賀会でした。

町内に住んでいるからか招待を頂いたので見に行きました。じつは先日から年間パスポートの販売ですごい行列ができていたので開業からしばらくはひどい人気だろうと敬遠していましたが、ご招待なら楽々見られると喜んで行きました。というのはイルカのショーを見るスタンドから東海道線が見えるとの情報があったからです。

ご覧の通りスタンドから見るプールは彼方に東寺の塔、山陰線の221系、新幹線の700系、ここには写っていませんが梅小路のD51200の引く展示列車が一望です。来賓の前原誠司さんが「ここは最高ですね、新幹線のN700と在来線の国鉄塗色がイルカと一緒に見られます。全国のテッチャン300万人の入場も見込めます」とのリップサービスで会場を沸かせていました。そのほか、京都市長の門川大作さん(演歌歌手ではない)は「27年度にはここに日本最大の鉄道博物館ができる」と言っていました。これを楽しみにしています。予断ですが写真に写っている頭は、左から門川市長、右隣が山田府知事です。

小田急デハ1600形/廃車後の行方

デハ1600形は、関 三平様が解説されておられる通り、昭和17年に10両新製されているが、相棒のクハ1650形の経歴は少々複雑であるのでごく簡単に説明する。
最初に作られたクハ1651~1653は、昭和16年から19年にかけて鉄道省払下げの木製客車の台枠を使用して車体を新製した。スタイルはデハ1600形とは扉位置が異なり、HB車(皆さん言われているブサイクな車両)の制御車として使用され、後に制御器をABF車用に変更された。
昭和27年に戦災国電の復旧名義でクハ1654と1655が作られたが、台車のみ流用してデハ1600形と同形の車体を新製した。
昭和28年にクハ1656~1660の5両を新車として新製したが、台車は中古のTR11を使用した。この時点でMc、Tcともに10両ずつとなり、下2桁同一番号車で固定編成を組み、連結する側の運転台が撤去された。昭和33年から車体更新が実施され、正面窓のHゴム化、客室窓のアルミサッシ化、車内のアコモ改善等が行われたが、最初に作られたクハ1651~1653は、旧車体を廃棄してデハ1600形と同一車体を新製した。
廃棄された旧車体のうち2両分は上田丸子電鉄に売却され、元信濃鉄道買収車のモハ5362、モハ5363の鋼体化に使用された。
戦後の一時期、新宿~小田原間の特急にも使用されたが、晩年はローカル用で、昭和43年から45年にかけて廃車となり、主電動機等の一部電装品は4扉の大型車デハ4000形に流用された。車体は更新されており状態が良かったため振子式の試験車となったクハ1658と幼稚園の図書室に利用されたデハ1601以外は、関東鉄道、岳南鉄道等で再起した。

(1)関東鉄道
クハ1650形が7両入線し、キクハ1~4、キサハ65~67となった。
キクハ1~4
昭和44年に自社工場でキクハに改造した。旧車号は順に1655、1651、1652、1653である。2個エンジンの元小田急御殿場線直通準急用のキハ751~754と編成を組むことが多かった。片運で運転台はキクハ1と3は取手向きに、2と4は下館向きに設置されている。

 キクハ1/クハ1655の改造車。1655は、昭和27年に木製省電サハ19023の戦災復旧車名義で台車を流用して車体を新製した。デハとの連結面は広幅貫通路であったため改造時に両側の窓はそのままで通常サイズの貫通扉を設置した。(45-3-15、下45-9-14 水海道)

キクハ2/クハ1651からの改造車。昭和17年、鉄道省の雑形木製客車の台枠を利用して小田急クハ602として誕生。東急と合併時の改番でクハ1652となった。昭和33年にデハ1600形と同一スタイルの車体を新製して乗せ換えた。同時期にデハが新宿向きを奇数編成に、小田原向きを偶数編成に揃えるため、1601+1651と1602+1652の車号を振り替えたため、クハ1652はクハ1651に改番された。(50-1-3、下58-5-7 水海道)


キクハ3/クハ1652の改造車。経歴は(鉄道省木製雑形客車)→小田急クハ601→東急クハ1651→小田急クハ1651→車号振替による改番クハ1602→関東鉄道キクハ3。元小田急のキハ752と753の中間車として使用中。(50-1-3 水海道)

キクハ4/クハ1653からの改造車。経歴は(鉄道省木製雑形客車)→小田急クハ603→東急クハ1653→小田急クハ1653→関東鉄道キクハ4。(54-9-14 水海道)

 キサハ65~67
旧車号は順に1654、1656、1660である。キサハ65と67は、書類上は昭和48年西武所沢工場製となっている。
キサハ65/クハ1654の改造車。昭和27年に戦災国電の復旧名義で台車を流用して車体を新製した。乗務員室扉は埋め込まれて小窓化された。 (50-1-3 水海道)

キサハ66/クハ1656の改造車で昭和28年の新製車。台車は中古のTR11であった。乗務員室扉が残されている。(58-5-7 水海道)


 キサハ67/クハ1660の改造車で、昭和28年の新製車である。写真は無いが形態はキサハ65と同じである。 (50-1-3 水海道)

 岳南鉄道
昭和44年から47年にかけてデハ1600形4両(1604、1606~1608)、クハ1650形1両(1659)の5両が譲渡された。
モハ1108・クハ2106
昭和44年、西武所沢工場で更新の上入線した。モハ1108の旧車号はデハ1607、クハ2106はクハ1659である。2両固定編成でモハのパンタは連結面に移設された。


モハ1108/
(49-2-17 岳南江尾)

クハ2106/
(45-3-11 岳南江尾)
 
 モハ1601、1602、クハ2601
昭和46年にモハ1601、クハ2601、47年にモハ1602が入線した。旧車号は順にデハ1606、1604、1608である。モハ1601とクハ2601が固定編成、モハ1602は増結用の単独車である。

モハ1601+クハ1601+モハ1602/
(50-9-14 岳南江尾)

モハ1601/
(49-2-17 吉原)

クハ2601+モハ1601/
(49-2-17 吉原)

近江鉄道
昭和45年に元東急のモハ201、202、サハ101の車体更新のため、デハ1609、1603、1610の車体を購入、更にモハ201と202をMT編成にするため、西武所沢工場の新製車名義のクハ1201(旧クハ1657)、クハ1201(旧デハ1601)を購入した。サハ101は両運の電動車化してモハ203となった。
その後、三岐鉄道から元小田急デハ1605改造のモハ140を譲受け、モハ205となった。

クハ1201+モハ201
(47-5-28 貴生川)

デハ1600形と相棒のクハ1650形は、車体は比較的新しく更新修繕により車内のアコモも改善されていたが、沿線人口の急増により車体の大型化に迫られ、やむなく電動機を流用して大型のセミ新車を製作した。旧車体は状態が良く、ローカル私鉄には手頃なサイズであったため、関東鉄道、岳南鉄道、三岐鉄道、近江鉄道で再起した。
キクハについては、米手作市様のリクエストにより、写真と共にやや細かく書いたつもりである。その割には地元の近江が1枚しかないやんけと言われそうであるが、ネガが見つからず見切り発車したためである。

引続きHB車(皆さんが言われているブサイクな車両)についても小田急廃車後の行方について書いてみたい。

浜大津貨物線の思い出

先日の藤本様の投稿「昭和40年ころの浜大津界隈(3)」の最後のほうに、浜大津貨物線の86の写真があり、懐かしくなって、古いネガを探してみました。浜大津貨物線はご存知の通り、江若鉄道廃止と同時に廃止されましたが、最後まで8620が貨車を引っ張って膳所と浜大津の間を走っていました。湖岸側が3線区間となっており、もともと国鉄の線路に当時の大津電車軌道が第三レールを引いて営業したものですから、貨物が通るときはこの区間が閉塞区間となって浜大津から石山寺方面の電車はしばらく間隔があきました。この写真はいずれも196811月、丁度廃止の1年前に撮った物で、湖岸道路側から撮った写真にはこの年開催したびわこ博の看板が出ており、現在西武百貨店やマンションが立ち並ぶにおの浜一帯はこの時に埋め立てられたものです。また、このあたりの湖岸道路は確かまだ片側1車線で、湖岸通りより北側には1966年に開業した京阪レークセンターがありました。

私の自宅は大津駅の裏、山手のほうですが、夜になるといつも梅小路へ帰って行く汽笛の音が聞こえてきました。当時、ラジオのベストヒット番組が始まった頃で「9500万人のポピュラーリクエスト」(この当時人口が9500万人だったのでしょうか)を聞いていたときに汽笛が鳴ったような記憶があったので調べてみると、番組は20002100の放送でした。私のハンドルネーム「大津の86」というのは恥ずかしながら、ラジオ番組にリクエスト出していたときの名前で、40数年ぶりまたこの名前を使うこととなりました。

浜大津貨物線の写真は2,3度は撮りに行った記憶がありますし、一度は父の8mmを借りて島の関付近を撮ったように思うのですが、残念ながらここに載せたもの以外はどうも見当たりません。ネガの状態も悪くお見せできるような代物ではないのですが、つい懐かしくなって出させていただきました。

空飛ぶ電車をご存知ですか

幼い頃、親父からドイツには“空飛ぶ電車が走っている”と聞かされた。電車は上に電線があってポールかパンタグラフで電気を摂り、下に線路があって車輪が回っているのに、どうして飛ぶのかと思っていた。小学校入学の頃、ドイツの飛行機に被れていた兄に“空飛ぶ電車”について聞いたら、「親父の言っているあれか、ヴッパータルの懸垂電車のことだろう。」と笑いながら言ったが、何処だとはとは教えてくれなかった。雰囲気からどうも「ど」田舎ではないかと思い、親父に「地図に載ってないが、どうやって行くのや。」と聞いてみた。「そうか、化学工業都市で有名な町やが、戦争で壊滅したかな?デュッセルドルフから汽車で1時間ぐらい、どっちの方向やったかな……。」20年前の事となると仕事に関係ある事は覚えていても、それ以外は忘却の彼方となるようだ。それでも印象深いものがあったようで、「川の上を走っていた。」と言ってくれた。

1980年、始めてドイツに行くことが出来た。フランクフルトの本屋で「ドイツの地図が欲しい」と言ったら道路地図が出てきた。西ドイツ圏だけだが、ヴッパータルはデュッセルドルフの東に記されていた。こうなると行って見たい。どんな電車が走っているのか、上野動物園の懸垂電車を一回り大きくしたものだと言うことは文献で知ったが、どんな地形でどんな川の上に線路があるのか、電車の内部はどうなっているのか、知りたいことで一杯であった。

2003年、鹿島さんに連れられ、吉川さんを誘ってのドイツ一周路面電車巡りで、やっと「空飛ぶ電車」を訪ねることが実現した。ところがトーマスクックの時刻表では、細い線がデュッセルドルフから東方向にあることはあるが、駅名も発車時刻の記載もないのである。やはり「ど」田舎らしいと心配になり、鹿島さんに「列車本数の少ない不便なところですか?」と尋ねてみた。「ヴッパータルはドルトムントからケルンへの本線筋にあり、ICではハーゲンの次の停車駅になる、ヴッパー川沿いに細長い町です。ちなみにタル(tal)とは谷又は谷底のことですな。沖中さんの見つけたコース、デュッセルドルフから行くようにしましょう。」と、老人の願いに応えてくださった。

その日は2003620日、朝815分頃デュッセルドルフを客車編成で出発。農村風景の中を走ること約45分、鹿島さんは「1駅手前で降りて西端の終点から乗ってヴッパータル市内に入りましょう……。」とおっしゃった。1駅手前(駅名不明)で降りて駅前広場の正面を左折、十字路に出ると「空飛ぶ電車」のレールが空中左右に横たわっていた。暫くすると右(西)から左に2車体1組の懸垂電車が軽い音と共に横切った。次いでカメラを構えていると左から右へ、有難いことに地上の交差点ではバスが渡ってくれた。西端フォルヴィンケル駅へは街路からエレベーターで上がる。終端の奥は車庫を兼ね、本線は手前でループになっていた。以下、写真をご覧下さい。

空飛ぶ電車Hbfで下車、DBHbfへは徒歩で約3分。IC3のビュッフェで、生中を乾杯!ケルン経由でボンに向かったのでありました。

 

道路に出たらバスの上に電車がやってきた。

道路に出たらバスの上に電車がやってきた。

西の終点駅の乗り場は右側
西の終点駅の乗り場は右側
終点の奥は車庫。右端は旧型の動態保蝌・?
終点の奥は車庫。右端は旧型の動態保存車
車内:右側は扉、通路、立蟶・?左側に1箱2人掛け12脚の座蟶・?
車内:右側は扉、通路、立席。左側に1箱2人掛け12脚の座席。
街路の上を走る
街路の上を走る
川の荳・?乗り場にはエレベーターで上る
川の中の乗り場にはエレベーターで上る
ソンボルネル通りから東は川の上
ソンボルネル通りから東は川の上
両端リブ付き車輪と主電動機、ブレー繧・?電制と油圧
両端リブ付き車輪と主電動機、ブレーキは電制と油圧
路線の荳・?あたりのDB・Hbf至近駅で下車
路線の中央あたりのDB・Hbf至近駅で下車

小田急デハ1600

何度も言いますが、私は電車、特に関東の私鉄についてはそこら辺の女子供にも劣る知識です。このシリーズを拝読するに付けても奥深いものと感心していますが、この記事に即反応してデータと知識を開陳してくれる会員の皆様にさらなる感銘を受けております。

今日の話題は小田急電鉄です。この記事の中で疑問がいくつかありますので教えて下さい。

①昭和2年から一気に作った76両がブサイクだった、と書かれているがどんな顔だったのか?

②“いっそ小田急で逃げましょうか・・”などという歌謡曲があったのか?

③廃車後は各地で活躍した、とありますがどこで活躍したのか?

よろしくお願い致します。

昭和40年前後の浜大津界隈(3)

西村雅幸氏投稿の2月20日【17859】「浜大津ターミナル復元(その6)」で、京津線の発着番線に関するご質問が寄せられたところ、当日中に特派員さんが写真と共に回答されており、改めてクローバー会の連携と実力を実感した。

特派員さんの写真でご注目いただきたいのは、浜大津駅の看板で、昭和40年代の前半頃まで「京都、大阪、宇治、奈良方面行のりば」となっていたのが「奈良」が「私市」に変更されている点である。大津で「私市」は一般的でないため、「奈良」を外すのであれば「京都、大阪、枚方、宇治」の方がスッキリしたのではないかと思われる。

発着番線関連を含め、あと少し貼り付けたので参考になれば幸いである。

2番線を発車した普通/この時代三条方面の昼間のダイヤは三条~石山寺間急行、三条~浜大津間普通、三条~四宮間普通が各20分間隔で、三条~浜大津間の普通は急行退避がなかったため、三条~
浜大津間は実質1時間に6本運行されていた。(40-1-2)

浜大津東口を発車した石山寺行/303+304
(40-11-4)

浜大津東口を発車した石山寺行/263+264
(41-2-19)

88638との並び 
(43-9-28)

13+14/土産物屋は2件並んでいた。
(41-2-19)

 61
(42-5-13)

京浜急行デハ230型とトンボ電車クハ140型

米手作市様からのご指名ではないが、迷図作家さん関連の京浜急行230型の乙訓の老人様発表の続きとして失礼ながら続行させて頂く。また、同作家の昨年7月7日のトンボ電車について廃車後ではあるがその姿も発表する。とんぼ電車については京浜急行クハ140型が電動車デハ51型であった頃にポールをふりふりして軽快に駆けた姿からその様に言われたとのことで私はその記事をよく読まずお尋ねして恥をかいた次第である。

         1998.5.4 房前~塩屋 38+37

この撮影名所はその後の訪問では覆いができてしまい撮影を諦めたように思う。

 

           1998.5.4 房前~塩屋 27

京浜急行デハ230のサイドビューである。京浜急行は馬堀海岸、三浦海岸、大森海岸、津久井浜、汐入、浦賀等々海に因んだ駅名が多いがこれほど海に近づいて走行している場所はないと思う。この撮影地点の背後に琴電の旧型車が保存されている。

 

           1970.1.4 川崎大師付近 

品川からの初詣臨時急行でだるまのヘッドマーク付き。前から246・245・250・249の編成。

1965年の夏には海水浴の臨時特急が230型を含め吊り掛け車も総動員して運行されていた。アルバイトの帰りに新子安の京浜東北線のホームからその快走ぶりを見たことがある。乗ってみると窓が大きくて低く、シルにリベットがつき少しP-6を思い出したが、小錦と舞の海の重量差、軽快差を感じた。

 

        1966.11.1 久里浜工場 141

この電車がその昔ポールふりふりとんぼ電車と言われたようであるが、丁度廃車された頃に久里浜工場にいたので撮影した。デハ230と連結してクハとなったり中間に入っていたとのことであるが、現役の姿は見ていない。

 

 

快速観光電車 京急デハ230型

米手作市さん、ご指名に預り有難うございます。総本家さんから先日「琴電100年の歩み」の編集が終わったとの便りがありました。1年近く取組んでおられたCan Booksが、間もなく店頭に並ぶ事になりお慶び申し上げます。皆さんぜひ「立ち読み」お願いします。迷図作家さんがお取り上げ下さいました京浜急行電鉄デハ230型が、最後に活躍した電鉄線を紹介した書籍が同時期に刊行されるとは、なにか因縁めいたものがあるのでしょうか。

さて老人はデハ230型を始めての東京電車見物の時に乗っております。先日、横浜市電の展覧会で横浜に行く時も、都営地下鉄「泉岳寺」初発の快急、2100系先頭クロス(着席は限定4人)で59年前の京浜突進電車デハ230型のことを思い出しておりました。窓の高さ、これは関西で匹敵するものは奈良電クハボ600と南海1900号ぐらいのものと思います。運転席が独立せずに低い囲いで、自動扉の開閉を運転士がしていたこと、中間に連結していたのがモーター無しの「トンボ電車」であったこと、外部塗色が米手作市さんご指摘の強烈なものであったこと、東京の郊外電車は非貫通の両運が多いことを気付かせる電車であったこと、などなど。

先の東急3450型が50両であったことを知ったのは高校進学後で、京浜230型の55両も同時に知りました。その時、東急は4線に配置され目立ちませんでしたが、京浜の方は吉谷さん流に言えば「せんぐりせんぐりやってくる」電車の印象を持って帰京しました。

迷図作家さんご指摘の琴電志度線の海岸沿いの急カーブ、老人もお気に入りのポイントですが、昨年GWに「ぶんしゅう」さんを引張って行ったのですが、防波堤の上方に無粋な鉄板が追加され、さっぱりでした。16,7年前の盆休みに急カーブのところで撮影したのがあった筈と探しましたが出てきません。どなたかにプレゼントしたようです。代わりに10年ばかり前の工事中が出て参りました。ぶんしゅうさんは房前-原間の築堤沿いで撮影となりました。

屋島東方・31+32 貫通扉なし

屋島東方・31+32 貫通扉なし

房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事荳
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事中

スカイレールをご存じですか

沖縄モノレールの藤本氏のコメントを受けて、広島にしかないローカルな乗り物をご紹介します。かつて西の箱根と呼ばれ D52やEF59が活躍した瀬野-八本松の あの瀬野駅から北側の住宅団地を結ぶモノレールとロープウエイの合体したような乗り物です。正式名称は「広島短距離交通瀬野線」ですが、スカイレールみどり坂線、あるいは単にスカイレールと呼ばれています。1998年にセキスイハウスと青木建設が瀬野駅北側の高台に住宅団地(スカイレールタウンみどり坂)を開発し、瀬野駅と団地間を結ぶ公共の乗り物として開業しました。1998年8月28日に開業、もと瀬野機関区があってEF59が並んでいた駅北側に建てられた駅が「みどり口」、中間駅が「みどり中街」、終点が「みどり中央」で 全長1.3kmの 軌道法に則ったれっきとした鉄道です。特徴は最大263パーミルの急勾配です。ロープウエイは風に弱く カーブができませんが、スカイレールは懸垂型モノレールのようなもので風には強く、ロープ牽引で急坂登坂、曲線走行ができます。駅構内はリニアモーター駆動です。座席8席、総定員25名の小さなゴンドラ2両が行ったり来たりしています。1999年には鉄道友の会ローレル賞も受賞していますが、あまりにローカルな乗り物のため知られていないと思います。私も開通直後に一度乗ったきりです。

定員25名。夜遅くなると狭い車内は個室のような感じになって 若い女性には不人気。今は団地内に小学校ができたので廃止されたが、以前は小学生通学専用便も運転されていた。下の写真は開通直後のため まだ家は少ししか建っていないが 今は景色も変わっているだろう。

主に軌道関係を神戸製鋼所が、車両を三菱重工三原製作所が製作した。下は開通を伝える社内報(三原通信 1998年10月号)です。

残念ながら後続の受注工事はなく、全国でここだけの乗り物になっています。広電の路面電車撮影などのついでに、瀬野まで足を延ばして 話のタネに乗ってみられるのも一興かも。当地へお越しの節は 是非ご連絡下さい。

連接車6

東西の私鉄特急列車にも連接車がある。何れも単に連接車というよりもその時代を代表する私鉄高性能特急車両であり、新しい試みが随所に見られる興味深い車両である。

近鉄では1958年に7連で中間に3車体4台車連接構造を持つ10000系初代ビスタカーを登場させた。このような意欲的な車両は見ていて飽きない。続いて翌1959年には改良されたビスタカー決定版10100系が3車体4台車構造でデビューした。詳しいことは当会の田淵仁さん著の「近鉄特急」JTBキャンブックスを参照していただきたい。

 

1968.11.8 伊勢中川 宇治山田行き特急後部モ10001 中間の3両が連接車

           1968.9.19  八木駅 ク10005

中間のク10005でビスタードームを持つ。  左の車両サ10004との間にシュリーレン空気バネの連接台車が見える。

 

  1968.9.19 三本松 10102+10202+10303  上本町行き特急

上本町よりが非貫通流線型で宇治山田よりが貫通形タイプ。三本松駅は今でもこの風景は変わっていない。

 

1968.11.8  伊勢中川付近 宇治山田行き特急 宇治山田よりの貫通タイプモ10100形

 

 

小田急ロマンスカーといえば展望席のある連接車のイメージが強い。しかし、10000の後に続く20000、30000、60000は連接車ではない。2004年度登場の50000は落ち込んでいる箱根への誘客のためか伝統的な展望席連接構造で真っ白で目立つ派手なイメージの車両である。

 

 1969.11.16  鶴川~多摩川学園前 下り「さがみ」 3055~3051

3000系(SE)は1957年の登場で国鉄線で高速試験運転を行った話題豊富な車両。本来は8車体の連接車であるが、そのネガが見つからない。これは「えのしま」、「あさぎり」、「さがみ」などに使われた5連の姿で迫力がなく申し訳ない。大井川鉄道に譲渡されたものもあるが短命に終わった。産業遺産として海老名で1編成保存されており、鉄道フェスタなどで見ることができる。台車はシュリーレン。

 

 

  1999.6.19 秦野~東海大学前 「さがみ62号」新宿行き 

梅雨空の中、最後の活躍をしていた3100(NSE)。 3100系(NSE)の登場は1963年で3000系同様オルゴール電車であったが騒音としての苦情が多かったのかやめてしまった。台車はミンデンドイツ。

 

 2010.12.10 鶴川~玉川学園前 「はこね15号」箱根湯本行き7801

1980年登場の7000系(LSE)は3月ダイヤ改正で残るがこの塗装は消えるとか。台車はアルストームリンク。

 

 2010.11.5 渋沢~新松田 「はこね15号」箱根湯本行き7804

 

 

  2010.12.10 鶴川~玉川学園前 「はこね25号」箱根湯本行き10011

10000系(HiSE)は1987年登場だが3月のダイヤ改正で消える。2編成が譲渡先の長野電鉄で活躍中。台車はアルストームリンク。

 

 

  2010.2.20 相武台前~座間 「はこね27号」箱根湯本行き50902

足回りにスカートをつけて点検もし難いのではないかと思うがこういう個性的な車両は面白い。

 

 012.2.8 鶴川~玉川学園前 「はこね27号」箱根湯本行き中間車50202

50000系(VSE)の台車はボルスタレス。

沖縄

犬伏です。
先日 関東支部新年会の席で もっと気楽な内容でよいのでぜひデジ青に投稿せよとのお達しをいただき、最近 関東連絡網に投稿の記事再掲を含めて デジ青に投稿させていただきたいと思います。よろしくお願いします。
先週仕事で沖縄へ行き 空き時間にモノレールを写しましたので紹介させていただきます。
沖縄のモノレールは2003810日に那覇空港から首里の間が開通しました。戦前の鉄道は大戦中に破壊されその痕跡はほとんど残っていません。車社会となってしまった沖縄は交通渋滞がひどく特に通勤時は大変でした。いまさら鉄道でもないのではといわれる中のモノレール開通でしたが 那覇の街と人とそれに観光客にもなじんで それなりに役に立っているようです。7日は気温は22度でしたが小雨でこの時期なかなかきれいな青空は見られません。   

 
 
 
 

 

   

 最南端の赤嶺駅で那覇空港越しに海が見えるのですが・・・・。天気が良ければいい絵になりそうです。台風対策か駅の網入りガラスが残念です。

 
 

 

 

 ワンマン運転のため運転手は駅到着時車掌の役も行うため 島式ホ-ムの多いここの車両は右運転台となっています。
窓ガラスが雨に濡れてすれ違う車両が少しかすんでいます。
 
 

おもろまち駅から那覇市内方向です。 軌道のカーブがきれいです。

 

牧志駅近くの公園に桜が咲いているのが見えました。沖縄の桜は赤っぽい色の緋寒桜で1月中旬から2月上旬にかけて咲くのですが 桜の名所は北部に多くて那覇市内には少なく、モノレールと一緒に写せるところがあるとは思っていませんでした。さっそくその牧志公園で写したのが次の写真です。

モノレールと桜と高層マンションです。
小雨がときどき降る中でしたのでストロボ使用です。
青空の下で機会があればまた写したいと思います。
車両は2両編成13本が在籍しています。路線の延長計画もありますがまだ実現しそうにありません。もうすぐ10年になります。なかなか乗車人数は伸び悩んでいるようですが 運営面や人々の意識としてはやっと軌道に乗ってきたような感じがします。
 
 
 
 

 

 

 


 

 

写真展を見て

 恒例の第3回DRFCクローバー会写真展が開催された。2日目の2月15日、わくわくする気持ちを抑えながら会場に向った。

 会長さんから現役生まで幅広い層からの参加があり、出品数も多くボリューム感があった。今回は全体に実力アップされ、素晴らしい作品が多かった様に思う。

 「鉄路輝く」の部では単なる鉄道車両風景ではなく、各自が感じたもの、感動したものを表現しようとした努力の跡が随所に見られた。 私自身、刺激を受けて「よし、今度はあのような写真に挑戦してみよう」と思う作品が何点かあったが、考えてみると超炎天下の海外での奮闘撮影、旅先でのちょっとした人との触れ合い、夕暮れや夜の撮影等々には鋭いカメラアイ、感性と体力、気力が必要である。私の年齢ならもう無理かもしれない。脱帽である。

 一方、被災地復興に関連した「東北の鉄道」の部では秀麗な磐梯山麓のD50列車や貴重な過去の記録もあり、また、少数民族と東風3型のカラー等々国宝級(?)作品が見られたのもクローバー会の特徴である。

 諸準備を担当された皆様に改めて感謝申し上げる。願わくば、これら作品をコンパクトにしたものでも結構なのでデジ青か何かに掲載してもらえないかと思った次第である。また、応募作品を審査された委員の方々の総合評価、準備等の苦労話、今後の方向性等も会期終了後にでも発表していただければ幸いである。いずれにしても遠くから来てでも充分見る価値のある写真展であった。

次回も期待したい。

2012.2.15夕刻  烏丸御池ギャラリー

特別展:横浜にチンチン電車が走った時代

2月14日夜、都庁地下のトンカツ屋に5人のクローバー会関東支部会員がお集まり下さり、老人と共に新年会が開催されました。話題は関東一円の鉄道に及びましたが、関西人としてうらやましいのはJR東日本が種々の動力車を動員して企画臨時列車を走らせていることでした。電車ファンの端くれの老人は、あの185系特急車7連が関西国電快速塗り分けで現れた時、「やったなぁ」と思ったものです。それが今春のダイヤ改正でもう1本増えるとか。今度はスカ色だと噂されているそうです。

15日はみなとみらい線:日本大通り駅下車3番出口0分(これは?)、横浜都市発展記念館で開催中の横浜「路面電車」物語-市電が廃止されて40年-【横浜にチンチン電車が走った時代】を拝観に行って参りました。3番出口につなげる建物の隣が発展記念館で、少し戸惑いました。平日であり会場は閑散としていましたが、それが幸いして90分たっぷり横浜の歴史の一端を知ることが出来ました。関東大震災、世界大戦による空襲と、2回の火災による壊滅が遭ったのにも係らず、よくぞこれだけの写真が集まったものと感動を覚えながらの一時でした。戦後の記録は高名な長谷川弘和先生提供品が中心でした。JTB Can Books「横浜市電が走った街 今昔」が老人の京都市電の半年後に発刊されましたが、その内容が京都と比べ横浜が豊かであるので恥じ入った思い出があります。その原本を今回拝見しているのだと心に言い聞かせながら、ポン友と言って下さった吉川文夫さんを偲ぶ一時ともなりました。実はみなとみらい線開業の頃、吉川さんに連れられこの界隈に来ていたのです。宿泊していたホテルから電話しましたら、「みなとみらい線に初乗りに行きませんか」と誘われたのです。「お身体大丈夫ですか、喜んでお供します」となり、横浜駅西口で奥様からバトンタッチとなり、向った展覧会会場は今回と同じビルであった様に思います。その内容が何だったか、思い出せません。鉄道関係であったことは確かです。

他府県人の入場料は300円です。でも値打ちがあります。会期は41日迄ですが、行くなら33日以降に行くのがベストです。4階でコーナー展・都市シリーズ「京都」~日本の路面電車発祥の地~(仮)が重なります。開館時間は930430、休館日は毎週月曜日(祝日の場合は次の日)となっています。