関三平センセイの京阪700型が出たが、乙訓老人に遠慮してか、なぜか諸兄のコメントがない。どうせ彼の老人が黙っているわけはなかろうが、そういゃこの老人も京阪の古い複写があったはず、それに日車のカタログもと探すと、プリントは他の京阪一式がいずこか行方知らず、ただ35mmの複写ネガがあったので、本命乙訓ご老人ご出馬までの露払いか、つなぎを。
我々が知っている形式は600型だが、この時点では1550型ナンバー1555。つぎの1580型とも、仮台車での写真なのは、日車の納品が車体だけだったからであろう。幕板部にKEIHN ERECTRIC RAILWAY COMPANYとレタリングされている。日車売上台帳からは、56期(1927年6~11月)に全鋼製ボギー電車車体7両があり、請負金額77,140円、製作費86,989円22銭、差引9,849円22銭の赤字出荷であったことが知れる。同期に配線工事7両分、2,100円なる売上があり、これは1,175円51銭儲かっている。
こっちは1580形1581で、幕板にはKYOTO ・ OSAKA LINE、京阪電鉄の英文表示は腰部に記されている。床下機器が一切ない車体だけの写真だから、1550型と共に魚腹台枠であることが明白に分るだろう。やはり日車売上台帳では、58期(1928年6~11月)に全鋼製四輪ボギー電車車体4両、請負金額59,400円、製作費56,725円05銭で、2,674円95銭の収益であった。
これは故高田隆雄氏撮影の624 フェンダーや救助網が併用軌道(敗戦後も残存)を物語る
1580型の運転台 機器がケーシングされているのが珍しく 運転手座席はベンチ 路面電車並みのH棒仕切りだから展望はいい
さて、乙訓ご老人よ。黙っていては沽券にかかわるぞよ。早々にご登場あれ。
昼弁当を済ませ、昼寝から目覚めたところで須摩さんの半世紀前の図面、写真の掲載に敬意を表するものであります。当方、何をコメントすれば良いのか分らず、例によって「与太話」とさせていただきたい。京阪700、1000、1100形がなぜ両運なのか小学校の時から不思議でした。小学校六年の時、始めての守口車庫見学の時の質問の1項目でした。返事無しでした。1957年、同志社入学の年だったと思うのですが、中宮団地開設の時、朝ラッシュ時、交野線定期列車の間を縫い枚方市ー中宮(現宮之阪)の1駅間に折り返し運行の臨時列車が運転されました。その列車が700形1両でした。それを見た時「こんな使われ方があるんだ」と思いました。その2年後、奈良電乗り入れ列車で、迷図作家さんの今回ご紹介の場面が半年ばかり見られました。これは奈良電乗り入れ用200型が、京津線急行用260形増備に転用されて行ったからです。またこの頃は藤本君指摘の如く貫通幌は未着装でした。この後、淀屋橋延長に向け幌装備となったのですが、その時は富山で望郷の思い出でおったわけですから細かいことは良く分りません。京阪が黄色味帯びた茶色を窓下の車体色としたのは1954年4月のことで、第1号はナニワ工機で施工した車体更新車501号です。退色が酷く、汚れが目立つと言う理由で中之島線延長まで一般車の標準色としていた緑の濃淡に変更されました。これを採用したのが1957年4月で、第1号は1301号でした。時代の先端を行くローマのファッション色はなんと3年の命だったのです。この年に最初の両開ドアの1650型登場となりました。
国宝・佐竹さんの記憶では終戦直後、700形の単行が三条にやってきたのを見た、と仰っています。多分、700形を4M+2M車準固定編成にする工事していた頃ではないかと思います。今なら編成の片割れは留置しますが、戦後15年余りは動ける車は総動員でした。ただし奈良電乗り入れは2両運行でしたから、700形1編成使用の贅沢な使い方ででありました。
本日夕刻北海道で津波付きの地震が発生し、午後9時過ぎには茨城、千葉で震度5強。東京八王子でも揺れました。空気バネ台車の揺れならどれだけ揺れても平気ですが、最近は地震発生頻度も高く、揺れるごとに大きくなりはしないか心配してます。
さて、須磨の大老様珍しい室内写真有難うございます。大学入学時一時宇治に下宿した時に運転台が真ん中にある600か700の更新前の車両に乗ったことがあります。その時はその車両の生まれたいきさつ等全く知らず田舎電車そのものに見えました。関係者や京阪ファンの方からは「失言取り消せ」とお叱りを受けそうですが、正直そう思ったのでご勘弁下さい。多分阪急神戸線に乗り慣れていたことと京阪本線の1900の特急やスーパーカー2000と比較したのでしょう。私のDRFC入会動機が今もデジ青で現役バリバリのお二方とSさんが書かれた鉄道ピクトリアルの「京阪電車」を見たことでしたが、それならもっと勉強しろとまたまたお叱りを受けそうです。600や700の生まれた時代は木造車から鋼製車に変わりつつある時期で古い写真を見るとポールに前網付きで車体に横文字の社名
で田舎臭さとちょっと垢抜けした感じが同居したようにも見えました。しかし、私自身はじめて見たのですが、車内には「おー」と驚きます。伝統の京阪特急のルーツを感じます。どこかの鉄道のように昭和30年ごろまで木製の床でオイルのにおいがぷんぷんする車両つくっていたのと違いますね。